プレミアムエイジ ジョインブログ
Random header image... Refresh for more!

Posts from — 9 月 2009

引退記念ライブ

大昔、Aも私も一緒に学生バンド「ザ・ストレンジャーズ」をやっていた仲で、Aは当時ロックのサックス(テナー)をやっていた。彼は大手食品会社の役員から関連会社の社長になり、4年務めたのち完全リタイアして、7月にその勤務先だった四日市から自宅のある千葉に戻って来た。

7~8年前から何かの関係で、ジャズ・ピアニストの坂口氏と知り合い、友人になり、よく六本木界隈のピアノ・バーに2人で繰り出しては飲み歩いたそうだ。バーでは坂口氏が飛び込みでジャズ・ピアノを弾くと、客も店側も、そしてプロ達も「オッ!」と驚く。2曲目にAが趣味でやっていたケーナやオカリナを坂口氏のピアノに合わせて演奏すると、もう店中が大騒ぎとなったそうだ。

昔、テナー・サックスをやっていたのを知っていた坂口氏は、Aに本格的にジャズ・サックスをやるよう熱心に勧めた。彼は遂にその気になり、高価なアルト・サックスを購入した。いつしか坂口氏のバンド(プロ)が演奏する店で、彼等に混じって、1~2曲やらせて貰うまでに腕前が上がって行った。

その頃僕の方は「クーペ&Shifo」と一緒にいろいろなホールでおじさんバンドとして演奏するようになって行き、Aも日比谷野音やNHKホールなど何回かコンサートに来てくれた。それに刺激を受けたのかどうか、忙しい仕事にも拘わらず、Aは本気でジャズにのめり込んで行き、坂口氏達と一緒のライブ招待券が私に届くようになった。

しかし、4年前、社命により、四日市市に本社のある関連会社の社長として赴任することになった。折角ジャズ・サックスの腕前がここまで来たのに、中断せざるを得ないことをかなり残念がっていた。だがどうやら、四日市でも、毎週週末にはライブハウスでプロ達に加わって演奏していた(飛び入りではなくて正規メンバーとして)そうだから、思いが強ければ何とかなるものなんだな。人はこれを「ジャズの道はヘビ」と言う。

Aは任期明けで自宅に戻るに当って、自宅に防音室まで作り、以来連日連夜特訓を重ね、つい先日、昔の仲間や取引先でお世話におなった人達、会社の先輩・同僚100名近くを集めて、都内のライブハウスで「現役引退記念、感謝のジャズ・コンサート」を開催して、大成功のうちに終了した。

彼のバックを務めたのは、ピアノ(坂口氏65歳?)・ベース(63歳)・ドラム(70歳)の熟練のプロ・ジャズメン達だった。このメンバーで過去何度か演奏したとのこと。ピアノの坂口先生からの1ヶ月の猛特訓の成果もあって、Aは、友人の私がビックリするほどの腕前になっていた。特に「レフト・アローン」はむせび泣くサックスが秀逸だった。
そして、ラストはオカリナで「遠くへ行きたい」。泣かせるよ、全く。

それにも益して驚かされたのは、休憩入れて2時間半の長丁場を、彼がMCを全部やり、とても面白くて少しも座を飽きさせなかった。彼の話術は超一流と言って良い。ゲストの演奏も勿論あったが、彼自身のサックスやオカリナ演奏を中心に十数曲。仲間内とは言え、客を長時間惹き付けたのは、僕には出来ない芸当だけに大したものと感心しきりだった。

僕もステージに呼ばれ、学生時代のこと、特に僕等のバンドが当時レコード大賞を取ったばかりの「ブルー・コメッツ」の前座を務め、Aがサックスなので井上忠夫に間違えられたせいか、幕が開いてから30秒間は、ワーワー・キャーキャー物凄かったこと、その後はシーンとなっていたことなど話し、大受けに受けてから一曲ドラムを叩いた。曲は「素敵なあなた」。

折角のAの晴れ舞台をぶち壊しにしてはいけない(ぶち壊しても良いかという気がないでもなかったが)というプレッシャーはあったが、40年前と同じように、今また、観客の前でAと一緒に演奏出来る幸せを噛み締めながら叩き終えた。

だが途中、ピアノとドラムの4バースの掛け合いが始まり、3回目のドラム・アドリブの時、坂口氏が立ち上がって、「ドラムソロをやれ」と合図して来た。焦った。坂口氏だけじゃなくてベースも止めちゃった。恐れ多くもプロのドラマーがいる前で、とんでもないこと。ええい、ままよ!その間、多分1分にも満たないと思うが、長~く長~く感じたなぁ。ソロは超適当。

大変失礼しました。A君、坂口さん、他のプロ・ジャズメンの方達。いや、一番謝らなくちゃいけないのはお客さん達に対してだった。ゴメンナサイ。でもまたいつか、Aと一緒にやれたら幸せだなぁ。

9 月 14, 2009   No Comments

もう一人の古い友人

学生時代のバンド仲間のAが、7月にある会社の社長を退任して、四日市から、千葉の実家に戻った。彼は、これからの人生、ジャズとヨットとゴルフと世界旅行を目一杯やると張り切っている。

その前に、9月11日の夜、これまでの人生のいろんな場面でお世話になった人達を集めて、都内で「引退記念、感謝のジャズ・コンサート」をやる予定だ。彼は勿論アルト・サックス。僕も呼ばれているので、彼の晴れ舞台を精一杯祝って来ようと思っている。

その彼が、もう一人のバンド仲間のHの書いているブログを教えてくれた。1年ほど前から書いているようだ。早速覗きに行かせて貰った。彼は現在、ある大学の教授なのだが、ブログを読む限り、40年前のHのイメージがそのまま蘇るようで嬉しい。

沢山の写真と共に文章が添えられている。音楽・季節・風景・花々・街・映画・趣味と多彩で、彼の豊な感性を感じさせる。堅苦しい教授のイメージの欠片もないのが良い。

僕等のバンドはHを除いて皆同学年だったが、Hだけは1年後輩だ。だから当時はバンド仲間からも可愛がられ、細身で甘いマスクと歌声、今で言うジャニーズ系だったから、バンド仲間では女子大生に一番もてた。

そんな彼のブログの中で2つの記事が目に止まった。

一つは、かぐや姫のビッグ・ヒット「神田川」の吉田拓郎バージョン。60年代70年代のロックを彷彿とさせる曲風が気に入って、寝る前に良く聴くのだと言う。記事から直接YouTubeにアクセスできるようになっているので、僕も聞いてみた。

彼が言う通り、僕等が学生時代にやっていたロックにとても近い。同じ「神田川」がロックになるとこうなるのかと、驚きと感激と。原曲より余程好きになりそう。

もう一つは、Hが4月に十二指腸潰瘍で緊急入院したという記事。GW中には退院して、その後ピロリ菌駆除の投薬を受けたということだ。全く知らなかったことだが、大事に至らず何よりだった。

彼の闘った十二指腸潰瘍とピロリ菌、実は僕の方が大先輩なのだ。昭和48~50年頃、僕はSEとして自信満々で仕事をしていた。難しいシステムは任せなさい、徹夜徹夜も苦にならず・・・。身体に来ましたね。お腹が痛むのだ。胃袋の右の方。

それでもお酒を飲むと痛さも治まるので、平気平気と自分に納得させてまた徹夜。遂にベッドでどんな格好をしても痛さが納まらず病院へ。この時初めて胃カメラを飲んだ。カメラがなかなか喉を通らず、目を白黒。それが苦しくてお腹の痛みどころではない。

やっと通過。モニターを僕も先生も一緒に見ながら、先生はカメラを先に進める。胃は正常、更に中へ。あった。赤い出血個所が(血が滲む程度ではあったが)。先生がその場で言う。「ああ、十二指腸潰瘍ですね。これ以上出血すると手術しなければならないところでしたよ」。

「どうすればいいんですか?」と聞きたいところだったが、管が口から喉に入っていて喋れないのを思い出した。終わってから聞いた。「薬を飲んで下さい。取り敢えず1週間分出しましょう。その間絶対にお酒はダメですよ」とのことだった。

それ以来何年も、調子が悪くなると同じ薬を貰いに行っていた。そのうち先生が「最近、潰瘍の原因の殆どはピロリ菌だと分かって来ましてね。ピロリ博士が発見したのでそういう名前が付いたんですが。近いうちに駆除方法も確立しますから、神童さんには朗報ですよ」と教えてくれた。だが半信半疑。

それから数年経った時、「ピロリ菌の検査をしましょう」と先生。「どうやるんですか?」と僕。「胃カメラを使って胃の細胞を少し採取して調査します」「え!また胃カメラ飲むんですか。やだな」「もしピロリ菌がいたら原因がそれだから駆除しちゃえば、もう薬を飲む必要なくなるんですから絶対やるべきです」、半ば強制。「はい」、覚悟を決めた。

先生が結果を説明してくれた。「ピンポン、でしたよ。5段階の5」、何だか嬉しそう。「それって、最も多くピロリ菌を飼ってる人ってことですか?」「ご名答!」。

1週間の抗生物質投薬により完全駆除出来て、それ以来、あの先生にも会っていない。15年以上前のことだ。ただその時、ピロリ菌が駆除されたかどうかもう一度胃カメラを飲む羽目になったのは計算外だったが。これも今では試験紙に唾液を垂らすだけでピロリ菌検査は出来るらしいから、Hが羨ましい。

Hのブログ:http://lahnshow.exblog.jp 風のゆきつくところ

9 月 9, 2009   No Comments

キャンペーン

設立されて10ヶ月。我が新設保険会社で、会社挙げたキャンペーンに取組み中である。8月9月の2ヶ月間、この会社に席を置く者全員が自分の知人や友人に保険を勧めるのである。

この会社の認知度を高め、且つ、日本で一番安くて保障が充実している医療保険を大勢の人に知って貰うことが目的だ。

以前所属していた会社でもキャンペーンは頻繁に行われていた。全社のキャンペーンもあれば、各地域ごと独自のキャンペーンもある。場合によっては店舗毎自前キャンペーンすらあった。

「キャンペーン」、懐かしい響きだが、それは同時に、「ノルマ」、「強制」、「押し売り」、「販売競争」「表彰」など、幾つかの言葉が浮かぶ。

どうやら、僕の所属するセクションでは1人5件の目標値が掲げられているようである。僕は思うのだ。キャンペーンで売ろうとしている商品に確信が持てなかったり、あまりお勧め出来るものではないなと思ったら、絶対売らないだろうなと(営業のプロは空気でも売るそうだが)。

何故なら、自分の大事な友人達に無理にでも買って貰うからには、その商品に自分自身が惚れ込んでいないといけない。

幸運にも、その医療保険は保障内容に於いても、価格面に於いても、日本で最も優れていると言っても言い過ぎでないから、堂々と声を掛けられる。何せ、毎日テレビ・コマーシャルに登場するアヒルの保険に比べて、同じ保障内容なら約半額なんだから、お勧めする方も熱が入る。

8人に勧めて5人は入ってくれそう。あと1人は検討中とのことだ。そんな中に、僕が契約者(お金を払う人)になって、7月に結婚したばかりの息子の嫁さんにこの保険を付けてやったのが1件ある。

その嫁さんから僕宛に手紙が来た。「保険をプレゼントして頂いたのは初めてです。とても嬉しかったです。ありがとうございました」とある。

他の家族は既に全員保険に入っているから、今回のキャンペーンに際して、息子の嫁さんの分を付けたのだが、思わぬ効果があったと言うべきか。

でも、新婚真最中の新妻に、「もし病気入院した時、これこれの保障が付いてるから安心して病気になって」と言ってるようで、良く考えると(考え過ぎると)、やっぱり、保険の贈り物って難しいのかなぁ。

9 月 8, 2009   No Comments

姫川に沿って

先日、カミサンと一緒に黒部峡谷の旅に出かけた時、宇奈月(富山県)からバスで白馬(長野県)に向かうルートは、北陸自動車道を降りて、糸魚川市(新潟県)から姫川沿いを遡る国道148号線を南下して長野県に入るコースを取った。

そこで思い出した。以前、当ブログに書いた古代のロマンだ。縄文後期から弥生始めの頃、中国の亡命者集団が博多湾志賀の島に住み着いた。彼等は中国春秋時代の呉の国の者達。彼等は中国に於いても海人(海洋民族)として暮らしていた人種。

亡命先の日本でも海洋交易を生業にしていた。そんな彼等の下に、中国越の国から、彼等が戦争に敗れ、国を追われているので亡命の手助けを要請された。急ぎ大きな船を何艘もの船団を組んで中国に向かい、越の国の亡命者達を助け日本に戻った。

越の国は、実はその昔、日本から救援に向かった者達の出身地である呉の国を滅ぼした敵国だったのだが、元は同種族。困った時の助け合い精神が如何なく発揮された事件だった。後の世に伝わる「呉越同舟」は正にこの風景を指す。

呉の国は海人が多かったのに対し、越の国は内陸部だったから、当時かなり進んだ稲作農法を持っていた。

呉の人々は、中国からやって来た大勢の越人を日本各地に船で送り、田んぼを開墾させて稲作を伝播させた。その一団の船が向かった先が現在の糸魚川市。越人のうち一定数はそこに住み着き、残りは姫川を遡り長野県の安曇野を目指した。

糸魚川に住み着いた越人はその地を故郷に見立てて「越」と名付けた。越後の「越」はここから来ているという説がある。

何故呉人は越人を率いて姫川から上流に遡ったか?いろいろな説があるが、呉人は交易を生業にしていたから、その頃既に姫川のヒスイを仕入れては中国その他に運んでおり姫側沿いの地理に詳しかったというのが有力な説だ。

小谷・白馬・大町と遡り、遂には松本の近くまで進出した。越人の行く所、必ず稲作がスタートし、日本の稲作が僅かの期間に一般化して行く。

姫川を長野県まで遡った人達は、感謝の意を表してそこを安曇野と名付けた。安曇族とは、越人を救ってくれた博多湾に住む呉人達の族名だった。

因みに、長野県南安曇郡豊科町に「穂高神社」という歴史の古い神社があるが、「穂高」は博多湾の安曇族の守り神の名であるし、その神社で毎年9月には「お船祭り」が盛大に催されているのだ。それは正に、越人から海人である呉人安曇族への感謝の行事ではなかったか。山国で「お船祭り」は普通ではあり得ない筈だから。

そんなことを考えながら、バスに揺られていた。隣のカミサンが、「何考えてるの?」と聞くから「男達のロマン」と答えた、かな?

9 月 7, 2009   No Comments

総選挙雑感その2

開票速報をテレビで見ていた。午後8時。テレビで開票速報の特別番組がスタート。不思議なことに、番組が始まって直後、もう「当選確実」のテロップが流れたのだ。それも天下のNHKで。

各投票所からどこか集積地に投票箱を集めてから開票となるものとばかり思っていたから、投票が8時に締め切られて直ぐに選挙速報が流れる理屈が分からない。

開票の途中経過で「当確」を判断しているのではなさそう。テレビ局は、開票前の出口調査に基いて「当確」を決めているのではないか。

それが証拠に、その後続々「当確」が発表されていたが、選管発表の途中経過の得票数では、開票率数%で得票トップではなく2位の候補者が(それもかなり一位とは差があるのに)「当確」のしるしが付いていた。その人こそ、番組直後、最初に「当確」がテロップで流れた人だった

その後も続々、開票が始まったばかりの数字で2位の人に「当確」が付くケースが目立った。

ならば民放はどうかとチャンネルを回してみる。NHKの発表よりもどの党もかなり少ない「当確」者数だった。

断然NHKが「当確」判断が早いということだ。僕は以前のNHKは逆で、民放よりもかなり慎重に発表していたのを知っている。宗旨変えしたのかと思った。民放に負けるな、もっと早く「当確」を発表せよ、との号令でも掛かったか。

しかし、NHKともあろうものが、開票前(或いは開票途中経過発表前)に「当確」を出すなど、如何なものかと思った。況してや開票率0%(正しくは0.01%)で、一位の半分の得票数で「当確」は物凄く違和感を感じる。

出口調査による「当確」判断なら投票締切り前だって出せる筈。少なくても続々と「当確」が現れるなんて演出しなくとも、例えば番組冒頭で「出口調査による『当確』は以下の450名です。それ以外は大接戦ですので、実際の開票が進まないと判明しません」と言って貰った方が分かり易い。

だがしかし、何でそんなに急ぐかねぇ。民放に先に行かせても、NHKの慎重な判断にこそ信頼感や重さがあったのに、今回はNHKの軽さを感じてしまった。早くて好まれることと、早過ぎて嫌われることがあるって、分かってるの?NHKさん?

9 月 6, 2009   No Comments

総選挙雑感

「民主党300議席を伺う状況」。「民主党310議席に迫る勢い」。「民主大勝自民大敗の見通し」。これらは新聞各紙の戦前予想だ。そして、その通りになった。

こんなにも正確な予測なら、本当の選挙なんか必要ないとさえ思えるくらいだ。先進各国は、候補者公示後はマスメディアの世論調査報道を禁じていると聞く。

それは分かるような気がする。バランス感覚のある人なら、選挙前にある党が圧倒的多数になるとする報道が相次いだら、それは世論が「極端」に振れた証拠と見做して、バランスを保つべく、他方に投票する。

だが、そうはならなかった。それも3回続けて。2005年の郵政解散・総選挙、2007年参院選、そして今回の衆院選。いずれも一方的な選挙結果だった。

最早、国民が、「バランス」などと言ってられない状況に追い込まれ、時の政権与党に猶予を与えられる状況ではないと言うことか。有権者の切羽詰まった思いの成せる技か。

今度政権政党となる民主党。国民が自民党に対し選手交代を告げて、代わりにバッター・ボックスに立つ。マニフェストに言っているように「官僚政治からの脱却」は本当にやり切って欲しい。

鳩山代表は、党と政府の二元政治をやめ、政府に一元化するため、党の役員と政府閣僚は兼務させると言う。官僚政治を含めて、これまでの自民党体制は三元政治だった。政府・党・官僚が夫々政策を検討し、三者談合の中で結論を出すやり方だった。

これが、責任を曖昧にし、必然的に当事者達の責任意識も低下させていた。誰が一番偉いのか(誰が責任者なのか)本当のところが分からない。

一国の首相と云えども、国民に対する責任意識の低さは過去4年間で4人の総理大臣が誕生している当番制のような日本の首相、簡単に政権を投げ出す首相となって表れた。

全ての決定権を政府に一元化するという鳩山さん。こういう大事な点を公約にしたことは過去の政権には無かっただけに評価したい。

だが、議院内閣制である限りは、首相が国民から直接選ばれていないので、国民に対する責任意識はそれだけ弱い。もう一歩踏み込んで、「大統領(首相)直接選挙制」を実現したら、鳩山さん、あなたは歴史に名を残すだろう。

9 月 3, 2009   No Comments

黒部の太陽

カミサンと恒例の夏旅行に行って来た。行先は黒部。僕の故郷は長野県なのに、黒部にはついぞ行く機会がなくて、この年になってやっと実現することになった。

一日目は宇奈月温泉にある「宇奈月駅」からトロッコ電車に乗って黒部川の渓谷に沿って登って行き、「鐘釣駅」までの一時間、切り立った岩山や、深い谷底を覗く鉄橋や、崖の中腹の狭い所を縫うように走るスリルを楽しみながら、些か童心に帰って遊園地の電車に乗っているような奇妙な感覚を楽しんだ。

台風が関東に近付いていると言うが、ここは日本アルプスの北側、立山連邦の北側富山県側だからか、全く影響を受けておらず、陽も差しており、事前に聞いていたよりずっと暖かい。多分、摂氏24~25度はあると思われる。

このトロッコ電車、元々は関西電力の専用鉄道として、水力発電所などの建設用の資材や作業員を輸送する目的で運航されていたもの。峡谷の自然を求めるお客の増加や地元からの強い要請で、昭和46年以降、関西電力から分離された黒部峡谷鉄道として現在に至っている。

だが、驚いたのは、この鉄道は、長い冬の間使えないので、作業員がトロッコ電車なしで山を登るためのトンネル通路がレールの直ぐ傍を走っているのだそうだ。終点の欅平まで、電車だと1時間少々だが、トンネル内を上ると6時間行程になるそうだから、作業員たちの苦労も偲ばれると言うもの。

初日は、トロッコ電車で引き返し、宇奈月から、朝来たルートの北陸自動車道を新潟県に戻り、糸魚川市から国道148号線を姫川沿いに南下して(南下とは言うが、実際は山を上って)長野県北安曇郡白馬村に向かう。

長野オリンピックのスキー・ジャンプ競技会場の直ぐ目の前のホテルに一泊。翌日は大町から北アルプスに向かい扇沢からトロリーバスで黒部トンネルを通って一気に黒部ダムへ。

このトンネルこそ映画「黒部の太陽」の舞台となった場所だ。トンネルを登った先が当時世界一の大きさを誇った黒部第四ダムだ。この壮大なダム建設のために、麓から資材や作業員を運ぶ通路建設が不可欠だったため、このトンネルが掘られた。

トロリーバスで進むこと7分。途中、「ここから破砕帯」という表示がありそれが約80m続く。映画でも大量の水が溢れ出て、トンネル掘削工事の前進を阻んだあの難工事の場所だ。破砕帯とは大量の雪解け水を含んだ柔らかい地層で、この壮大な計画も、最早これまで、と思われた場所だ。これを解決したのが最新土木技術の水抜き工事だった。

破砕帯を通った瞬間、映画の記憶が生々しく蘇り、疑似体験のような臨場感に感動していた。そしてここから富山県という標識を抜けバスの終点黒四ダム。暗いトンネルから出るとそこは明るい別世界が現れた。正面に高い山、下は湖(ダム湖)。但し、台風の影響か直ぐに濃い霧に包まれて、辺り一面真っ白な世界。

ダムからは大量の水が放流されていて、轟音を響かせている。霧と霧の合間に、勢いよく飛び出す激流が間近かに見ることが出来る。その時だった。厚い雲と霧で覆われていた黒部ダムが太陽に照らされて一瞬明るく輝いた。

皆があちこちで歓声を上げる。「『黒部の太陽』が顔を出したぞ!」。

9 月 1, 2009   No Comments