プレミアムエイジ ジョインブログ
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Posts from — 2月 2009

ライブ・ウィーク

2月19日の埼玉ライブに引き続き、21日には新宿文化センターでライブ・コンサートを行った。「クーペ&Shifo」と一緒に演奏する「おじさんバンド」は全部で7人。Shifoとおじさんバンドが演奏する時の名前は「年取った白雪姫と7人のジジイ達」となる。

だが、皆、仕事を持っているから、実は全員が揃うことは稀なのだ。19日の埼玉ライブでも、クラリネットの松チャンが仕事が忙しくて参加出来なかった。彼は公認会計士だから、今、一年で一番忙しい時期だ。21日も欠席なのは仕方ない。

市役所に勤める斉藤さんも、問題が発生し21日は急遽欠席となってしまった。斉藤さんのパートはギターとボーカルなので、曲のリードを取れるクラリネットとボーカルがいないのは、おじさんバンドにとって痛手なのだが、そこはShifoの歌を中心にして無事何曲か演奏して乗り切った。

僕が大変だったのは、クーペの40年来のお友達である、高岡建治(歌手・俳優・プロゴルファー)の歌のバックをやったことだ。大森教授のピアノ、Shifoのシンセ・ベース、それに僕のドラムの3人で高岡建治のバックバンドをやったのだが、それが決まったのが直前のリハーサルの時だったから、凄く緊張した。

大森教授は、30歳まで銀座を中心にプロのジャズ・ピアニストとして活躍していた人だし、Shifoは勿論プロだ。だけど僕はアマチュアもいいとこ。普通アマチュアは演奏する曲目は本番のライブまで少なくても10回以上、音合せと練習をして臨む。そうでないと自信が持てなくてミスったりあがったり、滅茶苦茶になるからだ。

だが、今回はぶっつけ本番。それもプロ歌手のバック。一曲目、「サニーサイド・オブ・ストリート」。僕はShifoと大森先生を交互に見ながら、慎重にスィングのリズムを刻んだ。それにしても高岡建治は上手い。さすがだ。そして無事終了。高岡氏はその後10分ほど、クーペとの昔話や自信のデビュー当時の話を中心にトークで盛り上げてくれた。

だが、僕はドラム位置に張り付きながらも、それを聞いている余裕がない。次の曲「マイ・ウェイ」が難しいからだ。知らない人はいない有名な曲で、且つ、ゆっくりなバラード。実はこのスローな8ビートというのが、アマチュア・ドラマーには鬼門なのだ。それをぶっつけ本番で、大勢の客の前でやるアマチュアはまずいないだろう。

僕の緊張もピークに達しながらの「マイ・ウェイ」。フランク・シナトラの晩年の名曲。日本語に訳され、日本で初めて歌ったのは、布施明ではなくて高岡建治だったそうだ。でも、残念ながら布施明のヒット曲になってしまったとはご本人の弁。

途中まではノー・ミス、と思う。いやね、自分のこと。それまでハイハット・シンバルで8ビートを刻んでいたが、サビに入り、ライド・シンバルに変えた。その時急にShifoの左手がリズムを取り始めた。僕のリズムが遅れ気味になっていると告げているのだ。

自分では分からなかっただけに、冷や汗が出た。但し、顔はポーカー・フェイス。何とかShifoの左手に合わせて最終盤に。全ての音をブレークして、高岡氏が声を張り上げる最大の山場。「・・・I did it My Way!」。

本当は僕だけブレークしないでバスタムをスティックでローリングして盛り上げるところなのに、完全に忘れて一緒にブレークしてしまった。気が付いた時はもう手遅れ。それでも最後の「Way!」で思いっ切りシンバルを叩きエンディングは決めることが出来た。ハラハラ・ドキドキ・冷や汗混じり。

2月 26, 2009   No Comments

青春賦(5)

結局、材木店のアルバイトは、最初の仕事に要した3日間で辞めさせて貰った。真夏の力仕事は本当にきつかったのも勿論だが、力の入れ過ぎで3日目にとうとう鼻血を出してしまったからだ。店主や従業員は声に出しこそしなかったが、「いい若者が、だらしねえ」と顔に書いてあるようだった。情けなかったが背に腹は代えられない。

3日だけのバイト代4,500円では、ドラムセット購入代70,000円の頭金にもならない。再びバイト先を探したが、当時の田舎町ではそうそう見付からない。いや、バイト口が元々そう多くない上に、地元の大学生が夏休み前に大体バイト口を埋めてしまっているのだ。

そうこうしている内に、親父の伝で地元電力会社の事務所のアルバイトにあり付くことが出来た。封筒の宛名書き、伝票集計の検算、一覧表作り、転記、等など庶務・事務の補助みたいなバイトだった。

これは材木店の炎天下の重労働と違い、凄く快適な事務室での軽作業だ。その上僕より3~4歳年上の美人で優しい女性事務員が親切に僕の面倒を見てくれた。正に天国と地獄の違いを実感した。いいバイト先を見付けてくれた親父には感謝した。バイト代は材木店より安かったが、こちらは夏休みが終わるまで続けられたので、ドラムセットを買うには充分な額が手に入った。

夏休みも終わり、僕は仙台に舞い戻った。例によってバンド・メンバー全員が学食に集まった。各自アルバイトの戦果報告。僕より多く稼いだ者、少ない者まちまちだったが、各自の楽器やアンプは全て自分のお金で賄えそうなので、メンバー間の融通はやめて、個人個人で調達することにした。

この段階で当然の問題が現実になった。練習場所と楽器置き場をどうするかという問題が。勝手にバンドを作るのはいいが場所がない。特にドラムセットなんて下宿に置く訳にも行かず困った。大きなギター・アンプも同様だ。誰かれとなく「やはり大学の軽音(軽音楽部)に入って、部室を使わせて貰わなきゃならないかな?」と思い始めた。

「軽音に入っても、自分達で勝手に作ったバンドを何とか認めて貰えないかなぁ」
僕が言った。
「軽音に幾つもバンドがあるってことは、みんな最初はサ、きっと勝手に立ち上げたバンドだよね」
Aが言う。

当ってみる価値はあるという意見で一致。軽音の部長は地元出身のS(リード・ギター担当)の高校の先輩だということが分かっていたので、彼を交渉役にすると同時にバンマスに選んでその日のミーティングを終えた。

翌週、Sから報告があり、軽音の部長は何処かに行っていて、大学に戻るのは1週間後なので、それからしか連絡が取れないということだった。ついでにOとNは昨日エレキ・ギター、エレキ・ベースを夫々買ったと言う。Sは前からエレキ・ギターを持っていたし、Aもサックスは高校時代のものを今も所有しているから、その時点で、楽器がないのは僕のドラムだけとなった。但し、ギター・アンプも置き場所が問題だから、軽音部との交渉後の購入になる。

買ったばかりの楽器は直ぐやってみたくなるのが心情。明日にでも早速、Oの家に行ってギターをステレオ・アンプに繋いで演奏してみようということになった。Oの父親は地元企業の社長さんで家は相当広いらしい。だけど、僕はドラムがないし、どうしようかなと迷った。でも、これが我がバンドの初練習という記念日になるのなら、やっぱり付き合うべきだな。

2月 24, 2009   No Comments

埼玉ライブ

2月19日、埼玉IOI倶楽部主催のチャリティー・コンサートに出演した。実はこのコンサート、「クーペ&Shifoの50歳過ぎたら聞きたいライブ」という題名で毎年開催され、今回で4回目を数える。

会場は、これまた4年連続、埼玉県の誇る凄いホールである。演出家の蜷川幸雄が芸術監督を務める、あの「彩の国さいたま芸術劇場」である。これまで僕もクーペ達と一緒に、いろんな場所で演奏させて貰ったから、ホールの良さというものが段々分かって来た。

それは、見映えや豪華さ、或いは、有名なホールか否かというより、同じ楽器が凄く良い音になるホールがあるのだ。NHKホールもそうだった。このさいたま芸術劇場もそう。いつものドラム・セットが、太鼓もシンバルも最高級品のような音になるのだから。

もう、それだけで僕みたいなアマチュアは、気持ちが良くなって心のノリが全く違って来るから、旨く聞こえるらしい。いつも一緒に行動している、「クーペ&Shifo」のプロ側バックバンドのドラマーの鶴見さんから珍しく褒められた。

それと、過去3回は350人の会場の6~7割程度の観客動員率だったと記憶しているが、今回は初めて満席となったことが嬉しかった。4年連続ともなると口コミでここまで広がり根付くものなのだ。

そもそも、3年と一寸前、会社の埼玉本部長だったJSが僕に何気なく漏らした言葉がことの始まりだった。

「埼玉IOI倶楽部で今度さ、バイオリンのクラシック・コンサートをチャリティーという形でやろうと思ったの。プロのバイオリンニストも抑えたんだけどね、皆に意見聞いたら、クラシックなんて人が集まらないし柄じゃないって否決されちゃったのよ」
「へえ、JSがクラシックをねぇ。やっぱり無理あるねぇ」と僕。
「ジャズでも何でも良いから、どっかさぁ、そんなに高くないバンド知らない?」
「おう、それにピッタリなバンド知ってるよ」
「ホント?助かるよ。神童さん全部任せるから、それを引っ張り出してよ」
「分かった。そのバンドで俺もドラムやってるけど一緒に出て良い?」
「ええ?神童さん、ドラマーだったの?嘘でしょ」

偶然のこんなやり取りから始まった埼玉ライブだった。初回は、兎に角大変だった。というのも、コンサートが2ヵ月後に迫った頃、クーペが脳梗塞で倒れ入院してしまったのだ。それでもJSは僕に「任せた」という態度を貫いたのは大したものだった。主催者JS本人は「クーペ&Shifo」のステージを一度も見てないし、歌も聴いたことがないにも拘わらず。

最低でも4ヶ月の入院と言われているのに、クーペは2ヶ月経ったところで医者の制止を振り切って強行退院。その1週間後にはこの「さいたま芸術劇場」のステージに立っていた。僕はクーペのプロ根性をそこに見た気がしたのと同時に、JSから全てを任されていた僕の立場を知るクーペの、命懸けの気遣いに感動し心から感謝した。

そんな思い出の詰まった場所での4回目のコンサートだったから、ホールの素晴らしさと相まって、気持ち良く演奏出来ない訳がなかった。そして、僕が今手伝っている新設保険会社の保険を、埼玉で大量に販売してくれた代理店さんに会場でお会いすることが出来たのも、正にこのコンサートのお蔭である。

2月 23, 2009   No Comments

青春賦(4)

バンド・メンバーを募集すると言っても、僕には当てがない。どうしたものかと思っていたら、地元出身のSが直ぐに2人を連れて現れた。背が高い方がO君、僕と同じくらいの背格好はA君。

Oはサイド・ギター担当、Aは何とサックスとキーボードをやると言う。Oはベンチャーズに憧れてエレキ・ギターをどうしてもやりたいと言うが、ギターそのものは全くの初心者だ。それに引き換え、Aのサックスは中学・高校通じて吹奏楽部で相当鍛えた腕前のようだった。

何は兎も角5人揃った。とは言え、僕にはドラム・セットなど直ぐに買えるお金もない。OもNもエレキ・ベースを持っていないのは同じだ。既に自分の楽器を所有しているのはSとAだけだ。但し、Aもキーボードの方は持っていない。

そろそろ夏休みに入る。みんな夫々、夏休みにバイトで稼いで必要な楽器やギター・アンプを買おうということになった。

僕は夏休み、故郷の長野に戻ってバイトを探した。なかなか見付からない。そうこうしている内に、友達が今自分のやっている材木店のバイトを引き継がないか、と言って来た。本人はサークルの合宿が始まってしまうので、僕に回してくれるという。

朝8時半、僕は喜んでその材木店に行った。

「おはようございます。神童といいます。某君の代わりに来ました。今日からアルバイトさせて頂きたいのですが・・・」
小さな材木店だ。店全体で従業員は2~3人しかいないようだ。
「ああ、彼から聞いてるよ。宜しく頼みますよ」
店主らしき人が言った。

早速、仕事が与えられた。僕は勝手に店内の事務か何かの整理かなと想像していたが、肉体労働だった。沢山の材木(丸太)が並べられている倉庫で、直径30cm未満の物を分別してそれを別の場所に運ぶのが、当面の仕事みたいだ。

太いのは周囲1mもあるので、軽い方を別の場所に運ぶということだから少しホッとした。が、それは甘かった。細い方は太い木の斜め下敷きになっていたりする。だから太い木の端まで行って持ち上げてずらし、今度は逆の端まで行って同じように持ち上げてずらしてやっとこさ目的の木材を持ち上げることが出来る。と思うのはもっと甘かった。

太い木の片側を持ち上げるのも相当力が要ったけど、細い木は全部を持ち上げて担がないといけない。その上、長さが4mほどもあろうか、バランスが難しい。ふらつきながらも何とか最初の木材を指定の場所まで運んだ。

身体を苛め抜いて鍛えたのは中学の野球部までで、高校3年間は軟弱な文化系サークルだったから、幾ら18歳の若者とは言え、こういう肉体労働は本当にきつかった。更に真夏の太陽が倉庫内を蒸し風呂にしている。午前中だけで何本の木を運べただろう。多分20本にも届いていなかったのではないか。

母親に用意して貰った弁当が旨かったのなんのって。午後は、少しは慣れて午前中よりも多く裁けた、と自分では思うのだが、5時ごろ店主がやって来て、「あれ、まだ終わってないね。じゃ明日残りをやってくれる?今日はもう帰っていいよ」と言った。

え!?今日中に全部やれということだったの?そういう目で見れば進捗はまだ3分の1にも満たない。とてもじゃないけど明日1日掛けても終わらないよ~。まあ、今日は帰れと言うから帰るけど、なんか気が重いなぁ。

夕食の時、僕は疲れ過ぎて食事しながらウトウトしてしまった。気が付いてまた食べてはウトウト。その夜は濡れ雑巾のように朝まで深い眠りに落ちた。

2月 20, 2009   No Comments

彼我の差

麻生太郎氏が首相になったのは昨年の9月24日。バラク・オバマ氏が大統領に就任したのは先月の1月20日。両者に共通しているのは、就任後最初の政策が景気対策だったことだ。

麻生首相の対策は、2兆円の定額給付金を含む12兆円の景気対策。対するオバマ大統領の方は、72兆円(7870億ドル)の大型景気対策だ。オバマ・プランを大型とは言ったが、評論家に言わせればこんな規模では焼け石に水、一桁違うという声も圧倒的に多い。

麻生プランはその6分の1だ。そして、散々1人12,000円の定額給付金が世論に叩かれたにも拘わらず、頑固に変えず、金持ちは辞退しろの、金持ちも受け取れの、どうでもいい方の答弁はクルクル変った。

内容の良し悪し、景気対策上効果有り無し、景気対策規模の適不適には敢えて触れまい。だが、どうしても見えてしまう彼我の差は如何ともし難い。

議会を通過したオバマ・プランは、2月17日、オバマ大統領の調印を経て正式に成立した。大統領就任から29日目の速さだった。麻生プランは?未だに成立もしていない。首相就任から5ヶ月にもなろうとするのに。

このスピード感の違いを指摘せざるを得ない。言いたくないけど、これが日本の現状。政治の現状。現在の金融危機、否、経済危機、否、世界恐慌に対する危機感と緊張感がここまで違うかと慄然とする(中川某氏には触れたくもない)。

しかし、敢えて麻生さんに同情的に考えてみた。それは、日本の首相とアメリカ大統領の違いが背景にあり、一概に麻生さんのリーダーシップの無さを責めるのは酷と言えなくもない、ということだ。

アメリカ大統領選は、1年も掛けて共和・民主両党の大勢の候補者が公開討論などにより徐々に絞り込まれ、両党を代表する候補者が決まる。その上で、1対1の戦いが繰り広げられ最後の大統領選挙で新大統領が決まる。

そういう1年間、アメリカ国民は否応なくテレビ・新聞を通じて、候補の人柄・考え方・実績・可能性を理解するようになって、最後の1人を選ぶ。候補者も自分が大統領になったら、こうするということを国民の前でそれこそ何度も言うし国民もそのことを選択基準に置く。

アメリカでわざわざ「マニフェスト」などと取り立てて言わなくても、1年間訴え続けた自分の政策は、訴える方と選ぶ方双方にとって軽々しく出来ない「約束」となる。アメリカの政治システムは、国民に約束したことは必ず、そして、早く実施しなければならないような仕組みになっているのだから、そういうアメリカに対して、1ヶ月で総理を決めてしまう日本は明らかにハンディーを負っている。

また、日本の首相とアメリカの大統領の権力の強さ・大きさについても、麻生さんはオバマさんに比べられたら可哀想。明文化されている権力のことではない。国民から直接選ばれた大統領の強さは国民をバックにしているだけに議員より遥かに強いし大きい。

同僚の議員から当番のように選ばれた日本の首相とはこの点に於いて決定的な違いがある。リーダーシップの差は制度の差から来ていると言ったら、言い過ぎか?多分言い過ぎだと言う方が多いだろうと思う。制度より個人の資質の差だと。

しかし、そういう質の悪い人間が一国の最高責任者になれてしまうのも、結局は制度の問題だと僕は思うのだが如何に?

2月 19, 2009   No Comments

青春賦(3)

入部した後はほぼ毎日、授業終了後部室に顔を出して、ギター練習を始めた。ところが、このギター部、実に変なサークルなのだ。特に先輩が後輩を教える訳でもなく、プロの演奏家の先生にみんなが教えて貰う訳でもない。益して、サークルとしてコンパ(飲み会)なんかが企画されるでもない。個人練習が活動の中心という変なサークル。

学生の分際で飲み会などもっての外、真面目に練習して3年生になったら演奏会に出ることを唯一の楽しみに個人練習に励めという変なサークル。

そう言えば、先輩も新入りも、冗談も通じない硬い一方の学生が集まったサークルみたいなのだ。クラシック音楽そのままに。だが、そういう中に例外的に僕よりも更に、「真面目」というイメージから程遠い新入りが2人いた。S君とN君だ。僕は必然的にSやNと親しくなって行った。Sは農学部、Nが工学部、そして僕が経済学部だ。

教則本を前に一生懸命練習するのだが、年一回の演奏会のために練習するにしても、出られるのは3~4年生。だたただ、練習するのみかと思うと、僕にはやはり続けられないなと思い始めた。Nにそのことを告白したら、彼もまた「面白くない」と言う。

そんな頃、我がギター部の向かいの部室からジャズが聞こえて来た。ドラムの音、ベースの音、トランペットの音。彼らが始めると、音が大きいからこちらのギター練習はやめるしかない。先輩達が露骨に嫌な顔をする。「ジャズのどこがいいんだ。不真面目な奴等が」。この一言で僕とNの決意が固まった。

「スイマセン。僕ら退部したいんですが・・・」
と先輩に僕ら2人で言ったら、Sも
「自分も今日で辞めます」
「何だよ3人揃って。でもな、辞めるのいつでも自由だから」

引き止められもせず、あっさりしたものだ。辞めるまでには幾つかハードルがあるものと勝手に思い込んでいたのだが、実に簡単だった。肩透かしとはのこと。部室を出た3人は、それでも、そのまま向かいの軽音楽部の部屋に入って行くのは気が引けるので、一応学食(学生食堂)に行って安いコーヒーを飲みながら話をすることにした。

「それじゃぁ、いつ軽音(軽音楽部)に入る?」
と僕が2人に聞いた。Nはそれに対して、
「軽音に入ってもまた、2年バンドボーイやれと言うのかなぁ?」
と呟く。
「もしそうなら、ギター部と変わんないよね」とS。
「自分達で勝手にバンド作ってやって行くのって、認めてくれるのかなぁ」とN。
「それなら、サークルに入らないで、まずは自分達でバンド作らない?」と僕。
「そうだよね。認められるにも先ずは我々のバンドがいい線行ってないと話しにならないだろうからね」

そんな訳で、先ずはバンド・メンバーを集めることになった。僕ら3人の中では担当を決めていた。Sがリード・ギター、Nがベース、僕はドラムと決まった。募集メンバーはサイド・ギターと、キーボード又は管楽器の2名とすることになった。

2月 16, 2009   No Comments

青春賦(2)

昭和40年。僕は18歳。大学1年生。経済学部教養部の学生だ。故郷を離れ遠く仙台の地で学生生活を始めていた。Hさんとは大学が仙台と東京に別れ別れになって、高校時代の淡い初恋が、どうやら終わったことを悟った僕は、暫く何もする気にもなれず、虚しい下宿生活を送っていた。

当時良く言われていた大学1年生の5月病だったのかも知れない。大学入試を目指して猛勉強をして合格、遂に大学生にはなったものの一気に目標を見失い、無気力症候群に陥るのが、入学2ヶ月目という5月病。

ただ、当時言われていた5月病は、高校3年間、少なくても最後の1年間、目一杯頑張った人に当て嵌まるとのことだから、僕の猛勉強は11月~1月間のたった3ヶ月だったので5月病の仲間には入れない。僕の場合は失った初恋から来る虚脱感だったと思う。

そんなある日、同じ高校出身のKが僕に声を掛けて来た。「神童、確か高校でギターやってたよね。サークルの先輩に頼まれて、チケットを売らなくちゃいけないんだけどさ、これ行かない?」。見たら、大学のクラシック・ギター・コンサートのチケットだった。

「え?お前、ギター部に入ったの?」
「違うよ。俺は音楽からっきしダメ。学生寮の先輩からね、押し付けられたって訳サ」
僕は、高校3年生の時、一年だけマンドリン・クラブに所属してギターのパートをやっていた。それをKは知っていて買ってくれないかと言いに来たのだ。
「いいよ、特に用事もないし」
と言って、300円也のチケットを買った。

1人でコンサートに行った。出演者は大学3年生と4年生が中心のようだ。ソロありアンサンブルあり、入れ替わり立ち代りの演奏が続く。みんな凄く旨い。僕も少しギターをやるが、本格的なクラシック・ギターの演奏って、あんなにいい音を出すものとは知らなかった。

最初の何人かの演奏は、ある種の感嘆をもって聴いた。来た甲斐があったと思った。だが、次の人も次の組みも、みんな似たような演奏をするので、僕は段々飽きて来た。プログラムを見れば全部で15組も登場する。まだ5組が終わっただけだった。

それなりに工夫されてはいるが、本当にクラシック音楽ばっかりで、もう少し変化が欲しい。例えば、この辺りでフラメンコ・ギター(スパニッシュ・ギター)の演奏があってもいいし、リズム楽器を入れたラテン音楽だって良い。

が、6組目もクラシック。それも何人か前の人と同じ曲目だ。飽きが苦痛に変わった。僕は会場を出た。出る時に受け付けの学生からパンフレットを渡された。「あなたもギター始めませんか?あなたのセンスであなたのギター演奏を!」。

入部勧誘パンフだった。頭の中で何かのスイッチが入った。僕だったら、もっと飽きの来ない演奏会に変えられるけどなぁ・・・と思ってしまった。

翌週、僕はパンフに書かれていたクラシック・ギター部の部室を訪ねていた。

2月 14, 2009   No Comments

また一つ

先日、ある会合のあと、僕は一人で新宿西口のバーに行った。そこは10年前、僕が新宿に勤めていた頃、よく使っていたバーだ。狭いながらカウンターの他にもボックス席がある。人の良いマスター一人だけの、大昔のトリス・バーを髣髴とさせる飲み屋だ。

果たして、まだやっているのか?何処だったっけ。少し迷ったがあったあった。10年振りでもやっていた。こういう時って、昔の友達に会えたようで嬉しいもんだね。繁華街の通り沿い、地下1階の店「ステディー」。

ドアを開けた。おお、超満員!昔そんなこと一回もなかった暇な店。世の中本当に不景気なの?

マスターに、僕が顔を出したアリバエ証拠をと思い
「マスター!混んでるからまた来るわ」と声を掛けた。
「アッ!神童さん。ちょ、ちょっと待って」
マスターが入り口までやって来た。
「いやー、ご無沙汰でした。お一人?」
「うん」
「大丈夫。今席空けるから、絶対帰んないでよね」

暫くして奥の方から「どーぞ、神童さん!」とマスターの声がしたので入って行った。カウンター席を1つ空けてくれたようだ。そこに座ったら自動的に水割りが出て来た。そう、ここではいつもウィスキーだったな。

それから20分もしない内に、みんな帰り支度を始めた。どこかの会社の団体さんらしく、全員が一気にいなくなった。

「マスター、久し振り。でも凄いねぇ、繁盛してて」
「ぜーん然。今日たまたま団体さんが来ただけでいつも、こういう感じ。オッといけねえ、折角神童さんが来てくれたのに」
「なかなか俺が店には来れなかったのに、コンサートには何度も来てくれて、本当にありがとうね」。

日比谷野音、東京国際フォーラム、NHKホールと、僕が電話で声を掛けるといつも彼は来てくれたのだった。今度新宿から近いオペラシティーでライブをやるからと伝えたら、必ず行くと約束してくれた。「ステディー」というこの店に最初に僕を連れて来てくれたのはJSだ。

僕が仙台勤務の時、同じ仙台に赴任していたJSとは、業務部長と営業部長という関係もあり、お互い単身赴任だったこともあって、毎日のように夕食や飲み会は共にしていた。それ以来、公私に亘り付き合いを重ねている。その彼が仙台時代よりも前の新宿をテリトリーとする支店長時代から使っていた店ということで、彼が東京勤務に戻った時、僕を連れて行ってマスターに紹介してくれたのだった。

「今でもJSは良く来るの?」
「ええ。あの人も偉くなっちゃって、極くたまにですけどね、部下の方達を連れて飲みに来てくれますよ」
「そうだよな。今じゃ大専務さんだからねぇ」
「でもJSさんエライと思いますよ。自分だけ途中で帰らないで、部下の人達と最後の最後まで付き合うから」
本当に久し振りのマスターと2人だけ。そんな会話をしながら、懐かしさと嬉しさを胸にゆっくりな時間を過ごした。

そろそろ、いい時間だ。次の客が来たら、それを潮に帰ろうと思ってるのに、誰も来ない。終電時間が迫って来たから、「また来るよ」と言って引き上げた。

それから2週間後だった、「ステディー」の閉店通知が来たのは。まるで僕が最後に現れるのを待っていたかのように。また一つ、馴染みの店が消えて行った。

2月 11, 2009   No Comments

営業初体験(2)

この日早速、社長のSさんや部下の方達と親しい僕が保険商品の説明を行なった。しかし僕は40年もの長い間、金融機関に勤めてはいたが、システムを作る立場だったから、営業という仕事は一度もやったことがない。保険の営業をやるのは、これが初めてだ。当社社長のJTは逆に営業でここまで来た人だから、さぞやハラハラして僕のプレゼンを聞いていたことだろう。

10年前から日本の保険業界も外資が続々上陸して来て、激戦の様相を呈して、凄まじい価格競争に突入していた。そんな厳しい競争の真っ只中、当社は最初の商品として「医療保険」(入院保険など)を売り出したのだ。この分野は外資系保険会社が価格と内容、並びに、シェアで圧倒的優位に立っていた。

だが、当社の医療保険は、無駄を徹底的に排除し、且つ、生協等モラルリスクの少ない優良マーケット用なので、外資系の更に半額の値段なのである。多分、今日本で一番安い医療保険だ。担保内容も入院費用(1万円/1日)だけでなく、いざという時の死亡保険金は勿論、毎日3千円の休業補償まで出るいい保険なのだ。

僕は一生懸命説明した。
「・・・日本で一番安くて一番補償内容の厚い保険です」
JTも補足してくれた。
「今、私どもの保険会社は私も入れて10名で運営していますが、団塊世代中心で運営していますから、人件費としては一部上場企業の役員さん1人分で賄えてしまうんです」
安さの秘密を僕も負けじと付け加えた。
「保険システムを作るのが私の仕事なんですが、チームに男性がもう1人いまして、彼も還暦過ぎ。あと2人の女性プログラマーは家庭の主婦ですから、週1日2日来て貰ってますが、基本的には家で仕事して貰っています。契約社員と呼んでいますが、分かり易く言えばアルバイトということになりますかね。ここまで掛ったシステム開発費(僕ともう1人の人件費は除く)は、2人のアルバイト代40~50万円だけなんです。普通に外部のソフトハウスに頼んだら1千万以上にはなりますよねぇ。2桁安いこのシステムが既にちゃんと稼働していて、日々の契約計上事務が行われているのですから驚きでしょう?この辺りも保険の安さの秘密だと思っています」
僕は、言ってからシマッタと思った。だが手遅れだった。
「いやー、神童さん、耳が痛いですよ。社員にはもっと工夫しろ!工夫が足りない!っていつも言ってるんですがねぇ」とS社長さん。
そうだよ。ソフトハウスの社長さんを前に言うことじゃないよ。社員の方達もみんな頭を掻いている。

少し間があってS社長さんが口を開いた。
「折角のご説明でしたが、半額だとか安いとかいくら言ってもなかなか若い組合員には届かないんですよ」
案の定、僕の説明は感度最悪だったか。
「僕はね、組合員が健康な一生を送れるように様々な医療機関や薬局、或いは、民間の介護サービスなどとタイアップして、例えば、保険証をICカードにして、そこに人間ドッグや入院や治療時の電子カルテが書き込まれ、それを提示すればどの病院でも、どの診療所でも、直ぐに患者の病歴や普段の健康状態も分かる。はたまたその保険証を提示すれば救急車でもタライ回しされることはないという保証の付いた仕組みを作りたい」
S社長はJTと僕の目を交互に見ながら熱っぽく更に続けた。
「また、鬱病が今大きな問題ですけど、そういうことの啓蒙や予防をこの健保組合でやれないか、とかいろいろ考えてみたい。そういうことを一緒に考えて行ってくれませんかね。ご提案の医療保険はそれでもいざという時の備えとして用意しておく、そんな風に考えたいんですよ」

30万人を束ねる執行部のお考えは大したものだ。さすがにJTが引き取った。

「前の会社でも社長が同じように考えていましてねぇ、様々なことに着手したんですよ。幾つかの病院とタイアップして何とか医療と保険をもっと有効に結び付けられないかとトライして来ていますし、各企業の社員のメンタル・ケアに関する研修や様々なコンサル、或いは、直営のデイケア施設を幾つか持って、地域に貢献したり介護資格取得支援などを行なって来ておりますので、そういう資源も動員して皆さんと一緒にやらせて貰うことが出来るのではないかと思います」
「それは、もう、ホントに助かる話です。宜しくお願いします」とS社長。

あとは会食となり、美味しい中華料理に舌鼓を打ち、和やかな内にお開きとなった。営業で伺った側が勘定を持つのが普通なのだが、S社長の部下の人が既に済ませており、頑として譲らない。仕方なく御馳走になって帰って来た。保険営業はなかなか難しい。

2月 9, 2009   No Comments

営業初体験(1)

先日、ソフトハウスの社長をされているSさんに、出来たばかりの僕等新設保険会社の保険商品の売り込みをさせて貰った。この会社、特に新聞編集ソフトを得意技としており、幾つもの新聞社が既にそれを導入している。この分野では30年以上の歴史を持つシステム専門会社だ。

前の会社にも何人かのSEを派遣して頂いていた関係から、7年ほど前、一度お会いする機会があったのだが、この方、実は大きな健保組合の重鎮であり、自分の会社のお仕事よりもそちらのお仕事の方に8割方時間を割いておられることを知った。Sさんの様々なお話をお聞きする内に、僕もSさんに尊敬の念を抱くようになり、個人的なお付き合いが始まった次第である。

S社長さんはその健保組合の理事として、制度疲労を起こした組織を立て直す先頭に立ち、大胆に改革、時にはこれを管轄する東京都や国とも正面から渡り合い、大きな成果を上げて来た方だ。僕も丁度その頃、自分の会社をどうやって変えて行くか、大変頭を悩ましていた時期だったから、大いに刺激を受けたものだ。

彼は自分が成されたこの辺りの経緯については実に淡々と、自慢話に聞こえないように注意深く話すが、理事会のメンバーは勿論として、健保参加企業にも良く知られているところだし、抑え目にお話されるのを聞いている僕にとっては、寧ろその方がリアリティーをもって聞こえて来る。

だが今後、組合員のためにこういうことを実現したい、と語る時は一気に熱くなる。この人は本当に組合員のために自分は何が出来るのか、若い組合員の10年後20年後のために何をしてやりたいのか、常に考えているのが良く分かる。

僕が「クーペ&Shifo」のバックバンドをやっていることを知ると、直ぐに興味を示され、以来、コンサートには勿論、奥様ご同伴でクーペの店にもお越し頂いたりした。また、国際フォーラムやNHKのライブ後には、「クーペ&Shifo」のために銀座で高級料理の慰労会を催してくれたりもして、今も2人を応援してくれている。

そんなSさんに無理をお願いして、今日は僕等の保険会社の最初の商品、医療保険のご説明をさせて頂くこととなったのである。S社長さんの部下の方3名、それと、健保組合の傘下企業や組合員に、民間の保険紹介や物販など様々なサービスを提供している健保の別動体(株式会社)から保険担当者1名の計5名が出席して下さった。こちらは社長のJTと僕の2人だけだ。

Sさんは、健保組合の別動体企業の社長も兼務されている。この健保組合には関東のIT関連企業やシステムを生業にしている企業が挙って加入しており、参加企業数約6,000社、健保組合員約30万名を擁する大組織なのだ。IT企業群だけに組合員の平均年齢も31~32歳と他の健保に比べれば極めて若い。

2月 8, 2009   No Comments