プレミアムエイジ ジョインブログ
Random header image... Refresh for more!

Posts from — 5月 2012

第1回ライブ@新子安

         Photo by Maemae

         Photo by Maemae

  先週の週末は、新子安の大木先生の店「グレコ」でライブを行なった。それまでマンスリー・ライブを開催して来た多摩地区のラスト・ライブは3月だったから、久し振りの感がする。

  いつもは、ゲスト・バンドを呼んで、僕等「のどごし生バンド」が第1・第3ステージを務め、第2ステージをゲスト・バンドに演奏して貰うスタイルでやって来たが、今回は、我がバンドの音楽監督の大木先生が開いたライブハウスでの記念すべき最初のライブなので、「のどごし生バンド」単独で3ステージ全部演奏することにしたのだった。

  説明するまでもないが、大木先生とは、3月末まで東京は品川区の学校の校長先生だった人で、「のどごし生バンド」のジャズ・ピアニストである。3末に退職して翌月にはライブハウスをオープンするという華麗なる変身を遂げた人だ。

  僕らメンバーはみんな、勿論彼が校長先生だったから「先生」とか「大木先生」とか呼んでたのだが、今も「先生」と呼ぶのは、僕らにとって「ジャズの先生」でもあるからだ。なので、当稿でも「大木先生」と呼ばせて頂く。

  さて、19時開演の第1ステージは、僕らのバンドが初期の頃にやっていたジャズ中心の構成で臨んだ。この日浜ちゃんが業務多忙で欠席のため、彼のクラリネットやサックスをフィーチャーした曲が出来ないので、必然的にアンディーと38F佐藤さんのボーカル曲が中心となった。

  「酒とバラの日々」「オール・オブ・ミー」「ルート66」「サニーサイド・オブ・ザ・ストリート」など7曲。

  やり慣れた曲ばかりだし、好意的に聞いてくれるほぼ満員のお客さん達の前で、気持ち良く演奏出来た。

  大木先生が言うには、開店から1ヶ月以上が経つが、新子安は彼の生まれ育った町ということもあって、何十年来のお友達が何人もおられ、彼らがまた別の友達を連れて店に来てくれたりして輪が徐々に広がっていて、兎に角、毎日忙しいらしい。

  万ちゃん(マスター)の作る「昭和の味シリーズ」(ナポリタン・カレー・オムライス等々)が大好評で、開店の18時にはそれを目当てに来る女性客も多いのだそうだ。まずは想像以上の上々の船出と言ったところ。

  したがって、この日の観客は大半がこの店の固定客で占めた。僕らが声を掛けて遠くから来て貰った人は10人程度だったと思う。当初、多摩でのライブと同じく、来場者からは千円の入場料を頂いて、店の売り上げに貢献しようとしていたのだが、そういう状況なので、大木先生の意向により、チャージ・フリーとして頂いた。

  20時からの第2ステージでは、マエマエとアキさん(女性ボーカル2人)に登場して貰って、ポップスを中心にお送りした。年配の女性も男性も、アンディーに釣られて踊り始め、さながらツイスト大会のようだった。僕等自身も、また、多分、客席も大いに乗ってくれて本当に楽しいステージだった。

  「アンチェイン・マイ・ハート」「恋のバカンス」「月影のTokyo」「ダイアナ」等6曲。

  最後のステージは21時からやはり7曲。オリジナル曲を含め僕らにとっての新曲を中心に披露した。

  「嘘は罪」「恋のフーガ」「ウィスキーはお好きでしょ」「愛ともしらないで」「サニー」「さよならルンバ」など。

  ただ、未経験の3ステージ目ともなると、体力的にきつくなって(アルコールのせいとの説も)、ミスも目立つステージになってしまった。2ステージで終えれば最高にハッピーだったのにと思ったほど、自分達としては満足が行かないステージだった。

  第3ステージの曲の多くは練習含めて、まだ1~2回ほどしか演奏していないから、呼吸が合わないのかも知れない。次回ライブまでには見違えるように仕上げないといけない。今回の反省点だ。

  それでも最後のアンコール曲「ジョニー・ビー・グッド」では、会場はこの日最高の盛り上がりを見せてくれた。ヒートアップ。終わってから僕は長い時間汗が引かなかった。心地よい疲労感だった。


               Photo  by   TAKA

5月 31, 2012   No Comments

菅前首相の証言を巡って

  どうしてマスコミは、いつもこうなんだろう?

  菅前総理が国会の福島原発事故調査委員会(黒川清委員長)」の参考人として出席して当時も模様を証言したが、殆んどのマスコミは、「菅前首相、責任転嫁と自己弁護に終始」とか「言い訳ばかり・・・被災者怒り心頭」とか、総じて批判的論調ばかりだ。

  福島第一原発の爆発までは、僕も、「菅さんよ、潔くあれ」みたいなことを言ったり、首相の早期退陣論を書いたりしていたものだが、原発事故に立ち向かった菅氏は、初めて国の最高指揮官らしい動きを見せたと思っている。

  「東電が情報を上げて来ないので、自ら現場に赴いて状況を把握しようとした」という菅前首相の言う通りなら、状況が分らぬまま生命に関わる何事かの判断を下すなど、とても出来ないから、どんな方法でも、まず状況を把握しようとする行為は最高責任者にとって必要不可欠な行為だ。

  マスコミ側は誰の入れ知恵か、首相ともあろう者が原発事故の現場に行くのは、混乱を増幅するだけとの考え方に凝り固まっているようだ。日本の心臓部である東京も、もしかしたら避難対象区域になるかも知れないという恐怖を感じながら、信頼できる情報が入って来ない時、リーダーはどうすべきか?

  自ら動いて現場の状況を理解する以外に選択肢は無いではないか。この率先垂範を否定するマスコミこそ、フクシマを人ごとと思っている元凶だ。それを言うなら、東電は正しい状況把握をしており、情報伝達も対策提案も完全であったということを立証してからだろう。

  原発からの作業員の撤退を聞いた菅さんが、頭に浮かぶ、鳥肌が立つような日本崩壊の姿と、作業員たちの生死とを天秤に掛けて、「撤退はあり得ない!」と大声で東電社長に伝えた一件など、一国の責任者としての菅前首相の行動と決断は立派だったと思う。

  「社員を死なせる訳には行かないから撤退させたい」と言って来た東電は、精々会社と社員を守る意識だろうが、日本が崩壊するか否かのギリギリの判断の場面に立たされたのは、日本で唯一首相の菅さんだけだった。余人はその心情を想像するくらいしか出来ない。

  それを、マスコミは、菅前首相は東電に押し掛けて怒鳴り散らした(混乱を深めただけ)と書く。それが何故いけないのだ。考えを改めさせるには、急場にあっては首相が東電を叱りつけるしかやりようがないではないか。

  マスコミは、菅さんの余計な動きや言論が混乱を深め、それが、対応が後手後手になった要因の一つ、ということにしたいのかも知れないが、的外れも甚だしい。

  僕の見るところ、菅さんは最後の最後に良い仕事をした。日本の首相として強烈な危機感を抱き、陣頭に立ってリーダーシップを発揮したと捉えている。そして、再生可能エネルギーをもって脱原発を目指すと宣言した最初の首相となったのだ。

  それ以前の、全くリーダーシップを発揮しない菅総理のイメージで原発事故後の菅さんを見るマスコミの見方に、感性の鈍さとどこまでも無責任な人ごと論評に正直辟易している。

5月 29, 2012   4 Comments

NHK経営委員長の辞任に思う

        NHK本社   (ウィキペディアより転載)

   NHK本社   (ウィキペディアより転載)

  NHK経営委員会は、NHK会長を筆頭とする執行部の上に位置し、会長の任命権を持ち、「経営に関する基本方針」を議決する、NHKの最高意思決定機関である。

  その委員長が東電の社外取締役を兼務するというので、大きな波紋が広がり、世論に抗し切れず、遂に経営委員長を辞任して、東電の取締役に専念すると述べた。当然だ。

  この兼務の報道を見た多くの人々は、重い腰を上げ、電気料金値上げに対して漸く東電批判報道を始めたマスコミの中にあって、NHKは、自局の経営委員長が取締役に就く東電を本当に攻め込むことが出来るのかと疑問に思った筈だ。

  NHK内部の声も労働組合を中心に、委員長の東電役員兼任反対の声を上げていた。また、より実務的には、放送局として電力を多く使うNHKは、電気料金値上げに対して厳しい交渉をして行く必要があるのに、相手方にNHK委員長がいたのでは、やり難いこと夥しい。

  NHK経営委員長のまま東電の社外取締役就任を決めた政府は、本人への批判世論が政府に向かいかねない状況になって、遂に政府も兼任は無理と判断したのだろう。多分そんな情勢を踏まえて、本人はNHK経営委員会を降り、東電選任で行くことを選んだのだと思う。

  もし批判の的の企業の取締役を兼任を許していたら、この国のマスコミの中立性は崩壊し、報道の信頼性は地に落ちただろう。

  庶民感覚ですら如何なものかと思うことを、ご本人には一片の問題意識も無かったのだろうか。もしそうなら、正しい判断が出来ないそんな人物に東電改革の旗を振るわせる訳にはいかないと思うのだが。

  民主党も民主党だ。政権に就いてから、世論がノーを突き付けるまでは様子見を決め込み、もう無理となって見栄も外聞もなく撤退する姿を何度晒して来たことか。あまり目立たないが、今回のこともその一つだ。こういうことに国民が慣らされてしまった感さえある。

  以前、東京海上の社長だった石原邦夫氏がNHK経営委員長だった時、生保の保険金不払いが明るみに出て新聞紙上を賑わせていたが、それが損保にも飛び火、損保各社でも同様な事実が次々と明らかになり、東京海上初め各社が金融庁から行政処分を受ける事態となった。

  そして石原氏はNHK委員長を辞任した。不祥事を起こした会社の社長が公共放送の経営委員長を続けるべきでないという、極々日本的な身の処し方と思ったが、彼がいつか語ってくれた「それ以上に、これから批判の的になる人間が、報道機関のトップに居座るべきでない」が、今も心に残る。

5月 25, 2012   3 Comments

準優勝

resize  

 

  下手の横好きとは正に僕のためにある言葉だと思う。ゴルフのことだ。僕がゴルフを始めたのは26~27歳の頃だった。友人達に比べても、始めた時期は決して遅い方ではなかったと思う。

  最初の1年は、ハーフ(9ホール)で60を切るのが難しかった。それでも2年目はハーフ50前後で回っていた。そこから全く上達しないのだ。ただドライバーの良い当たりの時の快感だけでゴルフをやっていたような気がする。

  正直、当時は、体格の割りに飛ばし屋の部類入れて貰っていた。だが、どういう訳かアイアンが全くダメで(ロング・アイアンは言うに及ばず、8番アイアンを含むミドル・アイアンが苦手、要は9番・PW・SWしか打てない)、その後40年間抱え続ける問題となった。

  コースに出てはアイアンが当らず、惨めなゴルフを味わい、時には、一大決心をしてアイアンをマスターしようと、ゴルフ雑誌を読み、アイアンの安定感を求めて練習場にも通った。

  練習場でやっとマスターしたと思って、自分に期待をしてコースに出ると、またまたアイアンにしてやられガッカリするということを繰り返していたような40年間だった気がする。

  それでも30代・40代の頃はまだ、身体が柔らかく足腰もしっかりしていたから、練習に打ち込んだ時は、ほんのたまに、偶然80台のスコアが出ることもあり、そんなことがあるからゴルフを止められずに、今日まで来たのだろうと思う。

  アイアン苦手の致命傷を持つ僕だから、様々なコンペに出ても、優勝とか準優勝とかは殆んど無縁の人だった。

  ところがだ。この5月に入って、優勝2回、準優勝1回だから自分でも驚く。年10数回のゴルフなのに、どうした訳か5月は5回もコンペに出るスケジュールになってしまったのだが、そのうちの4回の成績がこれなのだ。

  あの問題のアイアン恐怖症が克服されたのかと思うでしょう? 残念でした、不正解です。優勝の2回はくじ引きに当った(新ぺリア方式)だけのこと。スコアは言うも恥ずかしい、98と99。やっと100を切ったスコアだから、「何で?」が先に来て嬉しい筈もない。但し、優勝商品を頂けたので、カミサンへの面子は立った。

  さて、昨日の準優勝のこと。これは、過去データに基づいて、正しく参加者のハンディキャップが計算された上でのハンデ戦だから、コンペとしては誰にも優勝のチャンスがある誠に公平な試合なのだ。おまけに参加者は30人に及ぶ。

  僕は近頃にない良いスコアで回った。グロス91(これでも僕にとっては、何年か振りで夢の80台の入り口を覗いた良いスコアなのだ)。ハンディキャップ18だから、ネット73の1オーバー・パーだった。もう1人1オーバーの人がいて年齢順で僕は準優勝となったのだった。

  何が良かったか。パッティングが別人だったのだ。朝の練習グリーンで、何年もやって来た形、即ち、右手人差し指を伸ばして、パター・グリップに縦に添える構えで打つと、何故か引っ掛けが多いので、人差し指を丸くして第2関節でパターの重さを感じて打つようにしたら、真っ直ぐ行くようになった。今日は急遽それで一日やってみることにした。

  これが大正解だった。2~3mが面白いように入った。いつもハーフで20を超えるようなパット数が前半13、後半15で3パット無し。こんなことは40年間で初めてだ。他のショットは以前と何も変わらない。ドライバーでOB2発、アイアンもシャンクが3回も出る始末だった。正にパットに救われたゴルフだ。

  パットがこれだけ入るとゴルフが楽しい。しかし、開眼しても直ぐに閉眼するのがゴルフ。来週のゴルフまで持続する保証は全くないが、90を切るという新たな目標を立てさせてくれた準優勝ではあった。

5月 24, 2012   No Comments

2012 Fさんを囲む会

ゴルフ

  年1回の「Fさんを囲む会」が今年も開かれた。Fさんが常務取締役を退任されて、自ら設立された関連会社の社長に出られてからずっと続く会だから、かれこれ20年近く続けて来たことになる。

  毎年、Fさんの薫陶を受けた弟子達が10数名が集まって、大いに飲み、大いに語りこうしてお互いに元気な姿で再会することを何よりの喜びとしているのだ。

  当時のFさんは、「瞬間湯沸かし器」との別名を持つほど短気な人で、弟子達の中で、大声で罵倒されなかった奴はいないのではないかと思われる。僕もその例に漏れず、どやされたのは一度や二度ではない。

  僕の場合、あることに取り組んでいて、いろいろやってみたが解決法が見付からず、心の中で「これは無理筋かもな」と諦めに似た気分の時に限ってFさんにドヤされた。どうして人の心が分るんだろうと、不思議な気持ちで怒られていたのを思い出す。

  きっと、顔付きや目付きに「諦め」が出てしまうのだろうな。それを目聡く見付けては気合を入れてくれたのだと思う。まっ、それだけ、僕にやらせているテーマを、奴はどう進めて行くのかと、大いなる興味と期待を持って見詰めておられたということなのだろう。

  Fさんだって、答えを持っている訳ではないことが分っていたから、僕はFさんへの反発心がムラムラと湧き上がるのを抑えられず、「そうまで言われて止めたんじゃ、格好が付かない。やってやろうじゃないの!」と腹立ち紛れに思うのだった。

  そんな経緯を経てゴール出来た時などは、あの鬼瓦のよう異相が満面の笑みに変わり、心から僕らを祝福してくれたから、嬉しさも何倍にも感じられたのだろうと思う。間違いなく若い僕らの家長像がそこにあった。

  「Fさんを囲む会」は、昔から温泉に一泊して、初日はゴルフというのが決まった形だ。この会が始まった頃、60歳を超えたばかりだったFさんも、今年の5月1日で80歳になられた。

  僕は、Fさんと一緒の組で回らせて貰う光栄に浴したが、驚いたことにFさんは、殆んどカートを使わずに歩いて18ホールをプレーされたことだ。キャディーさんもグリーン上をFさんに寄り添うようしてくれているので、どうしてもカートを動かすのは他の者になる。中でも僕が一番多くカートを運転したように思う。

  山岳コースで結構アップダウンのあるコースなのに80歳の人が徒歩でラウンドとは。凄いことだ。

  昔と違い、この日はFさん、無言で僕らに「ゴルフはカートに乗ってやるものじゃない」と気合を入れてくれたのだろうか? Fさんを励ますつもりが、逆にFさんから元気を頂く日となってしまった。

5月 22, 2012   No Comments

5月は忙しい

         OB会のホームページ

   OB会のホームページ

 

  4月までは、会社生活と音楽生活をバランス良く過ごして来たつもりだったのが、5月になったら、やたらと忙しくなり、当ブログをかなりサボらざるを得なくなってしまった。

   何が原因かと言うと、4月までどうということもなかった2つのことが、ピークを迎えたからだ。

   1つは、様々な関係のゴルフコンペがこの5月に集中したことが挙げられる。今年になってまだ3回しかゴルフに行っていなかったのが、この5月だけで5回もある。それも、個人的に友人と行くゴルフではなくて、全て大コンペなのだ。

   2つ目は、これが「何とも変」なのだが、僕が主導して制作に当って来た出身会社OB会のホームページの本番カットーバーが5月18日だった。本番を迎えるに当っては、最終テストで不都合な箇所を見付け、それらを全て修正し再確認するという忙しさがあった。それが、この10日間ほど続いた。

  翌日の19日(土)はOB会の年1回の総会の日で、その日に、本番稼働したホームページのお披露目をすることになっていたから、結構緊張感を持って最終テストフェーズを進めたのだった。現役当時の大きなシステム・リリースを思い出していた。

  「何とも変」、と言ったのは、このOB会、僕はずっと入会もせずそのつもりもなく、平穏に過ごしていたのに、2人の先輩の策略に引っ掛かりまんまと引きずり込まれたこの僕が、ホームページ作りを一生懸命やっている図のことだ。(ホームページ作りをやったと言っても、業者を使ってのことなので自慢出来ることは何もない)

  ある時、先輩のIさんから電話が掛かって来た。「神童君、OB会の会報に、君の音楽活動のこと書いて欲しいんだ」という内容だった。僕はすかさず「OB会の会員じゃないから」と言って断ろうとしたら、「会報は、会社のOBだったら誰が書いても良いので頼むよ」と諦めない。昔世話になった恩義もあり、引き受けることになった。

  原稿を彼に送って暫く経ったとき、「神童君、折角書いて貰ったのに、やっぱり会員じゃなきゃだめなんだってサ。入会金3千円と年会費2千円払えば君の記事を載せられるので、何とか頼むよ」と言って来た。なぁ~んだ。乗りかけた船だ。仕方ない。結局、マイナス5千円の原稿料で会報に記事を載せるハメになった。

  更に、もう1人の先輩が、それまで常任幹事の1人としてやって来ていたが、後任に僕を指名してご本人はさっさと一般会員に戻ってしまった。OB会の会長さんからも何度も電話を頂き、「ホームページを君に作って貰いたいので、是非、常任幹事を引き受けて欲しい」と言われてしまう。乗りかけた船だ。仕方ない。

  それにしても、この乗り掛かった船、次々に行き場所を変えるなぁ。ホームページが出来た。これを1年運営したら任期の2年が経つので、次の改選期には常任幹事を降ろして貰う。もう充分乗った船だから。

  どうか皆さんその作品を見てやって下さい。http://www.ioikai.com/

5月 21, 2012   No Comments

孫が来た

  GWに大阪から孫娘がやって来た。只今、1歳10ヶ月。前回我が家に来たのは昨年の8月だったから、その時は1歳と1ヶ月。まだハイハイしか出来ず、言葉もしゃべれなかったが、今回はどれだけ成長しているのだろう。

  前回は、人見知りが激しい子で、慣れるまでエライ時間が掛かった。会って直ぐ抱き上げたら、火が着いたように泣き喚いたっけ。カミサンが抱いてもそれは同じだった。さて今回は?

  玄関のチャイムがなった。インターフォンは息子だった。ドアを開けたら息子夫婦とちっちゃい女の子が立っていた。

「やぁ、いらっしゃい」と僕。
「お邪魔します」とお嫁さん。
「ももちゃん、大きくなったね。憶えてるかな、おじいちゃんですよ」
「・・・」
「もも、こんにちわ、でしょ?」とお母さん。
「○▽×▲☆」と、もも。

  家に上がって貰って一段落してから、再び、「ももちゃん、おじいちゃんですよ」と話し掛けてみた。「・・・」。ももの表情が硬い。神経質そうな顔。とてもダッコどころではないな。「じゃ、握手しようか」と手を出した時だった。ももは、何も言わずに両手で自分の両眼を隠した。

  「もも、おじいちゃんが握手しよう、って」お母さんがそう言うと、遂に泣き出してしまった。「スミマセン」とお嫁さんが僕に謝る。「先月実家に帰った時も、父には最後まで懐きませんでしたネ」って慰めてくれた。慰めになってないけど。

  一計を案じた。この日のために、キーボードを部屋に運び入れておいたのだ。音を出してみた。「あら? なんだ? いい音がする」と、今度は息子がももをけし掛ける。暫くじっと動かなかったももが、少しずつこちらに近付いて来た。

  「ももちゃん、触っていいよ」と言うと、ももは最初恐る恐る鍵盤を押した。音が出た。ニコっと笑った。兎に角笑ったのだ、僕の顔を見て。僕が低音部で音を出すと、彼女は高音部で音を鳴らす。

  彼女の両手を取ってもっと強く叩かせた。僕の手を振り払って、自分で滅茶苦茶に鍵盤を叩き始めた。大喜びしているのが分る。僕が傍で見ていると、僕にも同じようにやれと催促する。2人による、即席の超前衛音楽会と相成った。

  楽器が楽しいのか、音が出るのが面白いのか、「キャッキャ」と興奮気味なのだ。作戦大成功。キーボードに飽きたところで、ももを抱えあげた。泣くどころか「あっち」「あっち」と行き先を僕に指示する。ダッコしながら部屋中を歩き回らされた。もう大丈夫だ。

  「ももちゃんいいねぇ、おじいちゃんにダッコされて」とか「この人誰? おじいちゃん」とかお嫁さんも息子もカミサンも口々に言うからだろう、ももが遂に「ジイチャン」と言ったのだ。頭に「オ」が着くともっと良かったが、そんなのどうでも良い。

  「ジイチャン、って前から言ってた言葉?」とお嫁さんに聞いたら、「いえ、今初めてです」と言う。大感激の瞬間だった。

5月 10, 2012   6 Comments