プレミアムエイジ ジョインブログ
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Posts from — 3月 2008

引退

元巨人の桑田が引退を決めた。39歳でなお大リーガーへの道に挑戦した彼のひたむきさは賞賛されて良い。そして開幕メジャー入りが叶わず、スパっと引退を決意。マウンドの上にボールを置く写真をテレビや各紙が伝えた。カッコ良い。

高校時代からの仲間でライバルだった清原のコメントがまた良い。「自分の中の心の中のエースは、矢張り桑田です。彼が引退すると聞いて身体の力が抜けてしまった。でも、言ってやりたい、カッコ良かったよって」。

多分桑田は去年審判とぶつかって怪我をした時、決めたんだろうな。このまま終っても誰も反対する人はいないけど、自分がメジャーに挑戦したことの結果はまだ出ていない。手術して、来春もう一度チャレンジして、それでダメだったら潔く辞めると。

オープン戦でそれなりの結果は出していたものの、残念ながら開幕ベンチ入りは叶わなかった。彼は晴れ晴れとした表情で「ボールを置く時だと思いました。野球は沢山の楽しいことを僕に与えてくれました。今日まで野球を続けられて幸せでした」とインタビューに答えている。

引退する時、淋しさや残した思いを全く感じさせず、これ程爽やかな引退表明は例がないのではないか。テレビを見ている者をも気持ち良くさせるし、桑田という人物を見直した人も多いのではないかと思う。

桑田の引退に過剰に僕が反応するのは、何を隠そうこの僕も3月末に退職するからだ。退職を決意したのは正月明けだったが、正直淋しくないと言えば嘘になる。39年間やって来た会社生活を離れて自分に一体何が出来るだろうか、いや、その前にお前は一体何をしたいのか、不安に対する自問自答が続いた。とても桑田のようには行かないものだ。

しかし、一昨日、100名ほどが集まって開催してくれた大送別パーティーの席上で、39年間のいろいろなゆかりの人達からスピーチを頂いている内に、感激しながらも、「いよいよ本当に辞めなきゃいけないんだ」と覚悟が固まって行く自分がそこにいた。

毎年4月1日に新入社員を迎える側の私は、「入社式は皆さんを歓迎するための儀式だが、実は皆さんに、それまでの学生生活に完全に決別して貰うための儀式の意味の方が大きい」などと話して来た。しかし、同じことは退職送別会でも言えると思った。「会社に完全に別れを告げる覚悟をするための儀式」だと。

最後に僕が皆さんに感謝を込めて挨拶した時は、淋しさも残した思いも消え、爽やかに気持ちを切り替えて、前向きに人生の第2幕に向かって行こうと決意していた。

皆さんこれまでありがとうございました。そして、これからも宜しくお願い致します。

3月 30, 2008   No Comments

母の死(2)

僕等が結婚して5年後から、両親と同居して来た。僕たちの2人の子供(上が女、下が男)も出来て、所謂3世帯家族であった。子供達の友達が家に遊びに来ると「サザエさん家みたい」とよく言われたものだ。それが4年前、両親は我が家を出て、N市の姉夫婦の家に厄介になった。

両親は、特に父は、85歳を過ぎた辺りから望郷の念を強め、昔自分達が住んでいた場所に建っている姉貴夫婦の家に移りたがった。加えて、最期は実の娘に看取られたいとの思いが嵩じて行った。その思いを理解してくれていた姉貴夫婦は、義兄の退職を期に両親を迎え入れてくれたのだった。

尤も、これには、25年同居して両親に尽くしてくれたカミサンは、心穏やかではなかったのだが、最後は両親の我が儘を優先してくれた。こういう場合亭主は気を使うのよ。長い間面倒を看たのに最後はお前じゃないみたいなことになったら普通怒るよね。一方で開放感はあってもさ。

抑え難い望郷の念、その一点でカミサンを説得し、引越し前には会食をセットして、その場で我妻への感謝の言葉を両親から言って貰うように根回ししたり、勿論、僕もカミサンが両親に尽くしてくれたことへの感謝として記念品を贈呈したりして、両親をN市に送り出した。

しかし、僕が一番感謝しているのは義兄だ。何故なら銀行員として62歳まで働き、リタイア直後に僕の両親を引き取ってくれたのだから。退職後夫婦でゆっくり海外旅行でも温泉旅行でもしたいだろうに。退職後は誰にも縛られずに悠々自適の生活を送りたいだろうに。しかも、長男夫婦(僕達)が健在で両親と同居しているのに、それでも父の希望(わがまま)を聞き入れ引き取ってくれたことには、本当に頭が下がった。普通出来ることではない。

N市に移って半年を過ぎた時、父が他界した。死ぬ直前まで母といろんな話をしていたらしい。眠るような最期だった。そして3年後、母もあっけなく逝ってしまった。ただ、父の時は死に目にも会えず、最後に会ったのが2ヶ月前だったのとは違って、亡くなる前日に病院で面会し、母と握手をして笑顔で別れる機会があったことに感謝している。母に。姉に。義兄に。

別れと言えば、これまで僕は母と3回の別れをして来たように思う。1度目は、18歳の時。大学に入学するために、親元を離れて遠く仙台に旅立ったN駅のホームでの別れ。2度目は僕が28歳で結婚をした時。そして3度目が今回の母の逝去。前の2回は僕の門出を喜びながらも、どこか淋しげな母の表情が忘れられないのだが、今回は病室のベッドの上で弱わよわしそうではあっても、僕が来たことを喜んでくれた母の表情に、淋しさは全く出ていなかった。あれが永遠の別れになってしまったというのに。

3月 22, 2008   No Comments

母の死(1)

先週、母が88歳の生涯を閉じた。3年前、父も88歳で亡くなったから、仲の良いことではある。これは両親から僕等姉弟への、「お前達も米寿までは生きよ」という無言のメッセージなのだろうか。姉貴は兎も角、僕はこれまでずっと不摂生な生活を送って来たから、まるでその自信はないが・・・。

僕は東京の郊外に住んでいるが、4年前から両親はN市の姉夫婦の家に厄介になっていた。姉夫婦の家は、35~36年前に両親が東京に出て来るまで長い間住んでいた場所にあり、その後姉夫婦が元の家を建て替えたものだ。

僕もなるべく姉の家を訪ねるようにしたから、四半期に一度くらいは姉の家を訪ねただろうと思う。N市に移って半年を過ぎた時、父が他界した。死ぬ直前まで母といろんな話をしていたらしい。眠るような最期だった。そして今回は土曜日の夜突然、母が胸が痛いと訴えた。義兄の話だとかなり苦しそうだったので救急車で病院に担ぎ込んだのだそうだ。

心筋梗塞。緊急手術が行われた。義兄から連絡を受けた僕は、土曜日の最終の新幹線に飛び乗ってN市に向かったが、途中、携帯に義兄から再び電話があり、手術は成功したとのこと。だが、今晩は面会出来ないそうで、明日決まった時間に集中治療室で5~6分だけ面会が許されるとのことだったので、その晩は病院ではなく姉夫婦の家に泊まった。

翌日曜日お昼時、5分間の面会が許された。ICUに面会に行くのは初めてだった。昨日中に入った義兄や姉に習い、先ず靴全体を覆うビニール・カバーを両足に履き、大型ドライヤーのようなもので衣服全体の誇りを払い、最後に消毒液で両手をよく洗って入室した。

僕等3人が病室に入ると母は直ぐ気付いたようだった。姉に「凄く暑くて汗が出るからハンカチないか?」と言う。姉は早速ハンカチを取り出して、顔や首の汗を拭ってやった。僕はそれほど暑いとは思わなかったが、掛け布団が冬用のものだったから暑いのかも知れない。

そして、今度は僕を見て「驚いた?」。「そりゃ驚いたよ。だから昨日の最終の電車で駆け付けたんだ」「痛くて息が出来ないくらいだったよ。今度ばかりは本当に最期かと思った」「手術は成功したって先生が言ってるからもう大丈夫。まだ痛いの?」「そりゃ昨日に比べりゃ我慢出来るくらいの痛さにはなったけど、まだ少し痛いよ」。

母はそこまで言うと、「お前、会社の方はいいのかい?直ぐ戻った方がいいんじゃないかえ?」と子供の心配をする。還暦過ぎても母から見れば子供は子供なのだろう。「今日は日曜日だからそんな心配いらないよ」と言って安心させた。

あっという間に5分が経ち、最後に僕は母と握手し「じゃぁ、頑張ってね」と言った。母は「うん。良く来てくれたね」と笑いながら言った。その笑顔を見て僕は「ああ、これなら大丈夫だ。あと数年、90歳以上は生きられるだろう」と安心して病室を出た。僕はその足で駅に行き、新幹線で東京に戻った。

が、翌月曜日の昼頃、仕事中に義兄から携帯に電話があった。厭な胸騒ぎ。「もしもし。神童ですが、母になにかあったのですか?」「そうなんだ。ついさっき心臓が止まってしまったって。今医師が心臓マッサージやってるけど、近親者に直ぐ連絡してくれというので、君に電話したんだが・・・」。母の心臓停止は昨日と同じ昼の面会中のことらしい。「心臓止まって何分くらい経ちますか?」「15分くらいだと思うけど」。

それを聞いて僕はもう母は助からないと悟った。心臓停止から10分以上経てば脳に血液が行かず脳細胞がほぼ死滅する。義兄には「取り敢えず直ぐそちらに向かう旨伝えて電話を切った。更にその15分後もう一度電話があり、義兄の沈んだ声を聞かなければならなかった。「お母さんダメだった。死亡時刻は13時18分」と。

3月 22, 2008   No Comments

人生の師(完)

部下から見れば、後を継いだ僕はどう見てもFさんより見劣りする。こういう場合、本当に集団を率いて行くのは大変だ。部下の中には「神童でなく俺の方が後継者に相応しい」と思う人間も現われて、いきなり僕の指導力や統率力・マネージメント力などが試される場面となってしまったのだ。

悪口流布、疑心暗鬼・分派行動・四分五裂・修羅場・・・。

詳細は省くが、そういう入社以来最悪の苦しい時期を何とか乗り越え、平成11年6月末、僕は取締役に推挙された。その時がまた、Fさんの完全リタイアのタイミングと一致した。運命的なものを感じる。

僕は、2年後輩のAと一緒に、Fさんの送別パーティー「感謝の会」を主催した。会場は、以前Fさんが僕等のために、分散型オンラインの完成祝賀会を開催してくれた思い出の「新宿京王プラザホテル」。あれから14年の歳月が流れていた。

ご本人は「感謝の会など柄でない」と厭がられたのだが、「これはFさんのためだけではなく、我々弟子達のこれからの決意の場でもあるのだから」と説得して何とか開催に漕ぎ着けたのだった。

師匠Fさんから沢山の薫陶を受けながら、彼が残した業績をステップにして、大きく発展させることもろくに出来ない不肖の弟子として、せめてもの恩返しの気持ちで気合を入れて主催した会だったが、200人にも及ぶ方々が参加してくれて、盛大な会にすることが出来た。

会の終了後、Fさんは苦笑しながらも、「君らには感謝する。ありがとう」と仰って下さった。僕等にとっての1つの時代が終った。

人生の師(了)

3月 17, 2008   No Comments

カリスマ

Fさんの昇進の時期と僕のそれとが妙に一致している。昭和60年、Fさんは取締役に就任し、僕は課長に昇格。昭和63年、Fさんが常務取締役に昇格すると同時に僕は次長に昇格。平成3年には、Fさんが常務を退任して顧問に就任。僕はその時部長になった。

Fさんからは一度も言葉で言われたことはないが、こうして振り返ると全く偶然とばかりは言い切れない何かがある。つまり、Fさんの意思というか意向が読み取れるのだ。つまり、彼が重責に就きシステム開発の現場から少しずつ遠ざかるのに合わせるように、僕を引き上げてくれていたということだ。

システム部門には当初、Fさんから僕の年齢までに20人以上の先輩達がいたが、その後の人事異動などにより、他部門に転出して行った先輩も多く、最後は5~6名の先輩だけになっていたのだが。これらの人達は、システム部門の第一期生と言われ、Fさんが直卒した世代だ。僕はその世代の末弟と自認していたけれど、どうも結果からすると、第二世代のヘッド役を期待されていたようだ。

それ迄は、Fさん又はNさんの下でやっていれば良かったから幾らか気楽だったが、システム開発部長に昇格してからは、僕の人生で最も苦しい時期に突入した。システムは旨く行って当たり前だから、褒められることはまず無く、システム・トラブルでも発生させようものなら、非難の嵐だ。社内外のシステムに対する期待や批判を一身に浴びるプレッシャーは、聞くとやるとじゃ大違い。

しかも、自分がシステム部門の責任者になると同時に、師匠と頼むFさんが表舞台から去ってしまった。いずれはそういう(Fさんの役員退任)時期が来るのは分かっていたことながら、この2つのことが同時に起きたのだから、楽天家のこんな僕でも、これからは全責任、全リスクを自分が負って行くしかないと覚悟を決めざるを得なかった。

Fさんは、僕の部下達から見ても、最早、奇人変人でなどなく、自分達の目指す人物像・理想像となっていた。今流に言えばカリスマ的存在に昇華していた。そういう強力なリーダーが去った後、組織が四分五裂することは良くあることで、我がシステム部門も例外ではなかった。僕は益々苦しくなって行ったのだ。

3月 14, 2008   No Comments

師匠の役員昇格

昭和60年7月、僕の師匠のF氏が遂に取締役になった。15年前、ご本人を含め彼が取締役になるなんて予測した人は1人もいなかったのではないか。凡そサラリーマンからは程遠い人だったのだから。自部門の人々も、他部門の人々も、奇人変人と言えばFさんの右に出るものはいないと誰もが思っていた。多分ご本人も。

仕事中にどこかに消えるわ、時間中にも拘らず家に帰ってしまうわ、朝は遅いわ。逆に何かに集中し出したら、平気で会社の事務室に泊り込むわ、上司の優柔不断は決して許さず楯突くわ。

最初の内は僕等も息を呑む思いで見ていたが、段々慣れて「ああ、またいつものことだ」と思うようになり、いつしか、そういうFさんの行動を賞賛する側になっていた。昭和40年代と言えば日本が高度成長の波に乗った時期ではあったが、会社の中はそれ以前の古いしきたりが充満していた時代でもあったから、余計にFさんの行動は目立った。

上司も周囲も、時代の尺度で彼を計ると、F氏は「異端」「規格外」「はみ出し者」という答えしか出て来なかったのはある意味責められない。だが、彼が僕等を使って成し遂げて行った数々の改革をしっかり見守り、普通のサラリーマンと違う彼の行動を、似非(えせ)でない、本物の変革者や革命家に共通な「心の自由」のなせる業と理解していた経営者が存在していたのだ。

時の社長で、以前、専務時代に1~2年、システムの担当役員をやられたことのあるS氏だった。S氏自身も、創業者のご子息という人物だったから、若い時からその言動も行動も、自ずと普通のサラリーマンではなかった。「自分の会社」をもっと良くするために、の一点で考え行動されていたから、矢張り慣習やしきたり、既成概念などいとも簡単に飛び越え、会社にいろいろな変革をもたらした人だ。

僕等新入社員の入社式で、「努力し頑張っていれば、必ずそれを誰かが見ていてくれる」とどなたか偉い人が講話で言っていたが、Fさんの本当の力を認めてくれたのがS氏だったのを知り、その講話が真実であることを今更ながら感じたものだ。我がF氏もS氏も同じ改革者の心で分かり合い、余人には測りがたい敬意の絆で繋がっておられたのかも知れない。

確かに、僕等もあの口の悪いFさんから、Sさんの悪口は全く聞いたことが無かった。それどころか、Sさんの進める企業戦略の素晴らしさを僕等に解説し、そういう人が社長を務める会社は絶対に発展するとFさんは断言しておられた。現にSさんが社長をされた6年間に、会社は業界9位から5位に大躍進したのだった。

役員になるべくしてなった人と違い、Fさんのような一見異端の徒と思わしき人間の実力を正しく理解し、役員に登用するこの会社は捨てたもんじゃないと思った。自分の師匠が正式に認められたのは自分のこと以上に嬉しい。僕は初めてこの会社が好きになった。

3月 13, 2008   No Comments

君子豹変ス

トラブル対応をしている僕自身、妙な高揚感があって大きな声を出して指示を出したり、頻繁に担当者を呼んで確認したりしていたのかも知れない。

ずっと静かに僕等の行動を見守っていたFさんが僕を呼んで、「神童、悔しくないのか?お前はトーエーという会社をどう思っているんだ。奴等は何も作っていないんだぞ。流通なんて単に右から左に物を流しているだけだ。何も価値を生んでない。そんなに喜々としてやるもんじゃない。」と注意されてしまった。

トラブル・リカバリーは只でも暗くなりがちだから、意識して明るく振舞っていたつもりだったが、本当は、課長になって初めて指揮らしい指揮が振るえることを喜んでいたのを、Fさんは全てお見通しなのだ。さぞや僕が能天気な人間に見えたんだろうな。

その晩、夜遅くに全てのリカバリーが終った。丁度約束の1週間目の夜だった。

さて、翌日F部長と僕とでお詫びのためトーエー本社に人事部を訪ねた。応接室に通され10分ほど待たされたところで2人が現れた。僕等は起立して出迎えた。

「人事部長をしております、Eと申します。こちらは課長のSです」。S課長は僕が電話した相手だ。密に連絡し合って対応した仲だ。「システム開発部長のFと申します。こちらは、開発課長の神童でして、このたびの問題を惹き起こしました部署の責任者でございます」とFさん。

人事部長さんが「まあ、お座り下さい」と言うので全員が着席した。直ぐにFさんが口を開いた。「この度は私共の犯しました過ちによりまして、皆様にはとんでもないご迷惑をお掛けしましたこと、深く深くお詫び申し上げます」と平身低頭されたので、僕も一緒に頭を下げた。

もう充分だろうというくらいの時間が経ったので、頭を上げようかとFさんの様子を伺ったら、Fさん尚も頭を下げたままだ。それもテーブルに頭を擦り付けんばかり。仕方ないから、僕も更に深く頭を下げた。それには流石に人事部長さん、「どうかお顔をお上げ下さい」と言ってくれた。

だがFさん、まだ、頭を上げようとしない。人事部長さん、「本当にどうか、どうか」。やっとFさん顔を上げ「御社に2度とこのようなご迷惑をお掛けしないことを天地神明に誓ってお約束いたします。こちらの神童課長にも厳命しておりますが、この度のリカバリー処理と同じように、私共システム部門上げてチェック体制を敷いて、お渡しするデータに間違いのないよう万全を尽くします」と再び頭を下げた。僕も従った。

人事部長さんからは「社員一人一人のお金に関することなので、慎重の上にも尚慎重にお願いします」とか「第一報を受けた時の当社側の対応の拙さについては、S課長を叱っておきました」とか「もし何か起きた時は、両社で協力して、迅速に、出来れば未然に問題を解決したいので宜しくお願いしたい」等々の言葉を頂いた。全てごもっとも、少しも尊大さを感じさせないなかなかの人物と見た。今回の件は殆んどお許し頂いたような雰囲気になったので、3度目のお詫びを申し上げてその場を辞した。

帰社途中、僕はFさんに感想とも非難ともつかない質問をした。「ほんと驚きましたよ、Fさんの土下座まがいのお詫びの仕方には。昨日あれだけ、トーエー何ぼのもの、みたいなこと仰ってたから、正直今日は戸惑いました」。

「そうかい。ただな、今日の訪問はトーエーに許して貰うのが唯一の目的だったから徹頭徹尾謝った。お前にも少しはいい経験になったかな」とFさん。ケロッとしている。最早これは、凄みだな。脱帽!

3月 10, 2008   No Comments

大トラブル

昭和60年4月、僕は課長になった。同時にN課長は次長に昇格した。

課長になると一気に業務スパンが広がり、1つのシステム開発に集中していれば良い状況では全くなくなった。本店各部門(ユーザー部門)から飛んで来る様々なシステム化依頼案件に対して、該当部門との折衝が大幅に増えた。特に、ユーザー部門の施策検討段階での会議に出席を求められたりもする。部内の会議も多くなる。今までの方がどれだけ良かったか。

まだ、新米のシステム開発課長として3ヶ月にも満たない頃、大事件が起きてしまった。

流通大手のトーエー(仮称)の社員向けに当社が販売した商品の代金を、給与からチェック・オフしていた。つまり、毎月当社から渡す「個人別チェック・オフ・データ」に基づいて、トーエー側の給与システムで夫々の社員の給与から引き去るのだが、当社が送ったデータに誤りがあり、予定より多くの額をチェック・オフしてしまうトラブルが起きたのだ。

実際に誤りに気が付いたのは、運良く、トーエー側で給与引き落としを行う前日だった。当社の窓口部門を通じて、差し替えデータを今直ぐ届けるのでそちらのデータでチェック・オフして貰うよう先方にお願いした。ところが、先方はこの問題の大きさに気が付かないのか、余計な対応を嫌ったのか、はたまた、流通業大手の偉そうな目線で当社を見てるのか、けんもほろろの対応だった。

僕も、電話を代わって貰って必死にお願いしたが、人事課長さんは「今更そんな対応は出来ません。事前にそちらのチェックがいい加減だったからでしょう。ダメなものはダメです」の一点張り。「もし、間違ったデータのまま給与引き落としをすると、結局は御社(トーエー)の人事部の皆さんも非難されることになると思いますので、どうか・・・」「余計な心配は不要です。その後のリカバリー対応はお宅の責任でやって貰えば良いことですから」。

そして、案の定トーエー内で大騒ぎになった。当然僕等に対する非難は強烈であったが、トーエーの人事部に対しても、何故ミスをチェック出来ないのかと大クレームに発展したのだ。

こうなって初めて先方も動き出し、1週間で全てけりを着けるべく、両者のシステム部門が協力して対応して行った。当方は返却すべき金額の個人別のデータを作り、トーエーから貰った夫々の社員の給与振込先データとドッキングして、そのデータを銀行に持ち込んで振込み作業をして貰う。

更に、社員一人一人への詫び状に夫々異なる返却金額と振込み予定日を記入しなければいけないが、対象者が数千人に及ぶためとても手作業では無理。そこで、プログラムを組み、数ヶ月前に導入したばかりの連続帳票用の高速レーザー・プリンター(LBP)で打ち出すことにした。

これら全てが突貫工事で、且つ、LBPのような新兵器を駆使しなくてはならず、二重遭難だけは絶対に回避したかったので、部門上げてチェック体制を敷き、完璧と言えるまでテストを重ね本番に移した。そして、予定通り、1週間で全てのリカバリー処理を終えた。

大変可笑しなことながら、この大トラブルが起きたお陰で、僕は大勢を指揮してリカバリーを行い、事態を収拾したことで、課長らしい仕事が初めて出来たと思った。しかし・・・。

3月 7, 2008   No Comments

エピソード(3)

メーカーの役員さんが、僕等の計画(分散型オンラインの全店敷設)を心配して、当社を訪ねて来てから数ヵ月後、今度は業界リーディング・カンパニーのシステム部門からN課長のところに電話があり、当社のシステム計画について、支障のない範囲で聞かせて貰えないかとの依頼が飛び込んだ。

多分、メーカーから一定、当社のやろうとしているシステムについての情報が入り、聞いてみたいとなったのではないか。N課長が、そのことをF部長に伝えたところ、Fさんは「全部教えてやれ。システムの現物を見せても良い。我が業界のシステム水準が低過ぎるからな。底上げを図るには、リーディング・カンパニーが先頭を走らないといけないのだ。但し、他の会社には話すことも、見せることもまかりならん」と仰る。

また、僕等は戸惑う。以前はFさん、「システム競争上、使えるお金も人も少ない当社が大手社に勝つには、彼等より遙かに安い方法でシステムを作らないといけない。だから分散型オンラインに挑戦するんだ」と言ってた筈。

その点を突くと、「俺も日々成長してるんだ。昨日の俺と今日の俺は違う。昔俺がどう言ったかなんて知らん」とそっけない。ご本人は皆まで言わないが、最大手社のシステム部門に僕らのシステムを開示しても良いと判断したのは、1つには、今から真似しようとしても、彼等とて同じ時間を要すること、2つ目には、これからもFさんの頭の中にあるものをどんどんやって行きたいが、そうすると常に経営陣やメーカーから「大手社もやらないことを何故やるのか?」との質問にぶち当たり、それにいちいち答えなくてはいけないことに辟易としていたから、ではないか。

僕等はリーディング・カンパニーのシステム部門の来訪を快く受け入れ、分散型オンラインの全てを見せ、説明してやった。口々に「OSまで自分達で作ったのは凄いこと」「こういうシステムを作ってみたかった」「ミニコンを採用した金融機関なんて皆無だと思うけど、良く経営が了解しましたねぇ」などなど、驚きをもって感想を漏らした。その後、僕等も彼等の会社を訪れ、開発中のシステムのデモを見せて貰ったり、意見交換を行なった。ライバル社のシステムが分かった。

昭和59年、全国展開が終了した時点で、業界紙に、ニュース・リリースしたところ、当社に見学に来た業界大手の一行の責任者から僕に電話で、「あの記事で、今、副社長からとっちめられて来たところです。お陰様で弊社のシステム部門は大変なことになっていますよ」と言って来た。「それはそれはスイマセン。皆さん方には内容を既にお伝えしてたので、発表しても、御社では問題ないと思っていましたのに」と答えた。

「はい、それは助かりました。副社長にも、御社のやられたシステムの内容は掴んでいたのかと、情報収集能力を指弾されそうになったのですが、既に見せて貰っていましたので、旨く切り抜けられたんですが、如何せん当方、まだ御社が既に実施された営業店事務のオンライン化計画が出来ていなかったものだから、こっぴどくやられてしまいました」とのこと。

僕は、「当方も、御社や他社のシステムの記事が出ると、うちはどうなってるんだ、と偉い人にやられること、度々ですよ」と「お互い様」をそれとなく匂わせた。そしたら「大急ぎで営業事務のシステム化計画を纏めないといけないので、近々、先駆者の皆さんのご助言を賜りに伺いたいのですが」とのことだった。勿論了解したが、競争と協調ってどう線引きしたらいいんだろう・・・?

3月 6, 2008   No Comments

エピソード(2)

昭和58年の暮、あるコンピューター・メーカーにミニコン300台、端末1,000台を発注し、両社間で正式契約書も締結し終えて暫くした頃、そのメーカーの営業部隊の責任者ではなく、経理財務部門の担当役員がFさんを訪ねて来た。

僕も同席するようにFさんに言われたので2人で出迎えた。先方はお1人で来られた。そのメーカーの役員さんのお話の趣旨は凡そ次の通り。

「沢山のミニコンと端末機を弊社に発注して頂いたのは、会社としては大変有難く喜ばしいことである。しかし、弊社はコンピューター・メーカーとして、ただ売れれば良いと言うものではなく、売った責任というものがある。今回、製造業でない御社のような金融機関から大量のミニコンを発注頂いたが、どんなことを始められるのか、そして、それが本当に大丈夫なのか、大変ぶしつけながら、弊社の営業には内緒で確認のためお邪魔した」ということの様だった。

僕は「ヘー」と思った。コンピューター・メーカーも大したものだ。売る側の責任というものをちゃんと心得ているんだと初めて知った。しかし、こんなことは初めてだから、多分、当社側の計画が無謀過ぎるという危惧を持ったからこそ訪ねて来たに相違ない。

さて、これに対してFさんはどう答えるのか。「当社のような業界大手でもない会社が、ミニコンなんぞを使って、変わったオンライン・システムを造ると言えば、そんな実力があるのかと心配になるのは、至極当然です。お考えの通り、これはとても当社だけでやれる筈もありませんから、以前からずっと共同開発のパートナーシップを結んでいる、N社の指導を受けながらやって来ていますので、多分ご心配の点はクリアーしていると思っております」とFさんは言われた。

半分本当で半分嘘。N社は日本の金融機関で始めてオンラインを成功させた実績を持ち、当時、日本を代表するオンライン・システム構築のプロ集団だった。N社とは確かにパートナーシップを結んでおり、昭和50年の、第一次オンラインはFさんの言われる形で、N社の指導と支援を受けて構築したのだった。そして、パートナーシップはそれ以降今も続いている。

しかし、この第二次オンラインとも言える、分散型オンライン構築には、N社は1人も加わっていない。謂わば僕等単独の挑戦なのだから、この点では嘘なのだ。

しかし、Fさんの答えに全ての危惧は吹き飛んだようで、このメーカーの役員さん、急に笑顔になって、暫く雑談の後、納得顔で帰って行った。

Fさん、僕に一言、「嘘も方便だな」。「メーカーに対するN社の威光は凄いですね」と僕。「俺達のやろうとしていることが、いろんな意味で注目され始めたということだろうよ」。

3月 5, 2008   No Comments