プレミアムエイジ ジョインブログ
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Posts from — 11月 2010

初めての合同練習

 
  12月24日のクリスマス・イブに行なわれる、コーラス隊「TSUBASA」と「おじさんバンド」のジョイント・コンサートに向けて、初めて、両者合同練習が行なわれた。

  場所は、公民館のスタジオ。僕は初めての場所だったが、30畳はあろうかという、フローリングの床のなかなか立派な部屋だった。壁一面が鏡になっていて、ダンスなどのレッスンにも最適で、4時間借り切って1,200円というのも公共施設ならではだ。

  但し、ドラムセットはスタジオにあると聞いていたのだが、肝心のスネア・ドラムだけは、自分のを持って来ないといけなかった。ドラムセットを載せる台に注意書きがあった。

  「利用者に乱暴に扱われたため、スネア・ドラムとクラッシュ・シンバルが壊れてしまいましたので、各自お持ち下さい」と。この辺りが、民間の貸しスタジオとの違いかな。でも、安いんだから仕方ないか。仕方ないから、急場凌ぎで小さい方のタムタムをスネア代わりにセットして練習開始。

  スネア・ドラムは裏面のスナッピーが効いて、ジャッ、ジャッ、と歯切れの良い音がするが、タムタムだとドンドンと間の抜けたような音だから、気になってしょうがないが、今日のところは已む無し。次回合同練習までに、練習用のスネア・ドラムを購入することにしよう。

  さて、合同練習である。12曲からなる「懐メロ・メロディー」。夫々の曲毎に、前に出て歌う人(1人~数人)が決まっていて、他の人はバック・コーラスを担当する。おじさんバンドは、12曲全て伴奏する。

  大変なのは、次の曲の繋ぎをドラムで1~2小節やらなければならないことだ。これまでの経験でも、メドレーはやったことがない。やってみて分かった。前の曲と次の曲では、リズムも早さも違うので、次の曲のメロディーとスピードが瞬間的に思い浮かばないと叩けないということ。

  こればっかりは、自主練やイメージ・トレーニングで、夫々の繋ぎのリズムとスピードの変化を覚えてしまうしかない。まぁ、それでも1週間前に大森教授の家で「おじさんバンド」の練習をしているので、合同練習初日にしては、それほど混乱せず練習出来たと思う。

  夕方5時に練習は終了したのだが、その後、ご苦労さん会という飲み会になり、コーラス隊とおじさんバンドが楽しく飲むのも久し振りだったから、盛り上がり過ぎて、結局、2次会含め深夜にまで及び、翌日、二日酔いになったのは大いなる反省点であった。

11月 30, 2010   No Comments

「DRUM」という名の店 (下)

 
  三戸部さんは、ステージが終った休み時間に、僕らのいるテーブルに来て、いろいろ教えてくれた。

「神童さんね、楽器の中でドラムとピアノだけが、自分の指と実際に音がする場所までの間に異物が存在するの。ドラムはスティック、ピアノは鍵盤の先のハンマーだね。異物にどう伝えるか、それは、この楽器の宿命みたいなもんだ」
「ハイ」
「だからドラムで言えば、自分の意思をスティックの先端に、どう100%伝えられるかが勝負なんだ」
「なるほど」
「言い換えれば、スティックの先端の微妙な動きをどう手首と指でコントロールし伝達するかなんだね。スティックを持つ親指と人差し指以外の3本の指で、どうやってスティックの先端を思い通りに動かすか、それを常に意識して練習してみて下さい」

  その道55年のドラマーの言葉は重い。大変、勉強になる。

  第2ステージで、僕とAは「素敵なあなた」を演奏した。三戸部氏は、曲が終った後直ぐにコメントをしてくれた。

「身体を動かさないように意識して叩きましたね。とても良くなりましたよ。それに、もっと良かったのはね、目を瞑って聴いてたら、フォー・バースのドラムの時、メロディーが聞こえましたよ。さっきの‘枯葉’とは大違いでした。フォー・バースは、ただ叩けばよいと言うもんじゃないんです。ドラムで曲を演奏するんですからね」
「ヤッパリ、歌いながらフォー・バースをやる方がいいんですかね?」と僕が質問。
「勿論です。ドラムもメロディーを大切にしてフェイクして下さい」

  成る程ね。僕は、ジャズのメロディーをスキャットで歌えるまでにはなってない。だから、演奏者がアドリブに入ったり、フォー・バースになったら、カウントしていないと、今どこを演奏しているのか分からなくなることも多い。レパートリーの曲は、全部口ずさむことが出来るようにならなくてはと思った。

  三戸部氏は、僕のためにわざわざご自身が昔、必死に習ったジーン・クルーパーやスティーブ・ガドのドラム教則本を、どこからか探し出して来て見せてくれた。どちらも英語版だった。早速僕はメモした。

  ここまで、三戸部氏が僕に対して一生懸命教えてくれるなら少し通ってみようかと思う。Aに置いて行かれないように。坂口・Aのコンビでこの店「DRUM」に出演するのは月1~2回なので、それに合わせて僕も可能な限りお邪魔することにしよう。

                   「DRUM」という名の店  ― 完 ―

11月 29, 2010   No Comments

立川駅

 
  パスポートの申請に来たり、カミサンと買い物に来たり、或いは、ライブハウスに出演したり、これまでも結構立川駅周辺には何度も来ている。

  だがこの日、僕は友人と久し振りに会うためやって来たが、待ち合わせ時間(夕方7時)に30分も早く着いてしまったので、立川駅前を少しぶらついてみようと思った。

  ぶらぶら歩いていたら、ふと40年近く前のことが思い出された。今は、駅前の広場も整備され、駅ビル自体も新しく、何もかもが刷新されてしまっている。

  以前は、駅も小さく低層の建物だった。駅前も高いビルは少なく、どう見ても田舎の古い町を思わせた。その風景のせいか、都心から電車で来てここに降り立つと、あぁ、随分遠くまで来たものだ、と思ったものである。

  その頃、僕は阿佐ヶ谷に住んでいた。彼女は立川だった。彼女と言っても、恋人と言うのではなく、女友達、乃至は、飲み友達といったところ。

  実際は、新宿辺りでグループの飲み会などの帰りに、電車が同じ方向(JR中央線)だったから一緒に帰ることが多かっただけである。

  彼女、本当に美人だった。そして可愛かった。普通なら、そういう有利な状況があれば、逃がさずものにする筈だが、何故か当時の僕には躊躇があった。仲間に対して、抜け駆けするみたいで嫌だったのか? 違うな。自分に自信がなかったということだろう。

  僕はその頃まだ平社員。一人前の社員にすらなっていないと自分で思っていた。「結婚」の二文字は、僕の中では、遠い先のまた先の話でしかなかった。多分、「結婚」も考えられないのに、付き合ってくれとは言えなかったのだと思う。勿論、それを言えたらと悶々としたこともあるのだが・・・

  ある時、家の事情で会社を休んだことがあり、その夕方、急に思い立って、立川駅まで行った。5時過ぎに彼女が会社を出たとすれば、遅くも6時半ごろまでには、立川駅北口に現れる筈と読んで、北口改札付近で待つことにした。

  例えば彼女に別の用事があって、今日、会えなくてもそれは仕方ないと割り切って待ち続けた。電車が到着する度に改札から吐き出される人の波の中に、目的の人を探すのは、意外と大変だ。目が疲れる。見落としてしまったのかも知れないとの思いも襲って来る。

  テレビや映画で、刑事が改札口から大勢に紛れて出てくる犯人を待つ場面があるが、やってみると結構しんどい。

  6時半を回って、今日は真っすぐ帰る日ではないのだなと思い、次の到着電車の人の波を確認したら、僕も阿佐ヶ谷に帰ろうと決めた。少しの間、改札口が閑散としていたが、再び大勢が出て来る。内心、もうこの中にはいないだろうと、集中力を欠きながら眺めていた。あっ、いた。彼女だ。

  彼女もほぼ同時に僕を確認して、戸惑ったような、驚いたような表情をしながら僕に近付いて来た。

「神童さん! ビックリしたわよ。どうしたの?」
「たまたま、立川に用事があってサ。もしかしたら君が帰って来る頃かなと思ってね。ここで少し待ってみたんだ」 

  我ながら下手な嘘だなと思いながら答えた。だけど他に言いようがないでしょ。

「ホントに? 実は今日、渋谷で友達と会う筈だったんだけど、彼女の方が都合悪くなったから真直ぐ帰って来たの。良かったね」
「食事、まだなら、その辺でどう?」
「ええ」

  ということで、駅前の寿司屋に入った。彼女もお酒が飲める口なので、会話自体は盛り上がり、立川にしては寿司も美味しくて申し分なかった。でも、今日はいつものように楽しく飲むのが目的じゃない。「付き合ってよ」と言わなければならない。

「あのサ、こういうの、たまには付き合ってよ」
「立川では初めてだけど、いつも付き合ってるじゃない」

  あのぅ、そういう飲み会のことじゃなくてサァ・・・。 「結婚を前提に」、なんて、とてもとても、最後まで言えなかった。

  バスで帰る彼女を見送って、僕は立川駅の改札に向かった。

11月 27, 2010   2 Comments

「DRUM」という名の店 (中)

 
  Aと僕は、各ステージ毎2曲、3ステージで都合6曲も演奏させて貰った。曲目は「ミスティー」「枯葉」「あなたと夜と音楽と」「素敵なあなた」「レフトアローン」「ゴールデンイヤリング」。この大御所、1曲終った後のコメントとアドバイスが、大変厳しく温かい。

  まずAのサックスについて。「Aちゃん、アドリブが凄く上手くなったね。耳が凄くいいんだろうね。だけどだ。今の曲はアドリブでやっちゃうと、曲の良さが消されちゃうのよ。サックスの音は申し分ないんだから、フェイクにしたら数段良くなるよ」。

  あとでAに聞いた。

「フェイクって何?」
「アドリブってサ、コードだけを意識して好きに音を出せばいいんだけど、フェイクっていうのは、メロディーを意識して、それを少しずつ崩したり変えたりして、原曲のイメージを大切にする即興のことなんだ」
「フ~ン」
「三戸部さんの言うには、曲によってアドリブで良いのと、フェイクじゃないとぶち壊しになっちゃう曲があるって言うんだ。俺、まだ分かんないんだよ」
「メロディーを崩して演奏するのがフェイクか。それもアドリブだと思ってたよ」
「ジャズって、やればやるほど奥が深いと言うか、ド壷に嵌ると言うか、今その大変さを痛感してる」
「先月の君のライブの時なんか、自信に満ちてサックス吹いていたように見えたけど・・・、Aも、もがいているんだな!」

  次に僕。「神童さん、身体を動かしながら叩くのはとても変。頭のテッペンとお尻の穴を結ぶ軸を常に真直ぐにキープするともっと安定感が出ます。それと、バスドラのペダルを押すように叩いているでしょ。バスドラはつま先で優しくそっと。リズム全体はいいし、特にハイハットのリズムはプロ並みなんだから、今言った2点を注意して次の演奏をやってみて下さい」

  以前、あるところでピアノの前で歌ったことがある。その時、僕が変に身体を動かしながら歌うので、「背中に虫が入ったような踊り」と笑われた。

  同じだな。緊張すると身体が奇妙に動いてしまうのだ。バスドラの踏み方は、ロック育ちだから、なかなか軽い踏み方が出来ない。分かってはいても簡単には直らないものだから、次の曲の時は身体を左右に揺らさないで叩くことだけを意識してやってみよう。

11月 25, 2010   No Comments

「DRUM」という名の店 (上)

 
  先月、友人のAがライブ・コンサートをやった店、「DRUM」。JR東中野駅と交差するように走る山手通り沿い、徒歩2~3分の所にその店はある。今日は、Aの先生であるジャズ・ピアニストの坂口さんが出演する日で、Aも数曲サックスで参加するので、僕にも来ないかと声が掛かったのだ。

  数年前にもAに誘われて2度ほどお邪魔したことがある。その意味ではこの店の要領は大体分かっているつもりだ。この店は2つのスタイルを持っていて、プロが演奏するジャズが聴ける店という顔と、お客さんが1曲500円払って、プロのトリオをバックに歌ったり演奏したり出来る店という2つの顔だ。

  客が自由にセッション出来る店というのは銀座・六本木・赤坂などにもあるが、お金を取ってやらせるのは、ここくらいなものだろうと思う。それが成り立つのはどうしてか。

  以前観察した限りでは、凄腕のトリオをバックに歌えるということ。そして、歌い終ったあとは、店のオーナー、三戸部氏から、プロのアドバイスが受けられる音楽教室だということ。

  客達もド素人はおらず、プロ歌手やセミプロ達が殆どだ。プロ歌手は、赤坂・六本木などの店での本番ステージ前に、ここで歌い込んでから出勤する人が多い。つまり、プロがプロのコーチを受けられる希少な店なのだ。

  Aに誘われて僕がこの店に来る時は、必然的にピアノは坂口さん、ドラムはオーナーの三戸部さん、そこに、日によって変わるベーシストという顔ぶれになる。そしていつも、Aと僕が同じ曲を一緒に演奏参加するのだ。この場合の参加料は、1曲当り500円だから、割り勘で一人当たり半額になる。

  先月Aの超満員のライブに僕もゲスト参加して、顔馴染みになってくれたからだろうか、昨夜店に入った瞬間、Aは勿論、坂口さんも三戸部さんも親しげに歓迎してくれた。

  そして、雑談しながら良く聞くと、オーナーの三戸部さんは僕らより4~5歳上かと思っていたが、実際は72歳だそうで、A(63歳)の孫と同い年の息子(10歳?)がいると言うからから驚きだ。現役ドラマーの若さに改めて驚かされたのだった。

  この人、15歳で白木秀雄に見出され、アートブレーキーに直接指導を受けた数少ない日本人ドラマーなのだ。その後、彼のジャズバンドは、皇室のお祝いの席に何度も招かれたりする、知る人ぞ知る日本ジャズ界の大御所だった。

11月 24, 2010   No Comments

映画 Swing Me Again

 
  高校の友人のTから、「ふたたび Swing Me Again」という映画のことを聞いた。Tとは、先日の同窓会で「同窓会バンド」を作ろうかという、半分嘘のような話に真っ先に乗ってくれた、高校のフルバンドでサックス・プレーヤーだった奴だ。TBSで番組を作っている。

  彼からは、「50~60年振りにジャズ・バンドを復活する物語」とだけ聞いていた。「同窓会バンド」も、もし結成されれば、卒業から46年振りだから、何か通じるものがあると思い、早速その映画を見た。

  大学でジャズ・トランペッターをやっていた主人公健三郎(ケン、78歳)が、20歳の頃、ハンセン病(昔は‘らい病’と言われていた)を宣告され、以来、四国のある島の施設で60年近くを過ごす。その長い年月、健三郎はいつも夕方、海に向かって一人トランペットを吹いていた。彼は、特効薬が開発され完治した後も頑なに施設を出ようとはしなかった。

  長男(60歳前、実の息子)の度重なる説得にも耳を貸さず、息子の家に戻ろうとはしなかった健三郎も、孫(ヒロト)が父に同行して島に行き説得した結果、やっと息子夫婦の家に一時帰省することになった。ヒロトも現在、大学のジャズ研でトランペットを吹いている。

  しかし健三郎は、息子の家では何かと居心地悪く無口な日々が続く。孫のヒロトともそれは変わらない。だが、ある日、ヒロトがかけたレコードに健三郎が反応する。ヒロトは、祖父の健三郎が、家に残っていたそのレコードの幻のバンド、「クール・ジャズ・クインテット」の憧れのエース・トランペッターだったと知る。

  数日の後、健三郎は家出をして、昔のバンド仲間を訪ねる旅に出る。成り行き上、ヒロトは祖父の旅にいやいや付き合うが、健三郎のバンド仲間との再会の場面を次々に目撃し、祖父の生き様と、長い空白の時間を経ても変わらぬ厚い友情を知り、徐々に祖父達を尊敬するようになって行く。

  ヒロトは旅先から父親に頼んで、昔、祖父達が憧れたライブハウスで、「ふたたび」ライブをやれるように手配を頼む。物語は一気にラストのバンド演奏再現の場面に向かう。

  ヒロト自身の恋愛の破局と復活、らい病に対する今も残る偏見を織り込み、健三郎が長男夫妻にコッソリ行なった気遣いなど、最後は不覚にもスクリーンが滲んで見えた。

   見終わって反省した。僕等の「同窓会バンド」などという、酒の勢いのような話とは全く違い、命賭けの、それだけに重く、且つ、人生の最後をどう輝かせるか、思い残すことがないようどうやれるか、考えさせられた映画だった。

  それにしてもテーマ曲のトランペットが最高だった。(只今上映中)

11月 23, 2010   No Comments

久し振りのおじさんバンド

 
  嘗ては、いつも金曜日の夜、三々五々集まっては客の前で演奏していたおじさんバンドも、そういう活動からは既に卒業していたが、昨日の日曜日は、12月24日のクリスマス・イブ・コンサートの初練習のために、電車で1時間半掛けて神奈川県は新子安の大森教授(ピアノ)のご自宅に向かった。

  今年3月に完成したばかりの新築の家には2つの広い防音室がある。一つは奥様が生徒にピアノを教えるための部屋で、もう一つが大森教授ご自身の音楽室なのだ。家も立派だが、防音室なのに大きな窓があり、ゴージャスなリビングの趣きだ。

  夫々の部屋にグランド・ピアノが設置されている。その内の一台が、かのスタンウェイだ。それも、良く見掛けるあの黒塗りではなく、高級家具を思わせる、品の良い薄茶色の秀逸なピアノだった。家一軒軽く買える位の値段がするらしい。

  おじさんバンドのメンバーは、仕事の関係で来れなかったマッちゃん(サックス・クラリネット)を除き6人が揃った。

  今回のクリスマス・コンサートは、主催がコーラス隊「TSUBASA」であり、コーラス隊とおじさんバンドとの初めてのコラボレーションとなる。コーラスのバック演奏をやるのも初めてのことだ。

  コンサートの目玉の一つが、「TSUBASA」のリーダー、美子さんが編曲した「懐メロ・メドレー」だ。コーラス隊が歌う「リンゴの唄」「東京ブギウギ」に始まり「ブルーシャトー」「雨の御堂筋」「川の流れのように」までの全12曲のバック演奏をおじさんバンドが務めなければならない。

  なので、美子さんご夫妻にも来て貰い(ご主人はエレキギターでコンサート参加予定)、彼女のイメージを聞きながら一緒に曲を作り上げると共に、音合わせのためにコーラス隊からも「アキサユリ」の2人に、大森スタジオに来て貰った。

  総勢10名が心地良い居間のような防音室にお邪魔しても、全く狭く感じないという広さが凄い。全員腰掛けて早速、奥様や同じ敷地にお住まいのお姉様の心尽くしの手料理を頂きながら、ビールで乾杯。早速練習に入った。

  おじさんバンドがまともに演奏するのは、多分、7月の京王プラザ・ミニライブ以来だと思うが、初日にしてはまずまずという程度までの良い練習が出来た。

  午後1時ぐらいから練習を始めて、終ってみたら8時を回っていた。但し、その間、飲んで食べてが多くて、ネット練習時間は5割に満たないのは、いつものおじさんバンドだった。大森教授とご家族には大変お世話になってしまった。

11月 22, 2010   No Comments

高校同窓会 5 (完)

 
  その時、フルバンドの指揮を執っていたのがMsだ。彼が同じく、僕のドラムを見て触発された・・・、のではないと思うが、今、フルートを習っている。彼にも声を掛けてみた 

  こちらは「クラシックを習っているので、ジャズとかボサノバとかは、今はとても無理なので、そのうち、もっと上達してからね」と、やんわりと断わられてしまった。 

  次に今日の司会をやっているY。彼は、早稲田大学のニューオリンズ・ジャズ・クラブでMCとバンジョーを担当していた。今も、「日本サッチモ協会」の理事などを務め、デキシーランド・ジャズとは強い繋がりを持っている。彼も、この「同窓会バンド」(仮称)に大賛成してくれた。 

  後はMさん。ハワイアン・バンドのリーダーとして、大役を終えホッとしている彼女に僕とTaとタカチが近付いた。声を掛けるのはタカチ。 

「お疲れさんでした。演奏もダンスも大したもんだね。完成度が凄く高い」
「ありがとうございます。全員が揃うのは稀だから、練習が結構大変なんですけどね」
「出演した皆さんは、君の生徒さん?」と僕が質問。
「一応そうなんです。でも、私なんかより神童君の方が凄い活躍だから」
「いやいや、こちらはアマチュアだけど、Mさんは先生だしバンマスだから、Mさんの方が遥かに凄いよ」と僕。

「実はこのタカチもね、ボサノバ・バンドのバンマスなの。今ね、我々同窓会メンバーでバンド作らないかって話が出ているんだけどどうだろう?」
「わぁー、それいいですね。入れて貰えるなら是非やってみたいです」

  後はベースを探せば揃う。タカチが自分のカメラを取り出して、「では、結成を約して、記念写真撮りましょう」と言って近くの人に頼んでパチリ。4人の名無しバンドの写真が出来た。Yは司会を続けているので写ってはいない。

  同窓会の方は、最後に校歌を斉唱して解散になった。来年は長野市で開催するが、当番幹事は、僕ら1組の番だと発表された。来年は何とか長野で出席しよう。

  バンド結成の話は、飲んだ勢いみたいな話だったが、後日、タカチから「近いうちに一度、みんなが集まって音合わせする機会を作ります」とのメールが来た。

                       高校同窓会  ― 完 ―

11月 21, 2010   No Comments

高校同窓会 4

 
  司会のYが「ハワイアン・バンドの皆さんに盛大な拍手をお願いします」と言い、全く聴いてもいなかった連中も「ブラボー」とか指笛・拍手で礼賛。立ち話をしていた人も違うテーブルに行っていた人も、元の席に戻った。

  これから9クラスあったクラス毎に前に出て、一人ずつ近況報告をすることになるらしい。僕は3年1組だから最初の出番だ。この組からは8人ほどが出席していた。一人一言。僕はプライベートでは6年前からバンド活動をしていること、腕前は兎も角、出演したホールは超一流。日比谷野音に東京国際フォーラム、NHKホールにオペラシティーと報告した。

  終って席に戻り、タカチと話をしていて「同窓会メンバーでバンド作ろう」という話になった。確かに、ハワイアンのMさんもいるし(MさんはピアノもOKらしい)、ブラスバンド出身のサックス・フルートもいる。若しかしたら揃うかも・・・

  次に、3年2組の一人一言。最後が猪瀬だった。彼がマイクを持った瞬間、「来春、出るの? 出ないの?」と、会場のあちこちから声が掛かる。勿論、都知事選のことだ。彼は「今言えることは、県知事は辞めるが都知事には興味があるなどと、平気で矛盾することを言う九州の変な奴に、東京は絶対に任せる訳には行きません」とだけ答えた。爆笑と喝采。

  それ以降9組まで永遠に一人一言が続くのには、些か飽きて、ブラスバンド出身のTaを探した。遠くに彼を見付けた。タカチを誘ってTaに声を掛け会場の一番後ろに誘導し、「バンド作ろうという話があるけど、どう?」と聴いてみた。

  Taは「神童がステージでドラム叩いている姿に刺激されて、僕も無性に音楽がやりたくなってね。今、掛け持ちで3つのバンドやってるんだ。地元のフルバンドに大学時代の仲間とのジャズ・コンボ、それと、埼玉の吹奏楽団。3つも4つも変わらないから是非入れてよ」と超前向き。

  高校時代、文化祭の中で「音楽祭」というのを、長野市民会館を借り切って行なったのだが、これが正に文化祭のハイライトだった。僕らマンドリン・クラブの他、合唱団やハワイアン、軽音楽部、室内楽部、オオトリはいつも吹奏楽部。それも前半が吹奏楽、小休止の後は、コスチュームも新たに、ジャズやラテンのフルバンドに変身するのだ。

  今でも鮮明に覚えている。Taはその煌びやかなフルバンドの中にあっても、最高のスーパー・スターだった。‘闘牛士のマンボ’では彼が舞台中央に進み、サックス・ソロを堂々と演奏したのだった。上手いしカッコいい。憧れの存在だった。他の女子高の生徒も大勢詰め掛けていたが、文句なく、Taへの声援が一番大きかったのを覚えている。

11月 20, 2010   No Comments

府中カントリークラブ

 
  彼、Y君は、昭和52年に僕のプロジェクト・チームに新入社員として入って来た。その頃は様々なシステム可能性を実験していた頃だったが、その3年後から始まった、DOAと呼ばれる分散型システム構築では若手主力戦力として、大車輪の活躍をしてくれた男だ。

  当時一般的であった大型ホスト・コンピューターを中央に設置し、専用回線で繋がった端末機を全国の営業拠店に置く、中央集中型オンライン・システムのスタイルとは全く異なり、このシステムは、コンピューターそのものを全ての営業店に設置してしまおうという、大変独創的なシステムであった。

  当時のコスト感覚で言えば、1処理能力単位当り頗る高い大型コンピューターと、遅いが頗る高額な専用回線が頭の痛い問題だった。この2つの問題に対する我々の出した答えは分散処理だった。

  即ち、大型コンピューターに比して、同じ単位能力では10分の1のコストのミニコン(ミニ・コンピューター)を使わない手はないということ、遅い回線を行ったり来たりでは、実務に耐えない(回線料金を10倍に上げれば実用に耐えるが)ので、営業店にミニコンを置いて(回線を使わないで)処理させれば、レスポンス問題も低コストで解決する、ということだ。

  ミニコンと操作者との会話処理は営業店の中で済ませ、その結果データだけを回線経由で中央のコンピューターが吸い上げる仕組みと言えばよいだろうか。

  分散処理という言葉はあったが、日本では殆ど初めてのことなので、コンピューター・メーカーにも、パートナーのNM総研にも経験がなく、悪戦苦闘の連続だったが、彼は粘りに粘り、昭和60年の全国展開を遂に成功させ、その後本社の財務運用部門に請われて転出して行った。

  その後、義理の父親の家業を継ぐために退職し、現在その会社の代表取締役として活躍している。

  そのY君が、当時のシステム部門の人とゴルフをやりたいがどうか、とメールで言って来た。僕は一も二もなく即座にOKの返事を出した。他にはKさんとMさん。

  場所はY君がメンバーになっているという府中カントリークラブ。彼は板橋の先に住んでいるが、府中カントリーは僕の家から車で15分だから願ってもないこと。

  仕事は正に現役役員で、超多忙を極める後輩が、こうして僕を誘ってくれるというのが本当に嬉しいものだ。前にも彼は、東京国際フォ-ラムやNHKホールでの僕らのコンサートにも来てくれた。Y君には心から感謝している。

11月 19, 2010   No Comments