嗚呼!母校
皆さんは松代という場所をご存知だろうか?長野市内を南に下ると犀川を渡った所に古戦場として有名な川中島(信玄と謙信の戦)があり、更に千曲川を渡ると松代となる。先日そこを訪れた。
僕は小学校1年から4年まで、松代小学校に通っていた。そのあとは長野市内の小学校に転校したのだが、学校生活の最初の場所だったから思い出も深い。当時は埴科郡松代町という住所であったが、今は長野市松代町。実は大学時代に1度だけ松代を訪れ、小学校や、海津城址、象山神社(佐久間象山は江戸時代の松代藩の出身)などを見て回った。
その時は、記憶の中の松代と現実の松代にそれほど大きなギャップを感じなかったが(とは言え、メイン・ストリートはもっと広いと思っていたけどこんなに狭かったかなぁとは感じたが)、それから40年経過して再び訪れてみると、道路の位置は変わらないものの、街並みや家並みが全く変わってしまって、記憶にある松代とは似て非なる町であった。自分が住んでいた場所を特定することさえ難しかった。
しかしながら、小学生の時、赤穂浪士の討ち入りに出てくる吉良邸の門とよく似ているなぁと思っていた小学校の校門は、当時そのままの形で僕を迎えてくれた。これには僕も大いに感激したのだった。
僕は胸躍らせて中に入ろうとしたら、傍らの受付窓口から、「入場料を頂きます」と声が掛った。何!と思って理由を聞いたら、ここは松代藩の藩校跡で、中は当時のまま保存して、皆さんには入場料を頂いてご覧頂いているとのこと。これには流石の僕もビックリ。母校がそっくり藩校跡として観光資源になっていたのだ。
「ここは、私が通っていた小学校だったのですが??!!」「ああそうだったんですか。私もここで習いました。現在の小学校はすぐ近くのあちらに鉄筋で建て変えられました」と教えてくれた受付のお爺さんはかなりの年配者だった。
3百円払って中に入った。各建物前には立て看板のような説明書きが随所にあるが、古い建物の位置関係や景色は正しく55年前のそれであった。入口近くの小さな建物は厩。学校だった時は何に使ってたんだっけ。その反対側は門番の詰め所。昔もそれがあったなぁ。正面には畳の間が幾つも繋がっている。長い建物。師範その他の藩校講師陣の控えの間らしい。
その左には弓の道場。奥に進むと剣道場が現れる。僕らの時は体育館が2つあり、広い方は当時新しく作った体育館だったと思うが、この剣道場は小さい方の体育館だった。主にマット運動などをやった微かな記憶がある。そして、その右手奥が藩校の教室。教室と言っても長い廊下に面して幾つかの畳の間があって、生徒はそこで座って授業を受けたと説明書きにある。
僕らは、この畳の間の南廊下を「松の廊下」と呼んでいた。当時は授業の一環でよくこの畳の間で幻燈や映画を見たものだ。「松の廊下」を眺めながら、暫し当時の仲間や今は亡き恩師の思い出に浸ったのであった。


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