プレミアムエイジ ジョインブログ
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Posts from — 1月 2011

保険自由化への道(3)

 
  損保国内社が相変わらずシェア競争に明け暮れている中で、大蔵当局は自由化に向けて準備を始めた。

  「日米保険協議」は1993年から数年に及んだが、自由化の流れの中で、大蔵省(当時)は、保険制度を、①保険料率の自由化、②保険直販の規制緩和、③生損兼営の規制緩和、の大きく分けて3つの方向で改訂に着手した。

  また、保険自由化以降の時代を見据えて、大蔵省検査のあり方も、これまでの指導型から摘発型に変える必要性に迫られていた。

  つまり、商品・料率が損保業界画一だったのが、自由化は全てを各社別に変えるので、大蔵省検査は法律・通達・各社規程(明確に既定されていなければならない)が忠実に守られているかをチェックすることになる。この流れの中で「コンプライアンス」(法令順守)が声高に叫ばれ始めた。

  コンプライアンスについては、別項で触れるが、保険の自由化そのものが、それ以前の損保に長く身を置く人間に、否応なく様変わりを感じさせたものだが、このコンプライアンス問題も、伝統的損保業界の文化を根底から変えることになる。

  さて、保険の自由化が明らかな形となって現れた最初の出来事が生損兼営問題である。生保業界が損保事業に参入し、損保業界が生保事業に参入するという相互参入が認められたのだ。但し、各保険会社の子会社方式での参入であり、経営上、損保事業・生保事業の独立を確保して、夫々のリスクをお互いに及ばせない形を条件に認められたのである。

  実際に相互参入がスタートしたのは1996年10月だったが、実は、当社も、生損兼営認可の流れが決った時(1994年初頭の頃)から、生保参入に向けてどのようにシステムを準備するか、議論を開始している。損保各社が生保事業を始める上で、最も大きな壁はシステムだったからだ。

  だが、生保とは、長期の契約で、死亡時所定の保険金が降り、満期まで無事だった場合は返戻金が降りるのだから、極々単純に言えば、損保の積立商品のシステムを手直しすれば、生保商品を乗せられるのではないか、とか、否、最初は契約がそんなに多くないのだから、パソコンやサーバーで簡易管理出来るのではないかとか、理屈先行の議論だった。

  その時点では現実感から程遠く、軽く考える議論が多かったし、そもそも、巨大な損保システムのメンテナンスと新規機能の開発で手一杯の中、現行の要員体制で、もうひとつ大規模システムを開発する余力などあるのか、といった検証も議論もなかった。

  まだ先の先のこと、という意識が会社全体にもシステム部門にもあって、真剣な議論とは言い難かった。

1月 31, 2011   No Comments

東中野「DRUM」

 
  昨年11月以来2ヵ月振りに、ジャズ・ライブハウスの「DRUM」に顔を出した。12月は、学生時代のバンド仲間のAが、奥様とエジプト旅行だったし、僕の方は、クリスマス・コンサートの練習があったりで、月1回は通おうと思っていた「DRUM」になかなか伺うことが出来なかったのが、やっと行くことが出来たのだ。

  店自体は毎日やっているのだが、僕が行く日は、坂口氏が出演する日(月2回)でAが来れる日に限られるので、なかなかタイミングが合わなかった。

  坂口氏はプロのジャズ・ピアニストで、Aのジャズ・サックスの先生だ。もう、5~6年以上の師弟コンビらしい。そして僕は、この店のマスターであるジャズ・ドラマーの三戸部氏にコーチを受けるためにやって来る。

  何故、僕はAと一緒の時しか行かないかというと、この店で演奏に加わるには、1曲500円を払い、且つ、その日のトリオ(勿論、プロ)全員に、譜面を渡すことが条件なのだ。そういう楽譜を僕は持っていないがAが持っていることと、いずれ、坂口氏とAに僕が加わって、ライブが出来ればいいなと秘かに思っているから、彼等と一緒に練習しておきたいのだ。

  さてこの日は、7時半に店に入り9時半までいたが、ジャズを聞きに来た客は1人もおらず、全員がトリオをバックにジャズ・ボーカルを歌うために来店した人ばかりだった。楽器演奏はAと僕だけ。

  実は、12月のクリスマス・コンサートのために8ビート中心の練習だった(おじさんバンドのメインの曲は、ロックンロール・ナンバーの「ジョニー・ビー・グッド」だった)し、1月に入っても、殆どまともにジャズ・ドラムの練習をしていなかった。

  客の中には、プロのシンガーもいるし、アマでもセミプロ級が多い。こんな店で、僕がドラムを叩く時はいつも、どんな有名ホールでライブやる時よりも緊張するから、僕は今日は聞き役に回って、寧ろ、Aのサックスのバックで、三戸部氏はどのようにドラム演奏するのかを勉強しようと思っていた。

  しかし、三戸部氏がそれを許してくれない。仕方ないので、殆どぶっつけ本番、恥を覚悟で演奏することにした。

  この日も前回と同じように、Aのサックスと僕のドラム、それと坂口さんのピアノとプロのベースマンという4人編成で4曲演奏した。「素敵なあなた」「枯葉」「あなたと夜と音楽と」「ゴールデン・イヤリング」だ。

  僕は、前回三戸部氏に言われた、「ドラム・ソロも歌いながら」「姿勢を真直ぐにしてあまり動かない」を思い出しながらも、ヒヤヒヤの演奏だった。

  演奏が終って三戸部氏が言ってくれた。「神童さん、歌いながらやっていましたね。前回より数段良くなりました。特に、1拍目のリズムが完璧になったから、レベルが一気に高くなりました。別人28号です」と。さすがマスターだけあって、乗せ上手だ。

  でも待てよ、前回も確か褒めてくれたけど、本当は聴けたもんじゃなかったということか? 次回、三戸部氏は何と言うか今から楽しみだ。

1月 27, 2011   No Comments

保険自由化への道(2)

  
  戦後日本の経済復興や庶民の暮らしを下支えする保険会社が、自由競争で体力を消耗して、いざという時ばたばたと潰れられては保険の意味がなくなり、社会全体にとって致命傷になりかねない、ということで、損保は競争の世界の外に置かれたという経緯がある。

  これを称して「護送船団方式」と言ったのだ。銀行を初めとする金融機関全体をそう呼ぶことが一般的だったが、中でも損保業界は、大蔵省(当時)の指導の下、全社がシェーク・ハンドしながら商売をしていたから、これぞ「ザ・護送船団」だった。

  日本の保険市場参入を狙う外資にとって、この「護送船団」「算定会料率」は参入障壁以外の何者でもない。同一商品・同一料金で、知名度のない新参組がシェアを拡大し、事業を成功させるのは至難の業だからだ。AIGが米政府を動かし、日本政府に迫ったのは、正に、この古い規制の撤廃だった。

  即ち、独禁法適用除外だった損害保険を完全自由化させ、新規参入者にとって、様々な特徴(差別化戦略、例えば保険料の独自廉価料率、商品の独自化、顧客への新規サービスの提供等など)を消費者に訴えて顧客シフトを起こし得る環境を作れということだった。

  ところで、それ以前はずっと護送船団方式で自由競争の埒外にいた筈なのに、損保業界内部のシェア争いは熾烈を極めていたという、これまた外から見ればまか不思議なことが起きていた。

  その競争とは何か。シェア競争である。商品内容が全社同じ、価格も全社同じなら、何をもって高い評価を得るか。売上高の競争しかないではないか。

  益して、幾ら売ろうが赤字の心配のない価格が保証されているのだから、売れば売るほど儲けが増える理屈だ。保険会社、或いは、その経営者に対する株主からの評価は、収益よりも売上高の対前年増率(増収率)で計られるのは当然だった。

  同じく社員も、経営から対前年増収率で評価される。だから、全社とも保険料収入の拡大に心血を注ぐことになる。だが、商品でも価格でもなく、一体何を売りにして他社差別化し売上を伸ばせばよいのか。

  詰まるところ、保険代理店がバンバン保険を売り撒くってくれないと、保険会社は保険料収入を伸ばせない。ということは、保険会社は、如何に代理店をその気にさせるか、如何に代理店を増やすかが、最大の課題になる。

  ということは、勢い、代理店、或いは、代理店候補者に対してサービスにこれ努め、他損保社ではなく自社がどう気に入られるかの競争になる。ある損保会社では、「顧客第一主義と言うが、保険会社にとって顧客は代理店のことである」と言って憚らない経営者さえいたくらいだ。

  顧客とは保険に加入してくれた人でなく保険販売員だという、全くもって、時代錯誤の鎖国社会がそこにあった。

1月 26, 2011   No Comments

保険自由化への道(1)

 
  長らく損保業界に身を置いた者として、世間一般とは異質な特殊な世界だった損保から、短期間の内に自由競争の世界に切り替わったが、以前の体質を完全には払拭しきれない悩みを抱えたこの業界の、昨日・今日・明日を語ることが、少しでも現役の若き保険マン達へのエールになればと筆を執ることにした。

――――――――――――――――――――――――――――――――

  あのバブルの恩恵を被るように、日本の保険市場は急速に拡大を続け、アメリカに迫る勢いで世界第2位の大きさに膨らんだ。特に損保マーケットは、右肩上りだった成長カーブは、バブル崩壊後も、水平近くまで鈍化したもののマイナス成長に落ち込むこともなく推移していた。

  その巨大市場に目を付けた、アメリカの保険会社AIGのグリーンバーグ会長は、米政府に強力なロビー活動を展開して、遂に米政府をして、日本政府に保険市場の開放を迫ることとなった。所謂「日米保険協議」の始まりである。1993年9月のことであった。損保業界に身を置くものは、等しく、これを黒船の到来と受け止めた。

  それまでの損保業界は、独占禁止法の例外として認められ、保険商品も保険料率も全て談合で取決められて来た業界であったから、新規参入者や後発損保会社にとって、シェア奪取の独自の武器は何も持てない状況であった。

  これでは、外資を初め新規参入者が現れる筈もなく、国内損保社は法律で外敵から身を守られていたということだ。それを、AIGは保険市場の開放、即ち、保険の自由化を日本に迫ったから、損保業界全体に黒船到来の戦慄が走ったのである。

  自由競争の世界では、他社に勝つために様々な競争が起こるけれども、代表的なものは商品競争であり、価格競争であるだろう。ところが、その頃までの損保業界は、算定会料率と言われる画一料金体系を守ることが義務付けられていた。

  自動車保険を例に取れば、どこの保険会社でも商品内容は完全に同一、価格も同一なのだ。更に、保険の販売・募集に当る保険代理店の手数料率も同一だった。要は、勝手に値段や中身を変えて競争をしてはいけないという、世にも不思議な社会だった。

  算定会料率は、一番小さな体力に劣る保険会社でも赤字にはならないように保険料を決めるから、儲かる会社はより儲かるようになっている業界だった。

  何故そんなカルテルや談合が合法的に認められていたのか。そうなったのには、それなりの理由があった。

1月 25, 2011   No Comments

同窓会バンド その2

 
  昨年末、12月25日のクリスマスの日に、初の音合わせを行なって以来、2度目の練習を行なった。代々木駅近くの、「音楽館」という貸しスタジオに7時に集合した。

  前回は、ヨッシーを除く4人だったが、この日は彼も加わり当面のメンバー5人全員が揃った。スティール・ギター&ボーカル(AYA)、サックス(マッキー)、バンジョー&ボーカル(ヨッシー)、アコースティック・ギター&ボーカル(TAKA)、そしてドラム(神童)という珍しい編成のクインテッドだ。

  但し、ヨッシーは持って来たバンジョーが故障していて演奏に加われなかったのは残念だったが、曲の構成や演奏順について適切なアドバイスをしてくれていた。

  彼のそのバンジョーは、W大学ニューオリンズ・ジャズ・クラブで活躍していた学生時代、大枚はたいて先輩から奪い取った貴重な一品だそうで、愛着があって他に替えがたく、修理に出してでも絶対次回には間に合わせると意気込んでいた。

  前回の音合わせでやってみた曲に、今回追加した数曲を含めて、「ウェーブ」「ボラーレ」「オール・オブ・ミー」「Aトレイン」「パーリー・シェルズ」など8曲を練習してみた。夫々が夫々にバンド活動をしているメンバーだから、直ぐに初期のレベルはクリアするのだが、そこからがこのメンバーの素晴らしいところだ。

  「もっとこうしてみない?」「いや、こうしたらどうだろう?」「アドリブの前半と後半で楽器の順番を変えた方が良い」「テンポはもっとゆったりの方が良くない?」「いや、今のテンポで良いと思うけど」・・・。議論が物凄く盛り上がるのだ。

  これが音楽を作るということなのだと、改めて思った。おじさんバンドのレパートリーの曲でも、このバンドでやると、キーも違うし、テンポも違う。イントロもエンディングも違って来る。

  全員が暗黙のうちに理解しているのは、スティール・ギターにバンジョーにサックスという世にも不思議なこのバンドで、どこにもない新感覚の音楽を作り出すためには、夫々の属するバンドでやっている曲でも、その形に固執せず拘らず、このバンドのベストを探すということだ。

  この日、僕が苦労したのは「ボラーレ」だった。ジプシー・キングのように、サンバのリズムでやると、TAKAの歌と僕のブレーク・ポイントが合わない。そのせいで、この曲だけ初期到達レベルに至らない。

  悩んだ挙句2拍子のリズムでドラムをやってみたら、これがピタリと合ったのだ。(何故なのか分からずスッキリはしないが)まずは、2ビートで曲をマスターしてからサンバに発展させて行こう。

  10時に練習を終え会場を出たところで、TAKAが「1時間だけビールを飲みながら反省会しない?」というので、近くの店に入った。ベースマンを何としても同窓生の中から探そう、ピアノも欲しいとか、長野で開かれる11月の同窓会では、コンサートの時間を別に取って演奏しようとか、この人達と話すと、本当に盛り上がる。

1月 23, 2011   No Comments

♪ 悲しい色やね

 
  BS放送で上田正樹の特集をやっていた。彼の生い立ちや、無名時代のカツカツの生活振り、音楽に対する考え方、最近の活動などや新曲を取り上げる番組のようだったが、そういうことよりも、僕の興味はただ一つ、あの曲だった。

  あの曲は1982年の曲だとナレーターが言っていた。そうか、もう30年も前の曲だったのか。番組の最初に、大阪の夜の風景をバックに、あの曲がフル・バージョンで流れた。画面の下には歌詞も流れて。

  そう、上田正樹の「悲しい色やね」。240万枚のレコードを売り上げた大ヒット曲だ。後で少し調べてみた。この年は日本のポップス界の当り年なのか、挙げ切れないくらいのヒット曲が生まれた年だった。

  あみん「待つわ」、岩崎宏美「聖母たちのララバイ」、サザンオールスターズ 「チャコの海岸物語」、中島みゆき 「悪女」、中森明菜 「少女A」、中村雅俊「恋人も濡れる街角」、三好鉄生「涙をふいて」、オフコース「YES-YES-YES」、薬師丸ひろ子 「セーラー服と機関銃」、高樹澪 「ダンスはうまく踊れない」等々、そして、僕のお気に入り「悲しい色やね」。

  これら、今聞いても決して古めかしさを感じさせないし、今や、日本のスタンダード曲と言っても良いような曲ばかりだ。

  だが、僕はその頃、入社13年のキャリアを持つ、油の乗り切ったSEとして、システムの開発に最高に忙しくも、仕事でも人生でも最も充実した時期だったと思う。徹夜紛いの毎日で、まともな時間に家に帰ったためしがないので、テレビもラジオも殆ど見聞きしていない。

  だから、上記のヒット曲たちは、実は、リアルタイムで知った曲ではなく、その後かなり経って好きになったものばかりなのだ。「悲しい色やね」も初めて聞いたのは、当時5年掛かりの大仕事が収束した深夜タクシーの中だから、多分1986~87年頃だろう。発売から4年以上は経っていたことになる。

  あのR&B風のメロディーと歌い方がひどく気に入って、翌日僕はレコード屋に買いに走ったのだった。

  ところが、曲の題名も歌手名も分からない。どうしたら目的の曲を買えるのか、店に入ってから悩むことになる。と、優しそうな店員さん(女性)がいたので、勇気出して聞いてみた。

「曲名が分からないんだけど、大阪弁で歌うR&B風の曲、欲しいんですが」と僕は言ったと思う。
「歌手の名前は分かりませんか?」
「あいにく」
「じゃぁ、レコード会社も分かりませんよね?」
「ええ」
「何か、ヒント頂けません? メロディーの一部とか」
「えっ! 歌うんですか?」
「はい、出来れば」

  1回しか聞いたことのない曲だから、正しいかどうかも分からなかったが、耳に残っていた出だしのメロディーを口ずさんだ。「ららららら・らららー」。今なら歌詞も分かる。「♪ にじむ街の灯を~」の部分を歌ったのだ。

「あぁ、分かりました。上田正樹の『悲しい色やね』ですね」

  窮すれば通ず。手掛かりが何もなくても、何とかなるものだ。初めての経験だった。恥ずかしさよりも嬉しさが勝った。上田正樹の「悲しい色やね」、か。初めて知った。しかし、今思い出しても、レコード店の店先で歌わされた場面には赤面する。

  以来、カー・ステレオで繰り返し聴き、この歌が僕のカラオケのレパートリーになった。

1月 21, 2011   3 Comments

大森スタジオに集合

 
  今年初めての、おじさんバンドの音合わせが、例の大森教授のご自宅スタジオで行われた。過去2回、大森スタジオで練習させて貰った時は、彼の奥様やお姉様の手料理で厚くもてなして貰い、大変お世話になってしまったので、今回は、全て、僕ら訪問者側が必要な飲み物などを全て買い込んで集まることにした。

  但し、大森教授が、買い物袋を抱えて電車に乗るのも大変だろうと、車を出してくれることになった。訪問先の人に、訪問のための買出しに付き合わせるのも妙な感じだが、大量のアルコール類を大量に買い込むから、確かに車で来て貰えるのは有難い。

  大森教授の家からも比較的近く、大きなスーパーがある、南武線の川崎駅1つ手前の駅出口で、午後1時にヨッ君と僕と大森先生の3人で待ち合わせることにした。駅の名前は、「チョッと痴漢みたいな名前ですが、尻手(しって)という名前の駅です」と大森先生がおっしゃる。確かに妙な名前だ。

  駅近くの大型スーパーで、ビールやらウィスキーやらホッピーやらを大量に買い込み、お惣菜コーナーからも手当たり次第購入した。紙の皿や紙コップ、割り箸なども含めビニール袋5つもあった。そのスーパーから大森教授の家までは15分ほどで到着した。

  他の人は少し遅れるという事前連絡が入っていたので、取り敢えず、3人で乾杯。買い物は結構重労働なのか、ビールがとても旨かった。今日は奥様も留守で、同じ敷地内にお住まいのお姉様も出掛けられているという。僕らが折角の休日を邪魔したのでなければ良いが・・・。否、邪魔してるよ、絶対。スミマセン、奥様、お姉様。

  乾杯を始めて10分もしないうちに、斉藤さんとマンディーが現れ、それから1時間後、マッちゃんが仕事を終えて駆け付けた。純次さんは家庭の都合で今日は欠席だから、これでおじさんバンドは全員揃った。

  今日は初練習兼新年会だったが、まずは新年会が先行した形だ。先月のクリスマス・コンサートのDVDを見ながら、笑ったり反省したり感想を言い合ったり。話はいつか、「クーペ&Shifo」に及ぶが、みんな最近とんと店から遠ざかってしまって、純次さん(店のオーナー)が来ないと、詳しいところは分からない。

  結構アルコールが入った後、思い出したように今年初めての演奏をしてみた。曲は事前に僕がマッちゃんにリクエストしておいた「太陽のかけら」。元々北欧の映画のテーマ曲で、1966年ごろヒットしたクラリネットのバラードだ。ほんの「さわり」だけだが、いい雰囲気だと思う。そのほか数曲で切り上げた。

  再び、新年会の続きをやってたら、何と、夜7時ごろ、マクが現れた。彼女は以前「クーペ&Shifo」のマネージャーをやっていたが、今は、本来の看護士の仕事に戻っている。今日は、病院の勤務が終ってから駆け付けてくれたのだ。

「サックス持って来た?」と僕が聞いた。
「ううん、だって今日は新年会でしょ。持って来てないよ」
「ダメだよ、持って来なくちゃ。マクがサックスで加われば、新しい『年取った白雪姫と7人のジジイ達』になるんだから」
「まだ年取ってないもん」
「ん?」

  その辺りから、徐々に記憶が不明瞭になっている。大森教授の家を11時過ぎにお暇したのは覚えている。飲み過ぎかな。何せ9時間以上飲んでいる勘定になるから。その後、確か、帰る方向が同じヨッ君とマクとマッちゃんと僕の4人でタクシーに乗り込んだところまでは覚えているのだが・・・

1月 20, 2011   No Comments

鳩山由紀夫

 
  朝日新聞によれば、インド訪問中の鳩山由紀夫前首相が、今回の菅第二次改造内閣を酷評したという。

  鳩山前首相曰く、「菅直人首相が最強の体制だと胸を張ったほど国民は期待していない」と語ったという。史上最低の内閣だった鳩山前首相がどの面下げて言えるのかと腹が立った。

  政権交代で国民の大きな期待を一身に受けておきながら、こんなにも酷い人だったのかと、国民を完全に裏切った人物が、平気でそういうコメントを出す神経が癇に障った。

  更に、枝野幸男官房長官の起用については「絶対に勝たなければならなかった(昨年の)参院選で負けた幹事長。責任は極めて大きく、理解できない」と厳しく批判したらしい。

  これなども、ご本人も含む「金と政治」の問題と、出来もしない普天間基地県外移設をぶち上げて、右往左往の後、結局、どうにもならなくなった鳩山前首相の大失態で、政権交代時の民主党の高支持率を一気に冷やしてしまった結果ではないか。鳩山さんの鉄面皮は常識の外だ。

  ご本人にその反省が全くなく、菅さんが「消費税」なんて言ったことが敗因などと、本当に信じているのか、鳩山さん。でもそう信じているんだろうね。でなきゃ、「参院選で負けた幹事長」なんて人ごと発言を、参院選惨敗のA級戦犯たる鳩山さんが言える筈ない。

  更に更に、朝日新聞によれば、「鳩山氏は昨年秋の民主党代表選前後から菅首相に対し、小沢一郎元代表らを含めた挙党態勢づくりを進言してきた。それだけに首相と岡田克也幹事長、仙谷由人、枝野の新旧官房長官が中心となった『脱小沢』の政権運営が続くことについて『挙党態勢と言いながら4人だけでやるなら、どうぞやって下さいという気持ちになる』と怒りを爆発させた」という。

  国民世論上も国会運営上も、小沢さんの「金」の問題はクリアしなければいけない問題だ。だが僕が腹立つのはそこじゃない。党内が「脱小沢」と「小沢派」で対立する構図を招いたのは、やはり鳩山さん、貴方なんだと教えてやりたい。そのくらいに、あの人は物事が見えていない。

  貴方さえ、あれだけの高支持率を背景に立派な政権運営を行い、不動の大総理大臣になっていれば、小沢問題ももっと揉めずに解決出来た筈。そのことに思いが至らないから、「菅が俺の言うこと聞かない」と子供っぽく怒る。

  鳩山首相時代から、彼は「宇宙人」と呼ばれていたが、お坊ちゃん政治家にありがちな、普通の人に見えるものが見えない人だなぁ、とつくづく思う。

  一方、所謂「小沢派」議員の安心感は、民主党結党の創始者鳩山前首相の支持があることだとも聞く。しかし、その議員達も、国民よりも国民から完全に見放された人の支持の方が大事と思っているとしたら、何をかいわんやだ。

  マスコミも、一旦は議員を辞めると言った人(国民はその1点だけ鳩山さんを支持したが)をいつまで追うのか。マスコミがご本人を錯覚させている。国民は自分の発言に関心が高い。国民は今も自分を信頼してくれていると。 

1月 19, 2011   2 Comments

年に1度の同期会

 
  毎年今頃の時期、旧D火災(損保)の同期入社の仲間が集まって新年会を行なうのが恒例行事になっている。

  入社時男子は24名いたが、若くして亡くなった奴が1人いるから、現在は23名。それに、いつも参加してくれる同期の女子2名を加えて、会員25名中、今回は17名が参加したから、出席率68%だ。

  但し、地方在住のメンバーもいるので、首都圏(東京・千葉・埼玉・神奈川)在住会員20名を分母にすると、出席率実に85%という高率なのだ。同期の人数が少ないせいもあって、僕たちの年次は現役の時から、否、入社直後の導入研修中から仲が良かった。

  入社1年目だけでも同期会の旅行を3~4回は開催している。まぁ、学生気分の抜け切らない若者達が、学生サークルのノリで旅行や遊びの会を頻繁に開催して、先輩達から顰蹙を買ったものだ。

  だからなのか、みんな元気で、入院騒ぎなど聞いたことがない。首都圏で参加出来なかった者3名も、病気などではなく、スケジュールが重なって出席出来なかっただけだ。

  大学浪人組みもいるので、年齢は63歳から66歳とバラつきがあるが(女子2人は60歳)、何らかの仕事をしているものが意外と多い。完全リタイア組みはまだホンの数人だ。

  こうして年1度の会合で、皆が話し込むと、その活気も声量も個々人のしゃべり方も、容貌以外は20~30年前と変わらない。最も元気だった頃のままだと感じる。違うのは話題だ。

  少なくても現役の時は、会社や仕事のことが話題の中心だったように思うが、今は、夫々の取り組んでいる私的活動が中心となる。その中で、僕のように音楽をやっている人は皆無だったが、家庭菜園を含めて農業を専らとする人の数は多かった。

  僕は長野育ちで、小学校中学校では、春休みとは別に、春には「田植え休み」、秋には「稲刈り休み」と言うのが1週間ずつあって(その分夏休みが短い)、農家でなくても、文字通り田植えや稲刈りに刈り出されたから、その時点で農作業は嫌いになっている。

  だから、僕は、幾ら暇になっても農作業を趣味にすることは有り得ない。都会で育った者ほど、現役引退後農作業に憧れるのだと勝手に思っている。

  だが、それは僕の勝手な思い込みだった。農作業を趣味とする同期の1人に地方出身者がいた。彼は言う。「郷愁かな、心が落ち着くし、汗だくの作業の後のビールが旨いんだ」。

   それでも僕はその気にならないと思う。先のことは分からないが・・・

1月 18, 2011   No Comments

昴・すばる・スバル

 
  高校の頃、東京の親戚の家に両親共々泊らせて貰った時、叔父が自分の「スバル360」(通称てんとう虫)で、僕ら3人を都内隈なく案内してくれた思い出がある。「すばる」という言葉の響きを初めて知ったのはその時だった。

  昨年、偶然にも街中を走る「スバル360」を見掛けた時は感動ものだった。周りが大型化したせいか、本当に小さい。よくもあんな小さな車に4人も乗れたものだ。一生懸命に走るその姿に「けなげさ」さえ感じたのだった。

  次に「すばる」を意識したのは、1980年頃、テレビ・コマーシャルで谷村新司の「昴」が流れた時である。それまでアリスと言ってもあまりピンと来なかったのに、あの曲の持つ強烈なインパクトが一瞬で僕を谷村ファンにした。

  そして昨年、JTに勧められて読んだ浅田次郎の「蒼穹の昴」だ。ある白髪の老婆が、少年に「お前はいつか必ず、この国の財宝を全て手中に収める大人物になる。お前の星はあの昴だからじゃ」と言う。少年は長じて、西太后に使える最高位の宦官となる。その小説の中では、「昴」は、あまたの星を統べる王者の星とされている。

  正直言うと、僕は、つい最近まで長い間「昴」は、架空の星と思っていた。或いは、昔の人が考え出した、希望を託す神秘の星くらいの認識だったし、谷村の「昴」と「スバル360」の「スバル」が同じ意味だとは思いもしなかった。

  実在する星だと分かったのは、ある夜、姪と話をしていた時、谷村新司の「昴」が話題になり、彼女が「あの星、それほど目立たないのに、あの歌で超有名になっちゃたね」と何気なく言ったからだ。

「え! 昴って実在するの?」

「あれ、叔父さん、知らなかったの?」

「今、ここからでも見えるのかな?」

「今日みたいな寒い夜で天気が良いと見える筈だけど」

  外に出て天を仰いだ。彼女の言う通りになぞると、オリオン座の3つ星の延長線右上方向に、幾つかの星がごちゃっと固まっているのが見えた。それが「昴」星団だと姪は教えてくれた(おうし座の肩の辺りと姪は言うが僕には星座が分からない。星をいくら見ても動物の姿にならない)。

  家に戻って、インターネットで調べてみると、「昴」は沢山の星の集まりで、目の良い人は肉眼でも6つは見えるとのこと。

  ウィキペディアによれば、「昴」の中国語読みはボー、日本では古来から「すばる」と呼ばれ、「統べる」の受動形の言葉で、ひとつに纏められた星々、という意味だそうだ。「6連星(むつらぼし)」とも呼ばれていた。

  「スバル360」を世に出した富士重工(株)のマークを良く見れば、星6つから成るデザインだから、同じ「すばる」を指すのが分かる。

   ついでに、「蒼穹の昴」の「蒼穹」とは何か? 青空のこと。よく晴れた昼間は勿論、日暮れ時でも、「昴」は見えないと思うが、見えないものを見るのが作家の作家たる所以か。

1月 16, 2011   No Comments