プレミアムエイジ ジョインブログ
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Posts from — 4月 2009

お詫び

何名かの読者の皆さんより、「最新記事」が履歴順に表示されていないとの問合わせがありました。

確かに、古宮エイジとcatのブログは、当「ジョインブログ最新記事」には常に最新の記事が一つしか掲載されません。これはシステムの不具合によるものです。

解決が図られるまでの間、一つ前、二つ前のブログを読みたいという方は、下段の、「キャップの独り言」(古宮エイジ)、「勝手にシンドバッド」(cat)を選択してお読み頂ければ幸いです。

ご不便をお掛けしますが何卒宜しくお願い致します。

4月 30, 2009   No Comments

偶然×9=奇跡(3)

【偶然その3】―もしも、ドラムが置いてなかったら、あり得なかった―

店の中には何とステージがあって、ドラム・セットが置いてある。僕の目にはまずそれが飛び込んで来た。ピアノもある。キーボードもある。ギターもある。勿論、マイク・スタンドも何本かある。ここは生演奏の店なのか。25年も住んでるけど、この町にもライブ・バーがあったなんて知らなかった。

ドラムが僕を呼んでいる。心の中がざわついた。

「マスター。ドラム触ってもいい?」
「いいけど、壊さないでよ」
「大丈夫だよ。それじゃ少しだけ・・・」

33年振りか。昔好きだった女性に巡り会えたようなトキメキ。ドラムを叩ける喜び。長い間忘れていた。それじゃぁみんなに僕のドラムソロを披露してやるよ。やり始めた。あら?思ったように手が動かない。足が動かない。そんな筈は・・・。真剣になればなるほど、音が大きくなる。社員がこっちを向いて耳を塞いでいるんだから。失礼だよね?

「神童さん!こっち来て早く飲みましょうよ!」とある社員。
「分かったよ。もうドラム止めた!」と僕。
「壊されなくて、あぁ良かった」とクーペ。

出来なくて悔しいね。なんだかこれは後を引くような気がする。

僕は翌日もKを誘って、この店に来てしまった。悔しくてね。この日は昨日と違ってミュージシャンが揃っていた。やはり客はいなかったけど。キーボードのマサシ、ピアノのミホ、ギターとボーカルのクーペ。そう、昨日は一曲も演奏してくれなかったから、クーペは店のマスターとばかり思っていたが、ミュージシャンだったのだ。勿論、マスターを兼ねた。

ドラマーがいないみたいだ。折角ドラムがあるのに。ここに一人いるよ!それが気になってクーペの歌をろくに聴いていない。昨日33年振りにドラムに触ってしまったから、もうやりたくてやりたくて。2人しかいない観客のうち一人(僕)がちっとも聴いてないし、もう一人は僕の部下だが上司が落ち着かないんだから、おちおち聞いてもいられない。

彼等の演奏が一曲終わったところで、クーペが「ドラムやってみる?」と言うから、否、言わせたから、「うん、やる!」と言って位置に付いた。曲は「500マイルも離れて」。クーペの歌のバックをミュージシャン達と一緒に演奏させて貰った。結構ドキドキしながらだったが、だみ声のクーペの歌が、サッチモがこれを歌えばさもありなんと思わせる様な雰囲気を感じながら演奏した。1曲目が終わった。

クーペは2曲目を歌い始めた。「朝日のあたる家」。おお、これは学生時代に僕等のバンドのレパートリーだった奴だ。

得意だと思った曲だからだろうか、相当音が大きかった、らしい。歌い終わってクーペが「ドラムの音しか聞こえないよ!」だって。よし、今日はこの辺で勘弁してあげる。

仕事帰りに週1回くらいの割合で、その店「Stand By Me」に通い始めたが、曜日によってミュージシャンが異なることや、いつも必ずミュージシャンがいる訳でもないことが徐々に分かって来た。

ミホとマサシは既に見知っていたが、水曜日は「双子」という名の双子姉妹デュオの日ということも分かって来た。美人姉妹だから、それを目当てに来る常連もいるようで、結構店が混む。高校の時、姉の方がバイクの事故で恋人を失ったという。その悲しい思い出をオリジナル曲にして歌っていた。いい曲だった。

他にトモミというフルートの娘もたまに見掛けた。ミホとトモミは同じ中央大学の現役の学生だと言う。彼女達も美人で明るい。最初は怪しい店と思ったが、なかなか良い店じゃん。

4月 29, 2009   No Comments

偶然×9=奇跡(2)

【偶然その2】―もしも、他の店がすいてたら、あり得なかった―

合併のその日、午後から合併新会社進発会議、夕方からは合併記念パーティーを会社の食堂で盛大にやった。合併両社の全社員が揃ってお互いの顔と名前を覚える懇親が目的だから、500名規模の大パーティーとなった。

盛会のうちに夜7時半にパーティーが終わり解散。僕は両社出身の主だった連中15~16人を引き連れて、2次会のためにあちこちの店に当たった。

ところが、この時間、どこも混んでいて4~5人ならまだしも、十数人はとても入れない。予約しておくべきだったな。そこである男に聞いた。

「Kよ。どこでも良いからこれだけの人数が全部入れる店ないか?」
「どんな店でも絶対文句言いませんか?」
「絶対言わない。約束する」
「じゃぁ、絶対に空いている店がありますから行きましょう」

そして、連れて行かれたのが「StandByMe」。Kの言う通りだ。店に入ったのは8時過ぎなのに、客は誰もいないようだ。店の外も中も黒が基調の怪しい感じ。角刈りで厳つい顔をしたマスターらしき男が1人だけ、これまた怪しい。怪しいというより危ない感じ。まっ、こちらは大勢だから大丈夫だけど。

Kが僕の方を心配そうに見ている。ねっ、言ったでしょう、空いているけど怪しい店だって。彼の目が言ってる。OK、OK。しょうがないよ、どこも空いてないんだから、と僕も目で返す。

それに、他の客がいないんだから。大勢で2次会やるにはうってつけだな。自分の町で会社の人達と飲むの、これが初めて。だから当然この店も初めて。クーペというそのマスターと会ったのも、これが初めて。

その店でボトルを何本か入れてみんなで飲んだ。大いに飲んだ。昨日まで別々の会社員だった者達が本当に良く飲んだ。少なくてもここに来た連中はもうすっかり気心が通じ合った筈だ。

4月 28, 2009   No Comments

猪瀬直樹との2度目の会合

先週金曜の夜、再び猪瀬と会食した。彼は東京都の副知事という要職にありながら、政府の諮問会議「地方分権改革推進委員会」の委員を務め、本業のノンフィクション作家としても休むことなく精力的に著述活動を進めている。大変忙しい人間だ。

その忙しい猪瀬から、当サイトを主宰する古宮エイジ氏に、彼の知人である「Yさんに是非会いたい」というオーダーが入り、僕も同行して4人で会食をした次第。Y氏は1970年当時、東京・横浜に生協を立ち上げ、それ以降の生協大発展に尽くし、一方で、生協を核とする政治団体を主宰した人物でもある。

その日は、猪瀬が「地方分権改革推進委員会」出席のため、会議終了の6時半に霞ヶ関を出るので、出来れば7時前に彼の事務所に来て欲しいと言うので、3人で西麻布の閑静な住宅街にある彼の事務所を訪れた。

鉄筋コンクリート打ちっぱなしの4階建ての建物だった。僕たちは少し早めに着いたのだが、応接間で待っていると程なく秘書が「只今猪瀬が戻って参りましたので、もう暫くしたらこちらに参ります」と伝えてくれた。

猪瀬が現れた。僕と古宮氏は3週間前に会ったばかりだが、Yさんとは随分昔に一度会っているらしい。2人が改めて名刺交換した後、「事務所内を案内しましょう」と言って、僕等に事務所の中を全部見せてくれた。フロアというフロアはぎっしり本で埋まっている。本人曰く「殆ど私設図書館だね。これらを駆使して一人で霞ヶ関と戦って来たのよ」。

沢山の書籍に混じって、道路公団民営化委員会当時の膨大な資料があった。今関わっている地方分権委員会の資料が山積みになりつつある。都庁関係の大部な資料もあった。僕等3人はこの私設図書館のボリュームに圧倒された。

会食の場所は、彼の事務所から徒歩1~2分程度の所にある。彼が良く使う店なのだろうか。係員と顔見知りの様子だ。シックな佇まいの割烹料理屋。入口からして何か隠れ家的な趣がする。靴を脱ぎ通されたのは床の間のある純日本風の部屋。ビールで乾杯のあと料理を頂きながら様々な話をした。今日の目的は猪瀬とY氏の会談だったから、猪瀬も良くしゃべったが、Y氏もこれまた話し好きだから、沈黙の時間は全く無かった。

猪瀬の方は「産婦人科医不足に対する解決策」「築地移転問題」「小泉構造改革」「ミカドの肖像」「環境問題と地方分権」など多岐に亘った。Y氏からは「市民バンク・多重債務者支援活動」「東京都への要望」「生活者というネーミング」等など。僕は政治的には無関係な第3者の立場ながら、彼等の話がとても面白かったし、勉強になった。

話の途中で猪瀬に携帯電話が架かって来た。橋下大阪府知事からだった。地方分権について、猪瀬・橋下はスクラムを組んでいると言って憚らない間柄だが、マスコミから「橋下は猪瀬と意見が違うのではないか?」と突っ込まれたという報告だった。僕等は、正に、猪瀬が政治の真只中にいることを感じ取った。

さて、この会談でY氏に会いたいと言った猪瀬の趣旨は一体何だったのだろうか。猪瀬がY氏のグループと「地方分権」について意見交流したいと伝えたかったのかもしれないし、Y氏に「地方分権」を進める上で協力を仰ぎたかったのかも知れない。話題は頗る面白かったが、僕にはいま一つそこのところがはっきりしないまま終わった会食だった。

僕の勝手な空想で言えば、Y氏と猪瀬が手を握って、「地方分権」実現を目指す勢力の核になり、猪瀬の意を戴して、橋下大阪府知事を初めとする様々な「地方分権」派の人々を一つに纏め上げるため東奔西走する、坂本竜馬のような役を古宮エイジ氏が務めると面白いのだが・・・・・。

4月 27, 2009   No Comments

偶然×9=奇跡 (

僕がサラリーマン生活の最初から長いことやって来たシステムも、また会社の経営も、目標を定めてそこに到達するために、何を、どうのように、いつまでにやって行くか、作戦を巡らせるのが普通だった。「システム開発計画」「新規事業計画」「何ヵ年経営計画」と言った名前で。

だが、僕のプライベートな世界で、この8年間に起きたことは、正に偶然が積み重なった奇跡としか言いようのない出来事の連続で、誰かが意図したからそうなった訳でもなく、否、誰かが意図したら出来るというレベルの物語では全くなかった。

【偶然その1】―もしも、会社合併がなかったら、あり得なかった―

8年前金融機関の合併が相次いだ時代に、勤務先の会社も合併があり、僕が属していたシステム関連会社同士も合併して、僕の勤務地が東京郊外の自分の住む町に変わったことがこの物語の全ての始まりだった。その町は僕が25年も住み続けている所で、合併の日からは通勤時間が徒歩8分となったのだ。

会社の誰にも羨ましがられた。若い社員は、神童が自分の都合でシステム拠点をそこに決めたと信じて疑わない奴も多かったが、そんなことは更々ない。僕は潔白、それは冤罪というもの。諸条件を総合的に判断して、今後は合併相手社のコンピューター・センターを使うことが有利との経営判断が下されたまでだ。

まっ、言ってみれば、僕の家が会社に近付いたんじゃなくて、たまたま会社が僕ん家に近付いただけのことよ。だけど、僕にとってはこれが最大の合併効果だった。それは素直に認める。

そんなことがなければ、東京で自宅から歩いて通勤出来るなんてこと、あり得なかったし、自分の住む町で、仕事帰りに飲みに行くなどということもあり得なかった。何故なら、飲む場合はいつも勤務地に近い都心か、自社のコンピューター・センターがあった武蔵野線沿線が多かったから、自分の町は寝に帰る所と言う方が当っている。ベッドタウンとは良く言ったものだ。

4月 26, 2009   No Comments

トラブル

カミサンはもう20年以上もエアロビクスの教室に通っている。毎週水曜日と金曜日の2回開かれている教室だ。その間にインストラクターと言うか先生というか、指導に当たる人は世代交代を含めて3人目の人だという。

これだけ長く同じ教室に通っていると、先生の方がどんどん若返るし、カミサンは生徒の中でも古株になるらしく、若い先生(Uさん)から運営について何かと相談されることが多いのだそうだ。

先日も教室が終わった後、U先生に「相談したい」と言われて建物内の喫茶コーナーでコーヒーを飲みながら話を聞いたという。

話の中身は、その先生の前任者、つまり、そのエアロビクス教室の2代目E先生(U先生の直属の先輩)が、彼等の大先生から、出入り禁止を言い渡されたのだそうだ。

その大先生というのは、今から40数年以上前に、この町に初めてエアロビクス教室を開いて成功した女性で、今ではこの町のエアロビクス界の重鎮となっているらしい。その活躍は以前テレビで扱われたこともあるという有名人だ。

ところが、10年ほど前、その大先生の門下生なのだが、かなり野心家の女性がいて、何人かの門下生を引き連れてそこを飛び出し、自分で別の団体を立ち上げてしまったのだ。以来両者は犬猿の仲になっていて、何かと張り合うことが多くなった。

問題は、2代目のE先生が敵方の主催するエアロビクス大会の会場に行ったことが事の始まりだった。それは、娘さんの通う中学のエアロビ・サークルが相手陣営の指導を受けていて、娘さんも母親の影響でエアロビクスをやろうとそのサークルに入り、今回、正選手としてその大会に出演する運びとなった。

母親としては、当然娘の晴れ舞台を見に行った。それがどういう訳か、「Eも相手陣営の大会に協力している」という情報として大先生の耳に入った。大先生、前に門下生が何人も挙って飛び出して行った手痛い経験があるから、また変に同調者が出ないよう、今回は、ピシャッとEを破門にして陣内を引き締めたという訳だ。

U先生からの相談は、大先生の誤解を解いてE先生を復帰させるにはどうしたら良いか、というものだった。僕はそれに対してカミサンがどう答えたのかに興味がそそられた。

「その大先生ってお幾つになるの?」
「63~64歳ぐらいと思いますけど」
「エアロビクスの先生なんて、精々40代まででしょう。もう老害が始まってるわね。まず大先生の方を引退させるべきね」
「でも、そんなこと、とても出来ませんよ」
「E先生が裏切ったと思っている人は大先生以外にもいるの?」
「それはいないと思いますけどね」
「やっぱり、大先生だけが問題って訳ね。あなた方門下生を守るという意識の内は元締めやってても良いけど、自分の身を守ることが最優先となったら、さっさと辞めて貰うことね」
「・・・・・」
「簡単なことよ。主だった人達で、E先生を連れて大先生の所に押し掛けて談判すればいいんじゃない?それでもダメだったら全員で脱退すれば?」

その後どうなったかは知らないが、カミサンも過激だなぁ。クーデターをそそのかしてるんだから。サラリーマンを長いことやって来た男より、女の方がよっぽど過激でストレートだということを、また悟らされてしまった。

4月 26, 2009   No Comments

知覧

鹿児島の知覧に行って来た。そこは昭和20年、太平洋戦争の日本の敗色濃くなって行く中で、全国から集められた若者達がこの地より、片道の燃料が積まれた飛行機で敵艦目指して飛び立って行った飛行場のあった場所である。

知覧はいわゆる特攻隊の町だ。生身の人間を兵器に変えて、好ましくない戦況を一気に変えようという人類史上稀な起死回生戦法の出撃基地となったのがこの知覧の地なのだ。

今、当時の兵舎址には「特攻平和記念館」が建てられている。僕はその中を時間を掛けてじっくり見て回った。

最後の晩、若者が書いた母に宛てた遺書。「××はお母様の子に生まれて幸せでした。(中略)明日は、いよいよ出撃です。日本男児の誇りを持って、必ず、必ず、敵艦を撃沈して見せます。私を一人前にご養育して下さったお母様のご恩に、今報いることが出来ることは、××がお国のために、立派に使命を果たすことです。(中略)もう二度とお母様のお顔を見られないのは残念でなりませんが、どうか悲しまないで下さい。任務の成功を祈っていて下さい」

心打つ二十歳の若者の遺書。純真無垢な若者の心。こんな立派な文章を残して散って行った若者の姿に接すると、僕はいたたまれない気持ちになるのだ。明日死ぬことが分かっている青年の立派過ぎる文章に、思わず涙がこぼれそうになる。

死に対する恐怖感もあるだろうに、死にたくないという抑え難い本心もあるだろうに、両親や恋人への断ち難き思いもあるだろうに。それらを全て押し殺した最期の文。その心情を察すると、次々に現れる遺書の展示品をもうそれ以上読み続けることは出来なくなった。

こういう大勢の若者の死の後、日本は降服を決意し終戦を迎えた。これら若者達の犠牲の上に戦後の日本の繁栄があったことを忘れてはならないし、二度とあのような悲劇を繰り返してはならないという思いを強くした。

けれども、僕は一方で、人間を兵器にするこの特攻戦術を編み出した悪魔のような人間が日本に存在したことを憎む。それが誰で、自らは戦後まで生き残ったのかどうかは全く知らないが、純真な大勢の若者を無駄死にさせた行為は許し難い。

それ以外にも僕は幾つか気になってしまったことがある。

この知覧のいう場所は、2001年の東映映画「ホタル」が上映されて以前よりかなり観光客が増えたと聞く。

映画「ホタル」は、高倉健主演の特攻隊生き残りが、嘗ての戦友の遺品を韓国まで届ける物語だが、舞台はここ知覧である。タイトルの「ホタル」は、映画の中で用いられた「ホタル帰る」の逸話からとったもの。

そのエピソードとは、新潟出身の宮川三郎氏(20歳)が特攻の前日、「知覧の母」と慕われた富屋食堂の女主人トメさんに「特攻したら、ホタルになって帰ってきます」と言い残して出撃。翌日の夜、彼が言った通り、一匹のホタルが食堂に入って来た。みんな「宮川さんが帰って来た」と思ったというお話。

一つの映画や音楽、偉人の生家などが町興しに繋がるのは大いに結構なのだが、大勢の若者が死ぬために飛び立って行った特攻隊を売り物にして、町興ししているように見えて、僕は釈然としなかった。

こんな若者達を死なせてしまう戦争は、二度としてはいけないとの思いを再確認するためにこの記念館は有効だと思うが、「特攻平和記念館」という名称の「特攻」が気になる。更に、知覧の町並みに沿って一つ通り中に入ったところに武家屋敷が並ぶ一帯がある。武家屋敷の庭園が売り物の観光資源だ。これも「特攻の町」知覧を訪れる観光客目当てなのは明らかだ。

「特攻隊」が観光資源になっている現在の知覧を見て、特攻隊員達はあの世から何を思うだろうか?

4月 26, 2009   No Comments

青春賦『あとがき』

バンド・メンバーは全員、大学卒業後音楽活動はキッパリ止めている。僕は55歳を過ぎた頃、たまたま会社のバンドのドラムが空席であることを知り、職権で「俺にやらせろ」と言ったところから人生2回目のバンド活動が始まった。

その間30有余年の歳月が流れていた。昔取った杵柄で再びドラムに触れたものの、頭では分かっていても、最早手も足もまるでその通りには動かない。そこからの再出発だった。

その後、「クーペ&Shifo」と偶然知り合い、彼等の舞台に一緒に出演させて貰う場面が増え、60歳を過ぎて、日比谷野音、よみうりホール、国際フォーラム、NHKホール、オペラシティーなど、実力も省みず、素人では考えられないようなステージを経験させて貰っている。また沖縄・福岡・広島・名古屋・長野・伊豆など地方への演奏旅行にも同行させて貰った。得難い経験、得難い楽しさ。

当時のメンバーだったサックスのAが、何度かコンサートに来てくれて、刺激を受けたのかどうか、彼も一念発起して、何年か前にアルト・サックスを購入して、プロのジャズ・ピアニストと一緒に音楽活動を再開。六本木・赤坂・中野などのライブバーやライブハウスが彼等の拠点だ。僕もたまに彼等とセッションさせて貰ったりしている。

そして、当時のメンバーがもう一人。R&Bを歌わせたら当時仙台一と言われたベースのNとは、当プレミアムエイジのブロガー「大屋地爵士」のことだ。僕は彼のジャズ評論と小旅行記が好きで、いつも愛読させて貰っている。今、彼と40年振りにこういう少し違ったステージで共演させて貰っているのも不思議な縁を感じる。

60歳を過ぎ第一線を退いた後に、音楽を中心とする、こんな素晴らしい世界が待っていてくれたなんて、自分では思いもよらなかったこと。音楽の神様と「クーペ&Shifo」には感謝して止まない。

そして、今そんな活動が出来るのも、44年前に、「ストレンジャーズ」を結成して熱く燃えた2年半があったからこそと気付き、仲間に感謝しながら当時を振り返ってこの物語を書いた。

だが、この3年間のうちに、当時のメンバー7人中(途中交代したメンバーとマネージャー含めて7人)2人、SとOとを病気で相次いで失ってしまった。この物語を彼等に読んで貰えないことが唯一悔やまれる。ただただ2人のご冥福を祈るのみである。

これを書いている途中で、大学内の記念講堂のことをインターネットで調べている時、たまたま、現役「ストレンジャーズ」のホームページを発見した。嬉しかった。生まれて直ぐに別れた子供と40年振りに巡り会えたような気分だった。

あの時僕等が勝手に結成したバンドは、メンバーの誰しもが一代限りと思っていたが、それが代々引き継がれ、40年の時空を越えて大学のサークルとして立派に根付き、今も活発に活動してくれていることを知ったのだから、もう涙が出るほどの感激と驚きと・・・。

この物語を書き終わったところで、彼等のホームページに書き込みを入れてみた。喜んでくれた。いつか若い「ストレンジャーズ」と触れ合い語り合える機会を是非持ちたいものだ。

青春賦『あとがき』―了―

4月 26, 2009   2 Comments

青春賦(27)

バンド・メンバー夫々の学部の友人達や高校時代の友達も、よく僕等と行動を共にしてくれた。彼らにとってもそれが楽しみや息抜きの一つだったのだろう。そして、知らない者同士、徐々に親しくなって行った。僕等のバンドが触媒となって仲間の輪が広がって行くのがまた何とも嬉しかった。

そんな中に、学部は忘れたが、ハンサムだが田舎なまりの強い男がいた。いつもニコニコ顔で近付いて来る。あれこれ話している内に、出身地の話になった。「俺は長野出身。君は?」と聞いたら彼は「サイゴン」と答えた。何とベトナムからの留学生だった。

それまで何度も顔を合わせていたが、外国人だとはただの一度も思ったことがなかった。どう見ても風貌は日本人だし、ただ言葉のなまりが強い奴だなと思っていただけだ。名前を聞いたら「ファン・マン・カーン」と答えた。

ベトナム戦争も泥沼化し、次第に南ベトナムが怪しくなり始めていた時期だった。僕は思い切って聞いてみた。

「サイゴンは大丈夫なのか?」
「今のところは大丈夫」
「君のご両親はどこに住んでるの?」
「サイゴンの中心地」
「サイゴンが危なくならないと良いけどね。正直この先心配じゃないの?」
彼は答えた。
「実は僕も心配で昨日国際電話したよ。危なくなったらアメリカに渡ると言ってた」
僕は「ファン・マン・カーン」はサイゴンではかなりの上流階級の子息なんだと知った。

あの時代、ベトナム戦争の影が仙台の僕等の仲間にまで忍び寄っていたのだった。その後の「ファン・マン・カーン」の消息は全く分からない。アメリカにいるのだろうか?それとも現在のベトナムに戻っているのだろうか?或いは、今も日本の何処かにいるのだろうか?

また、バンド活動をして行く過程で、多くの女子大生やOL達がファンになってくれて、よく僕等のバンド活動を支えてくれた。正に勝手マネージャー連のように、また、大学や会社の枠を超えたサークル活動のように、様々なことで頑張ってくれた。

特に我がバンド主催のリサイタルやダンス・パーティーを実施するにも、もし、彼女達の協力(諸準備・受付・チケット販売等々)が無かったら絶対に不可能だったろう。無償で本当に一生懸命にやってくれた彼女達に、今更ながら感謝の気持ちで一杯である。

メンバーや取り巻きはみんな若かったから、彼女達との間に恋も芽生えたし、失恋もあった。自然なことだ。但し、バンド仲間の不文律というのがあって、女性を巡って仲間内で争ったことは一度も無かった。物語としてはそういう事件があった方が面白いと思うが、残念ながらそれは無かった。デートのお相手は先行メリットを互いに認め合う暗黙のルールが存在していたのだ。

だが、目出度くゴールイン出来たケースは極く稀だった。人を傷付け自分も傷付き、夫々の辛い別れもあった。仙台とはそういう、熱く激しい青春、ほろ苦い青春を、全速力で駆け抜けた場所として、今でも僕等にとっては特別な街なのだ。

青春賦(完)

4月 26, 2009   No Comments

青春賦(26)

僕等のバンド「The Strangers」は、軽音部に入部してから実質2年半の活動だった。後々先輩達に聞いても、我々のように勝手にバンド作って勝手に始めたバンドは一寸記憶に無いそうだ。大先輩にしてもその以前からあるバンドに入ったと言う。

大学生になってまで、厳しい上下関係の中で1年以上も下積みをやらされるのを嫌った僕等はきっと異端児だったんだろうと思う。

それが大きな顔をして活動しているうち、伝統あるハワイアン・バンドやジャズバンドを人気で超えてしまったのだから、内心では快く思われる筈がない。だが、時代がベンチャーズ・ブーム、ビートルズ来日、グループサウンズ開花という、正に音楽の転換期だった。

僕等は意図するしないに拘わらず、そのブームに旨く乗っただけかも知れない。ライバル「Asteroids」との競争も僕等のモチベーションを頗る引き上げてくれたし、他の大学のどこのバンドにも負けたくなかった。

青春の中のたった2年半、青春の1コマに過ぎない。しかし、その2年半は僕にとって、後にも先にもこれほど熱く燃えた時期は無い、と言えるほど、内なる情熱に突き動かされた怒涛のような2年半だった。

しかしながら、バンドばかりをやっていたような記憶の中でも、授業は真面目に受けていたから、誰一人単位も落とさず留年組みは出さなかった。この点は、誇れるのか誇れないのか分からないが、軽音の他のバンドと違うもう一つの特徴点だった。他のバンドにはプロを目指した人達もいて、留年組みは決して珍しくなかったからだ。

僕達は一人もプロを目指そうなんて奴はいなかった。それだけ自分達の実力の程を知っていたと言うべきか。「ブルーコメッツ」と同じステージに立って彼我の差を思い知らされたからかも知れない。

そのお蔭で妙な錯覚を起こすことなく、普通の学生として卒業出来たのだろう。それでも、就職活動で企業の人事担当役員から「なに学部出身ですか?」と聞かれて、思わず「軽音楽部です」と答えてしまった。経済学部と言うべきなのに。似てるのが悪い。

当時を思い出すと、若者6人で一緒に走り抜いた青春時代というのが全般的な記憶ではあるが、20歳前後の若者達が、始終一緒に行動していたのだから、言い合い、いさかい、衝突が無い筈はなかった。

演奏のこと、アレンジのこと、進むべき音楽ジャンルのこと、全てが論争の種だった。他のことではいい加減な連中だったが、こと音楽になると誰もが自己主張が激しく、なかなか譲らなかった。

バンマスのSの提案であっても全員が反対というのも珍しいことではなかった。6人の中でも気が合う合わないというのもあった。だが、一旦、「その線で行こう」と決まったら、全員が一致協力した。みんな音楽が大好きだしこのバンドに凄く愛着があったからだ。

4月 26, 2009   No Comments