プレミアムエイジ ジョインブログ
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Posts from — 1月 2009

還暦過ぎた同期会

先週、前の会社の同期入社の集まりがあった。男14名、女2名が集った。前の会社は、前後の年次は大勢入社したのに、僕等の年は丁度コンピュータ導入3年目で、かなり機械化が進むので極端に採用を絞った年だったようだ。男子は総勢24名しか入社しなかった。例年の3分の1だ。

だが、それだけ僕等は濃い関係が出来て、一人一人の人となりや入社後の経歴、出身地や大学、趣味、その他大体のことは分かっている。ただ、この24名の内1人だけは、もう20年以上も前に亡くなっているから、以来男23名の同期会だ。今日参加してくれてる女性の方は、一人は現役のIT企業のSE。もう1人は銀座で画廊を経営する画商。ともに既婚者。

普通、僕等の年になると同年代の様々な会、例えば同窓会の類では何人か直近で欠けていて、最初に、亡くなった某氏のために「黙祷!」から始まるケースが多いのだが、幸いそういう事態には至っていない。

そしてまだまだみんな元気だ。悠々自適、晴耕雨読の生活に入った羨ましい奴は、まだ23人中2~3人程度だ。今、第二の職場で働いている奴は、2年以内に何とか第3の職場に入って70歳まで働くんだと皆に宣言していた。

「何故そんなに働くのか?」という質問に「俺達の世代は、何せ元気でいなくちゃいけねえのよ。若い世代のお荷物にぁ、絶対になっちゃぁいけねえと思うのよ。それには働くことだね。働いている内は元気な証拠だから」と、とても分かり易い答。

「今の職場では70歳までは無理なの?」「そう。ま、それもあるけどね、俺ね、第二の職場に移った時さぁ、初めての仕事だから、何年か振りで一生懸命勉強したんだよね。そういう緊張感っていうのかなぁ、そういうのやってると何か充実感があるんだよね。だから、もう一度、新しい仕事にチャレンジ出来る年齢の内に変わりたいのよ」

凄い奴がいるもんだ。64~65歳くらいまでは、新しい仕事や職場にチャレンジ出来ると、本気で信じ、本気でそうしようと思っているところが凄い。彼を見ていると働くことが生きることに思える。

「人生を楽しむと言うのかな、働いてばかりで、君の楽しみって何?」と聞いてみた。「こうやってみんなの元気な姿をたまに見ること。たまに平日ゴルフをやること。職場の連中と馬鹿話すること。俺さ叔母さん達に人気あってね、彼女達とくっちゃべってると元気貰えるんだよね」

なんか、すっきりしちゃったよ、彼の言うことを聞いてたら。「人生に悩め、その複雑さにもっと苦しめ、そして最後は、シンプルに生きよ」。誰の言葉だったかなぁ。まぁ、誰でもいいや。これからの人生、単純が一番!

1月 29, 2009   No Comments

青春賦(1)

60年安保闘争のデモの模様は、テレビを見て知っていた。樺美智子さんの死は衝撃的な事件だった。新聞を食い入るように読んだ。デモ隊と機動隊の衝突の中で起きた痛ましい事故だったらしい。

僕は中学生だったが、どうも日本がアメリカと同盟を結ぶことに大学生達が猛反対しているらしいことは分かった。その理由までは良く分からない。でも、樺美智子さんが死んだことで、意味もなく学生たちのデモに味方するようになっていた。

しかし、国内世論を二分した大騒乱も、岸内閣は倒れたが、日米安保条約は成立してしまった。「岸を倒せ!安保反対!」のデモは、半分だけ目的を達したのだと僕は思った。

大学生になった。先輩が言う。「米帝国主義は諸悪の根源だ。70年の安保改正の時には、政府に是が非でもアメリカと手を切らせなければならない。だから、その時に向けて学生は団結しなければならない!」と。

僕は小学校高学年、中学、高校とテレビ・映画・音楽全てにおいてアメリカが憧れだった。幼い日は「名犬ラッシー」「ララミー牧場」、その後は「アンタッチャブル」「ベンケーシー」などのテレビ番組は欠かさず見ていた。

ジョンウェインの西部劇や、ジェームスディーンの「エデンの東」「理由なき抵抗」。ユルブリンナーの「王様と私」「荒野の7人」などは我を忘れて見たものだ。

歌は、プレスリー、ポールアンカ、ニールセダカに、コニ―フランシス。音楽映画は、「グレンミラー物語」「ベニーグッドマン物語」「5つの銅貨」。ジャズは、デキシー、スウィング、モダン・ジャズ。

大リーグの野球では、ベーブルース、ミッキーマントル、ゲーリック。テレビ放送など無いから、伝え聞く彼等の姿が僕の中では超巨大化してた。

正に文化の先進国、豊さの象徴、僕等少年達の憧れの的アメリカ。その国が諸悪の根源と言われても、即座には同意しかねる。確かにベトナム戦争を拡大させているアメリカは良くないけど、直接僕がアメリカに痛い目に会わされた訳でもないから、先輩が言うように、アメリカを目の敵になんか出来そうにない。僕が鈍いのか、先輩が賢いのか。

先輩も確か2歳年上だから、まさか親父達のような「今度アメリカと戦う時は、必ずやっつけてやる」という気分が残っている訳じゃないんだろうけど、彼の真意が僕には分からなかった。

結局、先輩の誘いを拒んだ形になってしまった。

1月 19, 2009   No Comments

安田講堂落城

丁度40年前の今ごろ、テレビは四六時中、東大安田講堂に立てこもる学生が屋上から石や火炎瓶を投げ、これに対して、機動隊が下から消防ポンプで放水する場面をずっと放送していた。

その同じ場面を40年後のついさっき、NHKテレビで見た。番組はあの時の学生のその後を追う番組だった。逮捕され投獄され、それでも釈放後東大を卒業して医者になった者、弁護士になった者、成田三理塚闘争に闘いの場を移して行った者。様々な人生が語られていた。

あの闘争は一体何だったのか?彼等にこの質問が投げ掛けられる。ある人はこの世に生を受けて、親や学校の敷いたレールの上を進んできたが、初めて自分が大きな問題に直面し、初めて自分の頭で考え自分の意思で行動した出来事だった、と言った。

またある人は、ここで逃げ出してしまったら、多分、後々自分自身を厭になると思うから、安田講堂が陥落する最後の最後まで留まった。そのことも、東大を中退したことも後悔はしていない、と言い切った。

10年前にNHKが取材した時のフィルムに、諏訪中央病院のある医師Aさんのインタビューが残されていた。彼は当時医学部の学生で東大全共闘の中では防衛隊長として、安田講堂の攻防を指揮していた人物だ。やはり逮捕投獄されたが、獄中にあって彼は、将来地域医療に従事したいという希望を捨てず、外科が専門にも拘わらず、地域医療には内科の知識が欠かせないと、猛勉強をしている。

インタビューはAさんが既に諏訪中央病院の院長になっていた時のものだが、学生運動と今の仕事の関係について聞かれると、苦渋に満ちた返答をしていたのが印象的だった。「僕は東大というだけで、権威やある種の力を与えられるような世界を否定したのに、今こうして仕事をしていると、世間は東大出ということを必要以上に持ち上げてくれる。

ならば、医者を辞めろと言うことなんだろうけど、それは出来ない・・・」。

残念ながら彼は8年前癌で他界してしまったが、最後は国会議員だった。彼の行なった数々の地域医療の改革や病院の改革は、同僚の医者や患者から絶大な支持を受けていた。

学生側のリーダーは、東大全共闘議長山本義孝。何度も当時の彼のアジ演説の場面は映るが、彼だけその後の自分を語る場面がない。多分取材を拒否したのだろう。或いはもうこの世にいないのか。

が、最後の最後に画面に映った。8年前のAさんの葬儀で山本が弔辞を読み上げる場面だった。「A君、ある人達は君を国会議員として覚えているだろう。またある人達は病院の院長として覚えているだろう。しかし僕には今でも東大全共闘防衛隊長のA君だ!」。

40年前のあの日、僕は下宿のテレビに釘付けだった。少なからず後ろめたさを感じながら。同い年の彼等が大きな権力と今まさに戦っている。自分は2ヶ月半後には大きな会社に入る・・・。

1月 17, 2009   No Comments

会社人間の心

何者からも拘束されず、強制もされず、24時間全てが自分の意思で過ごせた学生時代。唯一の圧迫はお金。親からの仕送りは10日持たない。学生アルバイトなんて時間の割に金にならない。前月分を貰っても精々10日分の生活費だ。残りの10日がいつも大変。

下宿で3食、日新のチキンラーメン、卵無し。友達と仲良くよく食った。街を歩いていても、通りに面してたレストランの料理の見本によだれが垂れる。高校の時54kgあった体重が47kg。無駄な脂肪はどこにもない。スマートだった。

いよいよ、就職。会社員になると言うことは、僕の中では、学生時代の真逆を行くということ。つまり、サラリーを貰って食事にあり付ける代わりに、上司に四六時中様々な指示命令を受けるということ。

だから、学生生活をお終いにして、統制社会に入って行くには、それはそれは大変な覚悟が要った。当時のヒット曲はビートルズの「ハロー・グッドバイ」。一旦会社に入っても続けて行く自信はまるで無い・・・「ハロー・グッドバイ」。

そう自分自身を予測しながら会社生活がスタートした。配属先はコンピューター部門。これが良かったのだろう。会社にコンピューターが導入されてまだ2~3年。全員がコンピューター・サークルの部員のよう。みんなで勉強しながら試行錯誤。大学で言えばサブ・ゼミ(教授のいない学生だけの自主ゼミ)のような雰囲気だ。

完全なるタテ社会、上下の厳しい掟、というイメージからは程遠い。これなら僕にも務まりそう。食事の方は、会社の寮に入れて貰ったお蔭で朝晩はしっかり食べられるし、誠に旨い。夏には僕の体重が57kgを越えていた。「寮の不味い食事で、数か月で10kgも太った奴はお前が初めてだ」と先輩にからかわれたものだ。正直言って、僕には本当に美味しい食事だったんだ。

同期入社の連中とも良く遊んだ。1~2年くらいは学生気分のまま旅行に飲み会に。ところが3年目位から、考査(勤務評定)によって、少しずつ給料に差が出始めた。ああ、これが会社なんだと実感する。7~8年経つと係長になる奴なれない奴。そんなことが学生時代の友人関係とは異なる、ある種のわだかまりを生む。

そういうことは長い時間掛けて、本人の実力以上にいろんな部門での向き不向きや運不運が大きい要素なんだと思えるようになり、また、本当に凄い奴は凄いと認めることが出来るようになって、やっとそのわだかまりを越えて行くものだが、若い内はなかなか・・・。

1月 13, 2009   No Comments

若き心

人生60年もやっていると、人の心の御し難さを何度も痛感する。まずは高校生の頃の自分の心の御し難さを知るのが初め。

確たるものを持たない自分に悩み、友人の何と逞しいことかを思い知り、小さい自分は、このまま消えてなくなるのではないかと本当に思ったものだ。女子に息苦しさを覚え、先生の無神経な言葉に怒りを覚え、大人達の勝手な論理に断絶を決め込んだ。

勉強が出来るってそんなに大事なこと?受験勉強はそんなに大事なこと?いい大学に入るのってそんなに大事なこと?いい会社に入るのってそんなに大事なこと?偉くなるってそんなに大事なこと?それでその先はどうなるの?それで最後はどうなるの?

誰も答えてくれない。そんなことより、2度と帰らぬ17歳の今の方がよっぽど大事だよ!

大学時代。もう何かに追い立てられるような脅迫観念はない。綺麗さっぱり解放された。その途端に自分は何をやりたいのか、何もない。友達は生き生きといろんな活動に散って行ったのに。先輩がやって来て、70年安保闘争に向けて学生は結集しなければいけないと言う。「何故?」と小さな声で聞く。「米帝国主義を打倒し、日本の独立を勝ち取る」ためだと言う。

僕の聞きたいのは「何故貴方は、そういう活動にのめり込めるのか?」ってこと。通じなかった。「ノンポリが最も悪い」と非難された。誰にも迷惑も掛けず、何も悪いことしてないのに、それが一番の悪だという。

僕は経済学部の学生。世はマルクス経済学全盛期だ。教室内はマルクス、マルクス、マルクス・・・。教室を出れば「マルクス・レーニン主義万歳、革命必至」のタテ看。マルクスを読んでみた。だけど、今日のメシ代をどうしようか、が最大の関心事の我が身には、マルクス経済学もマルクス・レーニン主義も、何の意味もない。

だけど、心のどこかでは、マルクスに一生懸命になれている奴らが羨ましい。親友に誘われ「校舎の移転反対」の街頭デモに参加してみた。「どうして反対するんだ?」。学長を取り囲んだ全体集会。学長が移転理由をマイクで説明している。「ナンセンス!」「白紙撤回!」の怒涛の声に学長の声が消される。良く分からない。

「俺は一体何をしたいんだ?」「俺には一体何があるんだ?」「俺は一体何者なんだ?」

1月 12, 2009   No Comments

マネーゲーム

子供から大人になるに従って、心も体も大きく豊かになって行くことと、悪いことを覚えて徐々に心が貧しくなって行くこととどちらが勝っているのだろうか?

子供の頃、正月に貰った「お年玉」はかけがえのない大切なものだった。欲しい物があっても、「お年玉」が減ったり無くなったりするのが嫌で、暫くは手元に大事にとっておいて、ようよう我慢出来なくなった時に、大決断の上でそれを買いに行ったものだ。

勿論、その「お年玉」では足りなくて買えない時もあった。そんな時は泣きたいほどの無念さを胸に家に帰った。親が「どうしたの?」と聞いても、「何でもない」と言って強がってみせたりした。家が貧乏なのは分かっているから、「お年玉」の追加などとても親に言い出せなかった。

子供なのに、自分が持っているお金の範囲内でしか物は買えないと言うことをちゃんと知っていた訳だ。

だけど、大人の世界では足りない分は他から借りて買うことが出来てしまう。その人の信用が高ければ他から借りなくても、後で必ず払ってくれるのを知っているから売ってくれる。便利なものだ。大人の知恵だな。この有難い金貸しのことを「金融」と言うらしい。金(きん)を融(と)かす、と書くけど、違うよ、金(かね)を融通することだよ。

一時しのぎや急場しのぎのためにお金を借りて用を済ませるのは、買った物の支払いを後払いにするというだけだから、支払い余力の範囲内と言えるだろうね。特に問題はない。だけど、買ったものを買った時より高く転売し、借金を返した上に儲けまで出せることを知り一度味をしめると、金儲けのために金を借りて物を買ったり、信用買いを重ねる人が急増する。

この時の「物」が、現代では、貴金属だったり、絵画だったり、土地だったり、株であったりする。今じゃお金そのものが売り買いの対象だ。

こうなると、お金は何か必要な物を買うためのものというより、金儲けの道具と化す。マネーゲームの登場だ。「金融」を編み出した大人の知恵は、良いこと(光)ばかりではなく、もっと深く広い影を持つ。

一時お金を用立てて人々の経済活動を円滑化する光の機能より、やがて、マネーゲームのプレーヤーにどしどし金を貸し、「金融業」自身も、より儲かる影の方を選択するようになる。最後は自らが、有り余るお金を使ってマネーゲームのプレーヤーとなり参戦する。

経済は、物やサービスがどれだけ買われたかという金の回り方で好不調を図るらしいが、マネーゲームによる金の回り方は一体全体、経済(経国済民)と言えるのかどうか。

実体経済という言葉がある。これを子供の「お年玉」感覚の経済とすれば、現代社会はその何倍もの虚体経済(虚像経済)が構成されてしまっていると言うことだろうか。今回はそのマネーゲーム経済が、サブプライム・ローン問題をきっかけに、一気に世界同時崩壊に至ったということらしい。

ゆっくり歩いている時に転んでも、大した怪我もせずに直ぐ立ち上がって歩ける。だが、全速力で走っていて転ぶと大怪我をする。マネーゲーム経済は、ゆっくり着実に歩む実体経済の何倍ものスピードで経済全体を加速させるので、マネーゲーム経済が躓くと、誠に腹立たしいことに、実体経済も深刻な危機に巻き込まれる。

1月 8, 2009   No Comments

兵庫の旅番外編(2)

僕の間違いは、「更科(さらしな)そば」は白いからきっと小麦粉が多いのだろうと勝手に理解していたことだ。

僕の中では「戸隠そば」が一番だったから、茶色くない蕎麦は蕎麦じゃないと思っていたのだ(「戸隠そば」は殻まで挽いちゃうから少し茶色い)。

そういう具合だから、東京に出て来てのち、「藪そば」や「更科そば」という店に良く入ったが、どうもあの白い「更科そば」は好きになれなかった。本物ではないまがい物を、高い金出して食べさせられている気分がしたのだ。

「更科そば」屋さん、どうも失礼しました。高級蕎麦のチャンピオンを偽物扱いしたこの信州人をどうかお許し下さい。

ついでに、僕が長じて長野県「更級郡」の文字を「更科郡」と勘違いしていたことも告白しておこう。「更科そば」の影響かどうかは知らないけど・・・。

因みに平安時代に書かれたという「更級日記」の更級は、『古今和歌集』の一首「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」に由来するらしい。

姨捨山(おばすてやま)は現長野県千曲市にあり、昔はこの地を信州更級郡と呼んだ。姨捨山は日本各地にある棄老伝説では最も古いそうだが、それよりも、夜空に輝く月とそれを映す田んぼの月が素晴らしく、平安貴族の憧れの地となって行ったようだ。

出石では、勿論、「出石そば」(いずしそば)を食べた。信州蕎麦がルーツと言うが、食べ方は随分異なる。信州蕎麦は薬味を入れたそばつゆに蕎麦をひたして食べるあっさりしたものだが、出石蕎麦の一般的な食べ方は、そばつゆの代わりにすりおろした山芋に卵を落として食べる。関東で言う「とろろそば」風だが、それはそれで、やはり美味かった。

さてもう一つの番外編。出石には、あの沢庵和尚の寺があった。宗鏡寺(すきょうじ)という。宮本武蔵の物語に頻繁に顔を出す坊主で、沢庵を発明した人だ。寺の裏庭は、山に向かう斜面になっていて、斜面中腹に沢庵和尚が余生を送ったと言われる庵が建っていた。その手前には和尚お手植えの椿が今もしっかり生息している。和尚はその椿を「侘助」(わびすけ)と名付けた。

どこかで聞いた名前だなと思った。「ああ、そうか。koyoさん家の犬の名前だ」と思い出した。流石はkoyoさん。犬にもちゃんと高尚な名前を付けていた。koyoさんという人は、僕より5~6歳年長で、「クーペ&Shifo」の後援会長をやってくれている地元の大地主さんだ。

1月 8, 2009   No Comments

兵庫の旅番外編(1)

今回の旅の2日目。僕等団体ツアーは姫路城を見学した後、バスで兵庫県の北、但馬地方の出石(いずし)を目指した。

この地は「出石そば」で有名らしい。蕎麦は元来寒い地域の、それも瘠せた土地の特産品だ。そういう所では何とか栽培出来るのは蕎麦くらいなものだから、蕎麦どころは北国に多い。一般に名古屋以西の温暖の地では、蕎麦よりも「うどん」が美味しい地域なのに、何故この地で蕎麦が有名になったのか。

バスガイドが説明してくれた。江戸時代に、信州の千石氏が出石に移封された時、蕎麦が大好きだった殿様が、信州から大勢の蕎麦職人を引き連れて行ったことが始まりだという。

僕は、長野出身だ。長野市からバスで1時間ほど行くと、戸隠山がある。その麓はキャンプ場ややす宿が沢山あったので、高校の頃は良くサークルの合宿に使ったり、仲間とキャンプして過ごしたりした思い出の地だ。

その戸隠で初めて食べた蕎麦が、育ち盛りでいつも腹を空かしていた高校生にはこの世の物かと思える程美味しく、一気に何皿も食べた記憶がある。

子供の頃は、蕎麦なんて旨くも何ともない大人の食い物程度にしか思っていなかったが、蕎麦ってこんなに旨いものだったのかと驚きをもって再認識した瞬間だった。以来、45年、僕の蕎麦好きは不変だ。

蕎麦と言えば、恥ずかしながら「更科そば」の意味を最近まで知らなかった。信州出身なのに・・・。

信州更級(さらしな)出身の布屋太兵衛が保科家の勧めで江戸麻布に蕎麦屋を開いたのが始まりで、「更科(さらしな)」は、蕎麦の産地である信州更級の「更」と保科家の「科」の文字を組み合わせたものという。

そしてこの蕎麦の最大の特長は、精製度の高い(蕎麦の実の真ん中の白い部分だけを精製)蕎麦粉(これを更科粉という)を使った白くて歯応えのある高級感溢れる蕎麦だと言うことだ。

それを知るまで僕は、何とこの白い「更科そば」を、そば粉の少ない信州そばの「マガイもん」と思い込んでいたのだった。

1月 6, 2009   No Comments

新年に想う

昨年まで、会社の始まる前日には、心静かにして、明日の新年祝賀式で社員に話す内容を纏めていた。これは、云わば私の願う会社業務の一年の計だった。

そんなことを過去7回も続けて来た。そういうことを毎年やって、聞く側に取って少しでも何かしらの意味があったのかどうか。全員静かに聞いてくれてはいたが、共感してくれていたかどうかは別問題だからだ。

ただ、僕自身にとっては、祝賀式の前日に頭の中を整理して、何を柱に据え、どういう一年後の姿を目指して新年に臨むべきか、そのイメージをはっきりさせるのに、とても良い習慣だったとは思う。

今年はもうそんな必要もなくなったのだが、長年の癖で、5日の初日を控えて何か考えている自分がいる。いつもとは違う個人的な一年の計を立てている。が、こればっかりは皆さんには無関係な完全なる私的世界のことであることを断っておく。

【一年の計】

1.この世に生を受けてまだ2か月の保険会社を、何とか生き残って行けるよう愛情を注ぎ込み、1年後、元気に社会に根付いている姿を実現する

2.僕が応援している音楽ユニットが、12月末のNHK紅白歌合戦に出場を要請されるように、ありとあらゆる作戦を推進する

3.ドラムは高度なテクニックは追わず(土台無理)、正確なリズムで共演者から信頼されるドラマーとなる

4.常にラウンド100を切り、18ホール中最低1ホールはプロをも凌ぐ素晴らしいプレーのホールを作る(ひとつ出来れば、あとは単にその18倍)

1月 4, 2009   No Comments