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イタリア旅行(6)
北イタリアの古い町、シエナ、サンジミニヤーノ、ベローナ。これらは、町全体が歴史遺産となっていて、建物も何百年も前に建ったものが多く、中世の趣きのまま今日に至っている。町を敵から守る外壁は、さながら中世の城壁のようだ。
人々はその古い建物の中で今も生活し、店を開いている。建物内は当然改築して使っているが、外側は勝手に直せないらしい。
日本の地方都市でも、続々と武家屋敷の町並みやレトロの町並みなどを再現して、観光で町興ししているが、それは町全体ではなく町の一角だったり、その武家屋敷も今も人が生活している訳ではない。イタリアの古い町のように、全ての建物が歴史遺産で、新しい建物が一軒もないという徹底振りには驚かされる。
シエナは、小高い丘全体が町になっていて、麓から頂上まで、中世風の建物でギッシリ埋まっている。その頂上部分に高い鐘楼が建っている風景は、まるで、ヨーロッパの中世を描いた映画の1シーンを見ているようだ。
ベローナという小さな町は、シェークスピアの「ロミオとジュリエット」の舞台となった場所だった。恥ずかしながら僕は、ベローナに来るまで、「ロミオとジュリエット」は架空の物語だと思っていたし、舞台はイギリスだと思い込んでいた。
実話だった。そして、ベローナの中心地に、今もジュリエットの生家が残っていて、その建物には、ジュリエットがロミオと愛を語った場所を思わせる窓辺もある。家の前には、ジュリエット像(銅像)が立っていて、観光客用の写真撮影スポットになっていた。
可笑しいのは、ジュリエットの右胸を触ると、素晴らしい愛が生まれるとされていて、みんなが触りながら撮影するものだから、右乳房部分だけ、ピカピカに光ってることだった。郷に入っては郷に従えの喩えの通りに、僕も右胸に触りながらカミサンと写真に納まった。
それにしても、と思う。シェークスピアはイギリス人なのに、「ベニスの商人」にしろ「ロミオとジュリエット」にしろ、どうして、イタリア舞台の戯曲を書けたのだろう。16世紀は今と違って、イギリスとイタリアは途轍もなく遠かった筈なのに。
彼はイタリアに住んだこと、あるのかな?
5 月 17, 2010 No Comments
凄いパーティー
会社のある大先輩が、早稲田大学の博士号を取得され、そのお祝いのパーティーに参加して来た。大先輩も大先輩で、御年78歳での取得だから頭が下がる。決して名誉博士号のような、功成り名を遂げた人物に贈るものではなく、れっきとした学術論文による博士号取得だからだ。
テーマは保険の「被保険利益」に関する考察。早稲田大学の教授達の挨拶から察するに、かなりレベルの高い論文だったようだ。ご本人は、学生時代から学者の道に入りたかったと述べておられるが、ご実家の倒産などがあり、已む無く就職をされたそうだ。
それにしても、大学卒業から55年も経って、初心を忘れず遂に博士になったというのが凄い。挨拶に立った早稲田大学の元総長が言われた。「実は彼のご子息が、早稲田の若手学者のエースとして頑張っておられるが、父子揃って博士号を取得されたのは大変珍しい。そういう場合でも、お父上が先に取得され、子供がそれに続くというのが普通だが、彼の場合は逆である。これは初めての快挙ではないか」と。会場が笑いに包まれる。
問題は、お祝いに駆け付けた政治家がやたら多いことだ。渡辺恒三(元衆院副議長)、森喜郎(元総理大臣)、赤松広隆(農水大臣)、衛藤征士郎(衆院副議長)、渡辺喜美(みんなの党党首)等が駆け付けてスピーチをしていた。渡辺喜美を除いては、彼が学生時代に所属していた早稲田大学雄弁会で、一緒だった人達や、その後輩達らしい。
民主・自民・みんなの党入り乱れて、お互いをくさしながら笑いを取る、肩の凝らないスピーチだから、聞いている分にはとても面白いが、これだけ大勢の有名政治家を集めると、「78歳にして博士号取得」という快挙に素直に敬服するよりも、何だか「凄い人脈の持ち主」ということのアピールかと感じてしまうのは、凡人のひがみか。
僕がまだぺいぺいの頃、役員としての彼の訓示を初めて聞いた時、彼の演説のトーンと、青春についての言葉が強烈に印象に残った。その後、度々、彼のスピーチを聞く機会があったが、必ず同じ言い方でスピーチを締め括っておられたので、僕も覚えてしまった。
「青春とは人生の一時期を指すのではありません。心の若さを言うのであります」
大きく、良く通る声で、流れるような名調子でこれを言われる。今回も謝辞でこの得意のフレーズを語られた。「これからも私は、心の若さを保って生涯努力、生涯現役を貫いて行きたいと思います」との言葉と共に。本日参加しているどの政治家よりも演説らしい演説だった。
5 月 15, 2010 No Comments
イタリア旅行(5)
さて、ローマ以外で記憶に残った所が幾つかある。順不動で思い出しながら書いてみたい。最初はミラノ&カプリ島。
ローマの3日目は、一日中、自由行動日に当てられていた。今回のツアーは、南北に長いイタリアのほぼ中央のローマを皮切りに、北部イタリアを旅するルートだから、南には行かない。カミサンと相談して、もうイタリアに来ることはないだろうからと、この際、ナポリ&カプリ島・青の洞窟に行くことに決めた。
ナポリはローマの南約200kmと結構離れている。カプリ島はナポリから船で更に50分くらい掛かる地中海に浮かぶ島だ。ローマからの日帰りの小旅行となる。このツアーを選択した組は結構多く、僕等を含めて18人ほどだった。
バスは、一路南へ。高速道路は車種によって制限速度が違うのだそうだ。乗用車は時速120km、バスは100km、トラックは80km。実際の走行を観察してみたが、何かとルールを無視するイタリア人だが、バス運転手もトラック運転手も、ちゃんと守ってる。
ガイドは、スピード違反で免停になれば即失業となるので、職業運転手は必死に守ると言う。捕まるのは大抵個人ドライバーだそうだ。しかし、トラックが大変多い区間でも、トラックは80キロ以上出せないから、まず、追い越し車線を走ることがなく、乗用車は120キロで追い越して行くことが出来る。それだけ、ストレスを感じないで済むので、スピード違反も事故も少ないのではないかと思った。
ナポリに着いた。ナポリの意味は「ネオ・ポリス」。ギリシャ語で「新しい都市」。全盛期のギリシャの植民地として始った古い町なのだ。だからなのだろうか、ナポリの旧市街地は本当に古めかしい。昔ながらのアパートも壁の一部が剥がれ落ちていて、大丈夫かと思うほどだ。こういう所で、大女優ソフィア・ローレンが生まれたのか。逞しい筈だ。
ナポリ湾から、ポンペイを溶岩で埋め尽くしたベスビオ火山を望む景色が、鹿児島の錦江湾から桜島を望む風景と酷似していることから、両市は姉妹都市になっている。ナポリ市内に「鹿児島通り」という名の通りもある。ナポリは「月影のナポリ」に歌われた風光明媚な所。イタリアでは、「ナポリを見てから死ね」と言われる。だが、最近は「ナポリが死ぬ前に見ておけ」と皮肉られているらしい。
ベスビオ火山は昔7千m級の山だったらしいが、ポンペイを埋めた大爆発で、高さの3分の2を失ったという。「行こう、行こう、火の山へ」で日本でも有名なカンツォーネ「フニクリ・フニクラ」は、このベスビオ火山を登る登山電車開業時のCMソングだったと聞き驚いた。
さて、いよいよ高速艇でカプリ島に向かう。カプリ島は、ヴィトンやヴァレンチノなど大金持ちの別荘がある高級リゾート地としても知られている。ナポリ港から約50分の航路。ローマからナポリまで決して天気は悪くなかったのに、島に近付いたら一気に天候が悪化して来た。どうやら雨も降り始めたようだ。上陸した後、ガイドから、「青の洞窟」は閉鎖されてしまったことを知られた。
若い時「雨男」と呼ばれた僕も、50歳過ぎた頃からは典型的な「晴れ男」を自認していたのに、何てことだ。ツアー一向、落胆の色を隠せなかった。こんなことだったら、ローマに止まって隅々まで見て廻るんだった、とみんなの顔に書いてある。きっと、今日は「雨男」「雨女」の数が圧倒的に多かったんだな、仕方ない。
ガイドは、「こういう場合に備えて、別の観光を用意してありますからご安心を。船で、カプリ島を巡ります。これもなかなか見応えがありますから、期待して貰って良いですよ」という。僕等に他の選択肢はないので、それに従うしかなかった。
海の波が作った、変化に富んだ断崖を間近かに見ながら、段々みんなの機嫌が直って行った。確かに、自然のまま保存され、人間の手が全く加えられていない島の景色が、素晴らしいのだ。小さな洞窟があった。船員は「白の洞窟」と言った。岩の白肌が綺麗な洞窟に船が近付いてくれた。次に「赤の洞窟」。珊瑚礁の赤茶色が反映した洞窟。
そして、島の最先端の崖の上に、突然、赤い屋根の建物が見えて来た。初めての人工物。船員が「あれが、映画『太陽がいっぱい』で、若手実業家とその恋人、それにアラン・ドロンの3人一緒に過ごした別荘のシーンに使われた建物」だと説明してくれた。
船が先端を少し回った所で、その建物から、崖に沿ってジグザグに階段が作られていて、海辺には、小型ボートやヨットが接岸出来るくらいの平らな石畳があった。それを見た瞬間、映画のシーンをおぼろげに思い出した。確か、彼等はヨットをそこに着けて、階段を上がって行ったんじゃなかったかな。
何だか、予期せぬ収穫を感じて幸せな気分になった。「青の洞窟」は見られなかったけど、「白の洞窟」や「赤の洞窟」、その上、「太陽がいっぱい」まで見られたから、良しとするか。日本に帰ったら、早速「太陽がいっぱい」のビデオを借りなくっちゃ。
5 月 14, 2010 No Comments
イタリア旅行(4)
ローマ2日目の午後は、バス移動による市内観光。テベレ川を東に渡り、いよいよローマの中心地、沢山の遺跡群を訪ねるのだ。最初に見えて来たのは、古代ローマの中心地、ベネチア広場。
ローマ帝国の時代、「全ての道はローマに通じる」と言われたが、沢山の道がローマの一点に集まる。それがここベネチア広場だ。15世紀にこの広場に面した宮殿を、ベネチア出身の教皇パウロ2世が居住殿とした(また、その後ベネチア共和国の大使館となった)ことから、ベネチア宮殿と呼ばれるようになり、広場の名前の由来になった。
広場の南には、西暦1900年頃に建てられた、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂がある。超巨大な白いウエディング・ケーキを思わせる建造物だ。この記念堂は、ローマ帝国崩壊後、何世紀もの間、幾つもの小さな国家に分裂していたのを、再び統一し近代イタリアの元を築いたエマヌエーレ2世を記念して建てられたものだ。
紀元前の遺跡が沢山現存するローマでは珍しい、つい最近の建物である。個人的印象では、その建物、沢山の装飾品、騎馬に乗ったエマヌエーレ2世の像、その全てが真っ白で馬鹿でかくケバケバしくて、何だか鼻に付いた。遺跡じゃないんだから、もっとシンプルな美しさを醸し出せば良かったのに。
次に、直ぐ近くのホロ・ロマーノと呼ばれる、古代ローマの政治の中心地を、バスの車窓からゆっくり見て、コロッセオ(コロシアム、競技場)で下車した。
歴史の教科書その他でその写真は何度となく見ているが、こうして現物を目の前にすると、遂にローマに来たんだという感慨が湧いて来るから不思議だ。肉眼で見た第一印象は、想像を超える大きさだということ。どうやっても建物全体がファインダーに収まらない。
感じとしては、東京ドームや国立競技場を外から見上げるのと同じだなと思った。それを西暦80年、2千年近くも前に作ったのが凄い。そして、当時の競技場では、人と人、人と猛獣などが戦い、どちらかが死ぬまで死闘が繰り広げられた。それを何万という観衆が興奮しながら見届けたという。
その血を引いているからだろうか、今日でもイタリアの熱狂的なサッカー・ファンが競技場のスタンドで大騒ぎする場面が浮かんだ。
コロッセオの直ぐ近くの凱旋門(4世紀の建物)は、ローマ・オリンピックのマラソンで、あのアベベが裸足でゴールした凱旋門だとガイドが教えてくれた。中学の頃、ローマ・オリンピックの記録映画か何かで、夜の凱旋門に走りこむアベベを見た記憶が蘇える。
次に目指した所は、トレビの泉。カミサンと2人で後ろ向きにコインを投げ込んだ。カミサンの願いは、息子夫婦に元気な赤ちゃんが生まれますように、また、娘がそろそろ結婚してくれますように、だった。
僕のは、「クーペ&Shifo」が何とか世に出ますように、今の小さな保険会社が軌道に乗りますように、だった。カミサンに言われた。「何で子供達のことじゃないの!」。「あぁ、そうか」。僕は、再度十円玉(日本円)を投げ入れて子供達の幸せをお願いした。だけど十円じゃぁ・・・ねぇ。
トレビの泉から徒歩でスペイン広場に移動。あの妖精のようなヘップバーンが「ローマの休日」のロケを行なった場所。広場は映画当時のままだった。嬉しいものだ。
2時間の自由時間の後、バスでホテルに戻った。僕等の「ローマの休日」初日はこうして終った。
5 月 13, 2010 No Comments
人間ドック
2年振りに人間ドックに行って来た。2年前、退職直前に診て貰ったのと同じ医院(クリニック)に行った。前の会社で産業医をお願いしていたところだ。僕は、経営責任者として、社員全員に年1回の人間ドックを受けさせる義務を負っていたから、口煩く受診を促して、98%受診という好結果を生んでいた。
が、僕自身は、それまで12年も人間ドックを受けていなかった。別に健康に自信があったのではない。仕事が忙しくてそんな暇が無かったというのでもない。単に、計器のお世話にならなくても、自分の健康状態は自分が一番良く分っているといった、医者に対する不遜な考えだった。
でも、その産業医に、SE特有の鬱病など、部下の相談で大変世話になった手前、現役を退くに当って一度だけ僕も人間ドックでお世話になることにしたのだった。
その時は、自分の想像した通り、特に酷い箇所は見付からなかった。尤も、幾つかの数値は上限一杯だったり、ほんの少しオーバーしていたから、先生からは、「この数値がこれ以上上がらないように食事には注意して下さい」と言われてしまった。
深刻になる必要はないけれど、毎年人間ドックで経過を見ないといけないとも言われていた。だが、忘れた。
しかし、この1年、蕁麻疹が長引くわ、正月に増えた体重が一向に落ちないわ、極く近しい仲間が3人も亡くなるわで、僕も自分の健康管理に初めて問題意識を持った。そして先生の言葉を思い出した。思い出してみたら2年経っていた。
今回、ドックの最後に先生の診断結果のお話しがあり、僕にこう尋ねた。「2年前と何か大きな環境変化がありましたか?」。僕は、前の会社を辞めて、今は新宿の会社に通っていると答えた。
「その環境変化が神童さんの場合、良くない方向に進んだようですね」
「と言いますと?」
「これは腹部の超音波の画像ですが、肝臓に脂肪が溜まり始めています。2年前はこの通り全く問題なかったのに。ここは、肝臓と腎臓の境界ですが、普通はお互いの皮がピタッとくっ付いている状態なのですが、少し、隙間がありますよね。これも脂肪です」
「そうですか、やっぱり。正月に太ったきり、体重が落ちないから、そうじゃないかなと思って人間ドック受けに来たんです」
「運動は何かしていますか?」
「たまにゴルフをやるくらいですね」
「スコアはどのくらいですか?」
「とても人様に言える腕前じゃありません」
「最近はゴルフ場もカートで回りますから、あまり運動になりません。特に100を切っている人はね。110以上の人は運動になりますが」
何か、嬉しいような嬉しくないような。
「寧ろ、毎週ゴルフ練習場に行って、汗だくになる位に打ち込むことをお勧めします」
そう言えば、現役時代は休日出勤も多く、そうそうゴルフに行くことも出来なくて、その分、練習場によく通ったな。今はゴルフ場に行く時間的ゆとりが出来た分、練習場から遠ざかってしまった。
昔80台で回れてたのが、今じゃ100を切るのも難しくなっちゃたから、もう一度練習場で、一から作り直しましょうか。
5 月 12, 2010 No Comments
イタリア旅行(3)
昼食は、大きなイタリアン・レストランでピザを頬張った。僕は若い頃から、どういう訳かイタリアン料理はパスタよりピザの方が好きだったから、本場のピザには大いに期待していた。
添乗員が、店員に代わって、飲み物の注文を取るに当って、「イタリアはワインが美味しいですよ。ビールはドイツと違って、そんなに評判は良くないみたいですけど、あることはありますので試してみて下さい」と言う。
天邪鬼な僕は(本当はビール好きな僕は)、「ならば」と、ビールを注文し、ミックス・ピザを頼んだ。カミサンは全く飲めないので、ジュースとシーフード・ピザを注文。何せ38人もいると注文を取るだけで結構時間が掛かる。
先にビールが出て来た。それは青い小瓶だった。だから見た感じはビールらしくない。何かの清涼飲料水かと見紛う。が、飲んでみたら間違いなくビールだった。評判が良くないと言うから、独特の嫌な味がするのかと思ったが、なかなかどうして、日本のビールと変わらない。これはいけるよ。
あらかた、ビールを飲み干した頃、やっとピザが出て来た。ピザの大きさはとんでもなく大きい。日本で食べる大き目のピザより更に二回り大きい。だが、それに引き換え具は極めて少なく薄い。食べた。期待外れ。全体的にカリカリ、チーズのとろけるような旨さが伝わらない。何より、隠し味のような、何か重要な味付けが足りない気がする。
2切れ食べたところで、飲み物が欲しくなった。イタリア人店員に「アクア・ピッコロ」と小瓶の水を注文したが、「アクア・グランデ」(大瓶の水)しかないと言う。仕方ないからそれを注文したら、一升瓶のような瓶が出て来てビックリ。とても我が夫婦だけでは飲み切れないので、同席した他のツアー・メンバーにも飲んで貰った。
このレストラン、小瓶の水が3ユーロ(400円弱)、大瓶で5ユーロ(650円弱)掛かる。日本は何処の店でも水はタダだから、日本の有難みをしみじみ思う。因みに、ビール小瓶は5ユーロだったから、水ではなく、もう1本ビールを頼んだ方が良かったかな。
デザートに出たフルーツも、やたら甘味の効いた缶詰様のもの。僕にはとても食べられる代物ではなかった。イタリアの食べ物は、日本人にとって口に合う方だと聞いていたのに。やれやれ。次に期待しよう。
5 月 11, 2010 No Comments
イタリア旅行(2)
イタリア旅行記を書くなら、ローマは絶対に外せないだろうな。成田から約12時間掛けて、僕等の乗ったアリタリア航空機は、ローマ近郊のフィウミチーノ空港に夕方6時丁度に着陸した。
今日は、ホテルに直行して、明日から観光が始まる。ローマは同じホテルに3連泊だから、その間荷物整理しなくて済むので気が楽だ。
ローマ2日目は、一日中市内観光の予定になっている。午前中は、ローマ市内を流れるテベレ川の西側一帯の地区、バチカン市国観光だ。僕らは最初に、バチカン美術館に入った。長い廊下の左右に、古代ギリシャやローマ帝国時代の彫刻のコレクションがところ狭しと並ぶ。
廊下で立ち止まってガイドの説明を聞いていると、その脇を「エクスキューズ・ミー」と言って、白人のツアー一行が通り抜けて行く。かなりの混雑ぶりだ。
有名な彫像が所々に建てられている中庭で少し休んでから、再び建物内に入り、システィーナ礼拝堂の中に入った。中はそれこそ大勢の観光客で埋め尽くされていた。事前に私語を慎むように指示されていたが、小さな声で話しても大勢がしゃべるから、結構ザワついている。
また、システィーナ礼拝堂は写真禁止とも注意されていたのに、たまにフラッシュが焚かれて明るくなる。間髪を入れず、「写真禁止です!」と、(勿論イタリア語で)制服を着た係員が大声で注意する。
この礼拝堂は、ローマ法王を選ぶ時、この部屋で法王選挙(コンクラーベ)を行い、決定したら部屋の一角で物を燃やして煙突から煙を出して人々に知らせることで有名だ。
部屋の天井にはミケランジェロが4年も掛けて描いた絵「創世記」と、やはりミケランジェロがパウロ3世に命じられて、450日を費やして描いた「最後の審判」が色鮮やかに蘇っていた。ガイドの説明では、これらの絵の修復は日本人の技術により成功したのだということだった。
ツアー客の誰かが、「イタリア人はそのことを知っていますか?」とガイドに質問した。「いえ、知らないと思います。元来教会は、人々のボランティアで成り立って来ました。ですから、バチカンは伝統に従って、それを一切発表しませんので」とガイドが言う。
その日は、法王がサン・ピエトロ寺院で公式行事があったので、残念ながら中には入れなかったが、サン・ピエトロ広場では、沢山の列席者を前に法王が演説していた。
テレビで何度か見たあの方が、肉眼では豆粒のように遠くに見えるが、モニターの大画面では、慈父のように語り掛けていた。寺院の中には入れなかったけど、ローマ法王の声と姿に直接触れることが出来たから良しとしよう。
5 月 10, 2010 No Comments
アドリブ
昨日、東京郊外の「ひじり館」というところでコンサートをやって来た。GW明けということもあり、沢山溜まった業務で多忙を極め、おじさんバンドは、純次さん(ベース)、大森教授(ピアノ)、それに僕(ドラム)の3人しか参加出来なかったが、本当に楽しかった。
第一部は、クーペの提案により、いつものようにShifoのピアノの弾き語りで始まるのをやめて、いきなり、おじさんバンドの演奏からスタートしようということになった。
曲は「マイアミ・ビーチ・ルンバ」。ルンバを演奏するには、パーカッションが何もなくて少し淋しいのだが、Shifoがシンセサイザーによるビブラフォン演奏でサポートしてくれたから、何とも上質な雰囲気が生まれた。
そして、大森教授のピアノ・アドリブ。今日のお客さんはとてもノリが良く、最初、僕等がステージに登場しただけで大きな声援と拍手が沸き起こった。そんな乗せ上手の観客が、大森教授を一気にハイテンションに持ち上げた。
普段聞いたこともない縦横無尽な旋律。こればっかりはどう表現して良いか困ってしまうが、それこそ、鍵盤の上を10本の指が勝手に走り回っているようなアドリブ。その反映だろうか、僕も純次さんも気持ち良くリズムを刻めている。
そしてアドリブの最後。大森教授が2拍3連のリズムで決めにかかる。通常は5拍目が全員ピタッと合えば格好良いのだが、先生、1小節前から2拍3連に入ったから、9拍目が勝負だ。そんな練習していない。
大森教授は30歳の頃まで、銀座のバーやクラブでプロとして活躍していた人だが、僕と純次さんはアマチュアだから、この辺り、僕等にとって相当難易度が高い。が、奇跡的にピタッと揃った。揃うとこれが凄く気持ちいい。
一部終了後、大森教授に、「一曲目から今日のアドリブ、凄かったね」と言ったら、「お客さんに乗せられたというのもあるんだけど、今日はベースとドラムのリズムがピタッと合っていたから、僕は勝手に遊ばせて貰えたんです。そういう意味では、お2人に感謝ですよ」と言ってくれた。
ベースとドラムが不安定な時は、ピアノも急遽リズム楽器になるのだそうだ。今日はその逆。たまにこういうこともあるから、バンドはやめられない。
二部は「クーペ&Shifo」の二人だけの演奏がメイン。終盤からおじさんバンド、美女軍団(美女バンド)も加わって第二部が終了。アンコールとなり1曲演奏。
客席が大いに盛り上がり、アンコール曲を終えても拍手が鳴りやまない。2曲目「聖者の行進」。まだ解放してくれない。「アンコール! アンコール!」。3曲目「ハウンド・ドッグ」。会場から「まだ、まだ。今夜は帰さないわよ!」とおば様達の声。Shifoが「それでは、本当に次ぎの曲が最後の最後です。『家に帰れないお父さん』」。
クーペの台詞入り面白ソングだ。会場は沸きに沸いた。やっと皆さん、満足され、解放してくれたのであった。
終了後は、主催者の会の地元の主婦の皆さんが、前の日から仕込んでくれた沢山の料理に舌づつみ。手作り接待をしてくれた。玉葱の特上スープにマリネに春巻き。野菜の煮付けに赤飯お新香。美味しかったの何のって。そして、こんなに旨いビールは飲んだことがない。高揚した気分で頂く手作り料理。元気の素を頂いた。
5 月 9, 2010 No Comments
イタリア旅行(1)
先月、イタリアを旅行して来た。前の会社を退職した時、カミサンに言われたのだ。「毎年一回の海外旅行に必ず付き合うこと。それ以外は何をしようと好きにしていいから」。
国内の旅行は2泊・3泊が普通なので、カミサンと何回か行っているが、海外旅行となると1週間以上となるから、現役中はなかなか休めなかった。その間、カミサンは娘と2度ほどヨーロッパ旅行を経験しているし、僕も仕事では何度か出掛けているけれども、カミサンとの海外旅行となると新婚旅行以来皆無だった。
そんな訳で、僕の現役引退を待っていたかのように、カミサンが先の宣告を行なったのだ。僕も外で、勝手にライブをやったり、演奏旅行に行ったり、飲み会に行ったり、ゴルフに行ったりと、好きにさせて貰う必要上、カミサンの提案に文句なく賛成したのだった。
最初の年(一昨年)は、僕の卒業旅行を兼ねてカナダに行ったのだが、昨年は僕の蕁麻疹が長引いてしまい、遂に海外旅行は見送りとなった。今回も、何らかの事情で実現出来なかったら、それこそ、僕の「自由」が危機に陥る。出発の数日前から、僕は酷い風邪を引いてしまったが、這ってでも行く決死の覚悟で出掛けた。
イタリアは、何と言っても大規模な歴史遺産に圧倒される国だった。勿論その中心はサンピエトロ寺院や「フォロ・ロマーノ」と言われるローマの中心地だ。コロッセオ(コロシアム)を初めとする数々の建物が紀元前とか紀元後数世紀のものと言われると、ローマ帝国の凄さを見せ付けられる思いだった。
ローマ以外の都市もローマ同様、歴史遺産の街だった。シエナやベローナと言う小都市は町全体が歴史遺産だから、町が隆盛を誇った当時のままの建物の中で人々は生活していた。外観は条例で厳格に維持することが決められているらしい。中はかなり自由に手を入れて改良されているそうだが。
僕等が参加したJTBのツアーは総勢38名に添乗員(男性)という大所帯だった。今回のツアーで訪れた都市は、ローマ、ナポリ、カプリ島、シエナ、サンジミニャーノ、フィレンツェ、ピサ、ベネチア、メントス、ベローナ、ミラノと、ざっと10都市余り、イタリア滞在7泊8日(機中泊含め8泊9日の日程)の強行軍だった。
5 月 8, 2010 No Comments
戦友の死
彼は、僕より3歳年下だった。丁度還暦を迎えての死去だった。今の時代では、早過ぎる死だ。彼とは30年余、同じ職場で一緒にコンピューターと格闘した、大切な戦友だった。
昭和47年4月、彼は、理科大を卒業した初めての理科系の人材として僕等の職場に配属された。システム部門は、それまで1人も理科系はいなかった。そもそも、保険会社に理科系の人間が入社を希望するなんて有り得なかったのだ。
先輩も僕等も、経済学部・商学部・法学部・文学部など、およそコンピューターとは縁の無さそうな人種。そういう連中が一社のシステムを差配する現状を人事部が大いに危惧した結果だったのかも知れない。
みんな彼を迎え入れるまで、文科系特有のアバウトさを一切持たない、理詰めの男かと想像していたが、これが、とっても良い奴で、真面目ながらもジョークは言うは、言うべき時は先輩にも遠慮なくものを言う、好感の持てる奴だった。
こんなことがあった。
システムが大きくなると、夫々の担当システム(守備範囲)を超えて気を配らないとポテン・ヒットのようなエラーが起きかねない。彼はある夜、残業中に、あるシステムとあるシステムとの間に、ちょっとしたアダプター・システムを急遽用意しなければ、その夜のコンピューター処理が正しくない結果となることに気が付いた。
彼は、誰に命じられた訳でもないのに、それを半徹夜でやり切り、事なきを得た。筈だった。数日後、全国の営業店からコンピューター・アウトプットの数字がおかしいとのクレームが大量に入って来た。
その数字に基いて決済をしてしまったケースも多く、大トラブルに発展した。システム部門総掛かりで、何日か昼夜のリカバリーに追われた。やっとトラブルが収束した後、何故、今回のトラブルになったか、反省会が開かれた。
その時の座長は僕だった。まず彼が、細大漏らさず経緯を説明。最後に「皆さんに迷惑を掛けて大変申し訳なかった」と詫びた。この会議、原因究明が大事で、それが明らかになったらその再発防止策を講ずる目的の会議だ。
参加メンバーが原因究明をしようとすれば、必然的に、彼が被告人のような立場になってしまう。その度に彼は、「もっと事前テストを慎重にやるべきだった」とか「最終アウトプットを、もっと多くの人に見て貰うべきだった」とか「深夜だったとは言え、自分一人で判断したのは拙かった」と、全てに対して、申し訳なさを滲ませながら、反省の弁を誠実に、且つ、丁寧に述べていた。
それでも、彼への追及は少しも緩まず、厳しくなる一方だった。
僕は、この会議全体が作り出す偏った空気に我慢出来ず、発言してしまった。「君達の議論は、彼を罪人にして、彼の間違いを正すだけの矮小化した議論だ。まず、彼は罪人どころか、システムの不都合を発見し、守備範囲を超えているにも拘わらず、傍観せずにその解決に飛び込んでくれたのだ。
まず、そのことを賞賛せずして、核心に迫る議論にはならない。今回は不幸にして彼の解決策にミスがあっただけのこと。問題は、深夜、不都合が分かった時にどう動くべきか、誰が最終判断を下すのか、その想定もマニュアルも存在しないことだろう?」
座長の発言で無理やり議論の方向を変えることは、発言の自由や主体性を奪うことにも繋がり、決して良いことではないのだが、座の空気は一変し、僕の満足する対策が打ち出されたのだった。
会議終了後、彼が僕のところにやって来て言った。「ありがとうございました。助かりました」と。彼から感謝される筋合いの話ではないが、嬉しかった。
と言うのも、ポテン・ヒットを防ぐには、彼のような気働きが最も重要で、そのことが糾弾されてしまえば、誰も自分の守備範囲以外手を出さなくなる。だが彼は、また同じことがあれば、積極的にポテン・ヒットの球を拾いに行ってくれるだろうと思えたからだ。
その彼が、もうこの世にいない。 ご冥福を祈るのみ。
5 月 7, 2010 No Comments

