春です。英語の「spring」には春という意味のほかに「泉、温泉、湧水」などという意味があります。地面から絶え間なく勢いよく湧出してくる水に、いっせいに命を授かったように活き活きしてくる春をなぞらえたのでしょう。
今から17年ほど前、私が現在の地に引っ越してきた頃、地図には、すぐ近くに「温泉マーク」と共に「平野温泉」と表記されていた。温泉といえば、故郷、信州や北陸の温泉をイメージしていた私には、どうもそれらしきものが見えないのでずいぶん訝しく思ったものだ。その後、散歩がてらに行ってみたが、当時、たしかに国道沿いには旅館の跡らしき廃屋もあったのだが、今行ってみるとそれすらもかき消されている。しらべてみたら、「平野温泉」は江戸時代から続く歴史のある名湯で、寛政年間には24軒もの宿が存在したとのこと。私が引っ越してくる数年前までは、「掬水」という旅館が1軒残っていたが、すでに廃業しており、私はその廃屋を記憶していたのだ。
今は付近にある「温泉病院」、「湯之町」などの名前や町名にその痕跡を見出すことができるのみである。廃れてしまったのは、どうも湧泉が途絶したのではなく、私が住んでいる大規模な住宅団地などの開発が進み、温泉客も途絶えたためのようだ。その証拠に、当時の泉源もまだ残っているようで、泉源の横を流れる塩川に、一部湧出する鉱泉が流れだしているようで、その付近の川底は特有の真っ赤な色に染まっているのが見て取れる。
温泉が繁栄していた頃は、痔によく効いたというこの温泉の薬効への感謝、信心の名残りであろうか、国道からちょっと入ったところに、「多田平野湯之町 温泉薬師堂」と名づけられた小さなお堂に薬師様が、石碑、石灯籠、お百度石と共にひっそりと安置されていた。花が手向けられているのを見ると、地元の誰かがお祀りし、お世話をしているのだ。温泉は跡形もなくなってしまったが、その記憶は信仰とともに生きている。
もう一つの名残り、記憶は「三ツ矢サイダー」である。もともと、この辺から湧出する炭酸水は「平野水」と呼ばれていた。それは、明治時代に宮内省が、この地の平野鉱泉をもちいて炭酸水の御料工場を建てたことに始まる。そして、その後工場は三菱に払い下げられ、明治屋が権利を得て1884年に「三ツ矢平野水」(みつやひらのすい)として販売した。それが「三ツ矢サイダー」の起源である。平野水は夏目漱石の小説にも登場、また1897年には大正天皇の御料品に採用された。やがて「三ツ矢サイダー」は「朝日麦酒」(現・アサヒビール)に継承され現在に至っている。
サイダーを造るため、鉱泉から取り出した、天然炭酸ガスをボンベに充填するための塔と、宮内省に献上するための御料品サイダーを製造した「御料品製造所」が資料館として、今も残っている。いまでは知る人も少ないが、この塔は、平野のシンボルとして住民に長い間親しまれてきたという。
そういえば、「サザン・オールスターズ」の「勝手にシンドバッド」が「三ツ矢サイダー」のCMソングだったこともありましたね。まあ、当時のヒット曲「沢田研二」の「勝手にしやがれ」と、「ピンク・レディー」の「渚のシンドバッド」を足して2で割ったものという人を食ったタイトルの歌ではありましたが・・・。
「温泉=春の水、命の水」。ここでは、「勝手にシンドバッド」ではなく、この季節、ブラジル人にとっての「命の水」をうたったA.C.ジョビンの「三月の水」をあげておきましょう。どうも困ったことに、ボサノバ特集以来、ボサノバが耳について離れません。特にジョビンとエリス・レジーナのうたう「三月の水/Waters of March (Aguas de Marco)」が・・・。
「三月の水」というのは、毎年3月にブラジル、リオあたりで降る大雨のことらしく、ポルトガル語の原詩には韻を踏んだ人生や希望、命を示唆する単語が連っているがポルトガル語は分かりません。ジョビンが同じく作詞した英詩の最後は、こんな言葉で結ばれています。「・・・ 川岸が語る三月の水 絶望の終わり 心の喜び/この足、この地面 枝、石ころ これは予感、これは希望」。
耳について離れない、ジョビンとエリスの名盤「エリス&トム」の「三月の水」。
エリス・レジーナ&アントニオ・カルロス・ジョビン / ユニバーサル インターナショナル
そして、「イリアーヌ」の代表作で、ジョビンをテーマにした彼女の2大名盤、「風はジョビンのように/PLAYS JOBIM」(1989年)と、1998年のベスト・セラー「海風とジョビンの午後/SINGS JOBIM」の2枚をカップリング、再発売した「イリアーヌ・プレイズ・アンド・シングス・ジョビン」。

イリアーヌ・プレイズ・アンド・シングス・ジョビン
イリアーヌ / EMIミュージックジャパン
ボサノバ畑ばかり続いたので、気分を変えてJAZZっぽくいって見ましょう。孤高の歌姫、眼ぢからの歌姫、「カサンドラ・ウィルソン/Cassandra Wilson」もジョビンをとりあげたことがあります。濃厚なブルース・アルバム「ベリー・オブ・ザ・サン」。彼女自身のアイデンティティでもあるミシシッピ州のデルタ・ブルースの集大成ともいえるアルバムで、なんと「三月の水」と「コルコヴァード」をとりあげています。ブルース対する彼女のこだわりは半端ではなく、たとえば録音にしてもミシシッピ州クラークスデールにある旧駅舎で行なうという念の入れよう。さあ、彼女がボサノバ・ナンバーをどう料理しているのか興味はありませんか?

ベリー・オブ・ザ・サン
カサンドラ・ウィルソン東芝EMI
もう一人は大輪のバラを思わせるようなあでやかさで人気の高い「ジェーン・モンハイト/Jane Monheit」。アルバム「カム・ドリーム・ウィズ・ミー」から。

カム・ドリーム・ウィズ・ミー
ジェーン・モンハイト/ ビクターエンタテインメント
そしてライヴのCDやDVDもリリースされているが、NYのレインボー・ルームで「三月の水」をうたう YOUTUBE を。

