プレミアムエイジ ジョインブログ
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Posts from — 9月 2011

ベルリン飛行指令

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  前に買ったまま死蔵し、買った事も忘れて、本屋で同じものをまた買ってしまうというミスが、この2~3年何回か起きた。年の成せる業か、ボケの始まりか? 膨大な数の本が売られているのに、同じものを求めると言うこと自体、可笑しなことかも知れない。それだけ僕の好みの作者が偏っているとも言える。

  そんなことが何度かあったので、反省の意味を込めて、買ったまま放置していた本を片っ端から読み、全て読み終える迄は新しい本を買わないことにした。まっ、それでも、本屋さんで本を手に取り、パラパラとめくってみて、初めて読む内容だなと思い込んでしまえば、重複購入は起こり得るのだが・・・

  読まないまま積んである本の中から最初に取り上げたのは、佐々木譲の「ベルリン飛行指令」だ。7~8年前に買った文庫版のようだ。佐々木譲は2009年に「廃墟に乞う」で直木賞作家となったが、僕がそれを買った時はその何年も前のことだから、僕にとっては決して有名作家ではなかった。

  裏表紙に書かれているあらすじが面白そうだったから買ったんだと思う。直木賞作家となってからは、北海道県警の刑事ものや「エトロフ発緊急電」など幾つも読んだが、彼の「ベルリン飛行指令」なんて本を僕が以前から持っていたことに寧ろ驚いた。

  さて、読み終わった感想は、一言で言えば凄く面白かったというのが偽らざるところ。

  日本・ドイツ・イタリアの3国同盟締結後、ヒットラーは、イギリスの戦闘機スピットファイアーに行く手を阻まれて、イギリス征服が出来ないでいるドイツ空軍への梃入れのために、中国で敵なしの日本のタイプゼロ戦闘機を入手して、ドイツでOEM生産するように部下に指示する。

  その要請を受けた日本海軍は、パイロットとしては最優秀の部類に入るが、その言動や行動で些か持て余し気味だった安藤と乾という2人のコンビを秘密計画のパイロットとして選抜する。秘密計画とは、日本から2機のゼロ戦を10日ほど掛けてベルリンに飛ばすことだった。

  飛行ルートはインドシナ・インド・イラン・イラク・トルコ・イタリア、そしてドイツ。途中、敵性国イギリスの支配地域を幾つも抜けて行かなければならない過酷な飛行となる。

  途中、イギリス空軍の攻撃に会い、乾の乗った飛行機は消息不明に。安藤が操縦する1機だけがベルリンに到着する。1940年12月7日。太平洋戦争突入の1年と1日前のことだ。スケールの大きい冒険小説と言える。

  この安藤、実はアメリカ人の父と日本人の母の間に生まれたハーフなのだ。だからだろうか、時代の空気に雷同することなく、自分の美学や価値観は決して変えない。標準的な軍人とはかなり異なる。それがトラブルの元ともなるのだが・・・

  安藤は、ジャズをこよなく愛し常にトランペットを離さない男でもある。興が乗ればダンスホールのプロ・ミュージシャン達ともセッションする。当時では考えられないくらいのダンディズムの体現者だ。兎に角カッコいいのである。

  数少ない史実や、生き残りの軍人からのインタビュー、個人的な書簡などから、佐々木譲は見事な物語を紡ぎ出したものだ。死蔵した本も、自分の好みで買ったものだから、読めばやはり面白いことを発見した。

9月 29, 2011   No Comments

書けなかった旅行記

      帰国のためウィーン空港に到着

      帰国のためウィーン空港に到着

 
 
  このところ、各ブログの先頭に、本文の内容とは無関係な写真を載せて来た。一連の写真は、今年の3月、中央ヨーロッパを旅行した時のものだ。

  普通なら、旅行記として、7回から10回くらいのシリーズにする筈なのだが、今回は、遂に書けないまま半年が経ってしまった。

  その理由は、言うまでもなく東日本大震災が2万名もの尊い命を奪い、福島第一原発の爆発は、未だに収束せず解決に至っていないからだ。

  また、旅行から帰って、丁度震災1ヶ月目に石巻の津波跡に立った時の、悪寒のような、何とも言いようのない感覚を忘れることが出来ず、とても、能天気に旅行記を書く心境になれなかったのだ。

  更に言えば、僕のこの中欧旅行と東日本大地震との間に、浅からぬ因縁を感じることもあって、筆が進まなかったというのもあった。即ち、あの日(3月11日)、僕らが成田空港を飛び立ったのが昼の12時45~46分。大地震発生が14時46分。

  2時間の違いで旅行に出発出来たのだ。地震発生後は成田空港も閉鎖され、以降の旅行は全て取り消しとなったと言う。正に奇跡的な海外旅行となった訳であるが、僕の中では、日本の大惨事を他所に遠く外国に遊んだという、ある種の後ろめたさもあった。

  尤も、ヨーロッパを旅行していても、残酷な津波の映像や、原発の爆発事故などのニュースが連日テレビに流されるし、ツアーの中にも被災地から来ている人がいたりで、気懸かりを抱えながらの旅となってしまったから、旅行を100%楽しむという訳には行かなかった。

  それやこれやで、旅行記は書けなかったのだが、折角撮って来た写真を全く載せないのも残念なので、ブログ内容とは全く無関係に、各回の冒頭に掲載させて頂いた。

  そして、今回が中欧で撮ったブログ用写真(自分達の姿の映っていない写真)の最後なので、簡単に経緯を触れさせて頂いた次第。

  旅行は6泊8日。訪れた都市だけを順番に記すと次の通り。

日本から → ① ウィーン(オーストリア) ② プラハ(チェコ) ③ マイセン(ドイツ) ④ ドレスデン(ドイツ) ⑤ ブラチスラバ(スロバキア) ⑥ ブダペスト(ハンガリー) ⑦ ウィーン(オーストリア) → 日本へ

  国にして5カ国の訪問だったが、この5カ国を貫くのがドナウ川だ。幾つもの名曲を生んだドナウ川。旅行期間中ドナウ川は、ずうっと穏やかに大きくたゆとうていた。

9月 28, 2011   No Comments

同窓会幹事会

           ブダペスト郊外の田舎町の家並み

         ブダペスト郊外の田舎町

 
 
  前日のコーラス隊「TSUBASA」のコンサート。それが終った午後2時半からその打ち上げ会の始まる午後6時まで、関係者(メンバーのご主人や、おじさんバンドのメンバー達等など)とは、いつものように(過去2回と同じく)、駅ビル内にある中華料理屋で飲んで時間をつぶすことになった。

  僕は翌早朝、長野市に行かなければならないから、打ち上げ会出席は遠慮して、6時までで帰ろうと思っていたのだが、どうやらコーラス隊に拉致されたらしい。らしいと言うのは、中華料理屋のことは何とか覚えているが、その後のことは良く覚えていない。後で貰ったコーラス隊メンバーからのお礼メールで知ったのだ。

  何せ僕は、気が付いたら自宅のベッドで寝ていた。目が覚めたのは明け方だ。時計を見た。朝の5時半。元々5時半起きして、6時半には家を出るつもりだったから、ピッタリの目覚め。目覚まし時計のセットもしないでよく起きたものだ。

  少し頭が痛いし軽いムカツキがある。二日酔いもいいところ。カミサンに「食事は?」とか聞かれたが、とても食べられる状況でない。水一杯飲んで家を出た。

  新幹線社内ではリクライニングを少し倒して寝て行くことにした。熊谷を過ぎた辺りから熟睡出来たと思う。それが良かったのか、目的地に着いたという気持ちの切り替えが出来たからか、長野駅に降り立った時はスッキリして普通の状態に戻っていた。朝の10時15分だった。

  僕は、実家(と言っても、今は姉貴夫婦が住んでいるだけ)に2時間ほど立ち寄った後、義兄の運転する車で長野駅に近い「メルパルク長野」という郵政経営のホテルに送って貰った。午後1時到着。そこは、11月19日に行なわれる長野高校の同期(17回生)同窓会の会場になる。

  一学年9クラス・400名の規模である。毎年開催して来ており、4年に1回は東京開催、後の3回は長野開催となっている。幹事は9クラスが持ち回りで務める。今年は僕らの3年1組の番だ。

  実は、昨年秋の東京開催の時に、会場でバンド結成の話が出てトントン拍子でバンドが出来た。同窓会バンドの名を「ザ・タペストリー」と言う。今度の長野開催では「ザ・タペストリー」が会の中で小一時間演奏しようというのだ。

  幹事会(高校同期会準備委員会)の行なわれるこの日に、会場の音響や照明機器の事前調査のため、TAKAと僕がバンドを代表して現地を訪れることにしたのだった。

  ロビーには既に、代表幹事のA君と幹事長のB君、それに東京からのTAKAが既に揃っていた。A君とB君は幹事会(午後6時~)に先立って、昼間から僕らに付き合ってくれたのだ。

  会場の係と同窓会会場を下見しながら、音響・照明の機器を確認し、「メルパルク長野」側で用意出来るものと出来ないものをハッキリさせた。と言っても、音響に詳しいTAKAに全てお任せで、僕は彼等の遣り取りを聞いているだけだったが。

  会場で用意出来ない機材は、楽器店から貸与して貰う必要があり、そのため、B君の車で楽器屋に移動して貰った。楽器店の係りと打合せの上、PA装置、アンプ、モニター類、並びに、ドラムセットなどを借りることを決めた。

  再び長野駅付近に送って貰い、A君とB君は、夜の幹事会まで一度家に帰って出直して来ると言うので、TAKAと僕は、喫茶店で時間を費やしてから幹事会の会場に行くことにした。バンド結成以来、TAKAとこんなに話し込んだのは初めてだった。波長が合うというのか、とても楽しかった。2人とも音楽の話が尽きない。

  幹事会会場の宴会場には、懐かしい顔が10数人。昼の交渉で、楽器店から借りる機材は全部で4万円ほど掛かることが明らかになったのだが、この費用を、幹事団が全員で個人負担してくれると言う。東京から押し掛けて、俺達に出演させろと言っているようなものなのに、そんな配慮をしてくれた48年前の古い仲間達に心から感謝した。

  後は、僕等同窓会バンドが、幹事団の顔を潰さないよう、キチッと結果を出すだけだ。今後の練習にも熱が入ろうと言うもの。

  僕には迎え酒みたいなものだったが、古い友人達と語り合えてとっても楽しい2時間を過ごした後、TAKAと共に帰京の途に付いた。

9月 27, 2011   No Comments

TSUBASA

         コーラス隊   TSUBASA

         コーラス隊   TSUBASA

  京王線・小田急線が共に乗り入れている「永山駅」の周辺で、毎年9月の下旬にフェスティバルが開かれている。このフェスティバルでは、演奏会場が幾つもあり、地元のミュージシャンや若者のバンド演奏などが多数繰り広げられる。

  我がコーラス隊「TSUBASA」も出演するというので駆け付けた。今回で3年連続の出演だ。従って僕も3年連続の観客だ。その意味では、この3年間の彼等の進歩を身をもって感じ取っている。特に今回は長足の進歩を感じたのでそれを書く。

  いつもは20数名の編成だったが、日にちの調整が出来なかったのか、この日は15~16名だったが、逆に昨年に比べれば、みんな声が前にとても良く出ていて、僕は初めて彼等から迫力と言うものを感じた。

  毎週欠かさず、土曜日にコーラス練習を重ねて3年も経つと、腹式呼吸が完全に出来ていて、吐く息の100%が声に換えられていたからだろうと思った。それに、音程もしっかりしていて、当初散見されたフラット(b)気味の声は今回一切無かった。

  もう1つ。歌う表情がとても良い。それなりに緊張感は勿論あっただろうけど、歌うことの喜びや楽しさが身体一杯に現れていたように思った。聴いているこちらが、楽しくなる。

  曲目も、水戸黄門や銭形平次などの時代劇テーマ曲、美空ひばりの「真っ赤な太陽」、「サライ」「昴」など日本の曲から、「Joyful Joyful」など洋楽とのバランスとバリエーションも良くて、観客を飽きさせることがなかった。

  また、ムロイッチと言われている幼稚園の先生がMCで登場したのには驚いた。おじさんバンドのバンマスであり、コーラス隊のメンバーでもある斉藤さんから、以前、彼女はこの春に結婚してえらく遠くに行ってしまったと聞いていたからだ。

  勝手に結婚後コーラス隊を辞めたのかと思っていたが、そうではないらしい。どれだけ家が遠くなっても、このコーラス隊を続けるんだという強い意志が感じられる良いMCだった。ただ、彼女がコーラスの列から前に出てマイクに向かうと、どうしても「始まるよったら始まるよ」(幼稚園児相手のパフォーマンス)が始まるのかと思ってしまうのだが。

  最後に、褒め序でに、指揮者のよし子さん。いつも超ミニスカートでその素晴らしいプロポーション全体を使って指揮する姿は、僕ら小父様達の楽しみの一つなのだが、今回はミニスカートの上に金色の鎖が付けられていて、気合の入り方が違うのが見て取れた。

  とても大学生の息子さんがいるなんて信じられない若々しさだ。揺れる鎖を見ながら心地良いコーラスを聴き、あっという間に過ぎた45分間だった。

9月 26, 2011   No Comments

第3土曜はライブの日

             Photo By AKI

            Photo By AKI

  
  僕ら「のどごし生バンド」(おじさんバンド)、4月に行なったプレ・ライブを入れれば今回が5回目のマンスリー・ライブだった。8月はお休みを頂いたが、毎月だと、「えっ、もう?」となるのに、1ヶ月空くと随分久し振りで新鮮な感じがするから不思議だ。

  だが、今回(先週の土曜日)は3連休初日と重なり、いつも来てくれていた私の知人友人のルートは殆ど都合が悪くて来れないという返事だった。他のメンバーも観客動員には苦戦していた。

  まっ、仕方ない。今日は徹底練習の日にしよう。午後3時からのリハも、おじさんバンドとしては珍しく一滴もアルコールを口にしないで、真面目に練習を開始したのだ(途中からは飲んだ)。

  何故か。マンスリー・ライブが1回空くと言うことは、このライブ演奏が2ヵ月振りということなので、勘を取り戻すのと新曲をマスターするのは、この日のリハしかないからだ(通常、ライブに先立つ第2土曜は、大森教授邸のスタジオで練習するのだが、その時はおじさんバンドのおじさん達、2ヵ月振りの再会だったので飲んでばかりだった)。

  新曲や新バージョンの曲から音合わせを始めた。「枯葉」。以前からずっとやっている曲だが、今回は「エディー・ヒギンズ」のライブ・バージョンを参考に、お洒落な感じの演奏に変えた。

  新曲は「ファイブ・スポッツ・アフター・ダーク」。サックスのマッちゃんが何年も前からやりたがっていた曲だが、何故かみんなの賛同を得られず今日までレパートリーに加えられることはなかったが、改めて聴いてみると、名曲だし、何より演奏していて乗り易いのが良い。

  実は学生バンドの頃、同じ大学の先輩達が、モダン・ジャズ・コンボを作って大活躍していた。バンド名を「ファイブ・スポット」と言い、この曲が彼等のテーマ曲で、ライブでは必ず最初に演奏された曲だから、僕にもかなり思い出のある曲なのだ。

  そして、「エル・クンバンチェロ」。大森教授(ピアノ)がお酒を飲んでハイテンションになった時、必ず演奏していた曲。逆に言えば、先生がかなり酔わないとやらない曲。久し振りにリハでやってみた。

  大森先生曰く「この曲はお酒が入らないと無理だな。今の倍くらいのテンポでないとね。シラフだとそれが出来ない」。だけど僕はシラフだろうと酔っ払おうと、そんな超高速にドラム叩けないよ。

  その後、今日のライブで演奏する曲目(18曲)を一通り練習し終えたところに、AさんMさんが、コーラス隊の定期練習が終ってから駆け付けてくれた。早速彼女たちが歌う「恋のバカンス」の初の音合わせ。そして、彼女達にバック・コーラスをやって貰って僕が歌う「アンチェイン・マイ・ハート」などの練習を終え、午後7時。開店の時間になった。

  お客さん、誰ぞ来てくれないかなぁ。1人も来ないことを覚悟はした日だったが、それでも前の店の知り合いが10人近く駆け付けてくれたので、単なる練習ではなくて、漸くライブが成立した。

  自分で言うのも憚られるが、昼間みっちり練習した「ファイブ・スポット~」は、初めてにしてはかなりいい線行っていたのではないか。この「のどごし生バンド」の良い所は、オリジナルを参考にはするが、コピーはしない点。だから、夫々の創意工夫が入るので、一緒に演奏していても意外性があってとても面白い。

  AさんとMさんの「恋のバカンス」は、2人とも声が良く出ていたし、ハモリも安定感抜群。流石現役コーラス隊。僕等のライブに花を添えてくれてありがとう。(このデュオの名前を考えないといけないな。ザ・ピーナスってどうだろう。ピーナッツでもビーナスでもないその中間)

  過去4回のように、大勢の観客と一緒に盛り上がるライブとは大分異なったが、身内のような人達の前だったから、新しい挑戦が出来て、僕らとすれば一歩前進出来た有意義な日だった。次回の観客動員はしっかりやろう。

  下の写真は、女性デュオが加わった「どごし生バンド」による「アンチェイン・マイ・ハート」の演奏風景。左から、Mさん、Aさん、マンディー(Vo)、QP(Dr)、斉藤(Ba)、大森(Pi)、マッちゃん(Sa)、ヨッ君(Co)。
 

        Photo  By   KOBAYASHI

        Photo  By   KOBAYASHI

9月 21, 2011   No Comments

大臣更迭

      ウィーン  シュテファン大聖堂の内部

      ウィーン  シュテファン大聖堂の内部

 
  新しい内閣のことを、最初の3ヶ月は何も書くまいと心に決めていた。断片だけあげつらっても意味ないし、任せた上は、最低そのくらいは口を出さずに見守るのが普通と思うからだ。

  でも、我慢出来なくなった。それもマスコミが途轍もなくおかしいから。だから政府というより、マスコミに対して文句を言うことにした。

  鉢呂経済産業大臣が就任9日目で辞任した件だ。経産大臣という重要ポストにある鉢呂某が犯した更迭される程の過ちって、一体、何だったのだ? 

  キッカケは、福島第1原発視察後の記者会見で彼が原発周辺の市街地を「死の町」と表現したことだという。強制退去で市街地に人っ子一人通っていない異様な状況は、それまでも度々テレビニュースで報じられていた。

  僕はそのような映像を見る度に、これは「ゴーストタウン」だと思ったし、震災1ヶ月後に行った石巻の被災現場の町並みも「ゴーストタウン」以外の何ものでもなかった。同じ状況を見て「死の町」と言ったら何がいけないのか? 経産大臣が言うからいけないのか?

  誰が見たって「生きている町」になんぞに見えないだろ。「死んだ町」だよ。当り前のことを当り前に言ったことを非難するマスコミって、一体何なんだ。

  鉢呂某の人物像や人品は全く知らないから、決して彼を庇うつもりで言うのではないが、「生きていた町」を「死の町」に変えてしまったのは原発政策を推進して来た経産省だ。そのトップとして、厳しい現実の姿を直視し、二度と「死の町」を作ってはいけないとの心からの反省と覚悟に基いて、今後の復旧復興とエネルギー政策を見直し進めるのは良いことではないか。

  昨今のマスコミの劣化は目を覆うほどだが、今回も、被災者の心情を逆なでする発言、といった感情的な伝え方一色になるのはどうした訳か? 被災者だって、自分達の町を「死の町」にされてしまったと怒っている筈だ。

  マスコミはもっと理を説けよ。マスコミが追及すべきは、「死の町」の言葉の使い方ではなく、「死の町」に変えてしまった国や電力会社の原因と責任だろう。未だに誰も責任を取っていないのだ。政治家も官僚も東電のトップも。あれだけのことを起しておいて。何故マスコミはそのことについて口をつぐんでいるのか?

  本質でもないことを大きく取り上げて問題だと報道するマスコミ。「放射能着けちゃうぞ」云々の冗談や悪ふざけを、欠陥人間の証拠とでも言うように後付けで報道し騒ぐ。週刊誌ネタのレベルのことを一流紙やテレビで取り上げている。恰も全マスコミが三流のメディアに堕した様。

  揚げ足を取るだけのマスコミなんて存在価値があるのかと思うが、これが結局大臣更迭まで行ってしまうのだから、低俗なマスコミに危ない武器を持たせたようなものだ。

  「原発ゼロ派」らしい鉢呂某をそこまで追い詰めるマスコミは、やはり、電力会社から年間巨額の広告費を貰っている都合上、電力会社の意向に沿った記事を書く必要があるということなのか?

  それにしても野田新首相は、何故簡単にマスコミに負けて大臣交代をしなくてはいけなかったのだろう? 過去の例にあるような大臣の舌禍事件の内容にも遠く及ばないような、否、述べて来たように、少しも変でない発言が理由で大臣更迭だから、分からないのだ。世の中不可解なり。

9月 16, 2011   3 Comments

JUAS大パーティー(4) 完

          Shifo と おじさんバンド

          Shifo と おじさんバンド

 
  1年前に「おじさんバンド」は「クーペ&Shifo」から別れ独立したが、そこに至る経緯の不条理が、僕の中ではどうにもスッキリしないもやもや感として残った。

  昨年11月に僕の出身会社が予定していたイベントで、「クーペ&Shifo」と「おじさんバンド」がライブをやることになっていたのが、10月の会社合併を理由にそのイベントが中止になると、そのまま「おじさんバンド」の離脱となってしまったのだ。

  イベント中止は離脱の単なるキッカケでしかなかったのだが、今回の話は、そのイベント中止で彼等に少なからず迷惑を掛けたので、その埋め合わせのつもりも幾らかあった。

  また、何だかんだ言っても、僕が今、音楽活動を通してこんなにも人生を楽しめているのも、彼等がそのキッカケを与えてくれたのは事実だから、ささやかな恩返しのつもりもあった。何せ10年前、音楽の「お」の字もやっていなかった僕が、10年後の今、マンスリー・ライブをやっている姿なんて、自分自身想像したこともなかったのだから。

  更に、より現実的な次元で正直に言えば、H氏から話しがあった時、幾つか候補がある中で最初に声を掛けてくれたようなので、他のミュージシャンに持って行かれるのはもったいない、ここは頂きでしょうと、Shifoに聞く前に、その場でOKを即答したものだった。

  そして、あまり言いたくない本音のところでは、今回の仲介が、万々が一にも、「クーペ&Shifo」と「おじさんバンド」との復活ライブの可能性を拓くことに繋がらないかな、という思いも何処かにあった。思い切って楽屋にまで押し掛けたのも、多分そんな気持ちの現われだったろう。

  だが、結論から言えば、最早、過去に戻ることなど、どちらのサイドにとっても無理な話ということが明白になった。彼等は1年前の「クーペ&Shifo」では既になかったし、「おじさんバンド」のあの はち切れるステージ は、「クーペ&Shifo」のライブに合わない。

  僕の中では、自分に出来る最後の恩返しをやり終えたから何も心残りは無いし、楽屋の彼が、(本人の意図とは別に)僕の1年のもやもやを全て払拭してくれたので、この日を境に、もう過去を引きずることは絶対ないと、気持ちの上で完全に吹っ切れたことが最大の成果だった。

  すべて決着。さぁ、マンスリー・ライブだ!

                     JUAS大パーティー  ― 完 ―

9月 15, 2011   No Comments

JUAS大パーティー(3)

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  Kは一体何処に行ったんだろうと目で探したら、いたいた。石原会長と名刺交換しているよ。Kはやるねー。営業の鏡だね。恐れることなく相手の懐に飛び込むK。僕は少し尊敬の念でKを見ていた。石原さん、僕と話した時は、最前列にいたが今は中ほどにいる。

  JUASの最高責任者として、挨拶を受けるだけでは良くないと、自らこの広い会場を回って来場の礼を言って回るおつもりなのだろう。でも、こうなると、いざという時石原さんを見付けるのが大変難しくなる。

  戻って来たKに「面識もないのに、やるもんだねー」と賞賛の言葉を送りながらも僕の目は石原さんを掴まえている。「神童さんの部下でKと言います。今も損保業界で禄を食んでおりますと挨拶して来ましたよ」とK。

  多分、Shifoを舞台から連れて来て石原さんに引き合わせる引率役としては、事前に名乗って置いた方がいいと思って挨拶したのだろう。何十年営業をやった人でも、一瞬の躊躇も位負けもせず、こういう行動がサッと出来る人は決して多くない。

  Shifoの「どっちでも不思議」が始まった。僕はこれを聞きたくて来たようなものだったからステージに向き直って、暫く聞き入った。再び、後方に目を向けて石原さんを探したが見当たらない。

  あれれ??? たった今あの辺で話していたのに。他の場所に移ったのだろうと思い、Kとヨッ君に言って探して貰った。見つからない。僕も会場の後ろの方に行って探したが何処にもいない。

  もう一度、3人で混雑する会場を隈なく探し回ったがいない。トイレにでも行かれたか、或いは、帰られたか。いずれにせよ石原さんが消えてしまった。

  Tさんを見掛けたので彼に聞いてみた。「石原さんが見当たらないんだけど、もう帰られたんですかねぇ? ステージが終ったところで、Shifoを石原さんに引き合わせようと思ったんだけど」と。「石原さんは忙しい人だからね。私も今日全く会えていませんし。通常、パーティーでも最後までいることは珍しいですよ」とTさん。

  そうか、失敗したな。演奏前にShifoを会わせるべきだった。仕方ない、これもまた運命。Kとヨッ君に、あちこち探し回ってくれた礼を言って石原さん捜索は中止した。

  それにしても会場の喧騒は相変わらずだった。会場後方の人混みの中にいると、折角のShifo達の演奏も、内と外ほどの全く別の空間のように感じられてしまうのが悔しい。

9月 15, 2011   No Comments

マンスリー・ライブ再開のお知らせ (再掲)

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  5月から始まったおじさんバンド(のどごし生バンド)の第3土曜日マンスリー・ライブ。8月はメンバー夫々が何かと予定がありまして、夏休みとさせて頂きましたが、9月から再開致します。

  年内のマンスリー・ライブの予定は、9月17日(土)、10月15日(土)、11月19日(土)、12月17日(土)となっております。

  下記に今月のライブの内容をお伝え致します。皆様、是非また、ご家族・ご友人お誘い合わせの上お越し頂きますよう、心よりお願い申し上げます。
 
 
                 記

 
日時    9月17日(土) 19:00 開場、 19:30 開演

場所    多摩センター 「音楽工房コルコバード」(ライブハウス)
       多摩センター駅 徒歩5分

       サンリオ・ピューロランドの裏通り沿い
       (ピューロランドと極楽の湯の間一番奥の階段下りた所)

       京王相模原線(京王線調布駅乗換え 多摩センター駅)
       小田急相模線(小田急新百合ヶ丘駅乗換え 多摩センター駅)

出演    のどごし生バンド(おじさんバンド)、 ゲスト:謎のデュオ

曲目    鈴懸の径、キリング・ミー・ソフトリー、ラ・クンバンチェロ、
       マイアミ・ビーチ・ルンバ、アンチェイン・マイ・ハート、
       バードランドの子守歌、ダイアナ、恋のバカンス、他

値段    入場料1,000円+飲み物代(酒類500円、ジュース類300円~)
       なるべく食事を済ませてからの入場をお勧めします。

                             神童覇道

9月 14, 2011   No Comments

JUAS大パーティー(2)

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  いろいろな方々の挨拶が終わり乾杯。その後歓談の時間になった。JUASを取り仕切る常務理事のH氏を探したら、最前列の隅の方に控えていた。

  彼に近付き今回の演奏のお話しと、僕とKとを特別招待してくれたお礼を言ってから彼の肩越しを見ると、近くに石原さんがいることに気付き早速挨拶に行った。石原さんとは、現東京海上会長さんで、JUASの会長さんも兼務されている偉い方だ。

「大変ご無沙汰しております。今日は、以前御社の事務センターで演奏させて貰った『ク-ぺ&Shifo』を使って頂きまして本当にありがとうございます」
「あぁ、あの時はとても良かった。神童さんもドラム叩くんでしょう?」
「いえいえ、こんな立派なホールは素人の出る幕ではないですから・・・」
「そうなんですか。それは残念。それにしても、神童さん、あの頃と全く変っていませんねぇ、お若い。音楽やってるからかな」。

  石原氏が「あの頃」と言われるのは1995~96年頃で、生保システムの7社共同開発の時、7社を代表して僕が、当時東京海上のシステム部長だった石原さんといろいろと交渉させて貰った時期のことだ。

「成長がとまったままなんです、きっと。それより、石原さんの方が益々お元気そうで何よりです。こうして、石原さんのご尊顔を拝すことが出来てとても光栄です」とか何とか言って、その場は次の人に譲った。と言うのも、参加企業のお偉いさんが、石原さんと挨拶がしたくて僕の後ろに列を成すような按配だったからだ。

  有名人は辛いね。次から次とやってくる人に対応しないといけない。

  その後、これも懐かしい東京海上のSさんとバッタリ。彼は今沖縄の大同火災の役員になって2年経つと言う。今日はJUASのあるフォーラムで講演するために東京に出張して来たということだった。彼と言葉を交わすのはそれこそ20年振りくらいになる。

  JUAS事務局のHさんの配慮で、この場に僕とK君が参加出来るように計らって頂いたのも、久し振りに「クーペ&shifo」の演奏を聴くためだが、もう一つ、懐かしい人々に会いたかったと言うのも正直なところだ。そして、想像以上に多くの懐かしい顔にお会いすることが出来た。

  「クーペ&Shifo」のコンサートが始まった。乾杯の後30分は時間を取ったのではないか。それは取り過ぎだ。30分も経つと皆アルコールが結構入るし、話に花が咲く。声が大きくなる。悪い予感は的中するものだ。Shifoの歌を誰も聞いていない。

  誰もと言うのは言い過ぎで、600人いる中で、最前列の何人かは聞き入ってくれているが、まぁ、会場は参加者の話し込む声でかなりのザワツキだ。これだと、「クーペ&Shifo」にとっては最悪のライブとなる。

  それでは彼等に申し訳ないので、プラスαを思い付いた。僕の隣にいたK君とヨッ君に「ステージの終ったところでShifoを呼んで石原会長に合わせよう。だから、常に石原さんが何処にいるか注意していてよ!」と伝えた。勿論、今後、石原会長と東京海上に何かと応援をお願いする為だ。伝えた瞬間にKが僕の前から消えた。

9月 14, 2011   No Comments