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細分化と全体像(5)
【ヒント1】
筆者もその昔(昭和53~54年)、システム部門がこれに近いことを画策し成功した事実の一部始終をこの目で見ている。それは、当時は本社の各部門に必要なシステムは全部システム部門のSE・プログラマーが請け負っていたが、統計資料について切り出し、それを各部門が自ら作成できる形に変えたことだ。
システム部門も限られた人数なので、同じ本社部門から様々な業務システムの開発を依頼されていて、とても統計資料まで手が回らない。幾ら待っても出来上がって来ないから、当然のように本社の担当者にストレスが溜まって行った。
そこで、統計資料関係は所謂「ドゥー・イット・ユア・セルフ」の考え方を採用することにして、小振りの汎用機にデータを収録して、本社部門の担当者がそのデータを如何様にも料理出来る舞台を用意したのだ。担当者が使う言語は当時COBOL(システム部門が使っている専門言語)しかなかった。
ところが、彼らは何としても目的の統計資料を手に入れたいと、COBOLを必死に勉強し、それを自前で作れるようになった。以降、システム部門は素データ(元データ)をタイムリーに提供することが仕事で、その集計表や分析表の作成は本社部門の仕事となって旨く回って行った。
本社部門にとっては、いつになるか分からない依頼をシステム部門にお願いし、当てもなく待つ必要が無くなり、欲しい時に自前で入手出来るので大変好評であった。おまけに、本社部門の人達も初めてコンピューターを操ることが出来たと、ある種興奮状態だったし、彼らにSEやプログラマーの仕事の一端を理解して貰えるという副産物もあった。
システム内では、統計資料作成に割いていたSEの時間を、業務システムの開発に当てられるようになり、この仕組みはお互いにとって大きな福音となった。
ヒントの一つは、この同じ絵が、統計資料だけでなく、基幹システムの開発にも適用出来ないだろうかということである。
12 月 13, 2009 No Comments
嬉しいこと・嬉しくないこと
多分、僕は上司に恵まれ、仕事では、嘗て誰もやったことのない、大変だが新しい可能性を拓く仕事に挑戦させて貰い、胸打ち震える経験をし、達成した時は、野球の試合に勝った時よりも、大学に合格した時よりも何よりも、過去最高の喜びだったことを体験していたからだろうと思う。
その上司は、こう言っては失礼だが、会社勤めは僕より10年以上も長いのに、社員の行動規範たる暗黙の社内規制やルールから完全にフリーな(無視する)心を持った人だった。遅刻は当たり前だし、おかしいと思ったことは平気で上にも文句を言う。肩書きの如何に拘わらずアホとは話しもしない。
そんな上司が僕等と突っ込んだ話しを始めると、時間の制約も無いし、話題も仕事の話をしてたのに、いつしか文学や哲学、芸術・文化、スポーツ・音楽に及ぶ。時に恋愛論にまで発展する。
それが、就業時間内・時間外は無関係、場所も社内・社外を問わずだった。その上司、名前をFと言う。彼が言い出し、僕等が本気になって突進し、遂に不可能と思われていたことを可能にした時など、偉い人に説明するのは、F氏ではなくいつも僕等だった。
そういうことが何度も重なると、僕は「Fさんにとっては、手下共が良い仕事をして社内で認められる姿を見るのが至福な時なんだ」と感じるようになった。
尤も、僕等が偉い人に説明している時の彼の目は怖いほど真剣なのだが・・・。それは、僕がちゃんと説明出来るかと懸念しているのではなく、僕等が成した仕事の意味を、果たして偉い人が分かるか、偉い人に理解するだけの能力があるのか、といった些か危険な目付きだということも分かっていた。
僕が若い時は、と言っても40歳になる頃までかな、自分が褒められたり、認められたりすることが嬉しくて、そうなるように頑張った。だがそれが、部下を大勢持つようになると、僕がそういう上司の下で鍛えられたからだろうか、部下が良い仕事してくれて、彼が他から評価されるのを見聞きするのが最も嬉しいことに変わって行った。
現役を引退した今では、部下ではなく、それは多分自分の友人が対象なのだと思う。別の知人や行き付けの店に僕の友人を紹介した時、友人に対して最大の歓待をしてくれたら嬉しいし、それは僕に対する気遣いでもあるから紹介先の人物にも感謝の気持ちが強くなる。その後紹介先から友人が高い評価を受けているのを聞けば、自分のこと以上に嬉しくなる。
ところがここに問題がある。逆のケース。つまり、親友が貶(けな)されたような時だ。自分でも顔色が変わるのが分かる。「俺の親友に対して何てこと言うんだ!」と。
自分が貶される分には、完璧に程遠いことは重々承知だから、気分は良くなくても、「当らずとも遠からず」と受け止めることが出来るが、友人に対するその非難が的外れの時など、特にそうなる。人生修養が足りないと言われればその通りだが、理屈抜きでダメなのだ。聞き流せない。
嘗て、それが理由で、紹介先と関係を断ったことも1度や2度ではない。僕の心に内在する、この「リトマス試験紙」があるので、親友を他に紹介するリスクというものを必要以上に感じてしまう。妙な悩みと人は言う。
12 月 11, 2009 No Comments
細分化と全体像(4)
しかしながら、本社各部門からの依頼は益々細部に及び、専門性の度合いを深める一方である。この傾向もコンピューター活用上の歴史的必然と言えるだろう。そういうシステムがコンピューター・システムの新たな可能性を拓くのであれば、本来的にシステム部門の多忙を理由に断わるべきではない。
筆者が言いたいのは、次世代システム等新システム構築は、今の時代だからこそどんどん進めるべきだが、実際は巨大システムのメンテナンスに忙殺され、新システム開発にSEを割けない、割けても、細分化した組織で育った部分しか知らないSEが多く、グランド・デザイナーがいない、と言った二律背反を解決するのは、システム部門がシステムを作る従来のやり方を止め、本社全体でシステム作りを進める形に移行すること以外にはあり得ない、ということだ。
現在、業務ロジックもシステム・ロジックも両方システム部門のSEが担当しているが、業務ロジックは要請元の本社専門部署自らがコンピューターにインプット出来る道を拓き、SEは本社の作った業務ロジックが旨く稼動するための全システム条件(システム・ロジック)を整える役割に特化するのだ。
つまり、SEが業務専門家からシステム化に必要な知識を教えて貰いながら、業務システムや戦略システムを作り上げる役割を終え、業務の専門家が直接、業務ルールや規程や算式(以上業務ロジック)をコンピューターにインプットする、分かり易い仕組みをシステム部門が構築し維持発展させることが、今後のシステム構築の形だ。
こうすることにより、業務ロジックに拘わる膨大なソフト外注費は、基本的に不要になる。加えて、現在の巨大化したシステム部門の要員は縮小可能になるので、当面、新しいやり方が定着するまでの間、SEは本社所管本部に異動して、業務ルール等各種規程の明確化と、そのコンピューターへの登録管理を指導して、本シ協同(本社所管部門とシステム部門の協同)のシステム構築の実を挙げることが可能となる。勿論、本人希望により一般人事異動対象者とすることも可能になる。
システム部門も、会社のシステムは全て自分達が作れるという妙なプライドと幻想を捨て(その限界はかなり前に露呈していたことを素直に認め)、今こそ、次の時代の企業システム構築のあり方と展望とを切り拓くべき時である。
我々団塊世代が果たせなかった、金融機関システムに於ける歴史的未解決課題の解決を、現世代の指導者に託す以外ない仕儀に相成り誠に相すまぬ思いながら、これは経営の根幹に関わる問題(経営の投資可能限度額を超えるシステム・コスト、SE要員のシステム貼り付けによる人事の硬直化・非効率、経営者にとってブラック・ボックスのシステム部門等々)であり、会社として、経営上の最大の重石を取り除く観点から、システム構築方法の歴史的転換を急ぐという認識に立って頂くよう是非ともお願いしたい。
と言われても、些か雲を掴む話のように聞こえると思う。そこで、実は我々が過去に同じ目的の試みを行なっており、そのトライアルに成功した事例があるので、少しでも今後のヒントになればと思い、下記に述べることとする。
12 月 10, 2009 No Comments
細分化と全体像(3)
金融機関のシステム部門を一つに括って語ることは、多分出来ないのだろうとは思うが、少なくとも汎用大型機を中心にしたシステムを保有しているところは、大なり小なり、述べて来たような問題点を抱えている筈だ。
そして、システム部門、或いは、システム子会社合わせて、直雇の社員が1,000名を超える陣容の会社も少なくない。その殆どが、述べて来た「未解決歴史的問題」、即ち、
システム巨大化 → 部門巨大化・組織細分化 → システム全体像
把握不能SE群排出 → システム・メンテナンスで忙殺 → 新システム
構築機会激減 → 次世代システム等のグランド・デザイナー育成不能
を抱えている。
システム部門も過去40年の間、この問題に対して手を拱いていた訳ではない。システム開発手法の変革を求めて様々な試行錯誤を繰り返したし、システム構築に関する様々なルール(文書化の義務付け等々)を制定して、他の人に、或いは、後進にも理解し易いようにと務めて来た。
だが、残念ながら、システムの巨大化と複雑化のスピードが上回り、上記の問題を解決したとは言い難いのが現状であろう。そろそろ、金融機関の巨大なシステム・巨大なSE陣容・巨大なコストからコンピューター・システムを開放しないと、下手すれば日本経済浮揚の足枷となりかねない。
そこで時代を画するシステム部門のあり方やシステム構築のあり方について、思い切った提言なりヒントなりを提供してみたい。
【提言】
会社にとって必要なシステムの構築は、全てシステム部門が請け負うという、コンピューター導入以来貫いて来た考え方から、そろそろ卒業したら如何だろう。最早企業システムは、システム部門が全部門からシステム化依頼を一手に引き受けて開発出来る限界を超えたと認めるべきであろう。SEが本社専門部署と同じように、幾つもの業務の専門性を身に着けるのは、スーパーマンでもない限り不可能だからだ。
システム化に必要な業務ルールや各種規程は、SEが、それを理解して(と言っても皮相的・生分かり的な理解で)コンピューターにそのロジックを教え込むのではなく、餅は餅屋、それは一番良く分かっている本社所管部門(専門部署)に任せ、システム部門はその業務ロジックがシステムとして旨く稼動するよう、プラットホームや道具を提供する側に回るということ。
余談ながら筆者が金融機関の現状を巨視的に見れば、本社各専門部署に業務の専門家が多数おり、また、システム部門にもSEと称する業務の専門家(但しシステムに関係する箇所だけを良く知る似非専門家)が大勢いると映る。この二重構造だけでも金融機関の高コスト体質の一大要因と見る。少なくとも片方、似非専門家集団は要らない。
12 月 9, 2009 No Comments
細分化と全体像(2)
そこで生活の知恵のようなものだが、巨大システムをサブシステム毎に分け、夫々の担当チームを作り、取り敢えずそのサブシステムに精通するようにして育成する。更に、ハードウェアやOS等ベースソフトは各サブシステムから分掌を外し、専門チームが一括引き受け、同じように、システム運用も専門チームが担当するようになる。
その結果、何が起きたか? 細分化された担当箇所には詳しいがシステム全体が分からないSEの誕生である。完全に歯車の一つと化したSEの大量排出が始まったのである。「群盲、像を撫でる」の図である。
システムは生き物だ。その時その時代の要請や環境変化に合わせて、システムを変更しないと直ぐに使い物にならなくなる。システムが巨大になれば、システム・メンテナンスの必要箇所も多くなるし、その頻度も高くなるから大変だ。
更に拙いことに、既に触れたように、システムの全体像が分からないSE達がシステム変更するので、該当のサブシステムの変更は目的には適っているとしても、その変更が、他のシステムに悪影響を与えるかどうか、どのような悪影響が出るかは、やってみなけりゃ分からないという、とても恐ろしい状況に突入するのである。
このことが、簡単なシステム変更でも、事前調査(どうすれば他のシステムへの影響を最小限に食い止められるか)や、変更に対して他に影響が出ないことをどうシステム・テストで証明するかなどを詰める必要があり、メンテナンス工数を以前に比べ桁違いに大きく膨らませた。システム部門の大部分のSEは、既存システムのメンテナンス要員(線路保安員)と化し、極少数の人間しか新規システム構築に割けないようになるのだ。
システムがまだ企業内で小さな位置付けでしかなかった頃、システムも小さいから、人数は今からは想像も出来ないくらいの少人数(SEとしては数十人規模)だったが、新システムの開発はどんどん進んだ。
それが、会社経営上不可欠な存在となり、企業戦略の推進にも不可欠なものと、社内の位置付けを高めたシステムであるのに、或いはまた、SE数も嘗ての10倍20倍の陣容を誇るようになったのに、システム・メンテナンスに忙殺されて戦力を振り向けられず、新システム構築が難しいという大きなパラドックス。
新システム構築を経験する機会も無く、会社システムの全体像も掴めないSEが増えて行く。現状のシステムの全貌が分からないということは、次に目指すべきシステムの青写真や設計が出来ないということ。大規模システムや次期システムの絵を描けるSEが育たない。
大勢のSEが社内に存在するのだから、本当なら、グランド・デザイン力を持ったSEがもっともっと数多く誕生していないと可笑しいのだ。ここに、金融業界のシステム部門特有の未解決な歴史的課題が存在する。
12 月 7, 2009 No Comments
細分化と全体像(1)
僕は約40年、保険システムに関わって来た。保険会社に初めてコンピューターが導入された昭和40年代前半、システム部門のSE達は、ハードウェア・ソフトウェアの別なく学習し、知悉しないと、具体的な業務プログラムは作れなかった。
更に完成したシステムのシステム運用も自分で行なった。また、最初からパンチャー集団はいたが、緊急時や深夜はSE自らカード・パンチしないと仕事にならなかった。
だから、自分の担当するシステムがトラブったり、不都合が生じた時、その原因を追及するのは、それがハード・ソフト・運用のどの箇所の問題であっても、自分の責任範囲だった。
つまり、1つの業務システムを開発し稼動させようとするのに必要な全てのシステム条件習得はSE個人の必須課題で自己責任だったから、逆に言えば、ブラック・ボックスが生まれようもなく、対外的には自信満々で応対出来ていた。
そういう意味では、4月に新入社員として入社し、システム部門に配属された人間でも、その年の秋には一人前のSEとして、大きな顔をして仕事していたものだ。
最初は、統計システムや人事給与システム程度の全体が小さいシステムだったから、自分の担当外の業務システムも概要を聞けば凡その見当はついた。
それが、徐々に大きなシステムになって行くに従って、システム全体像がぼやけ始める。
営業現場の事務員が行なっていた事務処理を機械化し、更に、その先にいる代理店のシステムを開発し会社システムと接続、更に更に、直接顧客がインターネットで会社のウェブ・システムにアクセスして情報処理を行なえるようになる。
事務手続きと呼ばれるものが全てシステム化され、コンピューター・システムを会社の戦略的位置付けに引き上げ、様々な戦略システムが構築されるようになると、システム部門のSEの人数も、揺籃期の20倍に及ぶ大組織になって行った。
その殆どの時間をシステム部門で過ごした者達にすれば、確かに最初の頃に比べれば巨大な化け物と化した現在のシステムでも、夫々のサブシステムの開発に何らかの形で携わっているから、その必要性とシステム機能は分かっているから、細部は調べなくとも推測は出来る。
問題はシステムが充分大きくなった後、システム部門に配属された人達だ。
システム部門創成期から30年・40年掛けてシステムを巨大化させて来た僕等世代のSE達と同じように、今、入社して来る人達に対して、5年・10年でシステム全体を把握せよ、と言っても酷なこと。最早それは不可能な巨大さになっている。正にマンモスなのだ。
12 月 4, 2009 No Comments
お通夜
先週金曜日にお通夜に行って来た。会場は、南大沢の葬儀場だった。おじさんバンドでコンガを叩いているヨッ君のお母様が亡くなられたのだ。ヨッ君は、前の会社(システム会社)で直属の部下の一人であったが、執行役員として、技術面、運用面で僕を全力で支えてくれた人だ。
以前、当ブログでも書いたが、会社合併の進発パーティー終了後の2次会で、10数名が予約なしで入れる店はここだけ、と言ってヨッ君に連れて来られたのがクーペの店(Stand By Me)だった。それが「クーペ&Shifo」との初めての出会いだった。僕はその後、会社のバンドに入って若い社員と一緒に、35年振りにドラムをやるようになり、ヨッ君と一緒にクーペの店に行った時は、Shifoやクーペとセッションさせて貰うようになって行った。
だが、ヨッ君は生まれてこの方、楽器というものに全く縁がなかった。いや、彼の奏でる楽器が1つだけあった。若い頃、髪をリーゼントに決めて乗り回していたバイクの轟音は彼の原点だ。だけど、店ではいつも僕の下手くそなドラムを聞きながら飲むしかなかった。
そんなヨッ君を見て同情(‘部下はつらいよ’)したのか、ある時Shifoがヨッ君に「コンガが欲しいんだけど」と言った。聞きようによっては「今度競馬に勝ったらコンガを寄付して」とも聞こえるし、「ヨッ君、コンガやりなよ」とも聞こえる。
「いいよ」とヨッ君、いとも簡単に答える。
「幾らくらいするものなの?」
「ピンキリだけど、数万円で結構良いのが手に入ると思う」とShifo。
「じゃ、探して貰って決まったら連絡してよ」
「いいの? ヨッ君がやるんだよ」
「いいよ」
実にあっさり決まってしまった。僕は心配になり翌日会社でヨッ君に本音を質した。
「本当にコンガやるつもりなのか? 単なる客が店にプレゼントするにしては1桁違うからね」
「自分に出来るかどうか分かんないけど、神童さんのように僕も音楽やってみたいんです」
「本気なんだな?」
「はい」
「分かった」
それ以来、僕がヨッ君を無理やり(下手なドラムを聞くくらいなら自分でやった方がマシの意)音楽の道に引きずり込んでしまったようで、果たして良かったのかどうか気にしながら「おじさんバンド」で一緒にやっていた。
そんな中で、3年ほど前、地元のアウラ・ホールという場所で、「クーペ&Shifo」と「おじさんバンド」がコンサートを開いた時、ヨッ君が、奥様と奥様のお父様、それにヨッ君のお母様を招待したことがあった。
ヨッ君が全員を僕に紹介してくれた時、お母様が「お仕事で大変お世話になっておりますのに、賭事しか知らないヨシオをこうして音楽の世界にお誘い頂き、本当にありがとうございました」と深々と頭を下げて感謝されたことがあった。大変嬉しかったことを思い出す。そのお母様が80歳で黄泉の国に旅立たれたのだ。
僕も昨年母を亡くしている。男の子にとって母親はいつまで経っても母親で、自分が還暦を迎えてもなお母は母だったことを痛感した。その4年前に父親が死んだのだが、その時は、僕は、悲しみよりも「已む無し」の思いの方が強く、一滴の涙を流すこともなく喪主(代行)を淡々と務めたが、母の時はそうは行かなかった。
喪主挨拶で言葉が詰まり、必死で涙を堪え挨拶をし終えた。そして、葬儀も無事終了、初七日が過ぎた頃から、今度は、何とも言えぬ喪失感と共に、幼い頃から最近までの母とのあれこれがやたらと思い出されて辛かった。この歳になっても、母の死がこれ程悲しいと感じるとは、些か以外であった。
ヨッ君も、多分これから居た堪れないほどの喪失感を感じるのだろう。お父様とは幼い頃死別して、事実上お母様に女手一つで育てられたヨッ君だから、それは僕の比ではないかも知れない。僕の場合は「おじさんバンド」とそのメンバー達に救われた。音楽活動はいい。音楽の力は、悲しみや苦しみや心の傷を癒すと言うのは本当だった。
ヨッ君! 「おじさんバンド」は君が戻るのを待っているよ。
12 月 2, 2009 No Comments

