プレミアムエイジ ジョインブログ
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Posts from — 3月 2012

トルコの旅(5) ― エフェソスの遺跡 ―

     昼食のレストランに隣接する交通公園

     昼食のレストランに隣接する交通公園

   イズミール郊外のレストランで昼食を取った後、エフェソスという町に向かった。ここにはローマ帝国時代の町が、町ごと遺跡として残っていた。貴族階級が住むエリアと町民が暮らす民衆エリアとは明確に分かれていて、貴族エリアには大きな公衆浴場の跡や宮殿などが残っている。

  海辺から、町民エリアを通り真っ直ぐに貴族エリアに続くメイン・ストリートは、なだらかな坂道だった。この道も大理石が敷き詰められていたようで、当時はかなり美しい道だったことだろう。ところどころに残る大理石がその痕跡を今に留めている。

  ここもまた、殆どの大理石は剥がされて、後世の人々の家の建築資材として再利用されてしまったという。ただ、シューマンが盗み出したトロイ遺跡とは違い、この地では大昔から、使わなくなった古い建物の資材を、新しい建物に利用することは一般的な考え方なので(資源有効活用)、当時は窃盗とかの概念には当らなかったということだ。勿論、今は遺跡の持ち出しは法律で禁じられている。

         エフェソス遺跡  図書館跡

         エフェソス遺跡  図書館跡

 

     エフェソス遺跡  8万人収容の大競技場

     エフェソス遺跡  8万人収容の大競技場

  民衆エリアには大きな競技場や図書館跡などもあり、文化度の高さを示している。日本はまだ石器時代か縄文・弥生時代だから驚く。面白いのは、町の一角にソープランドがあり、メイン・ストリートの石畳には、そこへの誘導マーク(行き先案内)が足跡の形で示されていたことだ。

  日本では以前、ソープランドのことをトルコ風呂と呼んでいたのを、トルコ政府からの要請で改名した経緯があるが、何故トルコ風呂と呼んだのか初めて分かった気がした。あの~、分かったと言ってもですね~、僕は一度も行ったことがないので、概念しか分からないのですが・・・

  この広大なエフェソス遺跡を見て、トルコは間違いなくローマ帝国だったということが実感出来た。2年前にローマの遺跡を見ているが、あれ程の規模の遺跡は他ではお目に掛かれないだろうと思っていたが、ここはそれに匹敵するか、町全体の遺跡という意味ではローマを凌ぐかも知れない。

  思ってもいなかったローマ帝国時代の大遺跡を見られただけでも、トルコに来た甲斐があったというものだ。

  大満足のエフェソスを後にして、今晩の宿泊先のパムッカレに向かう。その途中、羊革製品の店に立ち寄った。ツアー観光はどうしてもこういう所(旅行社の提携先?)に寄らされてしまう。

  それでも、革のバッグで適当なものがあれば買ってもいいかなと思っていたので、そのつもりで中に入った。最初に案内された場所は、店舗ではなくホールのような所だった。客席にはチャイ(紅茶)が振舞われた。

  どうやら、革のコートやジャケットなど衣料品のファッション・ショーが始まるらしい。

       とある場所への道標(足跡マーク)

       とある場所への道標(足跡マーク)

3月 30, 2012   1 Comment

トルコの旅(4) - イズミール -

       アイワルクの朝日 ホテルの庭先から

       アイワルクの朝日 ホテルの庭先から

 

  2日目の晩は、退役軍人が多く住むという、リゾート地アイワルクのホテルに泊まった。トロイもそうだが、ここアイワルクも明日行くイズミールも、トルコの南側でエーゲ海に面している。

  トルコは日本の国土の倍ほどの広さであるが、南のエーゲ海に面した地方と、北の黒海に面した地方では別の国と言えるほどに気候が違うという。更に、トルコの内陸は温暖な海から遠いため、冬は特に厳しい寒さになるという。

  また、文化で言えば、西(イスタンブールなどが位置する)と東では、これまた、別の国といえるほどの違いだそうだ。同じイスラムの国とは言え、西はそれほど宗教に熱心ではないが、東は、イラン・イラク・シリアに接しており、正にイスラム教中心の世界だという。

  イスタンブールから350kmをバスで走ってトロイへ、そこから150km走ってアイワルクだったから、ホテル到着は夜8時頃になった。それからホテルのレストランで食事だったから、このホテルの外観や立地がどうなのか知ることもなく朝を迎えた。

  例によって、起床時刻の2時間も前に目を覚ましてしまった。荷作りを終え、意味の分からないテレビを見て朝食までの時間を潰し、レストラン一番乗りで食事を済ませてホテルの外へ出てみた。

  朝6時半、丁度日の出の時間だった。外に出て初めて分かったが、やはり、ここは南国風情のリゾートホテルだ。椰子の木やソテツのような大きな葉の木々が沢山並んでいた。トルコを南国と思う人は皆無と思うが、エーゲ海はそれだけ温暖だということだ。上段の写真は、ホテルの庭から朝日を撮ったもの。

  さて、3日目のこの日は、エーゲ海側最大の都市イズミール観光とエフェソスの遺跡観光がメインだ。本日の走行距離は約430kmの予定だから、昨日よりは少し楽かも。

  トルコの中で、イズミールは美人の産地として有名であるらしい。これは飽くまでも現地ガイドが面白おかしく語ったことだから、事実なのか神話の世界のお話なのか僕には分からないのだが・・・

  トルコの北部、黒海沿岸地方に女性だけの部族がいた。彼女等は馬を飼い慣らし弓術を得意とする狩猟民族で、狩猟の女神アルテミスを信仰し、弓の他にも槍や斧、半月型の盾で武装した騎士として、ギリシア神話の中で多くの戦闘に登場する。

  彼女達の名は、「アマゾネス」。トロイア戦争(トロイ戦争)ではトロイ側についたが、トロイの木馬の奇策などにより、アキレスに率いられたギリシャ軍に破れてしまう。しかし、アキレスは、アマゾネスの女王の命と引き換えに、部下達を許し、黒海沿岸からエーゲ海沿岸に移封させた。

  その場所がイズミールだと、ガイドは主張していた。現にイズミールからは、美人国会議員を3名も輩出しているのを根拠に挙げていた。ここがアマゾネスの末裔の町、ってホントかなぁ?

  第一次対戦の時(オスマントルコ末期)、トルコは列強に狙われ降伏した。それに乗じてギリシャ軍は1919年5月15日にイズミールに上陸した。彼らに向かって一市民が果敢に発砲、直ぐに取り押さえられ最初のトルコ人犠牲者となった男がいた。新聞記者だった彼の銅像が、イズミール市中心部のコナック広場の一隅に立っている。

  それから3年余りイズミール地方はギリシャの支配下に入ったが、革命家アタチュルク(ムスタファ・ケマル・アタチュルク)率いるトルコ軍がギリシャ軍を撃退し、トルコの主権を回復した歴史がある。

  アタチュルクは、今もトルコ通貨の肖像となっており、英雄である。彼がこよなく愛したお酒として今に伝わる「ラク」というお酒(水で割ると白く濁る不思議な酒)も有名だ。僕も現地で飲んでみた。独特の味がしたが悪くはない。

  イズミール郊外の国道に面した大きな大きな岩山全体が、アタチュルクの顔に彫られていた。そのすぐ近くをバスが通ったので、その顔の大きさに度肝を抜かれたのだった。

  この日、実は、散歩道の真下まで、水色の綺麗なエーゲ海が迫っていて、イズミールはとても素晴らしかったと友人から聞いていたのだが、残念ながら、生憎の曇り空でエーゲ海は少しも青くなく、灰色の海だった。寒い日だったので、僕らはそそくさとバスに戻ってしまった。

        イズミール コナック広場

        イズミール コナック広場

3月 29, 2012   6 Comments

トルコの旅(3) ― トロイの遺跡 ―

   

       トロイの木馬  Photo by Shindou

       トロイの木馬  Photo by Shindou

 

  イスタンブールの空港に到着したのは現地時間の午後8時頃であった。時差のため日本より7時間遅いから、日本では翌日の午前3時だ。飛行機の中もそんなに長い時間眠れなかったから、やはり眠い。

  飛行場からバスで1時間ほどの距離にある郊外のホテルに着き、床に就いたのは午後10時過ぎだった。翌日はイスタンブールからバスで345km走ってトロイに行くため、午前5時起きと強行軍だから早く寝ないと。

  しかし、目を覚ました時は午前2時前だった。時差ボケというやつだ。まぁ、午前中はバス移動だから、バスで寝てればいいかと起き上がって、ガイドブックで予習をすることにした。

  トロイの遺跡。トロイはギリシャ神話に出てくる、「イリアス」という都市の別名だ。ダルダニア地方を治めていた王トロスが、その地を自分の名に因んだ「トロイア」(英語読みでトロイ)という名に変え、その子イーロスが更に「イリアス」と自分の名に変えた。

  ホメロスの長編叙事詩「イリアス」は、この地を巡って起きた、ギリシャとイリアスの10年戦争を描いたものだ。この叙事詩が書かれたのは紀元前6世紀とも同8世紀とも言われている。

  それまで、神話の中の架空の都市と思われていた「トロイア」を、あるドイツ人が、この物語は実際に起きた出来事を基にしたものだと信じた。彼は、1870年に私財を投じて発掘を開始した。

  彼の名はハインリッヒ・シューマン。彼の狙いは正しく、遂に曲輪に囲まれた遺跡を発掘したのだった。

  これほどの大発見をしたシューマンだったが、ガイドの話によれば、彼は現地では頗る評判が悪い。その原因は、トロイの遺跡発見という考古学的に歴史的快挙とも言うべき業績を、発掘された高価な財宝や大理石など、金になりそうな物は凡そ総て本国に持ち帰った所業で、悪名に変えてしまったからだ。

  掘り出した遺跡の街路や門柱などの表面を覆っていた厚い大理石は、尽く剥ぎ取られたそうで、そうと知ると誠に惨めな遺跡に見えてしまったのは僕だけではなかっただろう。シューマンは考古学者ではなく、宝探しの山師だったのだろう。

  ガイドによれば、ドイツに運ばれた夥しい数の財宝は、第二次大戦でドイツが敗れるまではドイツにあったが、いち早くベルリンに進駐したソ連が持ち帰って、今はモスクワの博物館にあるという。トルコ政府は再三ロシアに対して返還交渉を仕掛けているらしいが、ロシアは一切交渉に応じていない。

  トロイの遺跡は、有料の広い公園の様になっていて、入り口にはあの「トロイの木馬」が再現されていた。登ってみた。ここに隠れて夜襲を掛けたって本当かなぁ?

3月 28, 2012   No Comments

トルコの旅(2)  ― トルコ航空 ―

              
              トルコ航空  ウィキぺディアより転載

  成田発のトルコ航空51便は、14時40分発の予定を20分ほど遅れて成田を出発した。

  その後飛行機は12時間のフライトを順調に続けた。外国の飛行機はもう何回か経験したから僕の中で、一応、幾つかの観点でスタンダードが出来ているが、そのどれをもトルコ航空は上回っていた。僕の満足度はかなり高かった。

  と言っても、飛行機評論家が論評するような様々な観点で評価して平均値を割り出し、それをスタンダードとしている訳ではない。僕の極々主観による評価基準であることを予め断っておく。

【トルコ航空の優位性 その1】

  座席の前との間隔が幾分広めである。昨年のオーストリア航空・一昨年のアリタリア航空・その前のコンチネンタル航空と比べれば、座った時僕の膝が前の背凭れにくっ付かない。年齢と共に僕の膝が縮んで来た筈はないから、このトルコ航空の座席間隔は良心的だと思った。今までで最も狭く感じたのはアリタリア航空だったがどうだろう?

  カミサンが決めると、飛行機に乗るのにエコノミー・クラス以外は有り得ないから、比較判断の基準は公平な筈だが。

【トルコ航空の優位性 その2】

  機内食は、カミサンに言わせると、まずまずだそうだ。僕も以前トルコの現地レストランの料理は日本人の口に合うとか、トルコ航空の機内食はいけるとか聞いたことがある。カミサンは機内食が苦手で、おかずは殆ど手を着けずに、ジュースにパン・バターだけで食べるのが普通なのだが、今回はかなりたいらげていた。

  でも、僕は、美味さは(不味さは)他とそんなに変わらないように思った。ただ、デザートに出たチョコレート・ケーキ(ミニ)だけは、砂糖の塊を食わされるような感触の他の国の飛行機に比べると美味しかった。チョコレートが日本のそれと同じように、甘過ぎずざらつきもなく滑らかで美味かった。

【トルコ航空の優位性 その3】

  離陸して2時間ほど経った時、スチュワーデスが小さなバッグを全員に配り始めた。

  あっ、しまった。今「スチュワーデス」という言葉は性差別用語とかで使ってはいけないらしい。「フライト・アテンダント」とか言わなければいけないらしい。誰がこんなこと決めたんだ。英単語1つ覚えるのに途轍もなく苦労したんだぞ! その昔。

  そう言や~、昔「看護婦」だったのが今は「看護師」と呼ばないといけらしい。男が看護婦の仕事に進出した時、「看護婦」はおかしかろうと、「看護士」と名付けたが、これも男女差別になると言うので両方合わせて「看護師」となったというが。

  どうしてこんな面倒くさいことをするのか。職業の名前に男女の区別が入ってはいけないと言うなら、「女性教師」「男性教師」もダメなのか? 「ウェイトレス」は今なんて呼ぶんだろ?

  話を戻そう。そのポーチのような小さなバッグには、「目隠し用マスク」「靴下」「歯ブラシ」が入っていた。それと一緒にスリッパも配られたのだ。ビジネス・クラスでは珍しくないが、エコノミーでは他の例を知らない。

  僕等夫婦は、機内持ち込み用のバッグにスリッパを含めて必要なものは持ち込んでいるので、取り敢えず使わずに頂いておいた。そしたら、帰りの飛行機でも頂いたから、2人で合計4つも同じものを頂戴したのであった。次の旅行で使わせて頂こう。

【トルコ航空の優位性 その4】

  これこそが一番の優位性だと確信しているが、スチュワーデス、おっと、フライト・アテンダントがみんな若くて美しいことだ。欧州も北アメリカも、彼女達の平均年齢はかなり高いと思われる。60歳を優に過ぎたと思しき女性も頑張っているのが当り前になって来ている。雇用継続の義務など、労働側の強さの所以かなと思ったりもする。

  ところが、トルコ航空は別世界なのだ。その美しい彼女達が、それこそ頻繁に飲み物は如何かと聞いてくれるのだから、満足度が低い筈がない。その中でも抜群の美貌とプロポーションの持ち主がいた。微笑みながら客に語り掛ける時の表情は、あのオードリー・ヘップバーンを髣髴とさせる。

  実は、僕は既に、ビール2缶とワインの小瓶を頂いていたので、彼女から「What do you drink?」と聞かれた時、「No thank you, but your smile please.」と答えた。その瞬間に笑った彼女の笑顔は正真正銘のヘップバーンだった。

  隣で眠っていた筈のカミサンが、「何バカなこと言ってるの」って。寝言かな?。

3月 27, 2012   No Comments

ラストライブが終った(後半)

       ダンディー・クイーン イン ブルースアレイ

    ダンディー・クイーン イン ブルースアレイ

  3番目は、ダンディー・クイーンの番だ。1月の目黒のブルース・アレイに於ける「AD音楽祭」(あいおいニッセイ同和損保音楽祭)に出演した時のメンバーで臨もうとしたが、2人女性ボーカルの1人がどうしても都合が悪く参加出来なかったので、その分曲目を少し変えて演奏した。

   その差し替えた曲というのは、「ビコーズ」と「ブラック・マジック・ウーマン」。これは、3年前の「音楽祭」で一度演奏したことがあるのだが、それ以来一度もやったことがない上、当日までバンド練習の機会もなく不安一杯で当日を迎えた。

  更に運悪く会場が昼間、別のパーティーが入っていて、通常3時からリハが出来るのが、4時からとなり、4バンド30分ずつで6時開場となってしまうから、音合わせ程度でとても練習は出来ない。

   ほぼ、ぶっつけ本番でこの2曲をやった。やっている側としては、心配したほど大きなミスはなかったと思う。だが、「ブラック・マジック~」は、自信があれば自ずと乗り乗りに演奏出来る曲だが、この日は当然ながら慎重運転にならざるを得なかったのは致し方ないところか。

  女性ボーカルのHさんはこの日も「人生の扉」と「ウィスキーはお好きですか」の2曲を気持ち良さそうに歌ってくれた。直前に風邪を引いて、実は参加を見合わせようかと思ったと言うが、どうしてどうして。ただ、風邪の影響かな、高い声が少し擦れ気味に聞こえたのは気のせいか。でも、それはそれで魅力的なんだけどね。

  プロのミュージシャン達のような「漢組(おとこぐみ)」の後で少々やり難かったが、小さなミス(自覚症状でドラムは2ヵ所)を除けば、かなり安定感はあったように思う。

  そして、最後に「のどごし生バンド」。38F斉藤さんも、コーラス隊のコンサートが終わって揃い、マッちゃんのクラリネット、「鈴懸の径」でスタートを切った。ただ、ヨッ君は体調不良で欠席。ラストライブだけに全員が揃わないのが残念至極ではあった。

  マンディーの歌で「嘘は罪」。再びマッちゃん、今度はサックスで「ファイブ・スポット・アフター・ダーク」。実はマッちゃんは税理士である。毎年のことではあるが、彼は1月から3月は確定申告や会社の決算対応などで最も忙しい時期なのだ。だから、彼はここのところライブも新子安での練習にも出て来れないことが多かった。

  にも拘らず、この日はリハには出られないが、最終回なので何としても本番の演奏時刻には間に合うように行くとの連絡が入っていた。一緒に演奏するのは2ヵ月振りのぶっつけ本番だ。さすがに音がいつもより硬かったがどっこい、全然空白を感じさせなかった。大したものだ。

  数曲の後、38F斉藤さんは、「僕らにも女性シンガーが加わってくれました。Mさんです」と紹介。AMS(アムズ)の1人Mさん。歌うは「さよならはダンスの後で」。透明感のある良く伸びる声は、この曲とピッタリ合っている。拍手もかなり大きかった、ような気がする。

  マンディーが僕の友人TAKAが作詞し僕が作曲した曲「愛とも知らないで」を歌ってくれた。AMSのもう1人Kさんにも出て来て貰って、コーラス入りでアンディーが情感タップリに歌う。この曲もマンディーに凄く合っているような気がする。そして、女性コーラスが入ると、見違えるような名曲になった。我ながら感動もんだった。

  最後に僕が新曲を歌った。「サニー」だ。AMSのバック・コーラスに乗ってカッコ良く歌うつもりが、初めての披露は緊張し、歌詞は間違えるは曲のスピードは早いは、とても満足な出来栄えではなかったが、客席が暖かかった。皆さんありがとう。

  アンコールは、客席の人にギターとベースに入って貰って、「枯葉」と「ジョニー・B・グッド」を演奏し、僕は汗だくで演奏を終えた。

  最後に、僕は最年長者として、観客と、この日協力してくれたバンドの皆さんと、この店のマスターに感謝の言葉を述べた。そして、「大森教授が引退して、即、横浜・新子安にライブハウスを開きます。そちらでマンスリー・ライブを再開させますので、皆さん是非そちらにもお越し頂けると嬉しいです」と続けた。

  そう言いながら、実はこちら(コルコバード)のマスターには申し訳ないなと思っていたら、彼がマイクを持って「是非、皆さんで大森さんのお店を盛り立ててやって下さい。多摩と横浜の2つの店を拠点に、みんなで音楽を盛んにして行きましょう」と言ってくれた。このマスター、僕が思う以上に大人物だ。嬉しかった。

    のどごし生バンド  ラストライブ  Photo by Maemae

 のどごし生バンド ラストライブ  Photo by Maemae

3月 23, 2012   No Comments

ラストライブが終った(前半)

 

    ボーチェの皆さん  Photo by Maemae

    ボーチェの皆さん  Photo by Maemae

  先週の第3土曜日の夜、僕らが1年間続けて来たマンスリー・ライブが終了した。この日は、僕等「のどごし生バンド」の他に、3つのバンド、グループが出演してくれて、最後を盛り上げてくれた。

  6時開場・6時開演といつもより1時間早めたせいか、6時半の開演の時は、客席はやたら出演者ばかりが多く目立ち、純粋な観客は5人だけだった。それでも4バンドの日なので、遅らせる訳にも行かず、予定通り開始した。

  マンスリー・ライブの総合司会も、「のどごし生バンド」のMCも、普通は38F斉藤さん(ベース&ボーカル)にやって貰うのだが、この日は夕方から彼がマンマス(もどき、と彼は言う)を務めるコーラス隊「TSUBASA」のコンサートがあり、彼は8時くらいに会場に現れることになっているので、已む無く、僕が総合司会を務めた。

  「いつもより1時間前倒しで始めるので、お客様の集まりが悪くて、殆ど出演者ばかりのようですが、皆さんが集まるまで、観客になり切って頂いて、早速始めたいと思います」。

  最初は、地元の主婦達6人で構成された「ボーチェ」というアカペラ・コーラス・グループ。彼女達、最初の「トルコ行進曲」で一気に観客を引き込んだ。あの「ダバダバダ、ダバダバダ、ダバダバダバダバダバダバダ~」である。

  最初の曲だったから、少し固さもあったが、なかなか聞かせてくれる。聞けば、もう9年の歴史だそうだ。どうりで息がピッタリ合っている。6曲ほど歌ってくれたが、30分の予定がまだ時間が残っている。アンコールの拍手。

  「同じ曲でも良いですか? じゃぁ、トルコ行進曲をもう一度やらせて頂きます」。僕はすかさず「ルパン3世もお願いします!」と叫んだ。結局2曲アンコールで歌ってくれた。

  僕は、彼女達の「ルパン3世」をすっかり気に入ってしまった。テーマと言い、早口なスキャットのカウンター・メロディーと言い、リズム感が素晴らしいのだ。勿論、アカペラだからあの早くて音階が上下する曲の音程をキープするのは簡単でないと思うが完璧だった。

  次に漢組(おとこぐみ)が登場した。ユーミンの曲しか演奏しないこのバンドは、僕らのマンスリー・ライブに一度ゲスト・バンドとして出演してくれているから、僕らは彼等の実力の程は良く分かっている。まず、ボーカルのダチョーさん。身長190cmに迫る大男が、ユーミンと同じキーの高さで全曲歌い切るから凄い。h

  彼の声は、ヒョッとしたら、25年前のヒット曲「大都会」を歌った「クリスタルキング」の高音を歌った人(田中?)よりも高音が出せるのではないかと思わせるほどなのだ。皆さんには一度彼の歌を生で聞いて貰いたいと思う。風貌は、以前、男子バレーの全日本チームのエースだった中垣内祐一に瓜二つなのだ。

  バック・バンドは、ギター2、ピアノ、キーボード、バイオリン、ベース、ドラムの7人編成だ。夫々のメンバーが、みんなセミプロ級だから驚く。バイオリンの女性は有名オーケストラのバイオリン・パートのリーダーだと言うし、ギター・アドリブで僕らの心を揺さぶった男性はプロのステージでも充分通用するだろう。

  他のメンバーもこのバンドに入る前は、夫々の道でかなり鍛えられた人達というのが分かる。ユーミンのコピー・バンドは幾つもあるらしいが、本物のユーミン・バンドが目を掛けてくれているのがこの漢組(おとこぐみ)なのだ。4月の横浜桜祭りでのライブでは、本物バンド・メンバーが彼等と共演してくれるのだそうだ。

  彼等の演奏が始まって直ぐ、場内は大勢の観客で続々と埋まり始めた。

     漢組(おとこぐみ)  Photo  by  Maemae

     漢組(おとこぐみ)  Photo by Maemae

3月 21, 2012   2 Comments

ラスト・ライブのお知らせ (再掲)

 

      のどごし生バンド   Photo by Maemae       のどごし生バンド   Photo by Maemae 

 

  昨年4月より多摩センターのライブハウス「コルコバード」で行なって来た私達のマンスリー・ライブは、次回、3月17日(土)をもって最終回となります。

  また、次回で丁度1年間やり抜いたことになります。これも偏に皆様方のご支援とご協力の賜物とバンド・メンバー一同、心より感謝申し上げます。

  4月以降は、「のどごし生バンド」のピアニスト、サンシャイン大木が、新子安駅前(川崎から横浜方面に京浜東北線で2つ目の駅)に、ご自身のライブ・ハウスを開店しますので、私達のマンスリー・ライブは、そちらに場所を移して再スタート致します。

  皆様、是非そちらの方にもお運び頂ければ大変嬉しく思います。この1年大変お世話になった「コルコバード」でも、たまにライブさせて頂くつもりですので、その時には、また、ご案内させて頂きます。

  さて、次回ライブは、最終回と1年間のマンスリー・ライブ達成という、記念すべきライブになりますので、いつもと違う4バンドによる、感謝を込めた大盛り上がりのイベントにしたく存じます。

  このため、開始時間をいつもより1時間早めて、18:00開場、18:30開演としますのでお間違えのないよう、お願い致します。

  皆様のご来場を心よりお待ち申し上げます。

 

 

日時   3月17日(土) 18:00 開場、 18:30 開演

場所   多摩センター 「音楽工房コルコバード」

       多摩センター駅 徒歩6分
       サンリオ・ピューロランドの右後ろ(真後ろの通り沿い)
      (ピューロランドと極楽の湯の間一番奥の階段下りた所)
       京王相模原線(調布駅乗換え 多摩センター駅下車)
       小田急相模線(新百合ヶ丘駅乗換え 多摩センター駅下車)

出演   ボーチェ(女性6名から成るコーラス・ユニット)
      ダンディー・クイーン(ポップス系あいおいバンド)
      漢組おとこぐみ(ユーミン・トリビュート・バンド)
      のどごし生バンド(ジャズ中心のおじさんバンド)

料金   入場料1,000円+飲み物代(酒類500円、ジュース類400円~)
      食事を済ませてからの入場をお勧めします。

                                       神童覇道

3月 13, 2012   No Comments

無責任の伝統

 

            

  あれから1年になろうとしている。朝日新聞の投稿欄に載っていたが、あの原発事故により、故郷を追われ、帰ることも出来ず、避難生活を余儀なくされている人が大勢いるのに、国も東電も誰も責任を取らないのはどうした訳か、との憤りの声だった。

  農地があっても作物を作れない農家、風評被害で売れない果物、客が全く来ない旅館、或いは、何千何万という人の極く普通の日常生活を奪った理不尽な原発事故。

  万全の対策でも、想像を超える自然の脅威には勝てなかったと言うなら、まだ救いがある。安全神話を普及させ、人々に原発は安全と信じ込ませることには一生懸命だった国と電力会社。その一方で、専門家の様々な指摘(予備電源の安全確保、大津波対策、千年に一度の大地震対策等など)を無視して対策を怠った。

  その結果が、福島の住民にこのような大きな犠牲を強いることになったのだ。政府も一生懸命に賠償を進めようとはしているが、賠償すれば済むという話ではないのだ。これだけのことを引き起こした責任者は誰で、どういう責任を取らせるのか、全くハッキリしない。

  国で言えば、原子力安全・保安院の責任はどういう形で取らせるのか、その所管省庁の責任は? 原子力安全委員会の責任の取らせ方は? 東電は病気だった社長を交代しただけで終わり? 有り得ない。

  御巣鷹山で日航ジャンボ機が墜落し520名が亡くなった時、賠償は当然のこととして、日航の社長は遺族に謝罪するため、全国行脚を行なった。その上で社長を退任して責任を明確にした。

  今回の事故は、その比じゃない。大規模広域超長期に亘り平和な生活を奪ったのだ。誰が真の責任者かハッキリしないし、ハッキリさせようとしているようにも見えない。多分、時間を掛けて責任問題はうやむやに終らせようとしているのだろう。

  この無責任体質は、実は今に始まったことではない。第2次世界大戦の敗戦国だった3カ国(ドイツ、イタリア、日本)で責任者がハッキリしなかったのは日本だけだった。ドイツはヒットラー、イタリアはムッソリーニ、日本は? 兵士達は「天皇陛下万歳」と叫んで散っていったから天皇かと言うと、最後まで開戦を回避しようとしていたのが天皇ご自身だった。

  じゃぁ、開戦時首相の東條が責任者かと言うと、彼が首相に就任したのは開戦直前(50日前)のことで、前の内閣(近衛内閣)の時に日米外交で決裂したら開戦ということが決っていたから、東條が日本を太平洋戦争に導いたと言うのも少し無理がある。

  誰と特定出来ないから、それは好戦的な軍部が仕掛けたこと、とか、当時の国民全般の世論だったとかの言い方になる。

  要は、江戸時代も含めて、日本の政治・行政には明確な決定権者が存在しない中、ある種の空気が物事を決めるのが日本の伝統と言えるのではないか。最悪の結果を招いても誰も責任を取らないでよいシステムなのだ。

  当事者達も、自分にも一部の責任はあるが、自分が全体の責任者ではないと思っている。この無責任システムで、良く400年もやって来れたものだと思う。(歴史上独裁権限を持って政治を行なったのは織田信長が最後と思う)

  しかし、民間企業は責任者は明確だ。ここが政治や行政と最も違うところ・・・、と思っていたが、東電の対応を見ていると、あれは民間企業じゃない。あれだけのことを起しておいて、「値上げの権利がある」とか仰る。加害者という意識が少しはあるのだろうか。

  普通の会社なら、とっくに倒産していますよ。そして経営者は全財産を債権者に拠出させられていますよ。

  自分達は国の方針・指導の通りにやってきただけ。悪いのは国の方。自分達もある種の被害者とかいうのが本音なのだろう。でなきゃ、あんな態度取れない筈だ。

  誰かが言っていた。官僚よりも官僚的な会社が東電だと。バブル崩壊後、官僚があらゆる批判に晒されたのとは違い、今回の原発事故まで、世の中の厳しい目に晒されることもなかった地域独占会社の官僚振りが、今、白日に晒されている。

3月 8, 2012   3 Comments

トルコの旅(1)

              1600年以上経った今でも当時の面影をそのまま残す
                1600年の歴史  アヤ・ソフィア

  2月24日に成田を発って3月2日に帰国した。6泊8日の旅行だった。現役引退後、カミサン孝行と言うか、カミサンへの付き合いで毎年最低1回の海外旅行が義務付けられているのだ。

  とは言え、これをつつがなくこなしておけば、後は1年間、勝手気ままが保証されるのだから悪くない。つまり、僕がバンド活動やゴルフや飲み会や、その他諸々で家を空けることがかなり多いが、完全にその自由が保障されるのだ。

  僕自身、海外旅行についてどう思っているかと言えば、まず食事が美味くない、水道水が飲めないから常に水のボトルを買う心配をしなければならない、トイレにチップが必要だとか面倒臭い、ヨーロッパは飛行機で片道12時間の苦痛が強いられる、その上、ツアーだと現地はバス移動ばかりで疲れる、個人で行けば言葉の問題があって、やたら緊張を強いられる。

  なので、仮に、国内の温泉旅行と海外旅行のどちらかを選べ、と言われたら、僕は迷わず温泉旅行だ。カミサンは圧倒的に海外旅行派だから、僕が付き合うと言うのは、正直な気持ちだし、カミサンもそのことは分かっている。だから、これに付き合えば、後は完全なる自由が待っているという訳だ。

  こういう次第だから、海外旅行の計画も準備も手続きも全てカミサンが進める。ややオーバーに言えば、僕はどこに行くかくらいしか知らないで当日を迎える。今回はトルコ旅行だそうで、首都がイスタンブールで、カッパドキアという奇岩観光地が有名だと言うくらいしか予備知識がないまま出掛けたのだった。

  詳細は、気が向いた時おいおい書くとして、今回の旅行を一言で言えば、想像以上に面白かった。トルコという国は現在の感覚では先進国とは誰も呼ばないが、ローマ時代の大規模な遺跡や、今も使われるオスマン・トルコ帝国時代の建造物を見れば、紀元前から近代まで、確かに世界の中心に位置していた先進国だったと再認識させられる。

  誠に浅学で己の不明を恥じるのみだが、西暦330年に、ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世が帝国の首都を、ローマからコンスタンティノーブルに遷都したということは高校の世界史で習っているが、そこが現在のイスタンブールだとは、今回トルコに来るまで知らなかった。あぁ、恥ずかしい。

  以来イスタンブールは、ローマ帝国の首都であり、帝国が東西に分裂した後も東ローマ帝国の首都であり続けたし、その後ビサンチン帝国(主にギリシャ人が支配)と呼ばれるようになってもそれは変らなかった。

  また、ビサンチン帝国が小アジアの遊牧民族(その元はモンゴル人)に滅ぼされ(1453年)、オスマン帝国となった後も依然世界の中心都市に位置し、西欧で産業革命が起き、勢いを失うまで(オスマン・トルコの滅亡は第一次大戦でロシアに敗れた時)、1,600年近くも世界の中心であり続けたのだ。

  以前、イタリア旅行に行った時、ローマ遺跡の数々に感動し、これ以上の驚きはないだろうと思っていたが、どうしてどうして、ローマ帝国時代の遺跡はイタリアだけではなかった。トルコがもう1つのローマ帝国だった。歴史好きにはトルコ旅行が欠かせない。

  そうそう、今回の旅行がとても良かったのにはもう1つの理由がある。僕らが海外旅行をしても、悪いことが何も起こらなかったことだ。

  昨年は3.11当日にウィーンに向けて成田から飛び立った直後のあの大震災・大津波・原発事故。一昨年はイタリア旅行中にアイスランドの火山大噴火でヨーロッパ全飛行場の閉鎖を経験した。

  「2度あることは3度ある」とか「3度目の正直」とかの諺が頭から離れない。今度は何が起きるかと身構えていたけれど、何も起きなかった。ホッ。

3月 5, 2012   2 Comments