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Posts from — 8月 2010

海沿いの旅 (恐山)

 
  ブナや杉や松の木が鬱蒼と茂る山道を長い時間掛けて車で登ると、一面に、大きな湖が広がった。この湖は「宇曽利山湖(うそりやまこ)・恐山湖(おそれざんこ)・宇曽利湖(うそりこ)とも言う」(角川日本地名大辞典編纂委員会1985)らしい。

  「宇曽利山湖」と言う呼び方は、近くに「宇曽利山」が無い以上、妥当な呼び名ではない、とか、湖に隣接する「恐山円通寺」の地番名が「宇曽利山」なのだから、正しいとか、様々な論争があるようだが、僕は、元々アイヌ人の付けた地名に後から漢字を当てたので、「うそり」山も「おそれ」山も元は同じだろうと勝手に思った。

  余談だが、呼び方が一緒で、地名と寺院名や施設名の漢字が異なるのは方々で見られる。例えば「地名:修善寺」「寺院名:修禅寺」、或いは、「地名・寺院名:深大寺」「施設名:神代植物公園」等など。

  従って「恐山」のケースは、呼び方が同じで、地名と寺院の山号とで違う漢字を当てたのだと推理した。アイヌの地名に当てた漢字が違うので、後世では、似て非なる呼び方になったと思った。現在は「恐山」(おそれざん)が全国的に有名になった呼び方だから、この湖を「恐山湖(おそれざんこ)」と呼ぶのが最も妥当ではないかと思う。

  おっと、そんなことはどうでも良かった。僕が気に入ったのは、「恐山」の頂上の平原全体の景観だ。

   ここにこんな大きな湖があるとは、到着するまで全く知らなかった。車道から見る湖は、向こう岸が森と山で覆われ、霧雨だったせいもあり、霧が薄く立ち込めたような、何とも神秘的な湖だった。

  観光客用の店も何もなく、開発の魔の手が全く伸びていない大昔のままと思しき風情は、何とも不思議な感覚を与えてくれる。何年か前に見た北海道の摩周湖を思い出した。

  さて、車は、前方、湖の右側に見える寺院と、その奥の「地獄」と言われる火山が作り出した白い一帯を目指して進む。その途中、小さな川が流れていて、車道の傍に赤い太鼓橋があった。この川が「三途の川」だそうで、太鼓橋を渡るとあの世になる、と旅行ガイドに書いてあった。

  この一年間に死んだ人の霊は、例外なくここにやって来るから、この世の人間が訪ねれば会えるのだという。この一年間に、僕は大事な友人を2人亡くしている。円通寺にお参りして友人の霊を慰めよう。そして賽の河原と言われる「地獄」を、あまり時間が取れないので、急ぎ足で巡ることにしよう。
 

8月 31, 2010   No Comments

海沿いの旅 (行程)

 
  先週、夏季休暇を取って、東北3県海沿いの旅に行って来た。3泊4日の、カミサンとの旅。コースは新幹線とバス・レンタカー・タクシー・船・鉄道などを使った気儘な旅だ。

  コース設定や旅館の手配など、諸々全てカミサン任せ。レンタカーの運転以外、僕はただくっ付いて行くだけ。但し、4日目だけは、青森に住む僕の友人が、車で観光案内してくれることになっている。

  初日、盛岡まで新幹線で行き、駅前で簡単な昼食の後、JR山田線で宮古へ。宮古駅前でレンタカーを借りて、浄土ヶ浜へ。一泊目は宮古市内のホテルに宿泊。

  二日目。三陸海岸を北に向かって走る。途中、鵜の巣断崖という観光名所に寄り、崖の上から、リアス式海岸を一望。更に北上して、北山崎でもリアス海岸を見下ろす展望台に立ち寄る。そこから、レンタカーを返せる最寄り駅に行き、三陸鉄道北リアス線に乗り、久慈駅へ。更に、JRに乗り換え八戸経由三沢へ。三沢の小牧温泉に投宿。

  三日目。この日の工程は結構厳しいので、朝5時起きして、タクシーで三沢駅へ一番列車に乗り込み、途中乗り換えて、大湊線で下北駅に。駅前でレンタカーを借りて、恐山を目指す。今回の東北3県の旅で最も印象に残ったのが恐山だった。後述する。

  恐山からは、再びむつ市に戻り、下北半島を海沿いに時計と反対周りに約一周するコースだ。まずは本州最北端大間崎(マグロ漁で有名)。次いで陸奥湾側を南下。次は白い岩で有名な仏ヶ浦観光。遊覧船に乗る。

  港に戻り、脇野沢というフェリーの港まで急行。3時半の最終便に何とか間に合い、陸奥湾を横断。津軽半島の蟹田まで1時間の航海。上陸すると少しの休憩のあと、青森市に向かい駅前でレンタカーを返却。その夜は青森郊外の少し贅沢な旅館に宿泊。

  四日目の朝8時に、友人は旅館に迎えに来てくれた。僕は彼とは昨年東京で会っているが、カミサンは僕らが婚約中に一度会っているだけなので、どちらも風貌・要望が変わってしまって、良く分からないらしい。

  彼は第一線を退いたが、今も週3回青森県庁に勤めている。青森に来たら是非連絡せよと言われていたので、事前に電話しておいた。この日は土曜日なので、僕等を車で案内してくれることになったのだ。

  コースは、津軽半島の最先端、竜飛岬まで北上し、そこからは日本海沿いに国道101号を南下して、途中、十三湖で下車。昼食。午後は五能線と並行して南に走る。

  日本海の極めて穏やかな海を右手に見ながら車は快調に走る。千畳敷で小休止。その後暫く走った時、友人が、「ここまで来たら、絶対に五能線に乗った方が良い」と言い、どこかに携帯電話を入れた。30分後に近くの駅に能代行きが来るので、それに乗れと言う。

  車で先回りして、あきた白神駅で、待っているとのこと。お言葉に甘えて、五能線に乗ることにした。水平線まで何も邪魔するものがない雄大な海の景色を見ながらの列車の旅。ローカル線独特のゆったりした時間の流れと共に、心身ともに癒されるのを感じる。

  あきた白神駅で友人と合流して、一路秋田駅へ。17時40分頃到着。秋田駅からは18時1分の新幹線「こまち」で東京に帰ることにした。友人は一旦盛岡に出て、東北道で青森に帰ると言っていた。3時間は掛かるのではないか。友人にはすっかりお世話になってしまった。
 

8月 30, 2010   No Comments

あるシステムの物語19 (完)

  その後、両社の事務システムの並存状態の解消に向けて連日作戦会議を行い、8月には新しい方針を経営に諮り、前島を責任者として事務・システムの一元化を目指して開発がスタートした。1年強掛けて所定の目的は一応達成した。「一応」と言うのは、現場事務の一本化と、システム機能の重複排除は実現したが、並存する両社システムの夫々の必要機能は残してそのまま使うことにしたので、見掛け上の両社システムの並存は変わらなかったことを指す。

  それでも、会社合併で最大課題とされていたシステム統合は、大きな山を越えたことにはなる。あとは、合併前から経営側も期待し、梶も兵頭も合併に大きな期待を寄せていた、「新幹線システム」、即ち、合併による効率化効果を原資として、大手他社を凌ぐ競争力のあるシステムを作り上げることが残った。

  だが、河瀬が東都損保時代から通算で6年という、慣例上の社長任期満了に近付いた時、彼は次期社長に前島を指名した。同時に、兵頭は合併後の事務混乱の責任を取り、梓損保の取締役を辞して、合併時から社長を兼務していたシステム子会社、梓損保システムズの専任社長となった。

  兵頭は、合併5ヶ月前に、相手社システム責任者の中島に「このまま片寄せ方針で、本番突入して大問題が起きたら、あんたの責任だ!」と言って、並存型に変更を迫った場面を思い出していた。その言葉には、「逆に、新方針で大問題が起きたら、その時は自分が責任を取る」との意味を含めていたことを改めて思い返していた。

  3人で「新幹線システム」という同じ夢を共有していた、河瀬が社長を降り、兵頭がCIO(情報システム担当重役)を降りた今、兵頭は梶に、最早、夢の実現は自分の手を離れてしまったことを済まなく思った。その梶もそれから半年後、役員を辞任して会社を去って行った。

               あるシステムの物語  ― 完 ―

 

明日から夏季休暇を取らせて頂きますの、ブログは暫くの間お休みします。

                                    神童覇道

8月 24, 2010   No Comments

あるシステムの物語18

 
  梓損保システムズの会社設立記念式典に於いて、「何故片寄せから並存に方針変更したのか?」というある社員からの質問に答える兵頭社長、最後にこう総括した。

「損保の対等合併の難しさは、会社と会社の主導権争いなどよりも、両社の保険代理店代理店に、『会社が合併するのは良いが自分達に迷惑を掛けるな』と言われてしまうことなのです。つまり、従来の代理店事務や会社からの、事務のやり方やシステム・サービスを含めた様々な支援のレベルは一つも落とすな、という意味です。

  これが吸収される側だったら、『相手社に合わせるのも仕方ない』と代理店も納得してくれるのですが・・・。

  今回の合併は、中央損保のメイン・チャネルは自動車産業の最大手、方や東都損保は専業代理店と整備工場がメイン。夫々に向けた特色を持ったシステムだったから、片寄せでどちらかを捨てるという割り切りは出来なかったということです。

  システムの都合だけで考えれば、どちらかへの片寄せが良いに決っていますが、残念ながら、半年間、片寄せをトライしてみて、やっと以上のことがハッキリしたのです。結局は両社のメイン・チャネル向けのシステムは両方共必要ということになると、中央損保システムへの片寄せを原則にしながら、東都損保システムにある多くの機能を移植開発するのは、時間的にも品質的にも、更に費用的にも不可能になって行きました。移植開発しなければいけないシステムは、東都損保システム内にあるのだから、何も大きなリスクや不可能を推して移植開発する必要はない。両社のシステムを基本的に活かす並存型統合がその答えでした。これが方針変更の真相です。

  途中での方針変更が、皆さんにかなり負担を掛けたことは、本当に申し訳なかったと思っています。ですが、それが両社の立場とか面子とかに拘って、私が故意に並存型のシステム統合に変えた訳では決してないということを、皆さんには是非理解して頂きたい。」

  兵頭には、質問に立った男が大きく肯くのが見えた。

「大方針変更後の5ヶ月間、皆さんは強い危機感を共有して、システムのプライドと意地に賭け、良くぞあの大仕事を成し遂げてくれました。その間、両社システム部門の第一線SEの皆さん方は、合併前だったにも拘わらず、会社を超えて一つになってくれました。

  あの時の一体感をベースに、梓損保のシステムを一層競争力のあるシステムに発展させると同時に、そのことを通じて、我が梓損保システムズの社員一人一人がより競争力の高いSEに飛躍出来るよう、今日をそのスタートの日としたいと思います」

  兵頭は、会社創立記念式典での挨拶を締めくくった。
 

8月 24, 2010   No Comments

あるシステムの物語17

 
  梶圭太はこの合併初日、関東営業本部長に赴任した。当初の思い、即ち、システム統合で大きな合併効果を上げることは叶わず、忸怩たる思いを抱きつつも、自らの気力を奮い立たせて、得意の営業分野に戻り、合併新会社の勢いを付ける役割を自任して赴任して行ったのだった。

  入れ替わるように、前島仁が事務・システム本部に副本部長として異動して来た。前島も梶と同じく兵頭一樹の1年年下である。その経歴の多くは営業であり、梶と同じく、若い時からその活躍が注目されていた男である。

  前島の任務は多分、取り敢えずの形でスタートした「並存型事務システム」を本格的に統合させることだったであろう。ところが1週間もしない内に、全国あちこちで事務の混乱が起き始めた。第一線の事務を後方の内務センターで集中処理させる新しい事務体制の不備・不慣れ、物流ネックやシステム不具合の発生、現地対応の不慣れ、合併記念の自動車保険新商品の申込書記入誤りの多発など、様々な要因により事務が滞り、月末を乗り切れない事態に直面した。

  再び兵頭は社内の厳しい目に晒された。そういう事務やシステムにして合併の日を迎えた責任者に非難の目が向くのは当然だった。しかし、その同じ目は、既に本社を離れ営業現場の最高指揮官としてその役割に邁進していた梶にも向けられた。梶も統合作業の中では事務部門の責任者だったからだ。

  この時、前島は本社各部より人材を集め、「緊急対策本部」を立ち上げた。前島は本部長として、事務部門・システム部門はもとより、企画部門・商品部門・営業部門などから優秀な人材を引き抜いて専任プロジェクト体制を敷いたのだ。兵頭も進んで前島をサポートする立場でメンバーとなった。

  前島は、4月最初の月末締切を迎えるまでに打つ対策と、それを乗り越えた後打つ手とに明確に分けて、且つ、全国の営業部門にキメ細かく的確な指示をし、更に、現地がその指示に従って確実に対策を実行しているか、部下に現地確認させたことだ。必要な場合は率先して自らも現地に飛び、全国1店舗の対策漏れも許さないという徹底の仕方である。

  その間、殆ど毎日、会社を出るのが深夜2時3時。前島仁と兵頭一樹は家が近いこともあって、連日2人でタクシーに同乗して帰宅した。そのタクシーの中も翌日の作戦会議や、システムに関する前島から兵頭への質疑応答の時間に当てる程逼迫した状況だった。

  必死の対応の結果、事務混乱は約1ヶ月半で収束に向かった。
 

8月 24, 2010   No Comments

あるシステムの物語16

 
「中島さん、方針変更しないで新会社開業本番に突っ込んで大問題に発展した場合は、その責任は、全て中島さんにあるということになる。それで良いのですか?」と兵頭が付け加えた。

  中島は引き攣ったような表情で、部下である現場責任者の吉川に尋ねた。

「吉川、このままだとテスト完了が間に合わないと言うのは本当か?」

「間に合わない、と言うよりも、確信を持って開発している訳ではないので、正直なところ、テスト&メンテナンス工数がどれくらいになるのか、今のところ、全く読めないというのが本音です。下手したら、イチかバチかの本番スタートになることも考えられます」

  この吉川の発言で中島は引き下がらざるを得なかった。

  以降、緊急招集されたプロジェクトの両社を代表して、柳原(東都損保)と吉川(中央損保)が新システム統合計画案の説明し、質疑応答後、深夜2時になって、やっと全会一致で新方針(並存型システム統合)が承認された。そして、翌朝一番で、両社社長出席の下、臨時経営統合委員会に於いて正式に認められ、即刻新たな計画がスタートした。

  だがもっと大変だったのは、双方の役員や本社部門にシステム統合の失敗と受け止められ、大騒ぎとなったことだ。兵頭と梶は様々な会議に出頭して、事情説明や来年4月の新会社スタート時のシステムがどういう姿になるのかの説明に追われた。

  味方の筈の東都損保側にも、また、当然ながら中央損保側にも、誰一人として2人を応援してくれる者がいない中、両社各部門を説得するのは容易なことでなかった。それどころか、辛辣な批判を浴びてからでないと説明にも入れないような状況が続いたのだった。2人は、針の莚に座らされるとはこのことか、と心の底から思った。

  人生最大のピンチには違いなかったが、しかし、2人の関心事はそんなところにはなかった。兵頭の真の懸念は、残り5ヶ月強で新方針のシステム手当てが完了するのかどうかという、ただ一点だった。

  両社の本社部門への説明を終えたその日、兵頭は部下数人を引き連れて相手社のコンピューター・センターに乗り込み、会議室の一室を押さえて「システム統合本部」にした。あと5ヶ月、新方針に基く統合が成らない限り、もう自社のコンピューター・センターには戻らない、そんな決意だった。

  梶は事務部隊を指揮していたが、システム統合の形が変わると事務が大きく変わり、部下たちの作業は振り出しに戻ってしまうにも拘わらず、積極的に兵頭を支持し応援し続けた。

  そのことに兵頭達システム部門は大いに救われ、新方針に基づく短期集中の詳細設計と、全軍を挙げた2交代24時間体制のシステム対応に集中することが出来、両社システムの並存型という暫定システム統合が何とか間に合った。2001年4月1日、新会社はスタートし、新しい事務とシステムは順調に動き出した。・・・かに見えた。
 

8月 23, 2010   No Comments

あるシステムの物語15

 
  ところが、この新システム統合計画書の承認を得るために開いた事務・システム小委は、揉めに揉め、深夜2時に至って、やっと承認されたのである。

  何故揉めたのか。それは、中央損保側のシステム担当役員や中島肇たち、事務・システムの執行部は、今回の方針変更を基本的に納得していなかったからだ。

  まず、冒頭、中島が言った。

「従来方針で行き詰ったのは、『入金ベース』精算システムの当社システムへの移植開発(東都損保側責任)が致命的に遅れたことが理由だと、まず明確にして貰いたい。そこをハッキリさせないと次の議論へ進めない」と。

  兵頭がすかさず反論した。

「中島さんねぇ、『入金ベース』開発チームがギブアップしたから方針変更するのではないですよ。彼等は1~2週間の遅れがあるが、これは必ず取り戻すし、取り戻せると言っているんですから。ここまで、計画の他のテーマもその程度の遅れが出ているのは同じですよ。中央損保側の開発テーマもね」

「いや、こちらサイドの作業は遅れの内に入らないと報告を受けている」

「ここまでは、苦戦続きは事実ですが、大した遅れは出ていないと言えます。少なくとも、致命的遅れを来たしたと言うことではありません。問題はそこではなくて、このまま行って、残り5ヶ月強で本当に間に合うかと言うことです。
統合したシステムが本当に正しく動くのか? どこまでテストをしたら間違いを全部洗い出せるのか? とんでもない所に影響が出ないのか? 誤りの修正を含めて間に合わせられるのか? ということでよ」

「そんなことは、半年も前に充分検討して『行ける』と判断したことじゃないですか?」

「今回の計画は、お互いのシステムの詳細が良く分からない中で、人間の臓器移植みたいなことを、手探りで進めているんですよ。当初想定通りに行く訳ないじゃないですか! 節目節目で確認や見直しは不可避だということも共通認識だった筈です。」

「そんなことは言われなくても分かっています。部下達から当社側の作業は間に合うとしか聞いていませんので、基本的に方針変更する理由があるとすれば、兵頭さん、それはそちら側の作業が旨く行かなくなったからなんじゃないでしょうか?」

「中島さん! この時期まで来て、あっちだこっちだはやめてくれません? システム全体が旨く動かなきゃ一蓮托生なんだから。ちゃんと、御社の現場SEの声を聞いて下さいよ! 彼等も、ここまでやってみてたけど、普通のシステム開発と違ってテスト工程がどれほどになるのか見当も付かないと不安を抱いています」

「テストの目途が立たないなんて、当社のSE達からは聞いていない」

「テスト時間が決定的に不足しているとの思いは、御社の現場SEの皆さんと、当社のSE共通の心配なんですよ。このまま行けば早くて12月中頃からシステム・テストに入れると思うが、3ヶ月ばかりのテストで4月の新会社開業・システムの本番を迎えることになります。中島さんは胸を張って大丈夫と経営陣に言えるのですか?」

「・・・」

「半年間やったけど、残念ながら、まだお互いのシステムの詳細が良く分からないのが現実です。そんな中で取り敢えず必要なシステムの開発を進めているが、果たして本当にこれで良いのか、システム全体の整合性が保てるのか、という懸念が消えていない上に、その懸念を解消するためのテスト計画の全貌を明確に出来ないということが致命的だと言っているんです。5か月余りしかないこの時点で、見通しもなく、成算もなく闇雲に突っ込むということは責任上出来ないでしょう?」

 

  その遣り取りを聞いていた兵頭の部下の柳原が、憤懣やる方ないという面持ちで発言した。

「一寸宜しいですか。中島さんはこの4日間、何をやっていたんですか! 我々はですねぇ、御社のSEの皆さんと一緒に、5ヶ月余に迫った合併会社開業に向けて、次善の策でも当面の策でも、どうやったらシステム統合を間に合わせられるか、それこそ寝食も惜しんで詰めて来ました。なのに中島さんは、この方針の変更は東都損保側の責任だというストーリー作りに専念していたという訳ですか!」

8月 21, 2010   No Comments

永遠の0

 
  毎日の電車の往復は、殆ど文庫本を読んで過ごす。

  前の会社は自宅から歩いて8分という近さだったので、なかなか読書する時間が取れなかった。いや、近かった分、家で読書の時間が多く取れた筈と思われるかも知れないが、現実は、いろいろあって帰宅が遅く、家でじっくり本を読むことはあまりなかった。

  2年前に、JTから彼が立ち上げた新設保険会社に誘われて勤め始めてからは、片道30分間以上電車に乗るので、その時間本を読めるようになって読書量は飛躍的に上がった。

  読む本は、浅田次郎、東野圭吾、雫井脩介、真保裕一、楡周平、佐々木譲など比較的今風な作家が多い。このうちの過半は、2年前まで全く読んだこともなかった人たちだ。読んでみると、とても面白いので、同一作家の作品を次々に読むようになった。

  昔、松本清張や司馬遼太郎の作品を完全制覇したり、落合信彦の文庫本は全て買ったり、そんな懐かしい時代とは読む作者は様変わりしたが、どうも僕は、気に入った作品に出会うと、同じ作家の本を全部読みたくなる傾向にあるようだ。

  そのお気に入り作家に、もう一人加わりそうなのが、「百瀬尚樹(ひゃくせなおき)」。関西では既に名の売れた放送作家らしいが、僕は全く知らない人だった。本屋に行って、たまたま平積みされていた中に「永遠の0」というタイトルの文庫本が目に入った。

  0は「ゼロ」なのか「オー」なのか? 0がやたら大きい文字で書かれたタイトルだったから、「何だろう」と思って手に取った。

  0は「ゼロ」と読む。「ゼロ」は零戦のこと。当時世界最速で敏捷性抜群の戦闘機のことだった。終戦記念日も近いから読んでみるかと気楽に購入し、読んでみた・・・・・

  真珠湾攻撃に参加し、終戦の数日前まで生き残った、稀有な零戦乗りの物語り。彼は撃墜王の一人に数えられるほど腕の良いパイロットだったが、妻と「必ず帰る」と約束したことを最後まで守ろうとして、無駄な戦闘は極力回避もするし、場合によっては逃げもする。

  特攻志願も断固拒否する。「臆病者」と揶揄されようが、信念を絶対変えない。他のパイロット仲間は最後は潔く死ぬ覚悟で戦っているのに、彼だけは生き残るためだけに戦う。彼は戦地から妻に手紙を送り、妻は生まれたばかりの赤ん坊の写真を夫に送る。

  今、世間では「空気の読めない奴」は「KY」と忌み嫌わるが、彼の「KY振り」は際立っていて、妻との約束を守る一点でそれが徹底されて行く。他人がどう思おうと、上官にどれだけ殴られようと、死ぬための空中戦は絶対に拒む。

  それでも、敵からの攻撃を受け避けられない時は、已む無く敢然と戦い、誰よりも多く敵機を葬るのだ。その撃墜数を決して誰かに自慢することもない。次第に周囲も彼の凄腕に敬意を抱き、それを認めるようになって行く。

  しかし、最後の最後、終戦の数日前に、何故か彼は、特攻に志願して散ってしまう。最後に自分の信念を曲げたのは何故か、帰還を待つ家族はどうなるのか、クライマックスに迫る作家の筆致とマジックに僕も引き摺りこまれる。涙なしには読めない小説だった。読後はとても爽やかだった。
 

8月 20, 2010   2 Comments

党首選って?

 
  9月に民主党は党首選を行なうらしい。小沢シンパの議員達が集まって、自分達の候補者を立てると意気込んだ。小沢に近い前国対委員長が記者達に言う。「今の厳しい政治情勢や経済情勢の中、今の政権に任せると言う訳には決して参らない。国民の生活を守ることが出来る候補を出す」。

  小沢自身も、党内の幅広い支持が集まるなら、自らが立候補しても良いと表明した。

  小沢は、国民は彼に首相になって欲しいとは思っていないのが分かっていない。手下達も、彼等が自分達の代表候補を出したいのは、もしその候補が総理大臣になれば、自分達の利益に繋がるからだ。

  そこには、日本の首相がくるくる変わり、世界に全く存在感を示せないこの国の不利益に対して心配のかけらもない。

  己の利益追求が第一で、国益や国民のことは全くの二の次という姿が良く現れている。万一、彼等の思惑通り、新しい人が菅代表を破ったら、ホンの3ヶ月の短命政権ということになってしまう。1年しか持たなかった首相が4人も続いた後にだ。

  これでは、日本の政治家はどこに行っても尊敬もされず、発言力もなく、誰も彼の言うことを聞いてくれない。サッカー・ワールドカップ誘致にも無力だろうし、原子力発電や新幹線などの外国への輸出など、国家レベルの大型案件の売り込み合戦で、競合国の政権トップに適う訳もない。

  党内の「××降ろし」だの「OO抗争」だの、党内の派閥力学で多くの総理大臣が引き摺り下ろされた自民党とは違う、国益・国民第一主義の政権になって欲しいと思っているのに、自分の利益優先、党内内向き政治ゴッコは何も変わらない。民主党は、自民党時代の短命政権の繰り返しを止めるという問題意識は全く無いのだろうか。

  大統領直接選挙制を早く導入すべきだという僕の立場からすれば、一国のリーダーを国民の総意でもなく、党内だけで勝手に首相交代させることが出来る今の制度は、全く民主主義に反する。

  この制度である限り、総理大臣と言えども、その地位を継続するためには、国民の目線より、与党の視線の方が気になるだろう。短命政権を繰り返す日本は既に世界から呆れられている。兎に角日本の今の制度や仕組みが悪い。そろそろ、大統領直接選挙制、または、首相公選に踏み切らないと、救いようがないと思うが、如何に?
 

8月 19, 2010   No Comments

あるシステムの物語14

 
  車の中で、案の定、河瀬社長は不快感を顕にした。もう10月下旬だ、そんな方針に変えて間に合うのか、梶が付いていながらこんな遅い時期まで引っ張ったのはどういう訳だ、いっそのこと、事務もシステムも店舗も何も今のまま触らないで、合併だけしてお互い営業で競い合うという手もあるぞと、河瀬はありとあらゆる罵詈雑言を梶圭太に浴びせた。

  河瀬が腹立ちまぐれに言った最後の話など、最初の何年かは何の統合効果も生まないのだから合併の意味もない。河瀬が「責任を取る」と言っているように梶には聞こえた。梶は新方針について必死に説明し、元々、片寄せ方針で旨く行かなかった時の次善策として、コンティンジェンシー・プランを考えてあり、それがこの両システム並存型統合であること、5ヶ月あれば充分間に合うことを訴えた。

「勝手にしろ!」

「ハッ、ありがとうございます。明日早速その方向で動きます。数日中に社長のお出ましを願う場面にさせてみせます」

  河瀬の「勝手にしろ!」は不本意ながらOKという意味であることは長い付き合いの梶は良ーく解かっている。梶が言う「社長のお出ましの場面」とは、全ての周旋を終え、両社の最終結論を出しておきます、という意味だ。

 

  一方、この東都損保側の方針変更の動きは、相手社システム部門の執行部に大きな疑心暗鬼を生んだ。合併後の両社システム部門の力関係を慮って、兵頭と梶は片寄せからイーブンな関係に戻そうとしているのではないか、との疑いだ。それでも、兵頭は粘りに粘って、新しいシステム統合の可能性を検討する数日間の超短期プロジェクトの発足と、そこへの中央損保メンバーの参画の了解だけは取り付けた。

  兵頭は両社の主力SE達を東都損保のある会議室に召集した。実は、兵頭が集めた中央損保側のSE達は、開発現場の実力者達であり、残りの期間(6ヶ月弱)に行なわなければいけないシステム開発の工数があまりに多いのに、システム・テスト時間はあまりに少ない、これではとてもシステムの整合性の保証が出来ないと強い懸念を持った人々だった。東都損保側のSE達は、兵頭が信頼する部下達だった。

  両者は、兵頭がくだくだ説明する必要もない程、自分達が置かれている状況に強い危機感を持ち、これを何とか打開しなければと集まった。

  新しい方針の元、完成の全体図、そこに至るマイルストーン、課題整理、そしてその対応策の具体方法の決定など、システム設計を短期集中合宿形式で、会社に泊り込んで行なった。土日を含んだ4日間を掛けて、合併新会社梓損保の事務とシステムの、新たな構築計画書が出来上がった。

  兵頭はこの時、両社のシステム部門の人間達が、最大のピンチを前に、初めて一つになったのを感じていた。
 

8月 18, 2010   No Comments