プレミアムエイジ ジョインブログ
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Posts from — 6月 2010

サムライたちの悲喜

 
  下馬評では、3戦3敗を予想していた人が圧倒的だったのではないか。直前のテストマッチで4連敗して、追い詰められた岡田監督は、最後の賭けに出た。ワールドカップ本番で、攻撃的布陣をやめ、守備重視の布陣に代えたのだ。

  それが功を奏して、第1試合カメルーン戦は、番狂わせとも思える1-0完封勝ちを収めた。堅い守備から敵陣のイラツキを生み、少ないチャンスをものにした。以来、昨日のパラグアイ戦まで、同じ姿勢を貫いた。

  負けたとは言え、格上のチームと互角の戦いをして世界に日本サッカーの強さを示せたのだから、選手たちは残念かも知れないが、国民は満足した。正直、これが大会前と同じチームかと思うほど強かった。

  サッカー素人の僕が見ていても、個人の能力の高さが目立った。本田・遠藤・松井・川島たち。彼らは直前の無名から今や世界が注目する選手になった。同じ人間がやっていて、これ程1ヶ月前と見違えるプレーが出来るものかと不思議な気がする。

  しかし、今大会を通じて僕が注目していたのは、控えに回された選手の気持ちだった。これからの選手・成長途上の選手は別として、この何年か日本のエースを自他共に認めていた中村俊輔に僕は注目し続けた。

  というのも、大会前のテレビ特集で俊輔が2年前まで4年間プレーしたセルティック(スコットランド・グラスゴー)での軌跡を放送したのをたまたま見たからだ。彼は、地元のファンにとって忘れられないスターだった。彼のスーパー・プレーで何度もセルティックを優勝に導いてくれたと、今でも多くの人がインタビューに答えるのだ。

  彼らは、今度のワールドカップでも、日本は俊輔がいる限り負けないだろうと口々に言っていた。「勿論日本を応援するよ。もう一度俊輔のファンタスティックなフリー・キックを見たいからね」。

  1か月前、誰が中村俊輔を外したチームを予測しただろうか。カメルーン戦。ベンチに映る彼の姿が、何となく痛々しかった、最初の試合でそう見えた。だが、勝ったことで一気にベンチも活気付いて、雰囲気が良くなって行ったのだろう、中村が積極的に出場選手をサポートする。

  後輩に肩を抱きながら、アドバイスをしているような場面も目撃した。あれだけの選手が控えに回された悔しさ、それを心の奥に封印して、チームに対して今出来ることを最大限やろうとしているのだと思った。

  時々インタビューに答える中村俊輔も「いまレギュラー組もベンチ組も関係ない。一つになれている」とも答えていた。

  それが、昨日の敗戦後のインタビューでは。

「日本代表は続けますか?」

「もういい」

「この大会は中村選手にとってどうでしたか?」

「一つの大会でこんなにベンチにいたのは初めて。辛かったし、悔しかった」

  最後の最後に彼の本音が聞けた。それでいいんだよ。もう終わったんだから。何故か僕はホッとした。日本のエースとしての彼の役割は終わったのかも知れない。或いは、これをバネに、もう一度、エースに復活するのかも分からない。人間ドラマとして、彼から目が離せなくなった。
 

6月 30, 2010   No Comments

期待 その2

 
  昨日、「期待」というタイトルでブログを書いたら、ある方よりお叱りを頂いた。組織内で期待度の高い人間と言っても、上からも、下からも評判の良い人間なんて本当にいるのか、と。

  自分の経験では、職場の上司や上層部に評判の良い人間が、必ずしも、出来る人間とは限らなかった。下手すりゃイエスマンでしかなかったり、単に上にとって使い勝手が良い人間というだけだったと仰る。

  確かに表面的には、上に評判の良い人は下から人気がないことが多い。上にも下にも旨く振舞うという奴は、下には直ぐ分かるから、両方からの好評判は続かない。下からすれば、この人は、自分の利しか考えない人か、自分達のために体を張ってくれる人かを、常に見極めようとしているから直ぐばれるのだ。

  しかし、上からも下からも評判の良い人間というのはたまに存在する。それは勿論是だ。そうでなくて、上からの評判は良いとは言えないが、下からの評判が頗る良い人間はいるもの。

  その中でも、上司は、自分に向かってズケズケものを言うから鬱陶しさを覚えるが、仕事での本人の力は認めざるを得ないから聞かざるを得ないような、そして、彼の手下達は彼を目標として頑張ろうと思っているようなケースを確認出来たら、それは買いだ。

  普通はそれ程明確にはならないが、これを典型的尺度として測ってみると、本人の力量が大体分かると思っている。

  傾向の強弱はあるが、どの組織にもそういう人物はいるもの。この辺りの見極めを重視して人材登用すれば、そんなに間違わないと僕は言いたかっただけである。

  それにしても「期待されているうちが花」とは良く言ったものだ。大勢の期待が、花を支える茎になり葉になり、花を綺麗に咲かせようと協力してくれる。協力する側も、楽しいのだ。同じ夢を見ることが出来るし、花に夢を託すことが出来るから。

  期待されなくなると、潮が引くように茎も葉も去っていく。その時初めて、人間としての真価が問われる。それが普通だと受け入れ、今度は自分が茎になり葉になろうと思えるか、はたまた、孤独感に苛まれ、「夢よもう一度」の悪あがきを続けて醜態を晒すか。
 

6月 29, 2010   No Comments

期待

 
  会社を長いことやっていると、毎年、人事考査(人事査定、勤務評定)の季節が来ると落ちつかなくなる。人が人を評価する、そのことで本人の給与が決まる、ボーナスの額が決まる。上司は部下の評価には大変気を遣うことになるからだ。

  情実人事はいけない。上司の好き嫌いではなく、本人の能力・資質・実績を客観的に評価せよ、と言われる。その客観性を求めて、企業の人事部は歴史の中で様々な工夫を行なって来た。

  社内資格制度を設けて、本人の能力を試験で客観的に測ろうとしたり、多面評価という、上司以外の別のセクションの役職者にも同一人物を評価させたりと。

  でも、どこまでやっても客観的にはならないのだ。実績と言っても、全く違う仕事をしている人間を、どう公平に評価出来るのか。例えば、経理部で正確無比な仕事で部内の信頼感抜群の社員と、営業第一線で販売実績を伸ばした同い年の社員、どう優劣を付けるのか。

  結局のところ、一定の数を抱える組織にあっては、下からも上からも信頼度が厚く、みんなから次の時代のリーダーや重要な柱を期待されているか否かが、重要なポイントになる。

  この期待度、客観的数値に全て表すのは実務上難しいが、それでも、彼の日頃の仕事ぶりは、近くにいる人間ほどその凄さ(自分にはとても、あそこまで出来ない)を分かっている。組織内で彼の存在感は自然と際立つ。若手からはチームの主将か兄貴のように慕われる。

  業績という数字だけでなく、彼の日常の行動全てが周囲に評価されると言うことだから、寧ろ、この方が多面的評価として優れているのかも知れない。但し、明確な評価ポイントがあって、それが採点された結果ではないから、極めて主観的ではあるとされるのだが、僕の経験では、例外を除いて、組織内期待度を最重視して間違いはなかったと思っている。

  さて、周囲の期待、実は期待されて大成する人間と、期待に押し潰されて結果を出せない人間に別れるのも、また人間社会の面白いところ。スポーツでも何でもこの2つに分かれるようだ。専門家に言わせれば両者の実力に差がそれ程有る訳ではないという。

  期待をされれば誰でも余計なプレッシャーが掛かる。でも、そのことの関心よりも、やり遂げて成功し祝福される自分をイメージ出来、そうなりたい、そうなる筈と迷わず思える人間が成功する確率が極めて高いのだそうだ。

  プレッシャーに押し潰されるのは、期待に応えられるのか、本当に出来るのか、不安に苛まれ焦りが生じ、プレッシャーから早く逃れたいと思う傾向の人間に起き易いという。

  同じような状況では、「気持ちの持ちよう一つ」で変わると言うことだろう。プレッシャーに負けた人に贈りたい。「結果ではない。周囲から期待された数少ない人間の一人であったという事実、それがこれからの君の財産だ」。
  

6月 28, 2010   No Comments

おじさんバンド

  
  7.2パーティーのミニ・コンサートには、「クーペ&Shifo」と一緒に「おじさんバンド」も出演するのだが、2~3年前に比べ、メンバーが様々な事情を抱え、最近ではライブに7人全員が揃うのが難しくなっていた。

  ステージ上でShifoが「このおじさんバンドに私が加わると、名前が『年取った白雪姫と7人のジジイ達』となります」と言って笑いを取るのだが、いつも4~5人なので、会場は「7人のジジイ達?」と怪訝そう。

  損保業界の大型合併を控えて、毎日、最低でも12時間勤務、ピーク時は土日もなく、徹夜の連続となるシステム統合作業のために、コンガのヨッ君は今年になって殆どライブには出られなくなっていた。

  10年前、僕も会社合併のためのシステム統合で大苦戦した記憶が鮮明に残っているが、ヨッ君自身、その時の統合作業に現場責任者として獅子奮迅の働きをしていた。だから彼は、10年で2度も経験してることになる。誠に、ご苦労なことである。

  リーマン・ショック後の不況の影響で、どの会社もシステ投資を徹底的に抑えたので、ソフトハウスの社長として、仕事の確保に苦労するマンディー(ボーカル)も、社員のために、奔走せざるを得ず、なかなかライブに参加出来なくなっていた。更に彼は、今月初めに奥様を亡くしており、暫くはライブどころではない。

  税理士のマッちゃんも、地元で仕事をしながらライブ活動を行う難しさを味わっている。幾つもの事業所の税務を一人で引き受けているから、元々忙しい人なのだが、「クーペ&Shifo」が地元で有名になるに従って、「おじさんバンド」も知られるようになり、「クラリネットのマッちゃん」は結構有名になって来た。

  そうなると、必ずしも顧客企業からの評判が良いものばかりでなくなって来る。税理士さんって気楽で良いね、顧客とバンドとどっちが大事? とか、言ってみれば有名税みたいなものだが、それを物凄く気にする人だから、暫くバンド活動を休止していた。僕等周囲の配慮も足りなかったと思う。

  ギターとボーカル担当の局長さんである斉藤さん。彼はお母さんが要介護状態となってしまって、お母さんの実家に寝泊まりして仕事と介護を両立させている。もう2年以上続いていて、その献身ぶりにはメンバー全員が頭が下がる思いで見守っている。

  でも彼は、何とか遣り繰りを着けて、ライブには駆け付けてくれるし、彼が持っているコーラス隊の活動にも可能な限り参加しているようだ。本当に良く頑張っていると思う。

  大森校長は昨年まで、学校の方で問題続出、なかなかライブや店での練習に出て来れなかったが、今年になってやっと、山を越えたようで、昔のペースに戻った。

  純次さんのライブ出席率は、今年半年では一番だと思う。しかし、そういう純次さんも奥様がご病気だそうだ。今のところ、僕だけが大した問題もなく過ごせているので、何かみんなには申し訳ないような気分がする。

  そんな訳で、今、平日のライブにいつでも参加出来るのは、ベースの純次さん、ピアノの大森先生、それにドラムスの僕の3人くらいなのだ。それでも一応ピアノ・トリオにはなるので、それでも仕方ないかと思っている。

  まっ、それでも、一応、おじさんバンド全員に、7月2日の弊社開業披露パーティーでのライブ出演をメールで依頼した。真っ先に大森校長と純次さんから出席の返信が来た。次に斉藤さんから、当日は半休を取って参加するとの連絡があった。ヨッ君には口頭で昔のように業務命令を発して出席を約束させた。まぁ、5人集まればおんの字、良しとするか

  でも、もう一度だけ、残りの2人に個別に頼んでみよう。まず、マンディーにメールした。「奥様のこと心よりお悔やみ申し上げます。不謹慎極まりないことを承知した上で、是非貴君には今度のライブに参加して頂きたい。全てを忘れて無理矢理元気になるために」。返事が来た。「神童様。お気遣いありがとうございます。参加させて頂きます」。嬉しかった。

  マッちゃんには電話した。「マッちゃんが来てくれれば、久し振りに7人全員揃うんだけど」。「返事が遅れてすみません。参加させて貰うつもりでした。宜しくお願いします」。結局全員が、平日の夕方にも拘わらず、僕のために時間の遣り繰りをして集まってくれることになった。心から感謝。

  7人全員が揃うのはいつ以来だったのか、思い出せない程だ。夫々の事情がもっと深まることを考えれば、7月2日のミニ・コンサートが「おじさんバンド」全員が揃った最後のコンサートになるかも知れない。そんな思いを込めてラストステージに臨む。
 

6月 27, 2010   No Comments

7.2開業パーティー

 
  7月2日に、僕が顧問をしている、ある少額短期保険会社の開業披露パーティーが京王プラザ・ホテルで開催される。この保険会社、戦友であり親友のJTが、この6月に立ち上げたばかりの会社だ。

  JTは一年半前に、医療保険の会社を立ち上げ、今度は日本初の生損兼営保険会社として立ち上げたのである。大企業でもなく、大金持ちでもなく、還暦過ぎの普通の男が1年半のうちに2つも保険会社を立ち上げたことが、まず日本初だろう。世界でも多分初めての快挙かも知れない。

   昨年JTにも付き合って貰って、2度ほど会食を共にした猪瀬直樹(東京都副知事)にも「場所は都庁の直ぐ隣の京王プラザだから、気楽に寄ってよ」と伝えたら、「出席します」との答えが戻って来た。僕等の勝負所を分かってくれてると思うと、嬉しかった。猪瀬は僕の高校時代の悪友。今は友人。超多忙な猪瀬の友人への最大の配慮だな。

  彼が道路公団民営化委員会の時は、官に迫り、出し渋る資料を強制的に出させたり、公団の理事長の優柔不断をテレビの前で激しく糾弾したりして、すっかり強面のイメージが定着してしまっているが、高校時代は、女子生徒が多いマンドリン・クラブで僕と一緒にギター班をやってたんだから。そう、紅顔の美少年とは彼のことだったね。今じゃ誰も信じないけど。

  これはJTの配慮なのだが、僕が一緒に音楽活動をやらせて貰っている「クーペ&Shifo」と「おじさんバンド」をそのパーティーに呼んでくれた。パーティー途中で40分間ミニ・コンサートを行う。

  その日、会場には取引先や、JTが30年勤めた前の会社のトップや仲間、彼を慕う後輩達、スポンサー企業の関係者などが駆け付けてくれることになっている。

  そんな中で、有機農業・無農薬野菜のパイオニアである「大地を守る会」の会長さんが参加してくれる。35年の歴史もつ会だ。その会長さん、当時有吉佐和子の「複合汚染」を読んで、田んぼの小さい生き物が農薬で死に絶える現状を知り、このままではいずれ人間も死ぬという危機感から、伝統農法の復活に人生を賭けたという。

  丁度同じ頃、綺麗な空、澄んだ水、美しい自然を何としても守って、子や孫に渡したいと強く願った青年がいた。「青い空は青いまま、この子らに渡したい♪♪」。こういう詩と曲を作った青年こそ、若き日の天才(天災?)詩人、クーペである。

  35年前に同じことを思った無関係な2人が、こうして同じ場所に会するということに何事かの符号を感じる。

  加えて言うなら、猪瀬副知事は、東京オリンピックの誘致に際しては、「環境オリンピック」を提唱し、ダボス会議では都市の環境問題で東京の取り組みを大いにPRして来たという。彼が東京都の温暖化ガス排出削減のリーダーなのだ。

  安心安全な野菜を守る「大地を守る会」、大都市の環境を守る「東京都副知事」、それと人々の生活を守る「新しい保険会社」の揃う開業記念パーティーだ。

  僕はShifoに、クーペ作詞作曲の「答えは土の中」を、是非、歌ってくれるようにお願いをした。
 

6月 24, 2010   2 Comments

父の日

 
  「母の日」と「父の日」、どちらも100年ほど前、アメリカの教会で始まった行事だという。日本では「母の日」が戦後、アメリカの影響もあって5月の第2日曜日と定められ定着したが、「父の日」は普及しなかった。

  それが、商魂逞しいメンズ・ファッション業界が1981年ころ「父の日黄色いリボンキャンペーン」を展開したところ、大きな反響を呼び、定着し始めたという。今年は6月20日の日曜日が「父の日」だったようだ。

  ところで、この週末は、僕は家で1人だった。実は、元々この3日間は、「クーペ&Shifo」の沖縄公演に参加する予定だったのだが、丁度その頃、初孫が生まれると言うので、沖縄行きをキャンセルしたのだった。生まれたらその週末にも直ぐに大阪に飛んで、ご対面、と言うつもりでね。

  孫の誕生も放ったらかして、演奏旅行などに行ってたら、家でどれだけ立場を悪くするか、想像付くからね。

  その後、出産の前から向うのお母さんが、札幌から息子夫婦の家に駆けつけて、自分の娘や赤ちゃんの面倒を見ることになった。息子夫婦が住むのは、借り上げ社宅であるマンションの一室だ。

  問題は、部屋が新しいけど狭いこと。1DKだから、お母さんもいるのに、僕等が長居する訳にも行かないし、赤ちゃんの顔を見に行くだけにしても、お母さんに、余計な気を遣わせるから、お母さんと入れ替わりに、7月になってから訪ねることになったのだ。

  と言う訳で、6月の大阪行きはなしと決まった。そうと決まったら、うちのカミサン、早速そわそわ。娘と連絡を取って2人で奈良に旅立ってしまった。僕もこうなるんだったら沖縄に行くんだったよ。

   そんなこんなで、結局、僕はこの週末、1人留守番役となった。そんなところに、息子夫婦からクール宅急便が届いた。中身は、冷酒セット。冷酒の小瓶が5本入っていた。

  何だ、これは? 初孫が生まれたのは、10日前。まだ対面もしていないけど、カミサン、もう出産祝いでも贈ったのだろうか? これはそのお返しか? などと思ってしまった。今はいないからカミサンに聞く訳にも行かない。

  取り敢えずは、お礼をと思って電話した。息子が出た。「沢山の冷酒が届いた。ありがとうね。だけど、これは何かい、お返しか何かかい?」。「違うよ。今日は父の日だろう?」「ああ、そうなのか。わざわざ悪かったね。お嫁さんに、どうもありがとう、って宜しく伝えてくれ」。

  独身時代の愚息がこんな真似したことは一度もなかったから、これは、お嫁さんの心配りに相違ない。愚息のお嫁さんになってくれてありがとう。僕はまた彼女に感謝した。
 

6月 21, 2010   2 Comments

置いてきぼり(後半)

 
  彼は思い出していた。この前の縁日で、辺り構わず大きな声で泣き叫ぶ子を、自分の母が「どうしたの? 迷子になっちゃったの?」と優しく聞きながら、警備に当っているお巡りさんの所まで連れて行った時のことを。

  あの時、迷子になった子は、何て大きな声で泣くんだろうと不思議だったが、その時よりも大きな声で、力一杯泣いてみた。そうすれば、あの時のように母がやって来て「どうしたの?」と言ってくれるのではないかと思った。だが、やはり母親は現れない。

  縁日と違い、誰も現れない。家に帰りたいとも思ったが、どっちに行けば良いのか分からない。この辺りは雑草が伸びていて、草の高さは彼の背丈より高いし、ここまで、どうやって来たかも分からないからだ。どうしよう。どうにもならない。

  長じて、彼が学校で「希望」と「絶望」という言葉を習った時は、あれが「絶望」と言うものだったのかと、至極理解がし易かったようだ。

  足も疲れと打撲で急に痛さを感じ、彼はその場にうずくまった。地面に向かって泣くことしか出来なかった。「かーちゃん、どこにいるんだよ~。どうして出て来てくれないんだよ」。気が付くと、機関車の絵本も水筒もない。さっきの所に置いて来てしまったのか、途中で落としたのか。

  もう、身体は動かない。尻餅を付くようにしゃがみ込んだ。丁度背中に樹木が立っていて、背もたれのような按配になった。彼はそのままの姿勢で目を閉じた・・・

  どの位経過しただろうか。彼は、母親が向かいの山の上から、手を振りながら「かーちゃんは、ここにいるよ!」と叫んでいるのを発見した。「僕、動けないから、こっちへ来てよ」。「必ず、そっちに行くから、動くんじゃないよ」「うん」。でも、母親は、くるっと背を向けて、山の向こう側に消えてしまった。何でだよ~。

  暫くして、「たかし! たかし! どこにいるの!」。また、母親の声がした。今度は姿が見えない。「ここだよ!」と言いたいのに声が出ない。「たかし! たかしー!」母の声だ。でも声が出せない。「たかしー!」。

  そこで目が覚めた。「たかしー! 近くにいたら声を出してー!」。かーちゃんだ! 彼は素早く立ち上がって、あらん限りの声を出した。「僕はここだよ!」。「今行くからね!」。「早く来て!」。「怪我はないかい!」。母親の声が段々大きくなって来た。

  遂に雑草の中から母親が現れた。彼は母に向かって一目散に突進して行き、母の首筋に飛び付いた。

  母親は彼を抱き上げながら、「ごめんね、直ぐに戻らなくて」と謝った。彼は母親の胸の中で泣きじゃくった。母親が迎えに来てくれた嬉しさと、自分を置き去りにした母への抗議の意味もちょっぴり込めて。

  でも一方で彼は、言われた通り元の場所にいなかった自分が悪いと思っていた。彼はそれを上手く言えないので、代わりにポツリと言った。「絵本なくしちゃった」。母が答えた。「いいよ。また別のを買って上げるから」。彼はもう一度母親を強く抱きしめた。
 

6月 18, 2010   No Comments

置いてきぼり

 
  一家が借りていた離れの小さな建物。中は6畳程度の和室1間と小さな台所、それにトイレしかない。これが、彼の父親が、実家から独立して生計をスタートさせた34歳の時の住まいである。ここで親子4人の新しい生活が始まった。

  父親は会社員。4歳年上の姉は既に小学生だ。そして彼は、今3歳。やっと物心が付いて、様々なことが鮮明に記憶される最初の時期のことだった。

  ある夏の日、彼は母親と一緒に裏山に山菜取りに出掛けた。3歳児にとって裏山の坂道はかなりきつかったが、それでも母親に手を引かれて黙々と登った。

  やっと、少し平らな、クヌギの林の入口に到着した。彼は汗だくで、足ももう言うことを利かないくらい疲れ切って、木々の間の芝生に腰を降ろした。母親は彼に水筒の水を飲ませてくれた。

  南斜面だが、少し林に入った所だから、日陰にそよぐ涼しい風が、汗ばんだ肌に心地良かった。母親は「必ず戻ってくるから、ここを動くんじゃいよ」と言って、更に林の奥に分け入って行った。彼は心細かったが、「うん」とだけ言って見送った。

  彼の手元にあるのは、誕生日に買って貰った機関車の絵本だけ。彼は、もう何十回と見たその絵本をまた最初から見ることにした。

  一家の借家からは国鉄の線路が見下ろせて、時折、そこを、先頭の機関車が煙を吐きながら力強く長い列車を引っ張って行く姿を見ることが出来る。それを見た時、彼は必ず心躍るのだ。だから、彼は近所の子供と遊ぶことより、じっと線路を見詰めて機関車が通るのを待っている方が好きなのだ。

  そんな我が子を、毎日毎日見ている母親が買い与えてくれたのが、この機関車の絵本だった。彼にとっては宝物だ。それを見始めれば他のことは一切、耳にも、目にも、頭にも入って来ないのだ。

  どの位時が経ったのだろうか。彼はふと本から目を離した。その時、急に、母親が山奥に入って行ったきり、全然戻ってこないことに不安を覚えた。

  「かーちゃん! かーちゃん!」と2度叫んだ。返事はない。聞こえるのは煩い程の蝉の声と、遠くのカッコーの声、それと、笹薮や梢を揺らす風の音くらいだ。

  「かーちゃん!」。もう一度叫んでみた。やはり返事はない。そうなるともう、居ても立ってもいられない。彼は母親が消えた方向に駈け出して行くのだった。

  必死に叫び必死に走った。木の根っこに躓いて転び、半ズボンの膝頭を擦り剥いて血が滲んでいるのも気にせずに。泣きながら走るうちに、この辺りは人っこ1人おらず、自分を助けてくれる者は誰もいないんだと悟った。叫び声は、今や、しゃくり上げる泣き声にしかならなかった。生まれて初めて感じる「置いてきぼり」だった。
 

6月 17, 2010   No Comments

苦手なアイアン

 
  僕の周りには、ゴルフに打ち込む人がやたらと多い。今の会社にもシングル・プレーヤーもいれば、還暦過ぎて簡単に270ヤード飛ばす奴もいる。近所に住むゴルフ仲間も毎週の練習場通いは勿論のこと、夜、犬の散歩の時に、河原で、犬が「やめろ」と言うまで(鳴き始めるまで)、アプローチを欠かさない奴もいる。

  彼等はゴルフを単に付き合いとか、気分転換でやっているのではなく、上達するために真剣に努力する人達なのだ。ゴルフに対する姿勢は、遊びではなくアスリートのそれである。夫々のゴルフ道を極めようとしているように見える。

  そこ行くと、僕のゴルフは遊びそのものだった。仲間とおしゃべりしながらのラウンド、昼食時のビール、綺麗な芝生と樹木の鮮やかな緑。最高! ゴルフは楽しむものと割り切っていた。どんなに頑張ったってプロにはなれないんだから。

  しかし、この1年半、彼等と一緒に回るうちに、次第に影響を受けて行った。どうしたらもっと安定するか、どうしたらもっと良い当たりが出せるか、何年ぶりかで、上達意欲が出て来たのだ。

  彼等と回ると、ドライバー・ショットで50ヤードも置いて行かれる。僕がフェアウェイ・ウッドで打つ距離より、もっと遠くからアイアンでグリーンに乗せるから、最初は一緒に回るのが厭だった。スコアも100前後の僕に対して、彼等は80台。

  彼等と付き合うには、もうチョッと何とかしなければダメ。それにはアイアンだ。ドライバーの飛距離では追い付かないものの、アイアン・ショットを改善出来れば、差を縮められる。そう思った。

  僕はゴルフをやり初めた時から、ウッドは得意な方だったが、アイアンはずっと変わらず下手だった。この年になって遂に、下手なまま放置しておけない状況に追い込まれた。練習場やゴルフ場での試行錯誤が始まった。1年ほど前だった。

  でも、試行錯誤だから、なかなか結果が出ない。場合によっては以前より酷い結果に終る時もあった。これだけ練習しても何故、上手くならないんだ。今頃上達しようなんて土台無理な話だ、と投げやりになった。

  その時だ、閃いたのは。アイアンを構えてからバック・スウィングするに連れて、僕の頭が右に動く気がする。そして、インパクトで頭が元の位置に戻らないから上手く当らないのではないか、と。

  両目で、ボールを見たまま、目の位置を変えずにバック・スィングして打ってみた。芯に当るではないか。距離は少し落ちるかも知れないが、芯を食えば結構飛ぶ。これだ。このことを人は「右の壁を作れ」と言うのだな。

  その後の半年間は、新打法が自分のものにならず、つい昔の悪い癖(頭が移動する)が出てしまい、改善が見られなったが、最近になって、漸く結果に出始めたから、嬉しくなって、ついついブログに書いてしまっている。直近の3ラウンドは93、92、91。昨年に比べれば約10打縮めたことになる。

  こうなると欲が出るもので、何とか80台突入まで頑張ってみたいと思う。でも、アイアンが良くなって来たのと反比例して、得意だったドライバーが下手になってしまったから、そう簡単でないことは分かっている。パットも入らない。

  でも、これは前進していることの証明なんだ、前進しなければ現れない壁なんだ、と思うことにしている。普通に80台で回っていた30年前の自分を追い掛けたいと思うから。

6月 16, 2010   No Comments

良いことと悪いことは一緒にやって来る

 
  以前、ヨッ君にコンガを教えてくれた、パーカッションのプロ、ユキさんが言っていた。「何かを掴もうとする時、何かを失う。私の場合、いつも、良いことと悪いことは一緒にやって来るの」と言ったのが今も耳に残っている。

  僕の場合は、システム部門が長かったからか、何か大きなシステム・トラブルに見舞われた時は、必ず別のシステム・トラブルが発生して、パニックに輪を掛けるということが不思議と多かったから、「悪い時には悪い事が重なる」というのが人生訓みたいになっていた。

  だが、今回、人の生死に関して、「良いことと悪いことは一緒にやって来る」ということを経験してしまった。

  先週、我がおじさんバンドのボーカリスト、マンディーの、1歳年上の奥さんが51歳の若さで亡くなった。マンディーと2人の子供を残して。下の女の子はまだ中学生だそうだ。多感な年頃を迎える彼女にとって母親の存在は不可欠にも近いのに。

  僕の年になると、誰かが亡くなったという話はかなり多くなるのだが、それでも、僕より若い人が亡くなるのは、いつも痛ましい。子に先立たれるのは親にとって一番辛いことだが、親子でなくとも、やはり順番通りがいい。

  マンディーの衝撃と悲しみが分かるだけに、励ましの言葉も憚られる。それでも、彼から悲しい連絡を受けて、直ぐにメールで弔意を伝えた。そしたら、マンディーから「落ち込んだ時ほど、皆さんと一緒に、笑って飲みたいです。私はまだ幸せです。笑って迎えて頂ける場所があるから」と返信が来た。

  涙が滲んだ。僕等を心配させまいとする、今の彼に出来る精一杯の言葉だと分かるから。

  マンディーから悲報が伝えられた翌日、大阪にいる息子から電話が来た。「今日の午後、生まれた。女の子。3,250gだったよ」。初孫だ。

  その時、感じたのは、嬉しいとか、きっと可愛いだろうなとかいうのではない。あの不肖の息子も、本当に父親に成れたのだ、というある種の感慨だった。僕の性格のマイナス面ばかり受け継いだみたいな、そして姉へのコンプレックスからいつも下を向いていたような男の子が良くぞ、と思ったのだ。

  これまで、僕は、彼を入学させてくれた大学に感謝し、鍛えてくれた会社に感謝し、そして今回は、子供を生んでくれたお嫁さんに心から感謝した。

  1日違いで、悪いことと良いことが一緒にやって来た。ユキさんの言ったことが今分かった。 
 

6月 14, 2010   No Comments