プレミアムエイジ ジョインブログ
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Posts from — 10月 2010

僕の責任

  
あの日僕は突然君たちの責任者になった 僕を誰も知らない
 
僕は君たちが 一番気持ち良く頑張れる世界を作ろうとした
 
精一杯努力した そのために闘いもした
 
それが実現した時は、君たちは心から喜んでくれた
 
その笑顔を見て 僕は報われた気分だった
 
 
 
僕の辞める1年前 いきなり元に戻す決定がなされた
 
新しい政策の結果だった トップ交代の結果だった
 
君たちは僕の気持ちを慮って 僕に抗議の声を向けなかった
 
でも 一番悔しい思いをしていたのは君たちだった
 
あれから3年経って 君が辞めたと聞いた
 
 
 
君が辞めたのは 僕に半分責任がある
 
前のままなら 落差も知らず辞める気にもならなかったろう
 
僕は君たちに見せてしまった 君たちの望む世界の形を
 
そしてその反動が来た 食い止められなかった
 
中途半端に夢を見させてしまった僕の責任
 

10月 30, 2010   No Comments

キャンペーン(6) 完

 
  良いことはそう長くは続かないものだ。「あずさ保険システムズ」は、短期のうちにプロパー社員中心の会社に変えて、社員の意気は盛んになったものの、それまで指示されたことだけをやれば良かったのが、出向者がやっていた慣れないマネージメントや関係部署との折衝や業務計画をも、自ら行うのは簡単なことではなかった。

  時々、ミスが起きたり、納期に間に合わなくなり徹夜作業や土日出勤でカバーせざるを得なくなるケースも頻発した。だが、これも生みの苦しみのようなもの。迷惑を掛けた相手、特にあずさ損保本社部門には僕が謝りに行くことも多かった。

  そんな中で、出向社員を引き上げ、プロパー社員中心でやるようになったからミスが頻発するようになったのではないか、という非難を受けることも多かった。大量の出向解除で、折角プロパー社員の士気が高まったのに、この非難が本社世論になってしまうと、元の木阿弥になりかねない。

  その頃である、あずさ損保が秋の大キャンペーンを繰り広げたのは。関連会社も保険契約紹介キャンペーンへの参加が求められていた。

  僕は、このキャンペーンを利用しようと思った。当子会社が、本社・関連会社部門のコンペでぶっち切りの優勝をして、「あずさ保険システムズ」ここにありをアピールし、本社の人達にプロパー社員達を認めて貰う一助にすると同時に、どの子会社よりも自分達はあずさ損保に貢献しているという自信を、社員に持たせようと考えたのだ。

  各課各チーム毎にキャンペーン推進責任者を決め、定期的に打合せを行った。彼等には、当社の存在感を高めるためにということを徹底的に課員にオルグして貰った。また、協力的な営業部門にお願いして、毎週3回、コンピューター・センターに詰めて貰って、契約手続きをどんどん進められる環境を整えた。

  多分、損保業界のどこでもそうだと思うが、こういう保険販促キャンペーンに対してシステム部門は、押しなべて冷淡なところが多い。理由は簡単。営業の苦境を救うための販促キャンペーンに協力しても、システムの苦境に対しては、営業部門は協力してくれないではないかと言うもの。

  「あずさ保険システムズ」も例外ではなかった。3ヶ月間のキャンペーンだが、最初の1ヶ月はどの課も微々たる成果しか上がらなかった。僕は主だったメンバー(若い社員に影響力のある者)を社長室に個別に呼んで協力を要請した。

  今は兎に角、あずさ損保からの信頼や評価を勝ち取らないと、プロパー主役の会社が元の木阿弥になる。だから、このキャンペーンで、「あずさ保険システムズ」は凄いじゃないかと思わせたいと、一人ひとりに熱っぽく話した。

  2ヶ月目からは、グラフが急な右肩上がりを示し、最後には当社は、本社から与えられた保険契約目標数に対して200%を超える達成率を記録した。結果はぶっち切りの優勝だった。更にこの期限限定キャンペーンの成果が活きて、年間キャンペーンでも2位以下に大差を付けて第一位となり、ダブル受賞となった。

  こうなるとプロパー社員で大丈夫か、などと見下していたあずさ損保の本社部門の担当者達も、微妙にその態度を変えて行ったから世の中面白い。そりゃそうでしょう。保険会社の人達より、システム子会社のSE達の方が、保険販促キャンペーンを一生懸命にやり大成果を挙げたのだから形無しだ。

                  キャンペーン  ― 完 ―

10月 29, 2010   2 Comments

叔母

 
  私の親父の弟の、つまりは叔父の奥方なのだが、今は確か83歳になる筈だ。叔父は19年前にC型肝炎から肝硬変、肝臓がんと進み、遂に68歳で逝ってしまった。その叔母さんを僕は何故か幼い頃から大好きだった。

  最近はとんとご無沙汰していて、僕の父親の葬式に来てくれた時以来会っていなかった。先週、彼女の息子から僕の携帯に電話が架かって来た。携帯電話に彼の名前を見た瞬間、何か悪い予感がした。

「もしもし、お兄さん?」

  彼より7歳年上なので、いつも僕をそう呼んでくれる。

「やぁ、久し振り。元気でやってるかい?」

  とか、前戯のやり取りの後、直ぐに本題に入った。

「実はね、母親が胃癌でもう第4期に入ってるんだ。出来ればね、一度お兄さんの顔を見せてやって欲しいんだけど」

「え! ホント? いつから具合悪かったの?」

「3月くらいかな。近くの医者に通ってたんだけど、分からなくて、大学病院に行って分ったんだよ」

「じゃぁ、今、入院してるの?」

「ううん、家で寝てる」

「分った。早い方がいいね。今週末にもお邪魔するよ。その時また電話するから」

  と言って電話を切った。切ってから、早い方がいいね、は余計だったかと反省。

  日曜日に、狭山の叔母の家を訪ねた。電話の感じでは癌の末期なので、僕は叔母が相当やつれ、やせ細っている姿を想像していたが、少し顔がほっそりとしたなと思った程度だった。叔母はベッドの上で直ぐに上半身を起こして、「よく来てくれたね」と言う。

  聞けば、胃が痛いとか食べると気持ち悪くなるとかは全くなくて、寧ろ、足のむくみが辛いとのことだった。本当に末期なのだろうかと疑うほど、話す声の調子も美貌も、以前の叔母と殆ど変わらない。

  いろいろな話をしながら、子供心にこの叔母を綺麗だなと思っていたことを思い出した。随分後になって思ったのだが、叔母は岡田茉莉子に良く似ていた。だから、僕は幼くても、親から離れて美しい叔母の家に何日も泊まりたがったのだ。

  微かに覚えているのは、多分新婚時代の叔父叔母の家(間借り)に、僕が一人で泊まった時叔母が作ってくれた、生まれて初めてのトンカツの美味しさだ。

  それは叔母も覚えていて、「あなたが、まだ、4~5歳くらいだったと思うけど、トンカツを一枚ぺろっと食べちゃったのには驚いたわよ。翌日も食べられると思ってたんでしょうね、あなたが、トンカツは? って聞くのよ。今日はトンカツじゃないのよって言うと、涙ぽろぽろ流すんだから。もう慌てちゃって、お父さん(僕の叔父)に、近くのトンカツ屋さんまで買いに行って貰ったの」と、思い出話を語ってくれた。

「そう言えば、あの家にギターが置いてあったの覚えてるんだけど、叔父さん、ギター弾いたの?」

「うん。私がね、台所で食事の支度してると、直ぐ近くに来てギター弾きながら歌を歌ってくれたのよ」

「へぇ。あの時代にギターの弾き語りを奥様に聞かせるなんて、電電公社の人にしちゃぁ、叔父さんも随分進んでたねぇ。ロマンチックだなぁ」

「結構女性に人気のある人だったからね。あぁそう言えば、彼の葬式の時に、誰だか分からない人から大きな花束送られたり、一周忌の時、お墓に行ったら、既に新しい綺麗なお花が沢山飾られたりしていてね」

「うわ、怪しいな。叔父さんカッコ良かったから随分持てたんだろうな。叔母さんは心穏やかじゃなかったでしょ?」

「もう焼き餅妬くような歳じゃなかったし、それ程まで、いろいろな方に慕われていた人を、自分の夫に出来た幸せを感じたものよ」

「なるほど」

  その後、住まいは松本深志高校の直ぐ目の前の県営住宅に移ったが、僕は小学校低学年の頃まで、毎年夏休みと言っては叔母の家に遊びに行っていたような気がする。2人の息子が産まれた後も。今思えば、新婚生活は邪魔するわ、出産間際の大変な時も省みず、随分とご迷惑を掛けたものだ。ゴメンナサイ。

  その頃、僕の家は長野市だったから、松本の叔母の家まで、小学校1~2年生がよく一人で汽車に乗って往復出来たものだと思う。叔母がいればこそだったのだろう。

  奇跡を信じたい。

10月 28, 2010   No Comments

キャンペーン(5)

 
  何故、プロパー社員に主役になって貰うことが、僕にとって最重要だったかと言うと、本体のシステム部門の社員と、「あずさ保険システムズ」への出向社員を合わせた親会社のシステム要員200名の平均年齢が40歳を越えているのに対して、プロパー社員300名のそれは30歳未満なのだ。新規のシステム要員は、親会社社員ではなく、プロパー社員採用で増強して来た当然の帰結だ。

  これからの時代を背負うシステム戦力は、若い方に決っているではないか。更に、親会社のSE達の多くは、管理や報告が主任務になっており、システム作りやメンテナンスの具体作業から遠ざかっていて、最早現役プレーヤーとは言えないのだから尚更だ。

  そして、彼等が10年前くらいまではやっていたであろう現役プレーヤーの仕事を、彼等より10歳以上若いプロパー社員が今ちゃんと出来ていることを思えば、キャリア組とノンキャリア組の能力には大差ないということだ。

  再び社員との対話集会を実施した。若し、出向社員を本体に戻したら、君達は彼等の分もやれるか、やるつもりがあるかを確認して回った。彼等は異口同音に、「絶対にやります」「任せて下さい」「社長に恥じは掻かせません」と言う。

  僕は最初の一年、あずさ損保のシステム担当役員を兼務していたので、あずさ損保システムの運営責任者として、今後のあずさ損保のコンピューター・システムは、「あずさ保険システムズ」のプロパー社員で担って行こうと決断した。

  そのためには、まず、親会社からの出向社員150名を20名程を残して全て本体に戻すこと。本体で余るSE達は、本来の総合職として、システム素養の必要な部署への人事異動で有効活用を図って貰おうと考えて折衝の上、半年毎4回に亘って130名の出向解除を行なった。

  自分達に指示し、言った通りやったかチェックし、進捗管理するだけの人間達が、目の前から一斉に消えたのだから、職場は、プレーヤー主役の雰囲気に変わり、プロパー社員にとって自然とやる気が出る環境となったのだと思う。

  出向社員を本体に戻すと宣言したが、まさか短期間に本当にそうなるとは思っていなかったと思う。親会社もシステム子会社のプロパー社員達も。プロパー社員は嬉々として僕に言ったものだ。「社長! 本当にやっちゃったねぇ。見直したよ」。失礼な。でも、その頃から、盛んに彼等は僕と飲みたがるようになったのは事実だった。

10月 27, 2010   No Comments

キャンペーン(4)

 
  僕自身が仕掛けた2つ目の販促キャンペーンは、2002年度下半期に本社全部門と全関連会社で保険契約紹介運動が実施された時である。

  僕はその時、あずさ損保のシステム子会社の責任者を務めていた。実は2001年に東都損保と中央損保が合併をしてあずさ損保という会社になった。システム子会社同士も合併して「あずさ保険システムズ」という会社になり、僕はその新会社の初代代表取締役になっていたのだ。

  合併前も含めて、システム子会社で仕事をしたことがなかった僕は、子会社に入社したプロパー社員達と直接話す機会もあまりなく、彼等の気持ちを知りようもなかった。

  そこで、代表取締役就任と共に、各部署別に社員と直接話す対話集会を何度も実施し、彼等の意見を聞き、僕からも、合併新会社は、今までの延長線上ではなく、即ち、本体(親会社)の下請けで良いという時代は終った、この会社の君達が、あずさ損保のシステムを全面的に請負い前進させて行く主役にならなければいけない、などと鼓舞して回った。

  そんな中で、ある女性プロパー社員が私の発言に異を唱えた。「神童さんは、私達が主役だと仰いますが、この会社にも親会社からの出向社員が150名もいて、本体にもシステム部門があります。どう見ても私達の仕事は言われたことだけやる下請けでしかないんじゃないでしょうか?」

  正に、僕が認識している現状も彼女の言う通りだった。「あずさ保険システムズ」の現状を極々ディフォルメすれば、キャリア組の親会社からの出向者と、ノンキャリア組のプロパー社員とからなる上下構造の会社となる。

  合併以前に、僕らが大事にして来たポリシーは、「ベテランSEはプレーイング・マネージャーたれ」だった。その目から見ると、管理者然としたキャリア組と指示待ちノンキャリア組が存在するこの会社は決して好ましいものでなかった。

  僕は、ノンキャリア組に「あんた達がこれからは主役だ」と、ただ口先で、何の手立ても具体策も講じずに言っていたのだから、プロパー社員には酷く空疎に聞こえていただろうなと気が付いた。

  それからは、僕の最大テーマは、「どうやってプロパー社員300名の士気を高めるか」となった。

10月 26, 2010   No Comments

人身事故

 
  突然、ヴァ、ヴァ、ヴァー、と警笛が鳴った。その断続音の後は、長いヴァーーーーーという警笛。同時に、急ブレーキが掛り、僕ら乗客は全員前方に体が傾く。更に、ヴァ、ヴァ、ヴァー。

  これは何か良くないことが起きそうだと誰もが思う。踏み切りで車が立ち往生でもしているのではないか、或いは、飛び込み自殺か。

  立ち上がって前方を確認しようとする間もなく、「ガチーン」と大きな音。僕が座っている側(前方に向かって左側)でその衝撃音がした。

  そう、それは、会社の同期の仲間達と一泊二日のゴルフ・コンペに向かう木曜の早朝のことだった。埼京線の十条と赤羽の中間地点だ。大宮で7時に仲間と待ち合わせて、宇都宮の先の喜連川まで行く途中の出来事だった。

  僕が乗っていたのは、新宿発6時21分発、JR埼京線通勤快速・川越行の先頭車両のやや前方。新宿駅で通常の中央通路から埼京線に乗り換えようとすると、埼京線ホームの先頭の階段を上ることになるから、出発間際だとどうしても先頭車両に乗り込むことになる。

  それがいけなかった。電車がストップした後、暫くして車内放送があった。「只今、人身事故が発生しました。暫く停車します」。さっきの「ガチーン」という大きな音は、やはり、電車と人がぶつかった時の音だった。

  暫くしてサイレンが鳴り、警察が到着したようだ。再び、「これから現場検証に入りますので、もう暫く停車します」。

  僕は、大宮での待ち合わせ時刻に間に合うかどうか大変気掛かりだった。時計を見た。6時45分だった。もう間に合わない。仕方ない、後から遅れて行くしかないな。

  「只今より、3両目の下に潜り込んでいる怪我人を救出していますので、一時全ての電源を切ります。空調が聞きませんので、適宜窓を開けるなどして空気の入れ替えにご協力下さい」

  怪我人なんて言い方嘘っぱちだろう。でもまぁ、それ以外の言い方はないか。電気が消えた。あちこちで携帯で連絡を取っている。僕も待ち合わせている仲間に電話して事情を話した。後から追いかけるけど、スタートには間に合わないと思うから途中から参加する旨を伝えた。

   僕の隣席の男性は、窓を開けながら外に身体を乗り出すようにして3両目を見ている。「何か見えますか?」と僕は聞いた。「警察官やら鉄道関係者しか見えませんねぇ」。僕自身はとても見てみようという気は起きなかった。

  30分以上は経ったろうか、再び電灯がつき、「これより安全確認を行います」とのアナウンス。やれやれ。そして遂に「皆様大変長い間お待たせいたしました。只今から運転を再開いたします。赤羽には45分遅れで到着の予定です」。

  電車が動き出した。ホッとしたら、急に耳にあの「ガチーン」が蘇えった。あの音は一両目でなければ聞かないで済んだ筈だ。人身事故に遭遇する不運は当然感じたものの、僕は先頭車両に乗ってしまったことを悔いた。

  同時に、立ち往生の自動車とぶつかったのではなく、大惨事にならなかったことが不幸中の幸いとも思った。この事故で、朝の通勤の足は大幅に乱れた。

   その日のゴルフは、それでも2ホール目で追い付き、17ホールみんなと回れたが、一日中あの「ガチーン」が耳にこびり付き、とてもゴルフどころではなかった。

10月 25, 2010   2 Comments

再会

 
  僕は木曜日から前の会社の同期入社の仲間達と、喜連川で一泊二日のゴルフ旅行をした帰り、そのまま、東中野にある「ドラム」というジャズ専門のライブハウスに向かった。

  我が青春時代の学生バンド仲間のAが、1年振りに自分のライブをやると言うので応援に駆け付けた次第。昨年は、退職記念ライブと称して、お世話になった方々が大勢来られていたが、今回もそういう方を初め、中学の友人の皆さんや多分ゴルフ仲間達が加わって、会場は立錐の余地なしだった。

  得意のオカリナとサックスの演奏。この1年、ジャズ・ピアニストの坂口氏に徹底指導を受けたそうで、サックスはもう本格派の域に入っているように僕には見えた。先週青山で行われた知り合いのライブで、彼と僕とで飛び入りで演奏したが、その時よりもアドリブのノリは数倍良かった。ビブラートの利いたあの透き通るような透明感ある音色と、激しく唸るような音色の両方が現れるのが何とも魅力的だ。

  バックは、ピアノの坂口氏、この店「ドラム」のオーナーでドラマーの三戸部氏(2人とも年齢は僕らより数歳は上)、ベースは2人に比べると、かなり若手のプロ・ベーシスト(名前?)という錚々たるメンバーだ。オーナーの三戸部氏は若い時に、天才ドラマーと言われた白木秀夫に見出され、あのアート・ブレーキ―から直接指導を受けたという経歴の持ち主。

  そんな三戸部氏にドラマーを交代して貰って、僕も2曲、ドラムを叩いたのだからいい度胸してるよね。「枯葉」と「素敵なあなた」。どちらも4バースのドラム・アドリブ入りなのでかなり緊張したが、二日連チャンのゴルフで適度に疲れていたから、却ってそれが良かったのか、ほぼ間違えずに演奏出来たと思う。

  特に「枯葉」の4バースは、ドラムのアドリブで終わって、サックスのメイン・メロディーに戻るのだが、ドラムの4小節目の頭(1拍目)を叩いてブレーク出来るかどうかが最大課題だったが何とか成功した。昨年もAと一緒に演奏したが、今回初めて坂口氏も三戸部氏も褒めてくれた。少し自信が回復した。

  今回は、Aのリサイタルという楽しみだけでなく、もう一つ大きな楽しみがあった。それは、同じく学生バンドでギターとボーカルを担当していたHが、このためにわざわざ遠くからやって来ることになっていたからだ。Hはある国立大の先生だ。

  学生バンドでは、彼は1人だけ1年後輩だったし、当時はジャニーズ系(そんな言葉はなかったが)で可愛かったから、僕等のバンドのマスコット的存在だった。女子大生のファンも多かった、かな? 5年振りの再会だった。病気を患いお酒は一滴も飲めなかったけど、Aのジャズを聴いて元気が出たみたいだった。来年は、Hのギター参加を得て3人で共演出来ると最高なんだが。

  あっという間の3時間だった。曲数はアンコールを入れて19曲だったという。Aは大したもんだ。何が凄いかって、途中のゲストのジャズ・ボーカルを除き、殆どの曲は主役がAでMCも全部Aだ。

  大した話をする訳ではない。大したジョークを言う訳でない。だが、訥々と話すMCに彼の人柄が滲み出る。幾ら友人知人達だと言っても、1人で満員の観客を3時間も引き付けられるのは凄いの一言こと。

10月 23, 2010   3 Comments

キャンペーン(3)

 
  実を言うと、その2年前から、僕は損保7社合同でこの時のために立ち上げた「生保システム共同開発PJ」の責任者だったので、結構詳しかったから寧ろ有利だったのだ。良~し、まずは生保販売で営業部門の信頼を勝ち取るぞ。

  早速、業務部門のインストラクターを中心に各支店の営業マンを何人か混ぜた「生保研修プロジェクト」を僕の責任で立ち上げた。プロジェクト・メンバーがまずは中身をしっかり勉強して、営業本部内の他店の研修講師が務まるように、自前の教材などを作りながらレベルを上げて行った。

  このPJはまずまず成功して、一応、営業本部全域の発売前研修は済ませることが出来た。

  さていよいよ10月1日。僕は業務部全員を集め朝礼を行なった。そこで、以前の僕とは全く違う言葉を部員を前に吐いた。

「皆さん、今日から我が社は生保業界に殴り込みを掛けます。昨日までとは違い、損保他社だけでなく、生保業界全体をも敵に回すのです。我が業務部は営業部門ではありませんが、最初の月を生保キャンペーンの月とします。業務部内の課対抗キャンペーンとします。一人3件の生保契約を、是非、集めて下さい。
自分達は営業係じゃないのに、と思う人もいると思いますが、家で父親が新しい商売を始めたら、子供達は子供達で友達を誘ったり、出来るだけの協力をしようとするでしょう? 今回は、それを是非とも皆さんにお願いしたいのです」

  立場が変われば言うことも変わる。自分ながら変われば変わるものだと驚いた。部内のキャンペーンは、最初低調だったものが、後半大きな盛り上がりを見せた。

  部員達が人に説明説得するうちに、既存生保の商品より遥かに安くて良いものと分かって行き、自然に自信が持てるようになったのだろうと思う。親戚や友人宅の既存生保を当社商品に切り替えさせるケースが増えて行き、3課のうち2課で目標を達成したのだった。

  実は業務部は業務部で全国の業務部対抗キャンペーンが行われていたのだが、それは伏せておいた。東北業務部はいろんな数字で他の業務部に劣っていたから、全国の業務部対抗キャンペーンとして、日々、数字を部員達に見せてしまうと、最初から諦めてしまうと思ったからだった。

  蓋を開けてみたら、生保契約件数で、堂々業務部門第2位の成績を収め、本社で表彰を受けたのだった。東京から賞金を持ち帰り、みんなで打ち上げ会を行なったが、部員達は本当に嬉しそうだった。尤も、僕は6件の生保契約をせざるを得ず、以降、飲み代に大きく影響してしまったのだが。

  一方、業務部門の生保契約は、実際には営業部門からの計上となるのだから、営業部からもそれは大変喜ばれたのは言うまでもない。彼等からすれば、全く当てにしていなかった業務部から大量の契約が入ったのだから、この計算外の売り上げは嬉しいサプライズだった。生保発売に当って、秘かに抱いた自分達のキャンペーンは狙いは当り、営業部門からの業務部への信頼を高める効果は極めて大であった。

10月 21, 2010   No Comments

キャンペーン(2)

 
  最初は、15年前の仙台。僕はそれまで入社以来約30年システム部門一筋だった。それが、東北・北海道の全域をテリトリーにする営業本部の業務部長として赴任した時だ。

  丁度、保険業界の自由化喧しかりし頃の1996年の7月1日の赴任である。業務部長とは、大きく分けて2つのミッションを持つ大変な役職だった。一つは、営業部門の業務実態を常にチェックして、地域全体の業務処理の水準を適正に保つ役割だ。

  不正契約や不正処理を摘発したり改善させたり、コンプライアンス教育を社員や代理店に徹底する、営業部門監視責任者と言える。システム部門しか知らない僕が、営業の監視をするってんだから、無茶苦茶な会社だよ。

  もう一つのミッションは、営業推進参謀としての立場だ。営業本部長を補佐し営業戦略を立てて本部長に進言するのだそうだ。これが、営業もやったことない僕の果たすべきミッションだという。これも無茶苦茶。

  そして、業務部長の役割の最も無茶苦茶なのは、営業部門に対して、ブレーキ(監視)とアクセル(推進)の両方を踏めということだ。何じゃこれは、と言うのが赴任しての第一印象だった。

  ただ、実際、業務部長席に座ってみると、営業部門のチェックは、業務課長・会計課長・研修課長(インストラクター)などがいて、彼等が整斉と業務遂行してくれていた。

  僕の出番は営業店で不祥事が起きた時や、臨店検査などで営業店長に連絡する時、イベント(決起集会の準備や会長・社長視察時の宿や会食手配など)の企画・準備の時、各課長から相談を受けた時くらいのもの。そして、彼等課長達は営推機能を持たないから、監視機能に集中出来ているようだ。

  そうであれば、僕としては営推参謀の機能にシフトしようかと思うが、営業の素人に一体何が出来る?

   ところが、世の中旨く出来ているものだ。赴任して3ヵ月後の10月1日から、損保会社が生命保険販売を開始するのだ。保険の自由化の幕開けだ。何十年営業をやって来た人も、営業の全くの素人の僕も、生保商品知識とその販売は、どちらも初めてなのだから、条件は全くのイコールだ。これは天佑だと思った。

10月 20, 2010   No Comments

キャンペーン(1)

 
  前の損保会社では、全社で取り組む販促キャンペーンあり、各地域で個別に開催するキャンペーンあり、本社の非営業部門や関連会社では契約紹介キャンペーンなどもあり、一年中、何かしらのキャンペーンが繰り広げられていた感がある。

  勿論、営業部門は個人ノルマがあり、他の部門も職場単位のノルマがある。目標を達成して上位に入れば、記念品や賞金をものにすることが出来るし、翌年の人事考課に勿論プラスに跳ね返るが、ノルマ未達だったりすると、様々な酷い罰ゲームが待っている。

  キャンペーンを成功させるため、各部門の長たちは、自腹を切って自分や親戚の保険を契約して、自分の職場のキャンペーンのカンフル剤にし、部下を叱咤激励する。代理店や営業職員をその気にさせて、あるキッカケを掴み、「行ける」という感触を職場全体が共感すると、その勢いは更に増し、遂に目標をクリアーして行くのだった。

  僕は、長い間、システム部門だったから、正直なところ、この販促キャンペーンには全く関心がなかった。いや寧ろ、キャンペーンに協力するつもりなど更々なかった。

  営業成績が振るわないからキャンペーンを打つのに、何故、システム部門が販促キャンペーン(非営業部門キャンペーン)を行なわなければいけないのだ、システムが困った時、営業部門は助けてくれるのか、と。

  現に、本店営業部の営業担当者が我が部門のフロアーに来て、大声で「皆さんも同じ会社の社員なのだから、知らん顔しないで、この保険に一口付き合うべきです」と触れ回る輩がいた。

  たまたま何人かいる筈の上司がおらず、見たところ僕が一番の責任者みたいだから、「悪いけど、仕事の邪魔になるから出て行って下さい」と彼に言った。「だったら、全員分の保険契約、約束するんだな」とか仰る。「それは個人の意思次第ですから」と言ったら益々激高する。

  取り敢えず彼を部屋の外に押し出し、「助けて貰う人があんな言い方したら、誰も付き合いませんよ」「付き合うんじゃない。社員の義務だと言っている」「全社員の義務だと言うなら、お宅の営業部からの指示じゃなく、うちの部長からの指示に従います。どこの営業店に入るかもね」

  だいたい、自分の成績がショートするから社内で埋め合わせようという魂胆がバレバレなのに、社員の義務だとかぬかす営業なんてろくなモンじゃない。「今、システムの人員が足りないから、お前手伝え、それが社員の義務だ」って言われたら、あんたどうするの。

  だが、そんな僕が、率先して販促キャンペーンを打ったことが2度ある。

10月 19, 2010   No Comments