プレミアムエイジ ジョインブログ
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Posts from — 3月 2009

ある牧師さん

先日の新宿文化センターのライブには、高岡建治の外にもう1人、S牧師がゲスト出演した。この方は、以前ある講演会でクーペと一緒に講演をした仲だそうだ。その縁で以降、密な付き合いが続いている。

クーペがわざわざS牧師にゲスト出演を依頼したのには訳がある。S氏は元ヤクザで、本人の弁によると、組に5億の借金があったのを踏み倒して逃げた。そうなるととことん追い詰めるのがヤクザで、何度も命を奪われそうになったらしい。生きるか死ぬかギリギリの生活。

妻子を大阪に残しての逃亡生活。仕舞には自分自身、生きる希望も無くしビルの屋上から何度飛び降りようとしたか。しかし、死ぬ勇気もなくし、気が付けば大阪に舞い戻っていた。もう何年も音信不通で逃げ回っているのだから、妻子が自分を待っている筈がない。

とは思いながら、自宅に戻ってみると、妻子はちゃんと自分の帰りを待っていた。「やり直そう」、そう思えた。心のそこから力が湧いて来るのが分かった。家族の存在が生きる勇気をくれたのだ。彼は一念発起してアメリカに亘った。牧師になった。日本に戻って、「人生やり直し道場」を主宰している。

両手の小指が短い牧師さん。お話していると物凄く紳士だし、感動の物語を語る舞台上のS牧師はとても元ヤクザとは思えない。彼の伝えたいメッセージは「人生やり直せる」ということだ。多分、やり直す前のS氏と現在のS氏とでは、全く違う人間なのかも知れない。

クーペがS牧師と深い所で共感しているのは正にその点。クーペも6年前、娘から来た1通の手紙からやり直し人生が始まったのだ。それが次々と奇跡を呼んだ。そして、S牧師もクーペも、フジテレビ「アンビリーバボー」で取上げられた奇跡の人という点でも共通している。

但し、僕は自分の友人・知人、或いは、大変お世話になっている人達に、このライブ・コンサートに来て貰っているので、彼らがS牧師の話に対してどう感じたか気になるところだった。

普通、コンサートで政治家や宗教家をゲストに呼ぶのはリスクが高いとされている。観客にはそういう人達と相容れない価値観を持つ人達が必ずいる筈だし、それを主催する「クーペ&Shifo」が、妙な色眼鏡で見られかねないからだ。

来てくれた僕の友人達に聞いてみた。S牧師の話は非常に良かったし、風貌はどう見ても大学教授か知識人。それが元ヤクザというのが寧ろサプライズ。何の違和感もなかったと言う。宗教家というよりクーペさんの親しいお友達と思ったから楽しめた、とまずまずの評価だった。良かった。

因みに、以前、S牧師とクーペが一緒の講演会で話した時、実はもう1人一緒だったらしい。3人目のその人は、なんと元ヤクザの坊さん。元ヤクザの牧師と坊さんとヤクザに追われた元落語家。可笑しなトリオだ。その中で一番人相の悪いのがクーペ。自分でそう言ってた。みんな頷いた。

3月 31, 2009   2 Comments

やっぱりイチロー

稀に見る好ゲーム。手に汗握る接戦。見ている方が疲れる試合。こんな試合年間にそうない。

昨日僕が言ったでしょ。どんなに不調でも、この世界一を決める試合ではイチローがやってくれるって。そうなってとても嬉しいよ。彼が勝利をもたらすタイムリー・ヒットを放った瞬間、僕は鳥肌が立った。

1点リードの9回表、先頭打者はイチロー。2球目、イチローが捕らえた当たりは強烈。打った瞬間、みんなホームランだと思った。直前に2点差を1点差に詰められていたから、これが入れば、決定的。ヒーローはイチローとなる。僕の予言通りだ。

ところが、球場が広過ぎた。ライトの頭上は越えたが、フェンスに当たって2塁打。まあいいや、これで点が入ればやはりこの試合のヒーローはイチローだから。これで今日3安打目だしね。

ところが、相手のファイン・プレーもあってこの回ゼロ点。ノー・アウト2塁から点が入らないんだよ。見ている僕等も嫌やーーーな予感。案の定、9回裏2アウトから同点に追い付かれてしまった。韓国の驚異的な粘り。折角僕のイチローが3安打したというのに、彼がヒーローになるチャンスどころか、勝ちまでふっ飛んでしまった。

ヒット数では日本が韓国の倍以上打っているのに、9回終わって3対3の同点だから、日本の攻撃がいまひとつチグハグ。こういう大試合で延長戦になれば後攻の方がかなり有利なのだ。表をゼロに抑えさえすれば、その裏は負けがないから、それだけ伸び伸び攻められるからだ。

だが、今日の日本チームは違った。10回表、先頭の内川がヒットで出るとバントで送って1アウト2塁。さぁ、岩村。大リーガーの打撃を見せてくれ。打った。痛烈なレフト前ヒット。だが守備位置が浅かったのと打球が速かったのとでホームには帰れない。1アウト1・3塁。代打川崎。初球を打った。内野フライ。あ~ぁ。

ここでイチローの登場。おう、そうか、こういう舞台をお膳立てするために、9回裏はわざわざ同点にさせたのか。ダルビッシュもよくやってくれるよ。序でに凡打で倒れた川崎も。

岩村が盗塁を決めて2アウト2・3塁。だが、こうなると韓国は敬遠策に出るのではないかという不安がよぎったが、韓国バッテリーは世界のイチローに勝負して来た。韓国偉い。

もうあとは、イチローが打つだけの舞台が整った。絶不調だったここまでのイチロー、でも過去は関係ない。ここ一番の大勝負。ここで打てばやはり世界のイチローだ。世界一を決めるヒットになるのだから。

祈るように見つめた。打った!センター前にクリーン・ヒット。2点が入った。凄い。やはりイチローはスーパー・マンだ。最後の最後に日本チームはイチローで勝った。世界一はやはりイチローが手繰り寄せた。だからやっぱりイチローは世界一のバッターだ。

10回裏をダルビッシュが締めて勝った瞬間、僕の胸に感動が襲い掛かったが、それ以上にホッとする気分の方が勝った。と言うのも、東京ラウンドからずっとうちのカミサンは、「全く打てないイチローを外さない原監督はダメ」と言い続けていたんだ。

僕はそれに対して、「第2ラウンド突破が掛かる次の試合ではイチローがやってくれる」とか「決勝進出が掛かる次の試合では」とか言い続けて悉く裏切られて来たの。そして遂にラスト・チャンス。「世界一が掛かる決勝こそイチローで勝つよ」と昨日言った。

やったやった。「イ・チ・ロ・ー!!!」。6打数4安打。決勝の2打点。これが表裏逆だったらもっと劇的なサヨナラ・ヒットだったのに、なんて少し欲張り過ぎだな。

3月 31, 2009   1 Comment

米国を破る

アメリカのメジャー・リーガーは国籍で言うと既に過半数が外国人だそうだ。そのせいなのかどうか、オランダやベネズェーラなど、今までだととても野球のビッグネームとは言えなかったのに、オランダは優勝候補の筆頭に上げられていたドミニカを破り、ベネズェーラはアメリカを破って第2ラウンドは堂々の1位で決勝ラウンドに進出した。

どちらの国もスターティング・オーダーの殆どはメジャー・リーガーだった。但し、オランダは本国の選手は少なく、カリブ海のオランダ領アンティル諸島出身のメジャー・リーガーが中心だった。

そんな中で、アメリカはコールド負けしたり、第2ラウンドも2位に甘んじるなど、本場メジャー・リーグの強さが丸で見られない。アメリカが弱いからなのか、アメリカ国内でのWBCの関心はいま一つの様子で、マスコミもアメリカ国民も「本番はメジャー・リーグ。春先の親善試合に何故各国はそんなに大騒ぎするのか?」といった調子のようだ。

だが、日本にとって野球先進国アメリカ、強く華麗なメジャー・リーグは永い間特別の存在だった。1871年(明治4年)に来日した米国人ホーレス・ウィルソンが、現在の東京大学の学生に教えたのが起源とされる野球は、それ以来140年に亘って、追い付くことを目標にして来た憧れの国でもあった。

原監督が決勝トーナメント進出が決った時、「アメリカと戦えることに興奮している」と言っていたのは正にこのことだった。

そのアメリカと準決勝でぶつかり、先取点を許しながらも堂々たる横綱相撲で退けたのだからその意味は大きい。正に歴史的快挙の瞬間だった。昨日、テレビで張本が「決勝で韓国に負けても良いから、明日のアメリカにだけは何としても勝って貰いたい」と言っていた。

アメリカとの準決勝で日本チームが勝つとすれば、それは一世紀を超える日本の悲願達成となるのだから、この大会で優勝するとかしないとか、そんなレベルの話ではない、と張本は言いたかったのではないか。勝った瞬間に僕はそう理解した。

そして、世界一強かったキューバを2度とも破り、本場アメリカに大勝した日本は、その2カ国と一度も顔を合わせなかった韓国と違い、既に実力世界一を内外に示した。その意味では決勝戦はオマケみたいなものだ。

でも、でも、やっぱ、ここまで来たら優勝して貰いたいよね。そうでないと画竜点睛を欠くみたいになっちゃうから。

ただ、100年を越す悲願達成なのに、何かスッキリしないんだよね。イチローが最終打席でタイムリーを打ったけど、まだ2合目で全然爆発してくれないからだね。

第2ラウンド、決勝進出を決める韓国戦では必ずイチローがやってくれると、本稿で僕が保証したのにノーヒット。ゴメンナサイ。でも、懲りずに言います。大試合に力を発揮するイチローには、決勝戦こそが彼にお似合いの大舞台。今度は大丈夫。だよね、イチローさん!僕を狼少年にしないで、イチローさん、お願いだから・・・・・。

3月 31, 2009   No Comments

日本強し

WBC第2ラウンド、日本は6対0でキューバに完封勝ちした。あれだけの破壊力を持つキューバ相手に、日本の投手陣は完璧なピッチングをした。松坂は初回こそ2人のランナーを出したが、それ以降は相手を見下ろした投球だった。

続く、7回岩隈も代わりばなをヒットされたが、後は凡打と三振で無難に抑えた。8回馬原も難なく抑えた。9回に日本が1点取ったその裏、抑えのエース藤川登場。いきなりイチローの頭上を抜かれる2塁打。

朝テレビで見ることが出来たのはそこまでだった。会社に向かっていても気になって仕方ない。負ける筈はないと思いながらも、完封は出来ないかなと思っていた。会社に着いた。みんなに聞いた。完封だった。

日本の投手陣は大したものだ。相手があの強いキューバだという恐れも苦手意識もなく、相手にしてみれば憎たらしい程冷静に巧みなピッチングをされて、手も足も出なかったというところだろう。

打つ方は相変わらずイチローが不調なのに他の選手が頑張って6点取った。日本では不調だった小笠原・岩村が夫々2安打を記録して上向きになって来た。

戦前の野球評論家の意見は、日本の投手陣はWBC参加国中で最強という人が多かったものの、キューバと韓国には手こずるとしていた意見も多かった。特に165kmを投げるというチャップマンはそう簡単に打てないから、バットを短く持つとか足で掻き回すとか、機動力が大事になると言っていた。

だが、ちゃんとヒットを連ねて得点したではないか。日本選手の全体的印象としては、投手も野手も日本での第1ラウンドの時より伸び伸びとプレーしていると感じたのは僕だけか?

後はイチローの爆発だけだ。うちのカミサン、こういう場合非常に厳しいんだよ。イチローだろうが誰だろうが、調子の悪い人はさっさとひっこめる非情さがない監督なんてダメ。星野監督と同じだって。僕は彼女に言ってやった。彼は大事な試合になればなるほど、大きな舞台になればなるほど力を発揮するから、決勝ラウンド進出が懸かる次の韓国戦は必ずやってくれる筈だって。

ホント、そのことは僕が保証する。このパターンは、日本で第1戦の中国戦では無安打だったが、第2ラウンド進出を決める韓国戦では3安打したイチローの再現となる筈だ。今回も必ずそうなると予言しておく。

それにしても、本場アメリカは強いのか弱いのか。第2ラウンドでベネズェーラにコールド負けだよ、一体どうなってるんだか。

そう言えば、今回優勝最有力と言われていたドミニカがオランダに負けて第1ラウンドで姿を消したり、大リーガーが大勢揃っているメキシコがオーストラリアに1勝1敗で辛うじて第2ラウンドに進出出来たり、また、アジアでも台湾が中国に敗れ去ったり。

野球が普及している国の数は少ないものの、そういう国同士の実力差がグッと縮まってきたことは間違いない。日本の活躍を期待しながらも、番狂わせの多いWBCはなかなか目が離せない。

3月 31, 2009   No Comments

青春賦(15)

バンド結成から1年。仙台6大学のロック・フェスティバルが終わって、遂にみんなから僕も歌って良いとのお許しが出た。僕はどうしても歌いたい曲があった。「アン・チェイン・マイ・ハート」だ。レイ・チャールスが歌ってヒットし、直ぐにアストロノーツがロックの曲にカバーして、これまたヒットした曲だ。

やってみると意外と難しい。歌に気を取られてドラムのリズムが狂うのではなくて、その逆、リズムは問題ないが、英語の歌詞がスラスラ出て来ないのだ。その日から僕は、街を歩きながら、風呂に入りながら、乗り物に乗りながら、四六時中歌を口ずさんで歌詞を暗記することにした。

やっとバンマス(S)の許しが出て、ダンス・パーティーの演奏で歌デビュー。思いの外旨く行った。これは辞められない。癖になる。次々とレパートリーを増やして行った。「サマー・ワイン」「ユー・アー・マイ・デスティニー」「マンデイ・トゥ・フライデイ」等々。

心のどこかに、小樽商大のドラマーがドラムを叩きながら歌っていたのがとってもカッコ良かったのが残っていて、1度やってみたかったのだと思う。ビートルズのリンゴ・スターも数曲歌っているが、後年、バンドのメイン・ボーカルを担当したイーグルスのドン・ヘンリーやジェネシスのフィル・コリンズなどが有名になり、やっと市民権を得たが、当時はまだまだ。ドラマー兼ボーカリストは、それだけで珍しがられた時代。

仙台では当時、1年中どこかで学生主催のダンス・パーティーが開かれていた。駅前の「日の出会館」、市のほぼ中心にある「青葉会館」は、そういう催しのための貸しホールになっていた。学生がダンパを主催する目的は、パーティー券販売によるサークルの資金集めだ。大学にはサークルが物凄い数があるから、秋からクリスマスに掛けてはそれこそ連日連夜開催されることになる。

僕等はバンド結成から半年以上、ダンパ出演の声は全く掛かったことがなかったが、大学2年の夏前からぼちぼち出演させて貰えるようになり、秋には、特に6大学ロック・フェスティバルの後は、頻繁に声が掛かるようになっていた。

余談ながら、仙台市からの依頼で、市役所前の勾当台公園という市民の憩いの場で、平日の昼休みの時間に演奏をしたのはこの頃である。

エレキバンド=不良の時代に、仙台市の粋な計らいだった。バンマスのSが、何度もエレキバンドがそんな所でやって良いのかと当局に確認を入れたくらいだ。市役所にも勇気ある人がいたんだなぁ。そんな活動を通して一般の人にも少しずつ知られるようになって行った。

僕らのバンドにとって教養部の学生食堂がスタジオ練習場で、ダンパが公開練習場みたいなものになった。勿論、本番は、6大学ロック・フェスティバルや軽音部リサイタル、或いは、このような公園や文化祭での演奏だ。そして、いずれは実現したいとメンバーみんなが思っている、自分達のコンサートだ。

頻繁にダンパに出演したり、バンド活動の場が広がって行くに連れて、徐々に女子大生やOL達に知られるようになり、彼女達が「Strangers」のファンになって行ってくれた。彼女達の紹介で女子大の文化祭に招かれたり、僕ら主催のダンパのチケットを捌いてくれたり。大いに助けて貰った。若い男女のグループだ。そんな活動を通じて、恋が芽生えたりもして行った。

(僕?まっ、兎に角、「駆け抜けた青春」とはあの時代のことでした)

3月 31, 2009   No Comments

青春賦(14)

1966年の秋、再び当大学の「川内記念講堂」で音楽祭が開かれた。これは、仙台の他の私立大学に声を掛け、各大学から1つ、ロックバンドに出演して貰う初めてのイベントだった。客席は超満員、大成功だった。宮城県の他の大学との交流になるというので大学側も応援してくれた。参加大学は6校に及んだ。当大学からはホームの特権で、「Asteroids」の外に、我が「Strangers」も出演することが出来た。

これは、各大学の軽音部共催の形をとっているが、実際にこれを企画し具体化に向けて主導したのは僕らのライバル・バンドの「Asteroids」だった。特に、学年も上、年齢も僕より2歳年上のYさんが、持ち前の情熱と行動力で実現に漕ぎ着けたものだ。Yさんは勿論「Asteroids」のバンマスだし、軽音部の重鎮の1人だ。

僕等は「Asteroids」を良いライバルと思っているし、サイド・ギターのBとは、1ヶ月前に彼の心無い発言で揉めたけれど、元々僕等はYさんには敬意を持っている。丁度1年前、僕らがまだ軽音部に入る前だったが、「Asteroids」の前身のバンドでリードギターをやっていたYさんが、その時も中心となって、小樽商大のロックバンドを仙台に招いてジョイント・コンサートを開いたことがあった。

そのコンサートを、僕らも参考のために聴きに行った。Yさん達も腕前は決して見劣りはしないのだが、基本がベンチャーズのレコードを忠実にコピーしたものだ。それに引き換え、小樽商大はボーカル中心、ギター・アドリブは勿論、ドラムソロやベースソロなど多彩なショーアップがなされていて自由自在、型に嵌まっていない。その躍動感が見る者を引き付けた。

最後の方では、リーダー(ドラム)が、ドラムをやりながら、布施明の「思い出」という曲を歌い始めた。彼はMCで「今、北海道だけで流行っている曲ですが、失恋したばかりの僕にピッタリの歌なので是非聞いてください」と言って歌い出した。初めて聴く曲だがロマンチックな良い歌だ。ロックバンドが歌謡曲みたいな曲を歌うというのも珍しい。

北海道から仙台に学生バンドを招いてジョイント・コンサートを実現させ成功させたYさんは凄いと思ったが、Yさんの偉いのは、その後自らのバンドを発展的に解散し、メンバーも大胆に刷新して新たに「Asteroids」を編成したことだった。Yさん自らはギターからドラムに代わり、当時バンドボーイをやっていた僕らと同じ1年生をメンバーに登用して再スタートを切ったことだった。

多分、口に出しては言わないが、小樽商大にショックを受け、今度は彼らを当面の目標にし、いずれはその先を行くバンドになることを固く決意した再出発だったろうと推測した。

「Asteroids」と「Strangers」という違いはあるが、同じドラム担当で、上記の経緯も承知している僕から見れば、Yさんは心から尊敬する先輩だった。

縁とは不思議なもので、最近、Yさんを良く知る人物と知り合えた。仙台出身の歌手。仙台では以前ライブ・バーをやっていた人で、今は東京に来て音楽活動をしている女性だ。僕は昨年12月に、彼女のコンサートが新宿京王プラザで行われた時、姪と一緒に参加した。

彼女の話では、Yさん、今も宮城県で元気に仕事をしているという。

3月 31, 2009   6 Comments

青春賦(13)

ある日、僕とSが部室にいた時、「Asteroids」のギターをやっている同じ2年生のBが見知らぬ人を連れて現れた。Bはその客に当大学の軽音楽部について詳しく丁寧に説明している。話の内容から、その客は他の大学の軽音部の学生のようだ。

後で分かったのだが、この秋、仙台の大学の主だったロックバンドを集めて、一大イベントを開催しようと、各大学が連絡を取り合っていたのだった。それは僕等も望むところだったのだが、Bの客に対する説明にSがブチ切れた。

Bが言う。
「我が軽音部には5つのバンドがありまして、1つが、自分達の『Asteroids』ですが、他の4つはジャズとハワイアンです」
「では、おたくの大学のエレキバンドは『Asteroids』だけということですね?」と客。
「もう一つ、マイナーのロック・バンドとしてここいる人達のバンドが存在してはいますが・・・」

これを聞いてSがいきなり噛み付いた。
「おい、Bよ。俺達がマイナーだと?一体誰が決めたんだ!」
Bはその抗議に意表を突かれた面持ちで、
「え?マイナー・バンドで良しとしてやってるんでしょ?」
「じゃぁ、俺達の親バンドってどこなんだ?」とS。
「それは『Asteroids』でしょう」。Bは胸を張った。
「ふざけるな!」

Sは顔を真っ赤にして、今にも飛び掛らんばかり。僕は他大学の人のいる前で大人気ないからSを止めて、2人に出て行くように目配せした。でも、Sは彼らが帰った後も収まらない。

「ふざけやがって!俺達がいる前で、あんな風に説明しやがって!あのBの野郎ただじゃおかねー!」と喚く。

しかし、僕にはBがわざわざ僕等に当て付けのつもりで、或いは、挑発のつもりで他大学の人間に、あんな言い方をしたとは思えなかった。Bは他意も無くそう思い込んでいたのだろう。悪気のない分、余計にSには効いた。

暫くして怒りが収まってからSが言った。

「神童よ。この世界実力主義だよな。こうなりゃ俺達、仙台で一番の人気バンドになって、あいつらを見返してやろうじゃないの」
「そう来なくっちゃ。軽音リサイタルでも俺達結構評価されたんだから、もっと頑張れば行けるさ」

以前にも増して、学食練習に身が入って行った。

3月 31, 2009   No Comments

青春賦(12)

軽音楽部リサイタルは、大学の中で行われた。会場は教養部のある地名から通称「川内記念講堂」と呼ばれる建物で、中に入ると学校の講堂というよりも、大きな音楽ホールのようで、座席も劇場のように階段状になっている立派な会場だ。座席数も2,000名ほどが入れる大きなホールなのだ。

1960年に大学創立50周年を記念して建てられた講堂だから、まだ5年位しか経っていないので真新しい。前年の4月に僕らの入学式が行われた会場だから、中に入るのはこれが2度目ということになる。こんな立派な会場で演奏出来ることが、新米バンドの僕等にとっては心躍る思いなのだ。

軽音部の部員が1ヶ月以上あらゆるルートに当たってチケットを売った成果か、満員とは言えないまでも、7割かた客で埋まった。午後6時、最初のバンドとして僕らストレンジャーズが演奏を開始した。

今と違い当時の音楽の舞台は、演奏開始まで緞帳が下りていて、音楽が始まってから上がって行く。その瞬間が最も緊張するのだが、最も嬉しい瞬間なのだ。何故なら巧拙に関係なく観客から「待ってました!」と大きな拍手を貰える時だからだ。

小さな舞台だったが、それまでに幾つか場数を踏んでいたせいもあって、この日は落ち着いて演奏することが出来た。N君のR&B風の歌、A君の井上忠夫(ブルーコメッツ)ばりのサックスとS君のギター・テクニック(寺内たけしばり)を前面に打ち出した20分間が終わった。

初めての大舞台だったが、予想以上に旨く行った。連日連夜の学食練習が実を結んだ瞬間だった。終わって楽屋に戻りメンバー全員でハイタッチ。やったやった。

その後、5つのバンドが順番にステージで演奏して行った。僕らの注目は「ファイブ・スポッツ」というモダンジャズのバンドだ。元々、クラシック・ギター部の部室で、僕やSやNが練習していた時に、向かいの軽音の部屋からジャズが聞こえて来たから、僕らが軽音に移ったのだ。そのキッカケを与えてくれたのが「ファイブ・スポッツ」なのだ。

トランペット・サックス・ウッドベース・ピアノ・ドラムの5人組。皆4年生だったり5年生だったり6年生だった。院生や医学部の学生もいたと思うが、多くは留年組み。それだけジャズに打ち込んでいたグループだ。僕ら新入りから見れば尊敬の念で接する先輩達。

当時、仙台には大学は結構な数があって、ジャズバンドは伝統的に各大学にあったが、中でも「ファイブ・スポッツ」は仙台ナンバー1と目されていた。

当時のヒット曲「テイクファイブ」や「ワークソング」など数曲演奏したが、流石という外ない。一人ひとりが半端じゃないのだから。

そして、トリは僕らのライバル・バンド「Asteroids」の演奏で軽音部のリサイタルが全て終わった。観客にはアンケート用紙が配られていて、意見感想を求めていたのだが、その最後に、本日も最も良かったバンド名を記入して貰うようになっていた。

翌日の準備委員会で集約された結果、一番人気は何と僕ら「The strangers」だった。
「Asteroids」を辛うじて上回ったのだ。時代はグループ・サウンズに移ったとは言え、実力ナンバー1の「ファイブ・スポッツ」より上になってしまったことは、メンバー全員何とも申し訳ない気分だった。

このリサイタルが契機となって、僕らのバンドにもいろいろ声が掛かるようになり、夏には駅前ビアガーデンでのバイト演奏で少し稼ぎ、秋からのダンパ(ダンスパーティー)には連日のように呼ばれるようになって行った。

3月 31, 2009   No Comments

青春賦(11)

僕らの対外活動は翌年から本格化して行った。大学の寮祭、女子大の文化祭などだった。しかし、軽音の新入りバンドとしては名前が売れていないので、各サークルが資金集めのために主催する「ダンスパーティー」への出演の声がなかなか掛からない。

既存のバンドは始終呼ばれ、それがバンドにとっても良い資金源となっていて、楽器の買い替えや個人のバイト代になっているようなので、大変羨ましかったのを覚えている。

バンドとしてはまだまだ半人前と自分達でも感じていた大学2年生の春、O君が残念ながらバンドを辞めざるを得ないことになった。父親と遂に喧嘩になってしまったらしい。「エレキ・バンドなんて、そんな不良に育てたつもりはない」とまで父親に言われたという。

そう聞いて、こちらも心穏やかではなかったが、Oが「ベンチャーズに憧れてエレキ・ギターをどうしてもやりたかったけど、半年間皆と一緒にやらせて貰ったから、もう充分。自分には全くそういう才能が無いことも分かったから、親から勘当されてまでバンドを続ける訳にも行かない。申し訳ないけど辞めるのを許してくれ」と言ったのに対しては、頷くしかなかった。

代わりに、1年生のH(理学部)がこのバンドでギターをやりたいと加入して来た。更に、バンマスSの親友のSa(農学部)が僕らのマネージャー役をやってくれることになった。

さて、それから暫く経ったある時、軽音楽部の音楽祭が大学内の川内記念講堂で行われることになった。軽音の全バンドが出演する発表会みたいなイベントだ。だが、その準備委員会では、加入してまだ半年少々の「The Strangers」の出演を認めるか否かで揉めた。

反対論を展開したのは、もう1つのロックバンド「Asteroids」。彼等は3年生のバンマスと、僕らと同じ2年生が正規メンバーとなっている。彼らは1年間バンドボーイとして下積みで頑張って来たのに、そんな苦労もしてもいないバンドが、いきなり軽音リサイタルに出場出来るのは承服出来ないというものだった。

一理ある。正直なところ、下積みをやっていないことが僕らの弱点だった。僕は今年ダメでも来年出られればいいじゃないかと思っていた。だが、その委員会メンバーのS(バンマス)とSa(マネージャー)はとことん頑張った。オブザーバー参加した僕はその場面をこの目で目撃している。

「下積みをやっていないのはその通りだが、部費を払っていても、楽器代や活動費で一切軽音部に負担を掛けずにここまでやって来た。何の苦労もせずに勝手にバンド作って皆と同じに扱えはないだろうとか思われているかも知れないが、既に確立されている皆さんのバンドと違って、全部自前でゼロから立ち上げるのは、下積み以上の苦しさがあることを是非理解して欲しい。それに何より、我々は入部を許された時点でバンドとして正式に認められたと思っている」

堂々たる主張で、多数決で出場が決まった。反対票はやはり「Asteroids」だけだった。ただ、6バンド中(ロックバンド2、ジャズバンド2、ハワイアンバンド2)1組目の出番となった。前座扱いされたのは仕方なかった。

3月 31, 2009   2 Comments

マンマ・ミーア

ジャージー氏の映画評論に刺激されて、久し振りに映画でも見てみようと思って、予定が何も無かった土曜日に隣駅の駅ビル内にある「シネマ・コンプレックス」に行ってみた。

映画館に来たのはいつ以来かな。以前見たのは確か「蝉しぐれ」だったような気がする。随分前だからそれがいつだったか覚えていない。ここはスクリーン(劇場)の数が9つもある、大規模な施設だ。

何を見るという目的もなく、行った時に映画の開始時間のタイミングが合う映画を見ようという、甚だ不埒な鑑賞法だった。ジャージー氏にはお叱りを受けそうだ。

受付カウンターで確認したら、丁度「マンマ・ミーア」が開始5分後だった。受付嬢に聞くと、最初の15分は予告編だから今入れば充分間に合うとのこと。それに決めた。シニア・チケット千円也を購入。

「マンマ・ミーア」?何か新聞で前に読んだ気がする。アバの曲を使ったミュージカルだったような微かな記憶。音楽映画なら悪くない。そう思って指定のホールに入った。

結構、混んでいる。土曜日だからか。予告編が終わりいよいよ始まった。

若い娘が3通の手紙をポストに投函するところから物語が始まる。母娘の2人で島でホテルを開いてる。ある時母親の若い頃の日記を見付けて盗み読みしたら、自分の出生に関わるかもしれない3人の恋人がいたことが記されていた。

その娘は、母親に内緒でその3人の男に自分の結婚式への招待状を出したのだった。娘は直接会えば本能で本当の父親が分かると信じ、その時は、教会でのエスコートをして貰いたかったのだ。

そこからのストーリーは、はっきり言えばどうでも良い。インド映画のようでもある。寧ろ、母親が娘の結婚式に招待した2人の親友の女性と一緒に3人で繰り広げる歌の数々に魅了された。映画の中盤で歌われる「ダンシング・クイーン」は当時の曲の完全コピーで、一部の狂いも無い。

この母親役とその親友が、あの時のアバの今の姿なのかなと一瞬思ってしまった程だ。年齢的にも妥当だと思った。でも待てよ、アバは確か男2人女2人の4人組だった筈。女3人組じゃないよね。それじゃ、この3人はアバとは全く別の人達か。それにしては歌が相当上手い。歌い方もアバそのものだ。いやいや、音はアバのCDで俳優がアテレコで歌ってるのかな?

一旦疑問に思うと気になってしょうがない。気が付いたら歌と口が本当に合っているかと、目を皿のようにしてチェックし始めていた。お金出して映画見に来たのに、何やってんだ、と思いながら・・・。

誰か教えて。あの3人は何者で、映画の中で本当に歌ってるのか、アバのアテレコなのかを。

3月 13, 2009   No Comments