プレミアムエイジ ジョインブログ
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Posts from — 7月 2008

電車の席(その2)

何稿か前に、電車の中で年寄りを無視して座ってしまった女子高生のことを書いたら、偶然にも朝日新聞の読者投書欄で、似たようなことが取り上げられ、殆ど毎日、賛成反対の意見が載っているから可笑しい。

新聞投書で問題となった車内の場面は、僕が目撃したのとは少し違う状況のようだ。30代後半と思われるお父さんと幼い男の子とが、席が空いていなかったので、座席の前に立っていた。

その内男の子が、くたびれたの、座りたいのとダダを捏ね始めた。お父さんは一度子供に「静かにしなさい」と注意したが、男の子の喚きは収まらない。それが永遠に続くかと思われた時、お父さんの隣に立っていた男性が、「うるさい!!!」と大きな声で一喝した。

男の子は勿論、周囲で談笑していた人も含めて、全員、シーン。騒々しい車内が一気に水を打ったように静かにはなったが、みんな居心地が悪そう。

次の駅に着き、何人かが降りた。その中の一人、年配の婦人が一喝した男性に「子供というのは言うことを聞かないものなのよ」と、少しくらい我慢しなさいと忠告をして去った。

これに対して、毎日のように賛成意見と反対意見が新聞に投書されているのだ。一喝した男性には、賛成意見として、「みんなが迷惑してる時に良くぞ一喝してくれた。悪いのは父親だ」という意見。反対意見では「小さい子供の行いに直ぐキレる大人こそ怖い」。

注意した婦人に対しては「今の日本は、子供の躾が出来ない親が問題になっているのに、周囲が甘いだけで良いのか」「子供を育てるというのは大変なこと。そのことに対する理解の無さが少子化を招いた。もっと子供や子育てに理解ある社会になる必要あり」等々。

僕は、よっぽど疲れていない限り、目の前で小さい子供が「座りたいよ」と愚図ったら、いや、目の前に幼児が立っただけで、席を替わると思うし、60年間の経験で言えば、そのことは殆どの人にとって当り前だったと思う。

なのに、座っている人の誰もその幼児に席を譲らなかったことの方が、今の時代の世相を映し出しているようで不気味だ。

皆さんはどう思われますかねぇ?

7月 31, 2008   No Comments

リベンジ

7月27日(日)。僕らおじさんバンドは午後1時に会場に入った。今日は午後6時から「クーペ&Shifo」主催の「心に効くコンサート」が開催される。

会場はパルテノン多摩と言って、多摩地区では有数のホールだ。大ホールと小ホールがあって、今日は1,500名収容の大ホールで行う。

この会場、僕は過去に3~4回、一般観客としてコンサートを聴きに来ている。最初は「柳ジョージとレイニーウッド」のコンサートだった。多分25年ほど前のこと。その時初めて、ロックは観客席で立って聞くものだと知った。

同じような時期、アマチュアのフルバンドのコンサートが催された。彼等の演奏が凄く上手くて感心した記憶がある。そんな彼らを見て、自分も演奏する側に立てたらなぁと、半分羨ましく思ったものだ。当時僕は35~36歳で、仕事に100%没頭していた時期だったから、とても音楽活動を行う時間的余裕は無かったが。

そして、何と言っても忘れられないのが、日本ジャズ界の大御所、ドラマーのジョージ川口が、プロ生活40周年記念の全国ツアーの最初に選んだ場所がこのパルテノン多摩だった。

渡辺貞夫、山下洋輔、日野皓正など現代を代表するジャズメンや、松本英彦等同世代のミュージシャンも駆け付けてジョージ川口の40周年を祝う超ビッグ・イベントだった。

インターネットを調べると、ジョージ川口がプロデビューしたのが1947年とある。それは僕の生まれた年だ。従って、パルテノン多摩でのこのジャズ・コンサートは1987年だったろう。僕が丁度40歳。

これらの記憶が焼き付いているパルテノン多摩大ホール。今日は僕が、客席ではなくステージに立つのだから感慨深い。と言うより緊張する。ジョージ川口がジャズ人生節目のツアーのスタート・ポイントに選んだ同じ場所で、同じドラムを僕が叩くのだから。

個人的には、これまで経験した国際フォーラムよりもNHKホールよりも、このホールで演奏することへの思い入れの方が遥かに強い。

さて、昨日の国立市でのコンサートでは失敗した僕のドラムソロ。第1部で4曲、第2部で2曲をバック演奏したが、それはまずまず無難にこなした。第2部が終わってクーペもShifoも舞台の袖に引き上げて来た。アンコールの手拍子が心なし弱いように感じた。

アンコールがなければ、僕のリベンジの機会は失われる。でも2日連続して失敗するという最悪は回避出来る。その方がいいかな。と、会場の手拍子が急に大きくなり観客が一体となってアンコールを要求している。

よーし、リベンジしてやるぞ。位置に着いた。ピアノのイントロが始まった。「聖者の行進」。サッチモばりのクーペの歌が続いて、いよいよ僕の番。16小節のドラムソロだ。ドキドキものではあったが今度は旨く行った。ホッ!そして、次のマクのサックスも完璧だった。

終って、舞台裏でマクとハイタッチ。良かった~。お互い大きな壁を乗り越えたよな。

7月 30, 2008   No Comments

ドラムソロ

7月26日は国立市の社会福祉会館(200人規模)、7月27日は多摩市のパルテノン多摩(1,500人規模)で「クーペ&Shifo」と一緒に2日連チャンのライブを行った。実はこのライブを迎えるに当って、3つの新しい挑戦を行うことが2週間前に決まったのだ。

その一つは、店のスタッフで「クーペ&Shifo」のマネージャーを務める、通称マク(幕田優子)が、おじさんバンドと一緒にサックスを演奏することになったこと。曲は「聖者の行進」。その曲の途中でサックスのアドリブをワン・コーラス(16小節)やることになった。昔サックスを少しカジった程度らしいが、2週間の猛練習で当日を迎えた。

もう一つは、ラテン曲のイントロとして、ヨッ君のコンガソロを入れることになったのだ。おじさんバンドのパーカッション担当として何回もステージで演奏して来たが、ヨッ君もソロをやるのは初めてだ。

そして、3つ目はマクと同じ「聖者の行進」で僕もドラムソロをやることになったことだ。クーペが店でたまに「聖者の行進」を歌うことがあったので、そんな時は必ずドラムソロをやらされるので、僕はとても初めてとは言えないのだが、いつも適当もいいとこ。ドラムソロを16小節正確に数えて出来てる訳ではないし、変化も迫力もあまりない。

そこで、今回は16小節を、今出来る最高の組み立てを考えようと思ってライブ直前の1週間、スタジオで個人練習を行った。国立市のライブ前にはShifo に見て貰って少し修正を加えて当日を迎えた。

さあ、国立でのライブ本番。ヨッ君の見せ場は、公演第一部の4曲目にやって来た。「マイアミ・ビーチ・ルンバ」の最初。彼のコンガソロで始まった。魂心の演奏。決まった。見事にピアノのイントロに繋がった。大成功だ。

マクと僕の見せ場は最後の最後、アンコール曲でやって来た。クーペのだみ声の「聖者の行進」。彼の歌2コーラスのあとはピアノのアドリブ、またクーペの歌、さあ、次は僕のドラムソロ。何故か自信無い。リズムが少し早い。

「ええい、ままよ」とドラムを叩き始めた。が、途中でリズムが崩れる。拙い。一旦止めた。呼吸を整え残りの6小節を何とかやり通したが、失敗は誰の目にも明らかだった。

再びクーペの歌の後はサックス。マクがアドリブを開始した。大勢の前での初デビューにしては、あがることもなく、練習通りに演奏出来ていた。やるなぁマク。

その日のライブを終え、僕は一人惨めな思いをしていた。その後の打ち上げ会でも僕のテンションは上がらなかった。1週間練習したのにその通りに出来なかった。それが本当に悔しかった。クーペが言ってくれた、「明日が本番だから」。よ~し、明日リベンジだ。

7月 28, 2008   No Comments

電車の席

昨日、久し振りに仕事のことで渋谷に出向いた。その途上、電車の中でのこと、午後4時過ぎだったから、まだ、ラッシュではなかったが、学校の帰りなのだろう、様々な制服の高校生が大勢乗っていて、立っている客が結構多かった。

僕も、車両の一番隅に立って本を読んでいる。僕の隣には年の頃70過ぎと思われる白髪の男性がやはり立っている。その男性の更に隣には女子高生が立っていて、目の前の席に座っている仲間の女子高生とある先生のしでかした失敗談に興じている。

次の駅に着いたところで、白髪の男性の前に座っていた主婦らしい人が、降りるために立ち上がった。そしたら間髪入れず、その隣に座って話に夢中になっていた件の女子校生が一つ席をずれ(白髪氏の前にすれ)、立っていた友達を座らせたのである。しかも話を続けながら。

どうなってるんだ今時の高校生は、と思って、白髪氏を見たら目が合った。その目が「呆れたね」と苦笑い。多分自分の顔も同じだったに違いない。女子高生2人は、何も感じず相変わらず話に夢中だ。

言うかどうか少し迷ったが、大人の責任を感じて注意した。「君たち、自分達が座るんじゃなく、お年寄りに席を譲るべきだろう!」。

突然注意された彼女らは、状況を飲み込むのに少し時間が掛ったみたいだが、白髪氏を見て理解したようで、2人とも席を立ち「どうぞ」と白髪氏に声を掛ける。

問題はここから。2つも席が空いたのに、白髪氏は座ろうとしないのだ。「いや、立っていたいから」と言う。更に「どうぞ、どうぞ」。「いやいいよ」。次第に女子高生達はいらついたのか、「折角こうして席を空けたんですから、座って下さい!」と少々強いトーンで白髪氏に迫る。白髪氏は無言でその場から立ち去って行った。

こうなると、僕は結果的に余計なお節介焼きとなってしまう。女子高生達は「空いてるんだから座ろうよ」とか言いながら再び座席に腰掛けた。そして僕の方をちらちら見ながら「あー、今日は最悪。気分悪る~」と髪の毛をむしる仕草。

それにしてもあの白髪の紳士、座らないわ、どこかへ行っちゃうわ。何で?「お年寄りに・・・」と僕が言ったのが気に入らなかったのかな。それじゃぁ彼にとって、僕の言動は、あの女子高校生の行動と同じレベル、同じように気に障ることとなってしまうでしょうが。

7月 23, 2008   No Comments

師匠の信長

信長の苛烈さは正に革命家のそれで、彼が目指す国家統一への道を塞ぎ邪魔をする者が立ちはだかった時に鮮烈に現れる。信長の思想を理解せず古い時代の価値観で対抗する者には徹底的な打撃を加え再起不能になるまで攻撃の手を緩めなかった。比叡山焼き討ち然り、一向宗門徒への攻撃然り、浅井朝倉攻め然り。

一方、一般市民から信長は民衆の味方と見られ絶大な支持を得ていた。即ち、楽市楽座の推進や通行税の廃止などにより、自由市場の発展と人々の往来を盛んにして産業振興・商業発展・文化醸成に尽力し、人々の生活水準向上に意を尽くしたからだ。

信長は庶民に対してはどこまでも優しかった。庶民からは、自分達の願いに応えて不可能を可能にしてくれる神に近い存在と崇められていたし、自らも神の様に振舞った。いずれ朝廷を権力の座から降ろし神官の宗主の役割に変えるには、信長自らが朝廷を超える存在になる必要があったからだ。

宣教師がもたらす話や南蛮渡来の品々を目の当たりにした信長は、世界の広さと先進性を正しく理解していた。信長は自分の手でそういう進歩した豊かな国を早く作りたかった。この国は領地争いに明け暮れている場合ではないと思った。戦国の世に終止符を打ち、新しい国家建設のために、早く政権に就かねばならなかった。

信長が他の戦国武将と大きく違うのは、彼らは、「戦国勝ち抜きトーナメント全国大会」の優勝を目指すことが目的であったが、信長にとっては、それは単なる手段であったということ。国家のあり方という最終ビジョン(多分、信長以前や信長以降のような封建制ではなく専制君主制。また朝廷と武家政権という二重政権の終焉と権力の一本化)を明確に持ち、それに向けて周到に戦略を巡らし、時に大胆に、時に慎重にことを進めた信長は、稀代の思想家であり、戦略家であり、革命家であったとFさんは説く。

Fさんの書かれた長編小説「織田信長」を読み進むに連れて、彼の信長に、ご自身が目指された人物像、或いは、Fさん自身の思想を映し出そうとされたのではないかと、僕は感じて行った。

Fさんが言い出したことに、苦戦しながら僕等が何とか開発完了に辿り着くと、いつもFさんは、既にそのずっと先に行ってしまっているので、僕等は大慌てで追い付こうとした。丁度、桶狭間の戦いに単騎で向かう信長のあとを、手下達が必死に追い掛ける図のように。

最初に彼がポツリと言うことは、いつも突拍子もないこと。しかし、僕等もそのことを真面目に考え始めると、確かに荒唐無稽な話でもないなと感じるようになる。そして実際に作ってみると、立ちはだかる難問は沢山あっても最後は必ず完成まで辿り着く。

いつも僕は、普通の人に見えないものがFさんには見えている、と感じていた。僕等が開発真只中で大苦戦している時に限って、「今お前達が作ろうとしているものが完成したとしたら、そこにはどんな世界が現れるか?更にその延長線上ではどんな世界が可能になるか?」とFさんによく聞かれたものだ。今思えば、それこそが彼の思考法であり、現在からその先を誰よりも鋭く正確に見通す、彼の凄まじい洞察力の源泉だったように思う。

折角そういう質問で、Fさんが僕等を鍛えようとしてくれたのに、僕は苦戦の最中だから今はそれどころじゃないと思って、真面目に考えようともしなかった。自分の不明を今更ながら恥じる。

7月 22, 2008   No Comments

三鷹商店会夏祭り

我がオヤジ・バンドのギタリスト、斎藤さんのツテで、三鷹商店会主催の夏祭りに、何とオヤジ・バンド「Oh!爺sans」が「クーペ&Shifo」 抜きで呼ばれたのだ。7月19日(土)20日(日)の2日間のお祭りだ。僕等は2日目の14時から1時間の出演予定だ。

2週間前、主催者からバンド名を知らせるように行って来た時、「クーペ&Shifo」のバック・バンド名の「Oh!爺sans」(Shifoのバックの時だけは「年取った白雪姫と7人のジジイ達」)じゃ芸がないから、オヤジ・バンドが単独でやる時はもっと面白い名前にしようということになり、メンバー間で携帯メールが頻繁に行き駆った。

メンバーは7人。いろんな候補名が挙がった。「酔いどれセブン」「臼井ぬけるとシャインズ」「輝々(てるてる)セブン」「オージーシャインズ」などなど。

あまり説明は要しないと思う。1名を除いて皆髪の毛が(少)ない。飲み出すと本当に愉快になる仲間。激論の末「臼井光とオージーシャインズ」に決まった。

ところが、当日会場に行ってみると、プログラムには僕等の名前が「オージーシャインズ」となっていて、「臼井光」が消えていた。これは斎藤さんの知り合いの主催者側の人が、もし同姓同名の人が会場に来ていたら失礼になるから、と配慮した結果らしい。

僕等のバンド仲間は、髪の毛の(少)ないことすら、酒の肴にしてしまう。中でも突出している大森教授(ピアノ)とヨッ君(コンガ)はお互いはげ具合を自慢し合う仲。周りはそれを聞いていて「どっちもどっち。50け100け」などと囃し立てる。

そんな乗りで決めたバンド名だったが、世間一般ではそのことに触れるのはタブーだった。でも、大森先生やヨッ君のように笑い飛ばしてしまえば、寧ろそれが個性に変わるのにと思い、2人の偉さを改めて感じた次第。

さて演奏の方は、急遽Shifoが最後の方で数曲飛び入りのゲスト出演してくれたので、ステージ全体が数段レベルの高いものとなった。流石はプロ。彼女が歌い出すと一瞬で人々を引き付けてしまうのだから。

終了後の打ち上げで、Shifo が「今日のおじさん・バンド、とても上手かった」と言ってくれた。最初の8曲ほどはオヤジ・バンドだけで演奏した。それを彼女が客席で聴いてくれたのだ。バンド結成以来初めてShifo に褒められた。

なかなか上達しない僕のドラムについても、今日だけは「良かった」とのこと。ありがとう、バンマス。貴女(Shifo) に鍛えられたからこそ、ここまで来れたのですよ。今週末のライブ(於いてパルテノン多摩、1,500人規模)に向けて、しっかり練習しようっと。この年になっても、褒められると俄然やる気が出て来るから不思議だ。

7月 21, 2008   No Comments

織田信長

昨年の「Fさんを囲む会」のゴルフ旅行は蓼科だったが、その時、Fさんが自費で出版された本を、参加者一人一人にプレゼントして下さった。題名は「織田信長」。400頁に及ぶ大作だ。

僕等の知るF氏は、数学者で思想家、哲学者でプロデューサーだったから、本を書いていると聞いた時は、そういう分野の論文かと思っていた。それが歴史小説だったことに僕は先ずビックリした。

しかしながら、70歳を過ぎて、これだけの長編小説を書かれたFさんの意志の強さとバイタリティーには感服せざるを得なかった。そして、息子さんを亡くされたあと、自らを奮い立たせるように書かれたであろうFさんの鬼気迫る姿が想像される。

内容を読んで更に驚いた。それまでの信長像は、どちらかと言えば、群雄割拠の状況から勝ち上がり、遂に天下を取るかと思われた寸前で暗殺された戦国武将として描かれることが多かったと思う。それは、封建領主の雄としての信長だが、F氏の信長は、それとは大きく異なり、「唯一、国家概念を持って己の思想実現を目指した革命家」「大衆からは神に見えた信長」が描かれている。

信長は、各地で領地を巡る戦が多発し、これ程多くの人間が死に、これ程多くの民衆が苦しんでいるのに、それらの争いを抑えられず放置しているのは、力を失ったとは言え時の政府、足利幕府と朝廷の責任だと思っている。彼らが天下を治める能力がないなら、誰か力のある人間が彼らに代わって政権を担当し、一日も早くこの国を荒廃から救うべきであると考えていた。

信長は隣国美濃の斉藤氏を滅ぼした時、自分が国家運営に当たると誓い、密やかに宣言した。中国の故事(周の王が岐山から天下を臨む)に倣って「井ノ口」という場所を「岐阜」に改名したのがそれだ。

また、信長が掲げた「天下布武」は一般に「武力を持って天下を取る」という信長の決意と受け止められているが、本当は「武家の政権を以て天下を治める」という意味であり、平安期からこの国を曖昧にして来た二重政権、即ち、朝廷と武家政権という権力の重複を廃し、信長自らが唯一無二の最高権力者となって全責任をもってこの国を統一し、戦のない国を作るという信長のマニュフェストだった。

もし、信長が本能寺で暗殺されなければ、それ以前の時代から続き、後の徳川時代も変わらなかった封建制ではなく、絶対君主制を敷いた筈だ。何故なら、二重政権を終焉させ、国の統治体制を変えることが革命家信長の国家ビジョンだったのだから、とFさんは主張する。

この日本特有の長期に亘る二重政権の存在は、責任の曖昧性という世界的にも極めて異質なDNAを、現代の日本人にもたらしているとF氏が指摘している。

7月 19, 2008   No Comments

ゴルフ旅行

僕は、直ぐ下の部下であり仲間であり同僚のY君・H君と、Fさんを励まし、一緒に温泉にでも浸かってワイワイがやがややる、気分転換の旅行を計画した。

土日の一泊温泉旅行だが、土曜日は朝早く行ってゴルフをやったあと、旅館に入って大いに盛り上がろうという計画だ。行き先は山梨。車ではなく中央本線を列車で行く団体旅行の趣にした。

Fさんも、現役時代、そんなにゴルフはお好きでないのか、あまりやられなかったが、この時は僕等に付き合ってくれた。快晴。五月晴れ。スコアは兎も角、天候に恵まれ気持ち良かった。そして、本当に久し振りにFさんとご一緒出来たことが嬉しかった。

旅館に着くと、ゴルフをやらない人達も既に全員が揃っていた。Fさんの弟子達総勢12~13名が集まった。温泉に浸かったあと宴会。一人一人順番に近況報告などをしながら会を進めて行ったが、各人とも、Fさんに久方振りにお会い出来て嬉しかったこと、Fさんにはあの時大変お世話になったと思い出話は語っても、決してご子息のことには触れなかった。

途中からはあちこち勝手にお酌しながら話し始めたりで、とても収拾が付かない様相になったが、最後にFさんが挨拶された時は再び宴会場に静寂が訪れた。「今日は本当にありがとう。会社を辞めてから随分経つのに、こういう会に呼んで貰えるというのは、現役の皆さんには分からないだろうが本当に嬉しいものです」。

「そして、誰も言わないが、倅の死から早く立ち直れと言う皆さんの励ましの気持ちが痛い程伝わって来ます。あれから1年以上が経ち、我々夫婦もやっと彼の死を正面から受け止められるようになりました。皆さんにはまだまだ会社で頑張って貰わねばならないので、くれぐれも健康には留意して精進して欲しい」と締め括られた。

このゴルフ旅行がキッカケとなり、年一回の定例会にしようとの声が高まり、4~5月頃に毎年、Fさんを囲むゴルフ旅行が開催されるようになった。この会をずっと続けるためには、Fさんがいつまでもお元気でゴルフに参加して頂くことが必須条件だから、メンバーは全員、Fさんのご健勝を心から祈っている。

7月 17, 2008   No Comments

師匠のその後‐逆順‐

仕事と人生の師匠Fさんは、66歳でシステム子会社の社長を退任され、完全にリタイアされてからは、悠々自適の毎日を送っておられた。そんな穏やかな日々に最悪の事件が起こった。ご子息が会社で倒れられ、そのまま帰らぬ人となってしまったのだ。まだ30代半ばの若さだった。

ご子息のMさんは、僕等と関係の深いN社の社員で、人伝てにも将来を嘱望された優秀なSEと聞いていた。僕も仲人をお願いしたため、何回もお宅にお邪魔した関係で、Mさんを小学生の頃から良く知っていただけに、僕にとっても耐え難い悲しい出来事だった。Fさんや奥様のご心中は、察して余りある。

当然のように僕等弟子達は、取る物も取り敢えずお通夜に駆け付けた。葬儀はシステマティックに行われる一般の葬儀と違い、今は亡きご子息のMさんが大好きだったという「ビートルズ」の曲が次々にエレクトーン演奏される「音楽葬」だった。

Fさんも気丈に振舞われ、最後に挨拶をされた時もしっかりと話されたが、お開きとなり僕等がFさんに近付きお悔やみを言った時、「おお、君達か。仕事が忙しいのにわざわざ来てくれて、本当にありがとう・・・」と、そこまで仰るのが精一杯。Fさんの目から大粒の涙が堰を切ったように流れ落ちた。僕等の顔を見た瞬間、恰も、堪えていた悲しみが堰を切ったように。

お慰めする言葉さえ見付からない。僕等にとっては、厳父のように厳しく、少しでも手を抜くと落ちるカミナリの激しさは半端じゃなかったし、仕事をやり抜いた時は満面の笑みで喜んでくれた。喫茶店で僕等と話す時は本当に楽しそうに、音楽・スポーツ・芸術・科学・哲学・政治を時間も忘れて話してくれた。

Fさんの「喜」と「怒」と「楽」は、現役時代、沢山の場面を通じて知っていたが、この夜、初めてFさんの深い「哀」を見た。Fさんの涙を見て、僕は心が抉られるような痛さを覚えた。

逆順。子供に先立たれた親の言いようのない悲しみ。僕は思った。この世の中、不幸の数は限りなくあれど、子供を亡くした親の悲しみを超える悲しみはないと。

それから1年程経った頃、Fさんからお便りを貰った。「あれから随分と苦しみましたが、漸く最近、夫婦で普通に散歩が出来るくらいに快復して来ました」と書かれていた。それを読んだ僕は、「快復」という文字より「随分苦しみました」に目が行き、最愛のMさんを亡くされた悲しみの深さを改めて思い、目頭が熱くなった。

7月 16, 2008   No Comments

反省

前回のブログ「慰労会」が大不興だった。いつも読んでくれている先輩から、「いろいろな人がブログを書くけど、中でも一番つまらんのが自慢話だ。前回お前が書いたのは正にそれ」とお叱りを受けてしまった。

定年退職した後も取引先や協力会社が送別会をやってくれることを自慢したくて書いた訳では勿論ないが、読み手からすれば鼻持ちならない文章だったのだろう。先輩の指摘を受けて読み直してみた。

どう見ても自慢話じゃないか。会社同士より個人と個人の繋がりなどともっともらしく書いているが、どう見ても、退職後何社にも慰労会をやって貰える人って他にいる?とでも言っているよう。まさか辞めてから他社の方から送別会をやって頂けるとは思いもしなかった、それだけ嬉しかった、と素直に喜んでいる方が、まだ幾らか許せる。

先輩、ご指摘ありがとう。今後はその点充分心して書いて行きたいと思います。

反省しながら、嬉しかったことって、一般的に自慢話に受け止められかねないことに気が付いた。今ごろ。

以前、70歳を数年過ぎたFさん(僕の仕事上の師匠)を、温泉に招いて「Fさんを囲む会」を催した。参加者全員が久し振りにお元気なFさんと再会出来て、会は大変盛り上がった。会の最後にFさんが挨拶された。

「若い皆さんにはまだ分からないだろうけど、この年になって、こうして皆さんに声を掛けて貰い、ご一緒させて貰えるというのは本当に嬉しいものです」と言われた。僕はその時本当にFさんに来て頂いて良かったなぁと思った。

Fさんのこの言葉は、そこに集い、Fさんとの再会を楽しみにしていた者達にとっては、Fさんの喜びと感謝の気持ちの最高の表現と受け止められた。しかし、もし、このことをFさんが無関係な第三者に語ったとしたら、やはり、「俺は年を取っても人望があるんだ」と聞こえるだろう。

嬉しかったことを自慢話に聞こえないように書くには、文の才が要る。珍しく勉強しなければと思った。

7月 15, 2008   No Comments