プレミアムエイジ ジョインブログ
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Posts from — 4月 2011

バンド名

NHKホール写真7
 コーラス隊・室内楽団と共に 於 東京国際フォーラム
 

  5月21日(土)、第3土曜日定例の「おじさんバンド・ライブ」が始まるが、店のマスターのNさんから「店のホーム・ページに演奏スケジュールを掲載しているんだけど、そこに載せたいので、バンド名を教えて」と言われ、ハタと困った。

  僕達のバンド、バンド名があるようで無い。無いようで有る。確か最初結成した時(6年前)は「Oh!爺sans」とか言ってたような気がするが、その後「年取った白雪姫と7人のジジイ達」、「オー!爺シャインズ」とか名乗って、遂に「おじさんバンド」が通り名になってしまった。

  さすがに店のスケジュール表に「おじさんバンドの日」では、どのおじさんバンドか分からないし、幾つものおじさんバンドが集まって勝手に演奏する日だと思われれば、誰が聞きになんか行くものか。

  「近く練習で皆集まるので、相談してバンド名決めますから」と言って猶予を貰った。

   さて、練習日。大森先生の家のスタジオで飲みながらの練習。この日、コーラス隊にも所属している斉藤さんが、コーラス練習のために最後に登場となったので、彼の酔いが僕等に追い付くのを待って、バンド名の相談に入った。

  僕が、「今までいろんな呼び方して来たけど、この際だから、新しく名前を付けたい。『爺セブン』ってどう? コードのG7だし、最初のサミットのG7だし、7人のジジイ達の爺7だから」と提案。

  そしたら誰かが「また、爺、ですか」。僕も「う~ん」。別の奴が「もう、爺、からは脱却しましょうよ」。「そうだね」と僕。その間、目の前の発泡酒の缶をジッと見ていた人がいた。

「『のどごし生バンド』、はどうでしょう?」と大森教授。

「ゴールデン・リッチも捨てがたい」と斉藤さんだったかヨッ君だったか。目の前のハイボール缶の名前らしい。

「何か安易だけど、このメンバーには相応しいかも」。マンディーだったかマッちゃんだったか。

  とか何とか、適当な名前を出しては肴に飲んでいたところまでだった、記憶があるのは。

  後日、僕がインターネットで、5月21日の店の出演スケジュールを確認したら「出演、ゴールデンリッチのどごしバンド」となっている。「なにー、この日は俺たちじゃないのか???」と焦ってマスターに電話した。

「その日、ゴールデンリッチとか言うバンドが出演予定になっていますが、私達の日だった筈ですが?」

「はい、神童さん達の予定ですよ。その名前は斉藤さんが電話で伝えて来た名前ですよ。随分酔っぱらってたみたいですけど」

「え??? あぁ、そう言えばそんなような話で盛り上がったなぁ。そうですか、それならいいんです。失礼しました」。冷汗。

  バンド名は、バンマスに最終決定権がある。バンマスの斉藤さんが最終判断をしたということだ。異議なし、エブリスィングOK。良い名前じゃないですか。

  皆さん、来てよ。
 
 
日時   5月21日(土) 19:00開場、19:30開演

場所   ライブハウス「音楽工房コルコバード」 多摩センター駅徒歩5分
                         サンリオ・ピューロランド右後ろ

出演   ゴールデンリッチのどごし生バンド、ゲスト:女性中心のバンド

費用   千円 + 通常の飲食代

4月 29, 2011   2 Comments

定例ライブ

NHKホール写真9                          写真    おじさんバンド 於、NHKホール 
     
     
  「クーペ&Shifo」を卒業して半年。おじさんバンドは5月から毎月第3土曜日の夜に、定例ライブを行うことが決った。

   その間、人前で演奏する機会は、コーラス隊のコンサートにゲスト出演したり、昼間練習のために借りたライブハウスが、当日夜はたまたまフリー・セッションの日だったので、急遽、演奏させて貰ったりしたくらいで、以前に比べればライブはグッと減っていた。

  それでも最低月1回の新子安(大森教授宅のスタジオ)での練習は継続して来ていた。新曲も精力的に増やして行こうとしている。今年の目標は、おじさんバンドのCDを作ること。

  練習の時も、おじさんバンドは、相変わらず飲みながらの和気藹々だ。以前と全く変っていない。正味の練習時間より飲んでいる時間の方が多いのも以前と同じ。楽しい仲間との極上のひと時だ。

  ただ、それまで毎月1~2回は様々な場所でライブをして来た身としては、そういう機会が激減したことは、張り合いの点で少々問題があったと思う。大震災や計画停電などが追い討ちを掛け、益々バンド演奏どころでなくなって行った。それは仕方ないことだった。

  そんな折、あるIT企業の会長さん(以前ブログに登場したWさん)から僕に電話が掛かって来た。

「神童さん。おじさんバンドで月1回か2回、ライブハウスに定例出演するつもりない?」

「え!? 最近ライブをやってないので、もしそういう機会を与えて貰えるなら、本当に嬉しいですよ」

「じゃぁ、今日でも明日でもライブハウスに来れないですか?」

「バンド・メンバーの意見も聞きたいので、1日だけ時間下さい。明日、伺います」

  勿論、おじさんバンドのメンバー全員が喜んでくれた。マネージャー兼サックス奏者のマクも。バンドはやはりそういう発表の場があってこそ輝くもの。

  翌日の晩、オーナーでマスターのNさんとWさんと僕の3人で話し合った。有難いことにマスターとしては、僕等のバンドには金曜夜(客が最も入る日)にやって貰いたいようだったが、メンバーは横浜や江東区から来るので、7時半の第1ステージには間に合いそうにないことを伝え、毎月第3土曜日として貰った。

  最大でも40人くらいしか入れない店だが、僕等の初回のライブ(5月21日土曜日)の時は、友人知人に声を掛けて是非とも満員にしたいと思っている。Wさんや店のオーナーへの感謝のつもりだ。

  さぁ、これが、おじさんバンドの新らたなる出発のとき。張り切って行きます。皆さん、是非聞きに来て下さい。

 
日時   5月21日(土) 19:00開場、19:30開演

場所   ライブハウス「音楽工房コルコバード」 多摩センター駅徒歩5分
                              サンリオ・ピューロランド右裏
費用   千円 + 通常の飲食代

4月 29, 2011   No Comments

保険自由化への道(20) 完

 
  2001年4月に始まった損保業界の合併劇は、最大手の東京海上を初めとする上位10社が全部動いたものだった。他産業・他業界にもない一気の業界再編劇であった。外資参入という損保の黒船を迎え撃つ態勢準備という趣が強かったこれら一連の合併や経営統合の評価はもう少し先にならないと定まらないとは思う。

  だが、カルテルが認められていた超特殊な世界から、一気に普通の産業、普通の競争社会になったことで、一般的価値観が漸く損保業界にも浸透し始めたようには感じたものだ。

  例えば、「損保会社の顧客は保険代理店だ」と何も疑わず部下達を叱咤し指導していた経営陣や部長級の発言は、トーンダウンして行った。やはり顧客は保険に入って頂くお客様だ、保険会社は代理店管理が重要として来たがこれからは顧客管理と顧客サービスだ、といった声が強くなって行った。

  だが、もっと切実な問題は、自由料率導入が各社の保険料率を低廉化させ、合併にも関わらず、会社収益が限りなくゼロに近付いたり、マイナスになる会社が現れ始めたことだ。

  ほんの数年前までは、一番小さな損保会社でも利益を得て事業を継続出来る保険料率だったから、会社の利益がマイナスになるなどあり得なかった。それが、保険を売れば売るほど赤字になるのだから様変わりだ。

  こういう状況を反映して、過去何十年も信じて疑わなかった業界の価値観、即ち、損保業界内の競争力とは、収入保険料(売上高)であり、シェアであり、増収率(対前年売上増)であり、規模であるという文化が成り立たなくなったのだ。

  極端な話し、それ程経営効率に努力しなくても赤字にならない保険料率で守られていたし、ちまちました効率化努力より、増収施策を打った方が儲けも大きい時代だった。それがもう許されない時代に入ったことを否応無く理解させられたのだ。

  これが損保が普通の産業、普通の競争社会になったという意味なのだ。では、各社の価値観は、売上高至上主義から収益至上主義に完全に転換したかというと、実はそうでもないのが厄介なところだ。染み付いた価値観を完全に払拭するのは、やはり簡単ではないようだ。

  既に触れた、保険契約継続時に各契約者宛に作る分厚い資料の無駄を初め、スリム化シンプル化や節約・効率化が徹底されているとは言えない。過去のシガラミを強い意志を持って完全排除出来ているとも言い難い。

  どこかに、増収こそ問題解決の近道と思う心が残っている。「生き残り」を口にする以上、最早、売上高でなく、収益が最大のメルクマールでなければならない。

  業界再編・合併ブームから10年、再び、僕の出身会社を含む大型合併が進んでいる。その目的が規模の追求でなければ良いがと思う。

  以前当ブログでシリーズとして連載したシステム統合の物語(あるシステムの物語)は、10年前の会社合併の中で僕自身が体験し大苦戦した苦い思い出を、包み隠さず吐露したものであった。

  僕の後輩達が10年のうちに2回もシステム統合をやらざるを得ない大変さに対して言葉も無い。だが今回は、前回の教訓が活きたようで、苦戦はしたものの、ほぼノン・トラブルで成功させてくれた。嬉しいものである。心からおめでとうと言いたい。

                       保険自由化への道  ― 完 ―

4月 28, 2011   2 Comments

保険自由化への道(19)

 
  この1ヶ月半、内容が震災関連に完全シフトしていましたが、少し普通の日常に戻って、震災前に連載していた続きを書きました。

 ―――――――――――――――――――――――――――――

  損保業界は1997年を境に、全社同一価格の協定価格の業界から、一気に価格競争(自由料率)の世界に入った。それも国内20社体制で長年やって来た業界が、海外の大手保険会社を初め、国内の他産業からの参入が相次ぎ、最も競争の激しい業種の一つになったことは既に述べた。

  この自由料率認可が、生損相互乗り入れに続く保険自由化の第二幕であったが、この第二幕が必然的に第三幕、会社合併劇を惹き起こす。

  自由料率のスタートは保険低価格競争の時代への突入を意味するので、その低価格路線に各社どこまで耐えられるかの耐久レースに入ったと言える。元々体力のある大手損保が俄然有利な情勢になったのだ。

  ここで、中堅損保会社が危機感を募らせたのは言うまでもない。低価格に耐えるよう、ありとあらゆる経営効率化を推し進めて、贅肉を完全に削ぎ落として、筋肉質のスリムな会社に生まれ変わらせる必死の努力が行なわれた時期である。

  だが、保険自由化は、こうした努力だけで乗り越えられるほど生易しい競争世界ではないことが徐々にハッキリして行く。中堅損保が生き延びるためには、もっと、大胆な経営効率化策がどうしても要る。各社のトップが水面下で新しい動きを始めた。

  会社合併に向けた動きだ。国内の損保各社は全国に数百に及ぶ営業店舗網を有している。2社合併なら、全都市の店舗は片方が不要になり、経営効率は大きくアップする。

  また、各社ともシステム投資額は膨大なものとなっている。これも基本的に1社分の投資で済むようになるからやはり効率化効果は大きい。更に、重複する全ての組織や流通網も1社分で済む。その他、有形無形の規模のメリットが期待される。

  これらを狙いとした会社合併の機運は、2000年に入って一気に顕在化した。同年3月までに、大東京火災と千代田火災の合併、日本火災と興亜火災の合併、ニッセイ損保と同和火災の合併が発表された。それを見ていた大手損保も動いた。東京海上と日動火災、安田火災と大成火災と日産火災、そして、三井海上と住友海上の発表が相次いだのである。

  生き残りを賭けた中堅会社同士の合併は必至と思われていたが、体力に勝る大手社も全社が合併に向かって走り出したことで、長く安定していた業界地図は短期間の内に様変わりすることになる。

4月 27, 2011   3 Comments

被災地にチョッといい話

 
  昨日の新聞に、気仙沼の小中学生のジャズ・オーケストラに真新しい楽器がプレゼントされ、早速避難所でジャズ・コンサートを開き、入居者に喜ばれたという記事が載った。以下は朝日新聞記事の抜粋。
 
―――――――――――――――――――――――――――――――――
 
写真:ニューオーリンズからの支援で届いた楽器を演奏する子どもたち=24日午後、宮城県気仙沼市、川村直子撮影
  ニューオーリンズから届いた楽器で演奏

 
 感謝の音色、海の向こうへ届け――。宮城県気仙沼市のジュニアジャズオーケストラ「スウィング・ドルフィンズ(SD)」が24日、被災後初のコンサートを市内の避難所で開いた。津波で大事な楽器を失ったが、ジャズ発祥の地・米国ニューオーリンズからの支援で再起にこぎ着けた。
                     (中略)
 ニューオーリンズの子どもたちに楽器を贈る活動を続けてきた音楽家・外山喜雄さん(67)が人づてに、SDの窮状を知り、橋渡し役に。ニューオーリンズのライブハウスが「2005年のハリケーンの時にも日本からの義援金や楽器の寄付で助けてもらった。今度は我々の番だ」と楽器購入費1万1千ドル(約90万円)を寄付。[今月中旬]トランペットやサックス、トロンボーン計14本がSDに届いた。
                     (中略)
 この日、メンバー24人は「音楽ができる喜びと感謝」を胸に「聖者の行進」や「故郷(ふるさと)」など計5曲を演奏。会場の市総合体育館前ステージに集まった被災者ら約400人はリズムに合わせて体を揺らし、拍手した。自宅が流された気仙沼市の藤江初枝さん(74)は「感動、感激です」と涙を流した。
 
―――――――――――――――――――――――――――――――――
 
  何故この記事を取り上げたかと言えば、記事の中に出て来る「音楽家・外山喜雄さん(67)」は、僕の高校同窓会バンド「タペストリー」のバンジョー奏者、ヨッシーが理事を務める「日本ルイ・アームストロング協会」の会長さんで、現役のプロ・ジャズ・プレーヤーなのだ。

  その協会の活動を実質的に動かしているのが、我が友ヨッシーであり、6年前、ヨッシーが主催する「ハリケーン・カトリーナ被災地支援、楽器をニューオーリンズに贈るジャズ・フェスティバル」(名称は不確か)を聞きに行った。

  彼は持ち味の軽妙なMCで総合司会をやっていて、ステージ上で彼が再三促すので、恥ずかしながら僕も2千円寄付した記憶があるからだ。

  僕にとってのこの記事の勘所は、今度はそのニューオーリンズのライブハウスから被災地気仙沼に楽器が贈られたという点。仲介役は勿論「日本ルイ・アームストロング協会」だ。簡単に「つながろう日本」とか「みんなつながっている」とか言うけれど、往復6年越しのこの繋がりこそ本物だと思う。アメリカ南部のジャズメン達も味なことやる。

4月 26, 2011   No Comments

被災地(10) 総括

           石巻   爪あと                               
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P1000307-2

  
  多賀城からは三陸道(高速)を北に最後の目的地石巻に向かった。石巻に着いて、まず市役所にポスターとチラシを預けに行った。行ってみたら、1階の入口から3階まで、廊下や階段を長い列が出来ていた。仮設住宅への入居申込のために、罹災証明書を市から発行して貰うためのようだ。

  震災から丁度1ヶ月。皆さん、悲しみや苦しみを引き摺りながらも、新しい生活に向けて、自らを鼓舞して動き出した日のようにも見えた。

  市役所4階の災害対策本部を訪ねたら、「仮住まい住居のニーズは大変高いので、あるだけ貰えませんか?」と言われたので、残り全部のポスター・チラシをお渡しした。

  これで取り敢えず、僕等の被災地巡りの目的は達したのだが、その後、石巻の被害地の真っ只中に立ってみた。その光景の凄まじさに、ショックのあまり言葉も失い、帰りの車中は、3人とも無口になっていた。(石巻の惨状については、当シリーズの最初で述べた通りである)

  今後のボランティア活動の長期戦に向けて、被災地の光景を目に焼き付けておこうというもう1つの目的も、図らずも達成した。否、焼付けよう、ではない。忘れることなど絶対に出来ない悲惨さが、目に焼き付いてしまった。
 
 
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  この惨状を目の当たりにしたら、被災者(具体的には、僕らがやっと探し当てた水産加工会社の社長。彼は家も会社も全て流されてしまった)には、軽々に何も言えない。どう慰めてみても慰めにならない、どう励ましても励ましにならない。

  東京では今、テレビコマーシャルも復活し、「がんばろう日本」「つながっている」とか、企業の被災地へのお見舞いメッセージも多い。それらに比べれば、サントリーの「上を向いて歩こう」とか「見上げてごらん夜の星を」などのCMが頗る評判いいのだが、現地から見ると、これら全て違和感がある。

  それは、被災者へというよりも、遠くにいる人達の間での勝手な同情と共感のメッセージだと思えてしまうからだ。避難所の人々からすれば、せめて一時的にも、この現状を忘れさせてくれるような、笑いの起きる番組の方がどれだけ元気付けられるか。

  福島。原発地区から町ごと逃れて来た避難所を訪ねて、原発を容認して来た自分を含め、社会全体がこのツケを払わなければいけないだろうと思った。少なくとも、資源の無い日本は原発に頼らざるを得ないと、自身を無理矢理納得させて、経済発展の方を選択し享受して来たのだから。

  国と電力会社に騙された、安全だと思い込まされた、と憤る人がいる。それも、団塊世代に。地震・津波はもとより、ミサイル攻撃からもビクともしないと言ってたではないかと。悪いのは自分ではない、国と電力会社だ、と思いたいのかも知れない・・・ 

  国の責任は勿論重いが、その方針を、積極的か消極的かは別にして、受け入れて来たのは他ならぬ僕ら国民だ。その反省に立ち、今こそ、原発を今後どうするのか、原点に戻って議論しなければならない。

  しかし、フクシマを契機として各国で原発政策見直しのデモが起きているのに、日本では、デモ一つ起きないのは一体どうした訳か? 今回の統一地方選でも反原発は票にならなかったようだ。原発を容認した者が今更反対を口に出来ないという心理だろうか?

  この先、原発をどうするのか真剣な議論を行うことが、原発から避難せざるを得なかった人々に対しての、せめてもの責務だと思う。このことを含めて、想像以上にいろいろ考えさせられる被災地巡りが終った。

                          被災地  - 完 -

4月 25, 2011   4 Comments

被災地(9) 多賀城

                                     
P1000292                ボランティア拠点 右はこれから作業に向かう人々
  
  
  今回の避難所巡りの旅に出る前日、僕は大学時代のバンド仲間に電話した。3週間ほど前に電話した時は、多賀城市の自宅が1階の天井まで浸水して(勢いの物凄い津波ではなかったが、大量の浸水)とても住めないから、已む無く今は避難所(体育館)で暮らしていると言っていた。

  僕は大学4年間仙台で過ごし、15年前は転勤で仙台に単身赴任したこともあり、友人知人が多いのだが、奇跡的に全員の無事が確認されて胸を撫で下ろしたものだが、1人だけ(1組の夫婦だけ)避難所暮らしがいた。それがS君なのだ。

  しかし、2日前の電話では、とっくに体育館を出てアパートに入っているとのことだった。アパートから毎日、自宅の掃除や片付け、或いは、家の修理に通っているのだそうだ。

  もし彼が今も避難所生活をしているなら、その避難所に立ち寄ろうと思ったのだが、残念ながら(?)もう退去しているので、多賀城で一番収容人数の多い避難所「文化センター」に立ち寄ることにした。

  「文化センター」は「多賀城市役所」や「多賀城市社会福祉センター」が並ぶ同じ敷地内にあった。だが、今までの避難所と違って、外にボランティア受付がちゃんと用意されていたので、まず、そこを訪ねた。

  受付は2つに分かれている。「県外」と「県内」。この分け方にどういう意味があるのか僕は不思議だったが、兎も角、「県外」の受付の人に、訪問趣旨を説明した。係員はそういうお話なら「社会福祉センター」の2階だと指示されたので、そちらに上がった。

  丁度、その大会議室では、先ほどのボランティア受付が終った人達が大勢いて、先着順に班分けされ、多分瓦礫の片付けに行くのだろう、スコップやすきなどが係員から渡されていた。僕は、この光景、どこかで見たような既視感に襲われた。

  実際には見たことないのだが、映画かテレビかで見た、山谷の朝の日雇いの労務者募集風景だと思い当った。違うのは、その労務に対して日当が払われないことだ。東京に帰ってから、エイジさんは、瓦礫の片付けなど肉体労働全てが、ボランティア作業で良いのか? と疑問を抱いたらしい。

  「ボランティア」、言葉や精神は美しいが、会社も財産も家族さえも全部流されてしまった被災者が本当に再起出来るようにするには、被災者にこそ、瓦礫片付けをペイワークとして成立させ、収入が得られる経済活動に変えなければ、いつまでも彼等の明日は来ないのではないかと。ここで見た光景がキッカケだったのではないか。

  全国から集まるボランティアも有償にして、夫々の地に戻る時に被災地に寄付出来るようにすれば良い。無償奉仕は最初の1ヶ月を目途にすべきだ。労働対価の原資は、震災復興予算の中で賄い、必要なら、善意の寄付金を当てても良い。このエイジさんの発想、なかなか面白い。この政策、各方面に働き掛ける価値があるのではないか。

  「社会福祉センター」と「多賀城市役所」の両方にポスターとチラシを預けて、多賀城市内を少し走ってみた。津波で流されたのとは違い、建物はほぼ残っているが、地震で壊れた家屋が多く、1階は水に浸かった痕がくっきり見え、泥だらけになっているのが良く分かる。ドブのような匂いも漂う。友人のSが言うように、建物が大丈夫でも、かなり水洗いなどで洗浄しないと、とても住めない。

  その昔、坂上田村麻呂(征夷大将軍、758年~811年)が蝦夷征伐の拠点とした城(と言っても砦、724年築城)が名前の由来の多賀城市。この町が、坂上田村麻呂の死後に起きた貞観地震(869年)で城が崩壊して以来の大地震に見舞われた。
  
                                    
P1000311                  地震の爪痕    階段が外れて落ちた歩道橋  

4月 22, 2011   No Comments

被災地(8) 若林区

                                                                     P1000280                         
    若林区六郷中学避難所に派遣された自衛隊
 
 
  2日目、最初に、津波被害が特に酷かった仙台市若林区の避難所に立ち寄った。運転は順番通りN君。僕らは宿を出て一旦東北道を南に一駅下り、仙台南のジャンクションを東に延びる仙台南部道路に入った。

   仙台の西には縦に東北自動車道、東に仙台東部道路、北には横に仙台北部自動車道、そして南に仙台南部道路と4つの高速道が仙台市を四角く囲むように走っていて、その全部がジャンクションで繋がっているから、大変分かり易いし便利だ。

  仙台南部道路は、津波当日の映像で何度も映った、あの名取川沿いを走っているので、辺りの様子を伺いながら車を進めた。川の向こう側に広々とした田園風景が現れた。だが、あれ程酷い津波映像の割には、田畑には瓦礫も無く、ビニールハウスも壊されていない。

  変だなぁ、と思っていると、目指す今泉IC(仙台東部道路との合流場所の少し手前)に近付いてしまった。その時だ、田んぼ中に瓦礫が散乱した光景が現れたのは。

  あの映像は、津波が名取川を遡り、川を溢れ出てドンドン内陸に向かったのはこの下流に違いない。そして、この辺りまで津波が押し寄せたということなのだろう。あれだけ広範囲に散乱する瓦礫の片付けも、田んぼの塩抜きも、気の遠くなるような作業だろうなと思った。

  目的地の「六郷中学」は今泉ICから直ぐ近くだった。車ごと門から中に入ると、やはり校庭が駐車場代わりになっていた。校庭の北側には自衛隊の車両が何台か並んでおり、隣のテントでは自衛隊員が何人かで食事を作っていた。
  

P1000287                     テントでは自衛隊員が食事を作っていた
 
 
  この食事は、避難所のためなのだろうか、或いは、校庭で野営した自衛隊員のための食事だろうか。体育館と思わしき入口近くにはテレビ局の中継車が止まっていた。テレビで良く見る体育館内部の映像をこうして送っているのだな。

  でも被災者サイドに立てば、ただでもプライバシーが無いに等しいのに、それをテレビで大々的に放映されるのは、たまったものではないだろうと思う。プライバシー保護がこれほど叫ばれる時代は嘗て無いと思うが、避難所はその例外なのだろうか? 国民の知る権利が優先するとでも言うのだろうか?

  僕らは、中継車の近くを通り、体育館入口に進んだ。だが、入口近くには結構係員やら被災者達が大勢いるものなのに、殆どいない。1人だけ、首からIDカードをぶら下げて、バインダーとボールペンを持った女性(美人)がいただけだ。

  僕が、受付は体育館の中かなとか思っていたら、N君、素早い。チラシを見せながら「スミマセン。僕達こういう(仮住まい相談)ボランティアをやっているのですが・・・」と、彼女に話し掛けた。係りの人と思ったの、かな?

「あの~、私、ここの者ではないので・・・。中に確か受付があったと思いますから、そちらでお聞きになってみては如何ですか?」と迷惑そうに言われてしまった。僕は直感的に分かった。彼女はテレビ局のレポーターとしてここに来ていると。

  それでもN君、悪びれた様子もなく、「綺麗な女性(ひと)でしたねぇ」と僕に言う。

  靴を脱いで中に入った。大勢の人が床をダンボールで囲って生活しているのが目に飛び込んだ。係りの人に促されて、受付に置いてある消毒薬で手を拭った。

  訪問の趣旨を告げると、町内会の会長さんが現れたので、彼に説明をしてポスターとチラシを預けた。僕らは来訪者名簿に記帳してそそくさと外に出た。その間5分あまり。

  中で生活している人達に申し訳なくてとても長居など出来ないのだ。この時の印象は、不適切な言葉になるが、正直に言うと、まるで「屋根のある路上生活者」だと思った。

  今日は4月11日。被災者は丁度1ヶ月もの間、こういう生活を送っているのだ。極々普通の生活をしていた人達が、自分の落ち度は全くないのに、突然、こういう生活を強いられたのだから、そのストレスの大きさは、僕等の想像を遥かに超えているだろう。

  それでも彼等は、「津波に飲み込まれた人に比べれば贅沢は言えない」と、自らを励まし気丈に振舞っている姿に心打たれる。

  僕達がせめて出来るお手伝い「仮住まい相談」は、是が非でもやり続けようとの決意を新たにして、六郷中学を後にした。

4月 21, 2011   No Comments

被災地(7) 仙台

                                    P1000283                            若林区の避難所に来ていた宮城テレビの中継車
 
    
  僕が運転する車が高速を降りて、郡山市内に入った頃、後部座席のエイジさんは携帯で誰かに電話した。「1時間半ほど遅らせてくれ」と頼んでいる。多分、前の会社の東北本部長(仙台)のO氏に電話しているのだろう。

   時計は16時を少し回っている。東北本部長とは、17時に仙台の彼の事務所で待ち合わせの予定だったが、これから郡山の避難所を訪れるのだから、それはとても無理なので電話を入れたのだ。

  日曜日でも、保険会社は今度の震災で大量の支払い案件が発生しているので、O本部長も朝から出社して部下を督励しているようだ。東北本部長はエイジ氏が現役時代の部下である。

  前の会社から預かって来た緊急支援物資8箱も全部捌け、ポスター貼りチラシ配りも終えて全て目的達成して気分良く「ビッグパレットふくしま」を後にした。東北自動車道には17時15分に乗った。一路仙台を目指す。約120kmの距離だ。今日3人目のドライバーはエイジさん。

  約束し直した時刻は18時30分。時速100kmで走行して18時30分少し前に仙台に着く勘定だ。但し、高速を降りた後、事務所までどの位掛かるか不明。その分は遅刻となる。

   何せ、ハンドルに遊びが無いからかなり重いし、ホンダ・モビリオは110km走行が精一杯と僕は踏んでいたが、エイジさん、目一杯の走りで、仙台宮城ICを降りた時は18時15分。丁度平均時速120kmで走破したことになる。その風切り音やエンジン音は、エイジさんの高級車で言えば160~170kmにも感じられ、かなりスリルがあった。

  そこから、東北本部長の事務所まで15分掛かり、目出度く約束通りの時刻に到着したのだった。

  O氏は、早速社内を案内してくれた。彼の東北本部のビルの中には「災害対策本部」が設置されており、O氏が対策本部長として、社員・代理店の安否確認から、被災地の保険契約者への保険金支払い業務まで、全ての陣頭指揮に当たっていた。

  翌月曜日には、首都圏から200名の社員が応援に来る予定になっていて、彼等に、被害建物の鑑定立会いや、保険契約の大量の支払い案件の迅速処理を手伝って貰うとのことだ。そのための必要書類の準備や、応援部隊への説明資料、地域別班割りなどの準備を朝から対策本部メンバーと一緒にやっていたのだと言う。この1ヶ月、休みは一日も取れなかったらしい。

  この建物も本部長が単身で入っているマンションも、どちらも免震構造だったから、茶碗1つ割れなかった。ただ、ガスが震災以来1ヶ月間復旧しなかったから風呂や料理が大変だった。でも、そのガスも仙台市内はこの日、丁度1ヵ月ぶりに復旧したと喜んでいた。

  O氏と僕ら4人は、会社を出て市街地に出た。震度7だった割には旧市街地の建物は何事もなかったように見えた。会社からさほど遠くない彼の馴染みの店で久し振りの再会を祝った。

  こういう場合、エイジさんが全く飲めないのは頗る都合が宜しい。会食自体久し振りと見えるO氏に付き合って、僕とN君が強か飲んでも、ここから宿までの運転手には全く困らないからだ。

  仙台市内はボランティアと避難者が溢れていて、旅館は何処も満杯の状況だ。空いているのは、ウェスティン・ホテルなど高級な所だけだった。ボランティアに来ているのに、超高級ホテル宿泊はあり得ないから、市内から小一時間も離れた田舎の安宿を予約しておいた。

  これが意外と素晴らしい温泉宿で、昨日までは地震後の安全確認が出来ていないとかで入れなかったという、清流が傍を流れる露天風呂(岩風呂)がこの日からオープンされていて、大変運が良かった。被災者には申し訳ないような気分ながら、心身共にリフレッシュさせて貰い、明日への活力を養った。

  朝、気が付いたが、この旅館も、大阪ガスからの応援部隊が大勢泊まっていた。駐車場には「大阪ガス」のロゴの書かれた車が何台も並んでいた。きっと彼等が仙台市内のガス復活に大きく貢献したのだろう。

4月 20, 2011   No Comments

被災地(6) 郡山

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  いわきから磐越自動車道で郡山を目指す。初めての道だが、便利になったものだ。この道一本で太平洋(いわき)から日本海まで高速で行ける時代になったということを改めて実感する。それまでN君が運転していたが、郡山までは僕の番。

  N君の車は、ホンダのモビリオ。ハッチバックを開ければダンボールを沢山積み込めるので彼の車を出して貰った。運転してみたら、兎に角ハンドルに遊びが無いことに違和感。遊びが1mmも無いのだ。結構緊張して運転しなければならない。慣れるまでが大変。

  N君もどちらかと言えば、何事もきっちり進めないと気が済まない方で、いい加減を嫌うタイプだから、そんなことがハンドルの遊び無しに現れているのだろう。僕とエイジさんがN君にからかい半分のお説教。

「N君よ。ハンドルの『遊び』って、プレイじゃなくてマージンのことだよ。なんか勘違いしてない?」とか、

「君が販売店にそう頼んだんじゃなきゃ、販売店が君の性格を見抜いて遊びを無くしたんだな、きっと。あとで文句言われたくないから」とか。

  首都圏からここまで離れた場所で列島を横断する高速道路は、日曜日でもまるですいている。走る側は大変気分良いが、この交通量では元が取れないだろう、とか思いながら走っていたら、いきなりガクンと車がバウンドした。「オッと」。道路に段差があったのだ。

  3.11の大地震の痕跡らしい。その後、谷を結ぶ陸橋では必ずその両端に段差が出来ていて注意喚起されていた。そこだけ時速50km制限になっていた。渡って大丈夫なのか? ハンドルの遊びよりこちらの方が不安になった。

  一時間半ほど掛けて浜通りから(福島県の海側の国道沿い)中通り(福島県の真ん中を南北に走る国道沿い)に到着、一般道に入って郡山市内を進む。

  さあ、今回訪問する最大の避難所「ビッグパレットふくしま」を探さなくていけない。N君の車のカーナビに「ビッグパレット」と入れても出てこない。カーナビの地図が古いのかも知れない。住所も電話番号も分からないからカーナビは無理。

  兎に角、JR郡山駅まで行って聞けば分かるだろうと駅を目指していると、エイジさんが、持参した「I-PAD」で検索してくれた。目的地が分かった。なかなか役立つじゃないの、「I-PAD」も、エイジさんも(いや失礼)。

  そこは、埼玉スーパーアリーナのような大きな建物だったので、僕はてっきりサッカー場かなと思ったのだが、実はこの建物巨大なホール(多目的ホール)と幾つものコンベンション・ホールから成る超近代的な一大イベント会場だった。

  2,000名以上の避難者がいるのも頷ける。その殆どは、原発の直ぐ近くの富岡町と川内村が町ごと避難して来た場所だった。中にはその二つの仮設役場があった。僕らはそこで、ポスターを貼る許可を貰い、支援物資の受け取り場所を教えて貰った。

  入口から真直ぐに続く廊下の両側の壁は、様々なお知らせや連絡・人探しなどのメモやチラシやポスターを自由に貼れるようになっていた。僕らは廊下の別々の場所に3枚貼らして貰い、机の上にチラシを30枚ほど置いた。1人の男性が、真剣に僕等のポスターを見てくれていた。

  僕らが東京に戻る前に、「仮住まい相談デスク」に、ここ「ビッグパレット」から祈念すべき希望者第一号の電話してくれた人が彼かも知れない。

  ここでも、衣料品の支援物資は有り余っていて、断わられるかと思ったが、あに図らんや、これだけの人数がいるので全部頂きたいと気持ち良く受け取ってくれて、大変感謝された。ずっと断わり続けられたので、その分、僕らの喜びも大きかった。持って来て良かった。前の会社の本社の人も喜んでくれるだろう。

  放射線を警戒したいわき市と違って、N君も、原発から遠い郡山市ではマスクも帽子も被らなかった。後で分かったことだが、いわきの放射線量は東京の4倍、郡山は何と20倍もあったのだ。まっ、それでも現地には1時間しかいなかったから、浴びた放射線量は1回の胸部レントゲンの数十分の一くらいらしいが・・・

4月 19, 2011   No Comments