JAZZYな生活

プレミアムエイジ ジョインブログ

「1969」

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このブログでも取り上げたが、「由紀さおり」の「1969」というアルバムが話題になっている。(参照「快挙には違いない」
 
1969年は、私が大学を卒業して就職した年。アポロ11号の月面着陸、全共闘の東大安田講堂事件などがあり、翌年が大阪万博開催、’70年日米安保改定の年、日本は高度成長期の真っただ中であった。

さて、今日(1月30日)の朝日新聞・ローカル面にこんな記事が載っていた。

『かって神戸・元町に有名なライブ喫茶「ロスト・シティー」があった。1960年代半ば、ブルーグラスに傾倒した学生たちが、大学ごとなどにバンドを組んで盛んに活動した。ロスト・シティーはそんな彼らの聖地 ・・・・・。そこで定期的に演奏していたのが「ブルーグラス45」。渡辺敏雄さん(65)ら大学生と高校生ばかり6人で1967年に結成したバンド。 ・・・ 』(朝日新聞)

この渡辺氏、ブルーグラス一筋で、昨年のグラミー賞にノミネートされた快挙のことも、このブログで取り上げたが、(参照「グラミー賞にノミネートされた日本人」) 今度は、2月下旬にシアトル近郊で開かれるフェスティバル「ウインターグラス」に招かれたという。これまた「由紀さおり」に勝るとも劣らない快挙である。還暦を迎えたメンバーの円熟のブルーグラスが本場アメリカ人にどう響くか。
 
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(写真右;「TUT Excaliburs」より無断拝借)

そして「ロスト・シティー」。1969年に入社して1年間ほどは大阪の寮に住んでいたが、遊びに行くのは大阪ではなく、大抵は神戸か京都であった。ジャズ好きの私と、C&W好きの友達とよく行った神戸の店の一つが、当時、神戸大丸の近くにあった、今はなき「ロスト・シティ」であった。店の佇まいなど、もうまったく覚えていないが、C&W好きの若者の熱気でむんむんしていたことと、その音楽性の高さに感心したことは、記憶に残っている。   

「1969」。あのころの音楽界は豊かであったように思う。フォーク、POPS、歌謡曲、ボサノバ、映画音楽・・、由紀のアルバム「1969」に収録されている曲目をみてもそのことは分かる。日本の高度成長に拍車がかかり、あらゆるジャンルの音楽が一斉に花開き、私もそんな一人であったのだが、フォークやエレキの影響で誰もがギターを手にした時期であり、レコードが飛ぶように売れた時代であった。当時の「平凡パンチ」などに付録としてついてきた歌の歌詞やギターコードなどの楽譜が、いまでも手元に残っている。そして、どこの大学にもハワイアン、ジャズと並んでC&Wバンドがあった。

私は、いまでもカントリー&ウェスタン(C&W)とブルーグラスの区別もよくつかないが、それでも「ハンク・ウィリアムス/Hank Williams」、「ビル・モンロー/Bill Monroe」、「ジョニー・キャッシュ/Johnny Cash」、「グレン・キャンベル/Glen Campbell」、「ジョン・デンバ―/John Denver」、いまだに現役で活躍している大御所「ウィリー・ネルソン/Willie Nelson」らの名くらい知っているし、「北風/North Wind」、「ジャンバラヤ/Jambalaya」、「コーライジャ/Kawliga」、「コールド・コールド・ハート/ Cold, Cold Heart」、「ユア・チーティン・ハート/Your Cheatin Heart」、「思い出のグリーングラス/The Green Green Grass of Home」、「ウイチタ・ラインマン/Wichita Lineman」などの曲は今でもよく覚えている。そしてこのころヒットしていた曲で、好きだった曲は、「グレン・キャンベル」の「恋はフェニックス/By The Time I Get To Phoenix」であった。

「僕がフェニックスに着くころ、彼女は目を覚まし、僕が出て行ったことに気がつくだろう ・・・」。ちょっぴり苦い別れの歌。後年、仕事でアリゾナ州の州都、フェニックスに降り立ったとき、空港のロビーからこの曲が流れていたのにちょっぴり感動。

By the Time I Get to Phoenix

Glen Campbell / EMI Special Products


 
「Glen Campbell – By The Time I Get To Phoenix」 
 
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ベンチャーズから始まった

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NHK・BSプレミアムの「Show Time」。「谷村新司」がMCのこの日は、「ベンチャーズ/The Ventures」であった。1959年、「ドン・ウィルソン/Don Wilson」(1933年生まれ)と「ボブ・ボーグル/Bob Bogle」によって結成された。初来日は1962年のことで、日本側が用意したギャラが二人分しか用意できなかったため、ドンとボブの2人だけの来日となったという。大ブレークのきっかけとなった2度目の来日は1965年。ドン、ボブに加え、「ノーキー・エドワーズ/Nokie Edwards」、「メル・テイラー/Mel Taylor」の4人で、メンバーや人数の変遷はあるものの、この4人がオリジナル・メンバーと認識している。番組では、結成当時のエピソード、バンド名の由来や初来日のいきさつなどがドンの口から語られて非常に興味深かった。そして私の音楽の旅も遡ってみれば、「ベンチャーズ」から始まったのである。

50年も同じサウンドを維持し、毎年のように来日し日本各地でコンサートをひらく。「××ベンチャーズ」と名乗る「ご当地ベンチャーズ」や親父バンドは数知れず。かっての会社の仲間も、おじさんバンドでベンチャーズをやっているという賀状が届く。この一向に人気が衰える気配のない「ベンチャーズ」の魅力とは一体なんだろう? 谷村は「歌ではなく、インスツルメンタルで、しかも日本人の琴線に触れるそのメロディだ」と評していた。 
「ベンチャーズ」は、日本の若者に最も大きな影響を与えたバンドと言って過言ではない。あのころの若者の誰もがあの「テケテケ」サウンドに魅了されエレキ・ギターが飛ぶように売れたという。かくいう私も大きな影響を受けたその一人である。

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1961年(昭和36年)、高校に入学してから「禁じられた遊び」が弾きたくて、クラシック・ギターを買ってもらい、最初はカルカッシ・ギター教則本などで、クラシック・ギターを真面目に練習していた。大学入学は1965年(昭和40年)、まさにベンチャーズ2度目の来日の時である。クラシック・ギター部に入部したが、ベンチャーズの影響を受けるまでにそう時間はかからなかった。そしてギター部のメンバー3人を核に2人を加えて学生バンドを結成することになる。それからはバンド一直線の2年間。リサイタルを開き、バンドを後輩に譲るまで疾風怒濤の2年間、そのリサイタルは、1967年10月28日のことであった。

そのリサイタルで演奏した曲に「キャラバン/Caravan」がある。「デューク・エリントン/”Duke” Ellington」の手になる有名なスタンダードであるが、多分多くの日本人は、「デューク・エリントン」でよりも、「ベンチャーズ」の演奏でこの曲を知ったのではないだろうか。

「キャラバン Caravan’84 - The Ventures」 メルの十八番、スティック・オン・ベースも懐かしい。

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「ジャズズのおやじ」も漫画好きだった

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いよいよ月刊漫画雑誌「ゼタ」が創刊された。といってもNHK朝の連ドラ「ゲゲゲの女房」での話である。お気づきの方も多いと思うが、この雑誌「ゼタ」は「月刊漫画ガロ」のことである。東京オリンピックの開催された年、1964年から2002年頃まで「青林堂」が刊行していた漫画雑誌で、初代編集長は、青林堂創業者の「長井勝一」氏。その誌名は「白土三平」の漫画「やませ」に登場する忍者「大摩のガロ」から取っているが、空前のスケールの題材と内容の「白土三平/カムイ伝」の連載が開始されたのは、創刊4号、1964年12月号からであった。

「カムイ」とは主人公である忍者、およびサブストーリーとして語られる狼の名前である。主にカムイ(非人)、正助(農民)、竜之進(武士)という三者三様の若者を中心に物語は展開されてゆく。旧来の漫画にはみられない様々な群像が入り乱れる骨太のストーリーが高く評価され、時代小説に比しても遜色ない漫画路線の礎を築いたとされる漫画である。階級社会である武士社会、最下層の非人階級などへの視点など左翼的な色合いを持ったストーリー展開は、大学生などを中心に支持され、最盛期は8万部を超えていたという。1971年に「カムイ伝」が終了すると「ガロ」の売上は徐々に下降線をたどり、出版界のゴタゴタ騒ぎに巻き込まれ、やがて休刊に追い込まれてしまった。(一部Wikipedia参照)

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実は、わたしはこの「月刊漫画ガロ」を「カムイ伝」連載開始の1964年12月号から1971年7月号までの全74回+増刊号の約80冊を持っていたことがある。当時、仕送りしてくれる親には内緒であるが、乏しい仕送りとバンドのバイト代などをやりくりして毎号買ったものである。この雑誌は、私の下宿の部屋からは門外不出としていたため、読みたい連中は私の部屋へと通ってきたものである。長い間手元に持っていたが、現在の住まいに替わるのを機会に処分してしまった。いまから考えると惜しいことをしたものである。

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大学生など比較的高い年齢層の読者に支持されたこの雑誌はまた、漫画界の若手、異才をあまた輩出した雑誌でもあった。思い出してみると、「水木しげる/鬼太郎夜話」、「林静一/赤色エレジー」、「滝田ゆう/寺島町奇譚」、「つげ義春/ねじ式」、「永島慎二/漫画家残酷物語」、 「杉浦日向子」、「赤瀬川原平」、「池上遼一」などの作家や作品が浮かんでくる。中でも、「つげ義春」のシュールな作風や、「林静一」の繊細で叙情的なタッチが好きであったし、影響も受けた。「ガロ」に連載された「林静一」の代表作、「赤色エレジー」は、1972年「あがた森魚(もりお)」の歌でヒットし、時代の風俗を象徴するような作品でもあったのである。

 

「ゲゲゲの女房」の時代背景は、私の高校から大学の時代とちょうど一致するのだが、「ガロ」は「話の特集」、「スイング・ジャーナル」などと並んで、我が青春の中でも大きな位置を占めていた雑誌であった。自分の将来像などあまり考えることもなかったが、何かいいことがあるかもしれないぐらいに考えて突っ走っていた懐かしき良き時代。「ゲゲゲの女房」ならぬ「ジャズズのおやじ」の古~い昔話ですが ・・・。

「ガロ」編集長 (ちくま文庫)  長井 勝一 / 筑摩書房

相当前からであるが、コンサートにも行き、密かに私が贔屓にしているシンガー・ソングライターがいる。「浜田真理子」。彼女のスタジオ録音3作目のアルバム「夜も昼も」のジャケットは、なつかしや「林静一」のイラストであった。(参照「化学反応」松江・宍道湖のほとりから~浜田真理子の世界~ ) 



夜も昼も  浜田真理子 インディペンデントレーベル

まっ、一度彼女の歌声聴いてみてください。 私が最初に出会った「浜田真理子」の歌、「月の記憶」。

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連ドラ「ゲゲゲの女房」から大きく話がそれてしまったが、ミーハー的な芸能の話題に戻すとしよう。「ゲゲゲの女房」で主演の「松下奈緒」は市内のH高校の出身である。最近私の住んでいる街の出身者が色々なところで活躍しているのを聞くと、郷土愛とまでは行かなくても、うれしい気がする。テニスのウィンブルドン大会、今年の「全英ローンテニス選手権大会」に出場していた「奈良くるみ」選手は、となりのD団地の出身、ヤクルトの前監督「古田敦也」はM高校出身。アコースティック・ギターの全国大会(フィンガー・ピッキング・ディ)で最優秀賞をとった「井草聖二」、最近「トイレの神様」で話題になっているシンガー・ソングライターの「植村花菜」も同じ市内の出身である。

聴いてみますか? 「植村花菜」の「トイレの神様」。
観てみますか? 「井草聖二」のフィンガー・ピッキング奏法。  
 

我が青春のジャズ・グラフィティ(10) ~J・J氏の伝説~

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(写真;© KOUICHI SAITO 世田谷文学館企画展 HPより)

植草 甚一(うえくさ じんいち) (1908年(明治41年)8月8日 – 1979年(昭和54年)12月2日)
敬意と親しみを込めて、「J・J氏」と呼ばれた。
ミステリー評論家であった。
英米文学の評論家であった。
映画評論家でもあった。
エッセイに添えられたペン画、コラージュが上手かった。
48歳にしてジャズの魅力にとりつかれた。
JAZZ評論家になった。
「楽器を持たないJAZZマン」とも呼ばれた。
すげえスノッブな爺さんだった。
博覧強記、雑学の天才だった。
1960年代後半から70年代にかけて若者文化のシンボル的存在だった。
19歳の私と57歳の青年J・Jとの出会いがあった。
不思議な人だった。
歳をとったら、あんな爺さんになりたいと思った。
我が青春のキーワードの一人だった。

行ったこともないのに、雑誌と本とでニューヨークを知り尽くしていた。
初めてNYに行く人には、「○○には行ったほうがいいでしょう。ここにあります。」と助言していた。
本人が初めてNYへ行ったのは1974年4月、66歳の時だった。
3ヵ月半も滞在した。  
NYの古本屋で店員も知らないような英語の古書を山ほど買い込んでびっくりさせた。 

1979(昭和54)年没。71歳。
いまだに伝説の人である。
いまだに不思議な人である。

もう手元にないが、そのころ、夢中になって読んだ本は、

ジャズの前衛と黒人たち (1967年) (晶文選書)

植草 甚一 / 晶文社


ぼくは散歩と雑学がすき (1970年)

植草 甚一 / 晶文社


そのJ・J伝説を「YOU TUBE」で見ることが出来る。本当に不思議な人だった。

植草甚一伝説①
植草甚一伝説②
植草甚一伝説③
植草甚一伝説④
植草甚一伝説⑤

我が青春のジャズ・グラフィティ(9) ~銀のフルート~

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『片隅に眠っていた銀のフルート
 そっとほこりを払って唇をあててみる
 青春の挫折が一瞬聴こえたような気がした』

学生バンドはずっとベースだった。
何か優しいメロディを奏でる楽器をやってみたかった。
キラキラとまぶしい輝きを持つ銀のフルートを手に入れた。
おもちゃを貰った子供みたいにうれしかった。
簡単なメロディくらいは吹けるようになった。
でもそれだけだった。

「ヒューバート・ロウズ」、「ソウル・フルート」と一緒に、よく聴いていたアルバムは、「ハービーマン/メンフィス・アンダーグラウンド」。なんといっても、「Hold On,I’m Comin’」が最高にいい。「ハービー・マン」のフルート、最初からいきなりフルスロットルで飛ばし、そして、ラリー・コリエルのギター、ロイ・エアーズのバイブ、そしてソニー・シャーロックのなんともアナーキーなギターソロへと続く。

メンフィス・アンダーグラウンド

ハービー・マン / Warner Music Japan =music=


85)ハービー・マン;メンフィス・アンダーグラウンド

我が青春のジャズ・グラフィティ(8) ~33回転の青春~

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(写真;今も懐かしい世界に住んでいる友より)

会社生活になじんでいくにつれ、内外で気の合う友達や知り合いが出来、ライブハウスやJAZZ喫茶などへも行くようになっていった。

キタの旧・関テレ近くにあったJAZZ喫茶「インタープレイ8」(いまも元気で営業しているらしい・・)、当時大流行のゴーゴー・クラブ「アストロ・メカニクール」。ミナミの外人のベーシストがマスターのJazz Bar「ケント・クラブ」、西田佐知子、和田アキ子、沢田研二などを輩出した、かの有名なジャズ喫茶「ナンバ1番」。神戸はトア・ロードのJAZZバー「サント・ノーレ」、大丸裏のC&W喫茶「ロスト・シティ」、今もある、ライブが聴けた中山手のピザ・ハウス「ピノッキオ」。京大、同志社大、立命館大の近くにあったため、当時学生運動の闘士のたまり場で、二十歳で自らの命を絶った高野悦子著『二十歳の原点』でも知られる、京都・荒神口の伝説のJAZZ喫茶「しあんくれーる」。もうそのころは、「JAZZ喫茶の作法」に耐性も免疫もできていた。たしか、仏語「Champ Clair」という名前は、「思案に暮れる」のしゃれだと聞いたが、ひらがな名前が新鮮だった・・。そんな店の多くは、もうなくなってしまっただろう。

現在も、リーガ・ロイヤルホテルの地下にあり、ピアノ・トリオのJAZZを聴かせた「セラー・バー」、今は無き中之島の「プレイボーイ・クラブ」。勿論、こんな場所は、安月給のサラリーマンではとてもいけないので知り合いなどに連れて行ってもらったのだが。濃いブルーのベルベットのステージドレスで歌う、ブレイク前の「阿川泰子」にすっかり虜にもなった。これが、女性JAZZボーカルへの開眼の瞬間だったのだろうか。

「阿川泰子」、JAZZ歌謡とかいろいろの評価はあるけど、美人を売りにして、一気にホワイトカラー族をJAZZファン、女性ボーカルファンに引き込んだその功績は、まさに女性ボーカルの王道でいいじゃないか、JAZZ功労者に値すると思う。1980年発表の「JOURNEY」は、30万枚を発売したと言うからすごい。
JOURNEY
阿川泰子 / ビクターエンタテインメント
ISBN : B0000561AS
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そして、ある日ラジオから流れてきた歌声が、決定的に私を女性JAZZボーカル・ファンにしてしまった。「バン・バン(Bang Bang)」を歌う「アン・バートン」であった。遅咲きのデビューながら、淡々とした歌い方の中に、彼女の人生からにじみ出る、えもいわれぬ情感が漂う。いまでも愛聴盤になっている「バラード&バートン」。
バラード&バートン
アン・バートン ジャック・スコルズ ルイス・ヴァン・ダイク ジョン・エンゲルス ルディ・ブリンク / ソニーミュージックエンタテインメント
ISBN : B00005G4A4
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昨年末、開館50年目をもって建替えのため一時休館となった「大阪フェスティバル・ホール」も思い出の音楽スポット。伝説の「越路吹雪/日生劇場ライブ」のLPに魅かれ、コンサートを聴きに行った。最上階の一番後ろの席だったが、「人生は過ぎ行く」のエンディングで「捨てないで!」と絞るように歌う暗転のシーンは、いまでも鮮やかに目に焼きついている。日生劇場のライブ盤は今は廃盤なので、ベスト盤からしか聴くことが出来ないが、「人生」という「心の旅路」を歌うことが出来る最高の歌唱力を持った歌手であった。
愛の讃歌
越路吹雪 / 東芝EMI
ISBN : B00007GRD2
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「モダン・ジャズ・カルテット(MJQ)」を聞いたのも、この「フェス」であった。MJQは「ジャンゴ・ラインハルト」から影響を大きく受けたといわれ、その最高傑作といわれるアルバムは、パリのコンコルド広場をテーマにした「Concorde」。1955年の録音というから、第二次世界大戦の10年後のこの時期に、もうMJQはクラシックとJAZZの融合のハシリともいえる、このアルバムをリリースしていたんですね。B軒で聴いていたMJQを聴けるというんで、もう有頂天になっていたと思う。
Concorde
The Modern Jazz Quartet / Prestige/OJC
ISBN : B000000XZU
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そんな気ままで気楽な生活を楽しんでいた私に転機が訪れたのである。友人の結婚式の受付で、たまたま知り合った女性がいまの妻。そこから横浜-大阪間の遠距離交際が始まるのである。入社間もない新人の身では、東京出張などなく、自前で東京へ行っていたため、いつも素寒貧。映画もコンサートも二人で行ったことは無かった。そんな彼女の最初のプレゼントが、「セルジオ・メンデス」らのカヴァーで世界的に大ヒットした「マシュ・ケ・ナーダ」の作者「ジョルジ・ベン」の1963年のデビュー・アルバム「サンバ・エスケーマ・ノーヴォ」だった。「マシュ・ケ・ナーダ」、「シャヴィ・シューヴァ(コンスタントレイン)」などが収録されたカセット・テープである。すぐお気に入りのアルバムになったが、ブラジル帰りの知り合いに貰ったとかいうブラジル製のカセット・テープ。所詮、品質が悪く、ほどなく破損してしまった。

サンバ・エスケーマ・ノーヴォ

ジョルジ・ベン / ユニバーサル インターナショナル


さらに二枚のJAZZのLPレコードをもらった。バリバリのハード・バップ「レッドガーランド/グルーヴィー」、ビリー・ホリディの死を悼んだ悲痛な叫びの「マルウォルドロン/レフト・アローン」。当時JAZZなどにまったく興味も知識もなかった彼女が、何故それらを選んだのかを、後になって聞いてみたが、本人もそれを贈った記憶すらなく、今もってわからない謎である。

グルーヴィー

レッド・ガーランド / ユニバーサル ミュージック クラシック


女性ボーカルへの傾斜がきっかけとなったのか、はたまた、妻との交際がきっかけとなったのか、トランペッターにして恋歌唄い「チェット・ベイカー」も聴くようになった。ジャンキーで、生涯ドラッグのスキャンダルから抜け出すことは出来ず、最後は1988年5月、滞在中のアムステルダムのホテルの窓から謎の転落死をした。享年59歳。毒を放つ典型的な破滅型のイケメンJAZZプレイヤー。甘くハスキーな高音でささやくように口説くように歌うその魅力と魔力にあやかろうとしたのかも知れない・・・。
Chet Baker Sings
Chet Baker / Pacific Jazz
ISBN : B000005GW2
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やがて、結婚をし、子供が出来、裕福ではないが、平凡な生活をおくっていた。ところがある日事件が起こった。かねてから、いたくレコード・プレイヤーに興味を持っていた長男(当時2、3歳だったか?)にピック・アップ・アームを折られてしまったのである。そうして、私の「33回転の青春」は突然終わった・・・。

ソニーから最初のCD(コンパクト・ディスク)プレーヤーとCDソフトが発売されたの発売開始は1982年10月。そして販売枚数でCDがLPを追い抜くのは1986年。次期音楽メディアの主流はCDだ、いやDATだと論議が起こっていて、迷っている私は仕方が無いので、バックアップとして録音してあったカセットで聴いていた。勝負があって、CDが普及し始めたのを機会にCDに切り替え、LPはもう聴かなくなっていった。我が青春のBGMであった150枚ほどのLPもやがて人に譲ってしまい、気がつくと、そのころは身も心も、もうすっかり「オジサン」になっていた・・・。

いまはもう手元に無い33回転の青春。アナログで、非効率ではあるが、どこかのどかで暖かい音のするあのLPレコードと青春を懐かしがっている私がいる・・・。

我が青春のジャズ・グラフィティ/33回転の青春編は、

76)阿川泰子;JOURNEY
77)アンバートン;バラード&バートン
78)アンバートン;ブルー・バートン
79)越路吹雪;愛の賛歌   「日生劇場リサイタル」(廃盤)のため  
80)モダン・ジャズ・カルテット;Concorde
81)モダン・ジャズ・カルテット;Django
82)ジョルジ・ベン;サンバ・エスケーマ・ノーヴォ
83)レッド・ガーランド;グルーヴィー
84)チェットベイカー;Chet Baker Sings
29)マル・ウォルドロン;レフト・アローン   (再掲)

我が青春のジャズ・グラフィティ(7) ~ 青春の光と影 ~

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(写真はわがブログを見て友人が送ってくれた現在のB軒、当時の懐かしいレコードジャケットが飾ってある)

1969年に卒業し、関西の電機メーカーに就職をした。その年、日本中の大学は全共闘による学内占拠やストライキで大荒れに荒れ、その一方で彼らの闘争の対象のアメリカは、アポロ11号による人類初の月面着陸を成し遂げた。また、日本中が沸きかえった大阪万博が開催されるちょうど一年前であった。関西出身の友人はいたが、親戚などの頼れる先はなく、言葉や習慣に戸惑いながらも、スタートした社会人生活であった。自衛隊や禅寺での研修や営業・工場実習を経て、研究所への配属が決まり、とにもかくにも仕事が始まったのは6月半ばであった。当初は大阪の東部の山ろくにある会社の寮から通勤。しかも前年の不祥事?から大の男の二人部屋。期待はまったく裏切られ、音楽を聴く環境ではなかったので、1年後には、1Kの公団住宅へ早々に引っ越していったのである。
そして、ボーナスで安価であるが、やっと買えてうれしかったAudioセットで、「JAZZが聴ける生活」を手に入れることが出来た。その頃よく聞いていたのは、学生時代からの趣向をそのままひきずっていた「CTI」シリーズであったと思う。このシリーズ、今見ても、やはり素晴らしいデザインのジャケットだと思う。

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ソウル・フルート;トラスト・イン・ミー
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マーティー・バトラー;ジョーンズ嬢に会ったかい?
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ナット・アダレイ;You,Baby

新入社員としての研究所づとめ。見習いみたいなもので、まだお客さん扱い、5時には仕事は終了して退社。その上、週休二日制をいち早く導入した企業だったので、週末もやたら暇。ないのはお金ばかりであった。
最初は会社の軽音楽バンドに所属していたが、そのうち、誘われたヨットに熱中になり、週末は、練習のため艇庫のある西宮の浜で過ごすようになっていった。その時期と前後して、一時的にJAZZから離れ、POPS、ブラス・ロック、シンガーソングライター、フォーク、R&Bなどに夢中になった時期があったが、それは、学生時代からひきずってきたものを断ち切りたいという「覚悟」、あるいは「焦燥感」の現れだったかもしれない。 

長谷川きよし、ジョニ・ミッチェル、キャロル・キング、カーリー・サイモン、サイモン&ガーファンクル、チェイス、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ、カーぺンターズ、バート・バカラック、リッキー・リー・ジョーンズ、トム・ウェイツ、ダイアナ・ロス、ティナ・ターナー、オーティス・レディング、ビートルズ、サンタナなど手当たり次第、脈絡もなにもなく、酒をあおりながら、ただやみくもに聴きまくったのだ。
孤高のシンガー・ソングライター「ジョニ・ミッチェル」。「ブルー」とならんで「青春の光と影」は若者達に圧倒的な支持を受けた。最近「ハービー・ハンコック」が彼女へのトリビュート・アルバム「リヴァー~ジョニ・ミッチェルへのオマージュ」を出したことにより、彼女への再評価の動きがあるようだ。

青春の光と影

ジョニ・ミッチェル / ワーナーミュージック・ジャパン


そして「酔いどれ詩人」こと「トム・ウェイツ」。しゃがれたかすれ声、ジャズ的なピアノ演奏、しがない人々の心情をユーモラスに描きながらも温かい視線で見つめる独特な歌詞世界。その後あまたのアーティストに影響を与え、カバーもされている。

土曜日の夜

トム・ウェイツ / イーストウエスト・ジャパン


「シカゴ」、「チェイス」と並んで、そのホーン・セクションが奏でるブラス・ロックのかっこよさに痺れた「BS&T」。のちの「MJQ(マンハッタン・ジャズ・クインテット)」のトランペッター「ルー・ソロフ」が参加していたのも特筆。

血と汗と涙

ブラッド・スウェット&ティアーズ / ソニーレコード


1969年8月、ウッドストック・フェスティバルに出演し、「悪魔に魂を売ったのでは」とまで言われ、すすり泣くようなギターが、プレスリーからビートルズにいたるロックの系譜を変えたといわれた「カルロス・サンタナ」。「ブラック・マジック・ウーマン」は、サイケデリックなジャケットのアルバムとともに一世を風靡した。そして、アルバム「アミーゴ」に収録された、インスツルメンタルの「哀愁のヨーロッパ」は、JAZZギタリストがこぞってアルバムで取り上げる定番ともなっている。

天の守護神

サンタナ / ソニーレコード


ベトナム戦争の最中、平和と愛を願うために51万人近くが集ったといわれる「ウッドストック・フェスティバル」は、1969年8月15日(金)から17日(日)までの3日間、アメリカ合衆国ニューヨーク州サリバン郡で開かれた。「ジミ・ヘンドリックス」が最終日のトリを務めたほか、ジョーン・バエズ、ジャニス・ジョプリン、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル 、ザ・フー、ジェファーソン・エアプレイン、ジョー・コッカー、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズなどそうそうたるメンバーが約30組出演したという。「ビートルズ」は出演を辞退したが、1970年の解散後のジョン・レノン(その妻のオノ・ヨーコ)も)は、アメリカにおいてベトナム反戦活動を行い、若者への影響力が強かったため、アメリカ政府から国外退去を命じられるほどであった。その後アメリカは、1973年1月にパリ協定締結、3月にはアメリカ軍がベトナムから撤兵完了し、1975年4月のサイゴン陥落をもってベトナム戦争は終結する。

そして、今から考えれば、何かの陰謀ではないかとも思えるのだが、米軍撤退と軌を一にして、「石油は枯渇する」というプロパガンダが、「ローマ・クラブ」によって世界中に流され、それに呼応するかの様に、1973年第4次中東戦争勃発、OPECによる石油減産、価格引き上げによる「第一次石油ショック」によって、万博のお祭り騒ぎの余韻も束の間、日本中が狂乱の渦に巻き込まれるのはもう間近に迫っていた。

我が青春の(ジャズ)グラフィティ/新入社員時代編は、
52)ソウル・フルート;Trust In Me
53)アーティー・バトラー;Have You Met Miss Jones?
54)ナット・アダレイ;You,Baby
55)ミルト・ジャクソン;サンフラワー
56)デオダード;ツァラトゥストラはかく語りき
57)ジム・ホール;アランフェス協奏曲

58)長谷川きよし;別れのサンバ  一人ぼっちの詩 より
59)ジョニ・ミッチェル;ブルー
60)ジョニ・ミッチェル;青春の光と影
61)キャロル・キング;つづれおり
62)カーリー・サイモン;Carly Simon
63)サイモン&ガーファンクル;明日に架ける橋
64)チェイス;追跡
65)ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ;血と汗と涙
66)カーぺンターズ;ナウ・アンド・ゼン
67)バート・バカラック
68)リッキー・リー・ジョーンズ;浪漫
69)トム・ウェイツ;土曜の夜
70)ティナ・ターナー;プラウド・メアリー
71)オーティス・レディング;ドック・オブ・ザ・ベイ  リスペクト ~ヴェリー・ベスト・オブ・オーティス・レディング より 
72)ジミ・ヘンドリクス;パープル・へイズ エクスペリエンス・ヘンドリックスより
73)ビートルズ;レット・イット・ビー
74)サンタナ;天の守護神
75)サンタナ;アミーゴ

社会人になったとはいえ、研究所勤務のためか、なかなか学生気分が抜けきれず、熱中と挫折を繰り返す、誰もが一度は通るまさに「青き時代」でもあった。

我が青春のジャズ・グラフィティ(6) ~ 続・大人の眼差し ~

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(前回からの続き)
MTさんの風貌はといえば、黒ぶち眼鏡にきちっと七三に別けた髪型。いつも物静かで、そのまなざしはおだやか。グリルのマスターというより、一見すれば、銀行員と言ってもおかしくない程スクエアーな感じの人であった。そんなMTさんがよくかけていて、いまだに私の愛聴盤となっているアルバムを更にいくつかあげましょう。まず、名盤中の名盤「フォア・フレッシュメン&ファイヴ・トロンボーンズ」である。50年以上前の録音なのでレトロな味わいであるが、男声コーラスとトロンボーンのハーモニーがこれほど、美しかったのかと、目からうろこの当時聴いたときの感想であった。

フォア・フレッシュメン&5トロンボーンズ
フォア・フレッシュメン / 東芝EMI
ISBN : B00000JZNP
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そして、リラックスしてくると、日本の女性JAZZシンガーの草分けで、絶対に営業中にはかけない「沢たまき」の「ベッドで煙草をすわないで」や、「このひといいよ」といって、デビュー当時の和田アキ子の「ボーイ・アンド・ガール」をよくかけてくれたのも懐かしい。

「ルー・ドナルドソン/アリゲータ・ブーガルー」。ジャズ・ロック・ブーム、ゴーゴー・ダンス・ブームにのって大ヒットしたダンサブルな曲。タイトル曲は67年にビルボードのシングル・チャートの93位にランクされた。ジャズがヒットチャート入りするなんてことは、めったにないことで、ブルーノートにとっては、「リー・モーガン」の「ザ・サイドワインダー」以来の快挙であったそうだ。

アリゲイター・ブーガルー

ルー・ドナルドソン / TOSHIBA-EMI LIMITED(TO)(M)


バロック・ジャズを教えてもらったのもこの店であった。バッハの名曲の数々をピアノ・トリオ・ジャズで演奏し1960年代にセンセーションを巻き起こした「ジャック・ルーシェ」の記念すべき第1作がリリースされたのは1959年。その後「プレイ・バッハ#5」までリリースされ、「プレイ・バッハ」の冠がつくシリーズ6作目の「プレイ・バッハ シャンゼリゼ劇場LIVE」が発売されたのは、1965年の大学入学した年であった。スウィングするバッハに驚愕したものである。これがきっかけとなって、後にヨーロッパJAZZ、とりわけピアノ・トリオに魅せられていく原点はここにあったのだ。そして、ジャックルーシェと並んで人気を博したのが、スキャット、例の「ダバダバ・・・・」いうスキャットで一世を風靡した「スイングル・シンガ-ズ」の1963年のデビュー・アルバム「ジャズ・セバスチャン・バッハ」も、彼のお気に入りであった。

プレイ・バッハ(1)
ジャック・ルーシェ / ユニバーサル ミュージック クラシック

耽美派でないハードバップ色の強い「ビル・エバンス」、それと対称的に、ハードバップでなく叙情的な「マイルス・デイビス」を知った。「ビル・エバンス/インタープレイ」の「あなたと夜と音楽と」、「マイルス・ディビス/スケッチ・オブ・スペイン」の延々16分余りにわたって演奏される「アランフェス協奏曲」も忘れられない。「スケッチ・オブ・スペイン」は、ギル・エバンスとのコラボにより、正面からスペイン音楽に取りくんだアルバムで、「アランフェス協奏曲」は、スペインの盲目の作曲家ロドリーゴの作品であまりにも有名。

Sketches of Spain
Miles Davis Gil Evans / Columbia/Legacy
ISBN : B000002AH7
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そしてCTIシリーズ。まずは、なんといっても大ヒットしたジャズギタリスト「ウェス・モンゴメリー/ア・デイ・イン・ザ・ライフ」か。ドンセベスキーが編曲し、ストリングスをフューチャーしたナンバー、とりわけビートルズの曲であるタイトル曲を取り上げたことが話題となった。イージーリスニング路線になったといった批判もあったが、ハービーハンコック、ロンカーター等の名プレイヤーが参加しており、紛れもないジャズアルバムである。卒業後もCTIシリーズは何枚も買って聴いたほど好きになった。

ア・デイ・イン・ザ・ライフ

ウェス・モンゴメリー / ユニバーサル ミュージック クラシック


そして、当時の日本にボサノバのリズムと雰囲気を伝え、大ヒットさせ、「ボサノバ」が、メジャーな音楽になったのはなんといっても「セルジオ・メンデス&ブラジル’66/マシュ・ケ・ナダ」からであろう。このアルバムもエキサイティングであった。

マシュ・ケ・ナーダ

セルジオ・メンデス&ブラジル’66 / ユニバーサル インターナショナル


ジャズ、ジャズコーラス、ボサノバ、フュージョン、バロックジャズ、ムード歌謡、ソウル・・・・。これほど多彩で豊かな音楽を聴く楽しみを私に教えてくれたMTさんに感謝!!献杯!!

わが青春のジャズ・グラフィティ/MTさんトリビュート編は、
39)フォア・フレッシュメン;フォア・フレッシュメン&5トロンボーン
40)沢たまき;ベッドで煙草をすわないで  
41)和田アキ子;ボーイ・アンド・ガール  収録のアルバム「フリー・ソウル」
42)ルー・ドナルドソン;アリゲータ・ブーガルー
43)ジャック・ルーシェ;プレイ・バッハ(1)
44)スウィングル・シンガ-ズ;ジャズ・セバスチャン・バッハ
45)ビル・エバンス;インタープレイ
46)マイルス・ディビス;スケッチ・オブ・スペイン
47)ウェス・モンゴメリー;ロードソング
48)ウェス・モンゴメリー;ア・デイ・イン・ザ・ライフ 
49)タンバ4;二人と海
50)セルジオ・メンデス&ブラジル’66;マシュ・ケ・ナダ
51)ヒューバート・ロウズ;春の祭典

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そして最後は、モダンでしゃれたジャケットがまぶしかったCTIシリーズから。時代はすこし後、1971年にリリースされた「ヒューバート・ロウズ/春の祭典」のジャケットを挙げておきましょう。

サバンナを疾走する一頭の豹。
全速力で駆け抜けた我が青春に重なる・・・・。

我が青春のジャズ・グラフィティ(5)  ~ 大人の眼差し ~

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サバンナを駆ける一頭のキリン。まるでアートな写真のよう。「アントニオ・カルロス・ジョビン/WAVE」のジャケットです。こんな素敵なジャケットを持つ、レコード・シリーズがJAZZファンの心をつかんで大ヒットした時代があります。CTIレコード。クリード・テイラー(Creed Taylor)が、1967年にA&Mレコード内にCTIレコード(Creed Taylor Issue)を発足、やがて1970年に独立し、正式名称を「Creed Taylor Incorporated」に変更したレーベルです。
テイラーのジャズの大衆化を図るという狙いは見事にあたり、イージー・リスニング・ジャズ、あるいはクロスオーバー(フュージョンの前身)のブームを作ったのである。しかし、一部の硬派のJAZZファンからは「商業的過ぎる」という批判や顰蹙をかった事も事実。また、アントニオ・カルロス・ジョビンやアストラッド・ジルベルト等ブラジルのミュージシャンを起用し、ボサノヴァをアメリカで普及させた立役者でもあった。

当時、一杯30円の学食のうどんと下宿の飯で過ごしていた貧乏学生にとって、150円のサービスランチが大変美味しいので、家からの仕送りや、バイト(バンド)の収入があると、よく行っていたグリルが仙台にありました。CTIのJAZZを知ったのは、そのグリル「B軒」だったのです。ちょうどその頃40歳くらいだったでしょうか、そこの支配人のMTさんがJAZZ好きで、店内にもJAZZYな曲が流れていました。やがて、月1日か2日の定休日の前日の閉店後の店には、若い人が集まるようになり、いつからか店がサロンと化していきました。

普段なら店では流さないような曲をすこしボリュームを上げて流し、一杯の水割りを手にしながら、音楽を楽しみ、和気藹々、わいわいがやがやと時を過ごしたのです。MTさんはといえば、話には加わるのですが、説教じみたことは一切なく、ただニコニコしながら我々若造たちを脇からじっと見守っていたような気がします。ジャズ喫茶の作法に従い、少し深刻ぶってJAZZを聴いていた私をジャズ喫茶から解放してくれたのは、まさにこの店であり、MTさんが、その後の私の音楽の嗜好に大きな影響を与えた人だった。

「ハード・バップ」一辺倒から脱皮して、ボサ・ノバやフュージョン、バロック・ジャズ、R&Dなど多様な音楽を楽しむ姿勢が自然に身についていったと思う。
私が始めて逢った「尊敬できる大人」で、「あんな大人になれたら」と当時私を思わせしめた、そのMTさんが、若くして旅立ってしまったという悲報が届いたのは卒業して10年ほど経ったころであったろうか・・・・。

ソフト・サンバ
ゲイリー・マクファーランド ジミー・クリーヴランド セルダン・パウエル アントニオ・カルロス・ジョビン ケニー・バレル ウィリー・ボボ / ユニバーサルクラシック
ISBN : B000EMH8PE
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MTさんのお気に入りは、当時、全盛だった「ビートルズ」を取り上げ、JAZZYなボサノバにアレンジして聴かせる、アレンジャーの名手で、ビブラフォンプレイヤーの「ゲイリー・マクファーランド/Soft Samba」。40年ぐらい前に、彼らの曲をこんなに粋にボサノバにアレンジしてるなんて信じられないくらい。そのセンスにびっくりした一枚でもある。

テイク・テン
ポール・デスモンド ジム・ホール ジーン・チェリコ ジーン・ライト コニー・ケイ / BMG JAPAN
ISBN : B000ALIZVU
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そしてもう一枚のお気に入りは、「Paul Desmond/Take Ten」。デイブ・ブルーベック・カルテットのSAX「ポール・デスモンド」とギターの「ジム・ホール」がフィーチャーされたアルバム。アルバム・タイトルは大ヒット作、5/4拍子で演奏される「Take Five」の兄弟編。「Alone Togather」のほか、「エル・プリンス」、「埠頭」、「黒いオルフェ/カーニバルの朝」「オルフェのサンバ」など。軽やかであるが、哀愁漂う名演がいっぱい。40年間聴いてもなお飽きない名盤。

ボサノバをしったのも、この店。私の最初のミューズは、「Astrud Gilberto」であった。たまたまNYに出張した折、JAZZクラブに出演していた彼女を聴きにいったほどの「我が初恋のミューズ」であった。もとは「Joao Gilberto」の奥さんで、専業主婦。彼女がキッチンか何かで、鼻歌を口ずさんでいるのを、夫のジョアンがきいて、「これはいける」というんで歌手になったということが、当時のライナーノーツにかいてあったような気がします。

おいしい水
アストラッド・ジルベルト アントニオ・カルロス・ジョビン ジョアン・ドナート / ユニバーサルクラシック
ISBN : B00008KKT0
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そしてもう一人は、ボサノバの創始者、「アントニオ・カルロス・ジョビン」の1963年録音の代表作「イパネマの娘」。ジョビンが奏でるクールなピアノとクラウス・オガーマンのアレンジが魅力的で大ヒットしたインスツルメンタル・ジョビン・スタンダード集。そして、CTIの「WAVE」は、いまだに名盤。驚異的なギターテクニックに魅せられたのは、「バーデン・パウエル」。

イパネマの娘
アントニオ・カルロス・ジョビン / / ユニバーサルクラシック
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我が青春のJAZZグラフィティ/B軒編は、

33)ゲイリー・マクファーランド;ソフトサンバ
34)ポール・デスモンド:テイク・テン
35)アストラッド・ジルベルト;おいしい水
36)アントニオ・カルロス・ジョビン;イパネマから来た娘
37)アントニオ・カルロス・ジョビン;WAVE
38)バーデン・パウエル;ポエマ・オン・ギター

(次回へ続く)

我が青春のジャズ・グラフィティ(4)  ~ジャズ喫茶の作法~

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学生エレキバンドの活動をつづける傍らで、JAZZへの憧れをつのらせていた私は、自然に「JAZZ喫茶」へ出入りするようになっていった。当時、仙台にはJAZZ喫茶がいくつかあったと思うが、たしか「ad’(アド)」、「ブルー・ノート」などというジャズ喫茶に通っていたように思う。この「JAZZ喫茶」というもの、多分日本独特のものであろうと思われる。コーヒーを飲んで、ただひたすらにJAZZレコードを聴く「JAZZ喫茶」、私はアメリカでもヨーロッパでも、中国ですら見たことがない。ライブ演奏を聴きながら酒を飲むJAZZクラブが普通である。
店内の音楽は、主にオーナーが所蔵するレコードによるジャズであり(ボサノヴァやフュージョンを含む)、客からのリクエストに応じるのが普通であった。基本的にはコーヒーがメイン・メニューだが、軽食や夜間は酒を出す店もあった。そんなジャズ喫茶の経営者、マスターは、大抵変わり者で頑固な名物オヤジと言うのが相場であった。作家「村上春樹」が、かってジャズ喫茶のオヤジであったのは有名な話である。

勿論、当時の日本のあちこちに、そんなJAZZ喫茶が多く出来た理由はいくつかあるのである。
当時、JAZZを演奏するミュージシャンは少なく、まして本場アメリカの人気プレイヤーの生演奏に接する機会など、高チャージのJAZZコンサート以外には殆どなかったからである。だから、レコードではあるが、本場の人気JAZZプレイヤーの音楽が聴けるJAZZ喫茶が流行ったのであろう。今でこそ、JAZZクラブがあちこちにあり、JAZZの生演奏を楽しむ場所も機会も増えたが、日本の場合、NYあたりのJAZZクラブに比べても、その料金はかなり高いと言わざるを得ない。

ザ・サイドワインダー+1

リー・モーガン / EMIミュージック・ジャパン


2番目の理由は、オーディオ装置が、かなり高価であったこと。さらに大音量で聴ける住空間など当時の一般の家では望むべくもなかった。普通の家庭では、なかなか揃えることのできない高価なオーディオシステムを装備しているのが通常であり、音質の良さもジャズ喫茶の売りの一つであった。 

ソング・フォー・マイ・ファーザー+4

ホレス・シルヴァー / EMIミュージック・ジャパン


そして、LPレコードもかなり高価であったのも大きな理由。私の初任給が確か3万円であったころ、LPは1500円位していたであろうか、ましてJAZZの輸入盤ともなれば3000円位したのである。輸入盤のジャズLPはびっくりするくらい高価であったが、コーヒー一杯で本場のジャズのレコードを聴くことができ、リクエストも受け付けてくれるジャズ喫茶はアマチュア・ミュージシャンの溜まり場ともなった。私が、最もよく通っていた時期は、3年生から4年生の前半だったであろうか。
私がよくリクエストしていたのは、、「リー・モーガン/サイド・ワインダー」、「バド・パウエル/クレオパトラの夢」、「ソニー・ロリンズ/アルフィー」、「ホレス・シルバー/ソング・フォー・マイ・ファーザー」、「ブルー・ミッチェル/ダウン・ウィズ・イット」、「マル・ウォルドロン/レフト・アローン」などのファンキー、ハード・バップ系のJAZZであった。

ダウン・ウィズ・イット(紙ジャケット仕様)

ブルー・ミッチェル / EMIミュージック・ジャパン


やがて、地方都市仙台でも70年安保を前に学生運動が次第に盛んとなり、デモなども行なわれるようになっていった。参加していた連中が、運動へのエネルギーの源泉や仲間との連帯を求め、また差別や抑圧への抵抗の歴史から生まれたJAZZへの思い入れからか、ジャズ喫茶に集まってきた。そんな中で、「ジョン・コルトレーン」、「チャーリー・ミンガス」、「アルバート・アイラー」などの反体制的な前衛JAZZやフリージャズが、JAZZ喫茶ではよくリクエストされるようになっていた。ノンポリで、就職も決定し、大学4年を迎えていた私は、連日徹夜の卒業実験・論文、卒業設計を仕上げるための忙しさに加え、「店内での会話の禁止」、「楽しんではいけないかのような禁欲的な鑑賞スタイル」といったジャズ喫茶特有の作法や、どうしてもなじめない「フリージャズ」などが理由で、ジャズ喫茶に次第に窮屈さを感じ、遠ざかっていったと思う。

直立猿人

チャールス・ミンガス / Warner Music Japan =music=

いまは、聴くだけだったら、居酒屋でも、蕎麦屋でも、レストランでもどこでもJAZZが流れている時代である。しかし、あの頃は窮屈さを感じていたが、若者たちの時代のエネルギーを間違いなく内包していた「JAZZ喫茶」が、豊かな日本になっていくに従って、だんだんとマニアのための前世紀の遺物と化していったのと平行して、JAZZを聴きたいという当時の若者達の熱気や、JAZZやロックと結びついていた反体制・反骨精神、時代の矛盾に対する反発心なども今では失われてしまったように思う。

そして、「団塊の世代」を強く性格づけるような出来事、全学共闘会議(全共闘)が占拠していた東京大学本郷キャンパスを警視庁が封鎖解除を行った、いわゆる東大安田講堂事件が起こるのは、卒業を目前にした1969年(昭和44年)1月18日、19日のことであった。

我が青春のジャズ・グラフィティ/ジャズ喫茶編は、沢山ありすぎて困るのだが、

14)リー・モーガン;サイドワインダー
15)バド・パウエル;クレオパトラの夢 (アルバム「ザ・シーン・チェンジズ」)
16)ソニー・ロリンズ;モリタート (アルバム「サキソフォン・コロッサス」)
17)ソニー・ロリンズ;アルフィー
18)ホレス・シルバー;ソング・フォー・マイ・ファーザー
19)トミー・フラナガン;オーバー・シーズ
20)マイルス・デヴィス;ラウンド・ミッドナイト
21)ソニー・クラーク;クール・ストラッティン
22)コールマン・ホーキンス;ジェリコの戦い
23)ジョン・コルトレーン;ブルートレイン
24)ジョン・コルトレーン;バラード
25)ジョン・コルトレーン;至上の愛
26)マイルス・デイヴィス;カインド・オブ・ブルー
27)セロニアス・モンク;ソロ・モンク
28)ブルー・ミッチェル;ダウン・ウィズ・イット
29)マル・ウォルドロン;レフト・アローン

30)チャーリー・ミンガス;直立猿人
31)ジョン・コルトレーン;ライブ・アット・ザ・ビレッジ・バンガード・アゲイン
32)アルバー・アイラー;グリニッチ・ヴィレッジのアルバート・アイラー

この記事を書くきっかけのひとつでもあった、ハードボイルド作家「原尞(はら りょう)」氏の自伝的エッセイ「ミステリオーソ」は「セロニアス・モンク」のアルバム・タイトルであったことを、不意に思い出した。「ソロ・モンク」と並んで、ジャケットのイラストが好きな一枚でもあった・・・。

ミステリオーソ+2

セロニアス・モンク / ユニバーサル ミュージック クラシック



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