プレミアムエイジ ジョインブログ
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Posts from — 3月 2013

1000号

無題

   僕が「プレミアムエイジ」でブログを書き始めたのは、確か2006年の11月だったと思う。それから6年と4ヶ月の時間が過ぎた。その間に凝りもせず、駄文を連ねてとうとう1000回を迎えた。

  月平均13稿、2~3日に1稿は書いた勘定だ。よくも続いたものだと我ながら感心している。小さい頃から、所謂「日記」の類は続いた例(ためし)がない。小学校の夏休みの日記の宿題も、最終日になって慌ててでっち上げる始末。

  高校の頃、友達が、毎日喩え1行でも、その日のことや思ったことを書きとめていると言ったことに衝撃を覚え、自分もやってみようと思ったことはあった。

  でも、3日坊主だった。何のために書くのか、目的も分からずやろうとしても、書くことに悩む時間がもったいないと感じ、続かなかった。

  それが、今回1000号も続いたのは奇跡としか言いようがない。尤も、最近は、気が向けば毎日でも書くし、そうでなければ10日も20日もサボるようになっては来たが。

  それにしても、何のために書いているのか、正直なところ自分にも良く分からないのだ。一応、「プレミアムエイジ」の編集長という形式上・便宜上の役割から来る責任感からかというとそうではない。編集長などという肩書きを頂戴する以前も3年間続いていたのだから。

  詰まるところ、ブログのメリットは、書くことでその時々の自分の考えや気持ちを整理出来る効果が一つ。それと、個人の日記と違い、インターネット上に掲載するのだから、人々に伝えたいことを書くというメッセージ性が二点目。

  だが、僕の場合はもう一つある。遠く離れた知人や友人達に己の生存を知らせる手段のつもりだということだ。現に20日も更新しないと、「生きてるか?」とか冗談メールが届く。

  こんな駄文でも、読んでくれてる人がいるんだ、と思うと続ける意欲が湧く。ただ、1000号を期に、長過ぎる文章批判には真っ直ぐ向き合おうと思う。これまでの半分の長さを目指すつもり(飽くまでも「つもり」)だ。

  ブログと同じ様に、最近、よく続いたと思うことが、幾つか重なった。一つは、2月で、僕ら「のどごし生バンド」が結成満9年を迎えいよいよ10年目の節目の年に突入したということ。

  また、そのバンドのピアニストの大木さんが、昨年3末に校長先生を退職して直ぐに開いたジャズ・バーが、順調な経営で4月に丁度一周年を迎えること。(下記に一周年記念イベントのチラシを掲載します)

  そして、先月ブログに書いたが、僕が携わっている「フレックス少額短期保険」というベンチャー保険会社が、なかなか計画通りに売り上げが伸びず、最初の2年間は何度もピンチに陥ったが、歯を食い縛って切り抜けたら、遂に見事な上昇カーブに入った。

  「継続は力」、正にそんなことを感じる今日この頃である。

  と、1000号も長文になってしまった。文章短縮努力は1001号からにしよう、っと。

無題1

3月 22, 2013   4 Comments

MVPと準MVP

  第2ラウンドMVPの井端   スポーツ報知より転載

 第2ラウンドMVPの井端  スポーツ報知より転載

  WBC2次ラウンド1組のMVPに井端和弘が選ばれた。第1ラウンド・第2ラウンドを通して、トップの打率(.571)だったことも勿論あるが、何と言っても、台湾戦の9回2死2塁、2ストライクからの同点打だろう。

  それまでの試合も、世界大会の重圧なのか、さっぱり打てない日本チームにあって、逆転のキッカケのヒットや、ムードを盛り上げる一打を放って、一人気をはいていたのが井端だった。

  僕が、小学校・中学で、毎日野球漬けになっていた時のスター選手は、川上哲治であり、その後は長嶋と王だった。僕がサードを守ったのも長嶋に憧れてのことだった。捕球した後の一塁への送球の仕方など、長嶋のあの派手な仕草の真似をして、監督に怒られたりもしたものだ。

  だがそんな中で、ONのようによく目立つスター選手ではなく、1・2番を打つ職人のようなプレーヤーにも僕は引かれた。自分が中学の野球大会で1・2番を打っていたからも知れないが。

  記憶の残る巨人軍の職人は2塁手と遊撃手に多かった。土屋正孝・広岡達郎・土井正三・黒江透修・篠塚利夫それと外野の高田繁等である。巨人以外で言えば、吉田義男・高木守道などがこの分野に入る。

  この人達は、所謂「プロ好み」の人達であり、映画で言えば最優秀助演賞を何回も獲得するような名人達である。攻め(打撃)も守り(守備)も名人芸だ。

  彼等は、相手ピッチャーからすれば本当に嫌な打者だと思う。簡単に終わってくれないし、粘りに粘る。最後はいい当たりでなくても、内野手の頭を越す当りとか内野安打で出塁されてしまうのだから。こういう選手が持ち味を発揮して活躍するかどうかでチームが強いかどうかが決まる。

  僕はこの流れを引く選手の中に必ず井端選手は入ると思っている。

  もう一人、今回の侍JAPANの中にそういう選手がいる。台湾戦で1点ビハインドの9回2死で、2盗を成功させた鳥谷敬だ。WBCという大舞台で、それこそ失敗したらゲームセットという場面で、間一髪セーフとなったビッグプレーだ。

  その勇気にはただただ敬服するのみである。これがあって、井端の同点打を呼び込み、延長戦の決勝点に繋がった。

  次のオランダとの試合で鳥谷は1番打者に起用され、先頭打者ホームランを打って日本チームを勢い付かせた。以降2試合、日本選手はリラックスして伸び伸びとプレー出来るようになり、16点・10点と大量点で決勝ラウンドに駒を進めたのはご存知の通りだ。

  オランダ戦 鳥谷が先頭打者本塁打

オランダ戦 鳥谷が先頭打者本塁打  ネットより借用

  井端がMVPなら、鳥谷は準MVPだ。この2人がいなかったなら、弱いという前評判の通り、侍JAPANはアメリカに行くことは叶わなかっただろうと思う。井端・鳥谷を侍JAPANに選んだ監督・コーチは大したものだ。それこそ大正解・大ヒットだった。

  決勝ラウンドでは是非、鳥谷1番・井端2番のオーダーで3連覇を目指して欲しいと思う。

3月 13, 2013   2 Comments

事務所移転

                 移転先地図

                 移転先地図

  僕が顧問として通っていた「フレックス少額短期保険」の事務所が先週移転した。今までは新宿駅の西側、甲州街道沿いの出身会社の所有するビルの1フロアーを借りていたが、今後の成長を考え、手狭になったこの場所から、今度は新宿駅の反対側(東側)に移った。

  場所は、「新宿二郵便局」の直ぐ隣のビルの4階である。ある意味で有名な「新宿二丁目」だ。郵便局の名前が「新宿二」というのは何なんだ。きっと「新宿二丁目郵便局」と呼ぶのが憚られたのだろう。

  でもご心配なく。二丁目と言っても昔と違って、辺り一帯全部がその手の店というのではない。今ではその一角にその名残を留めている地域があるということのようだ。時代と共に普通の人の町に変わって行ったということだろう。

  現に、移転先のビルは弁護士や会計士の事務所が多いし、固い企業が入っている。周囲にも怪しい店や人間達は見掛けない。

  お近くに起こしの節は、どうぞお気軽にお立ち寄り下さい。

  住所・会社名等は次の通りです。(下記の会社に所属しております)

 

住所 : 〒160-0022
      新宿区新宿2-11-2 カーサ・ヴェルデ4F
会社 : (株)生活総合システム研究所  注)

 

  注) 会社名「生活総合システム研究所」は、フレックス・グループの一企業
     FIS(フレックス少額短期保険会社)の事務・システムを請負う会社

3月 11, 2013   2 Comments

9年振り

  大木先生、ノリ、神童  後ろはトオルさん   Photo by Mannsaku

 大木、ノリ、神童  後ろはトオルさん  Photo by Mansaku

ある店の音楽好きの常連客達が、ある日おじさんバンドを結成した。それは今から丁度9年前のこと。その頃その店にノリという女性従業員がいた。確か当時22~23歳くらいだったと思う。

彼女はそれまで、広島でエステティシャンとして働いていたらしいが、ある時、一念発起して、世界一周の船旅に出た。長い船旅の中で様々な出会いがあり、船から降りた後は、船で知り合った他の2人の仲間と一緒に、東京に出てその店で働き始めたのだった。

ノリは多分2年くらいその店に勤めたと思うが、店を辞めるまでの数ヶ月間、彼女はおじさんバンドの活動を大いに支えてくれた。

おじさんバンドのデビュー戦となったのは、伊豆天城高原のリゾートホテルだった。2004年2月のことだ。「のどごし生バンド」が2月に満9年を迎えたと言うのは、この時をバンド結成の日としているからである。

当時、おっさんばかり7人のバンドだったが、一人抜けただけで今も同じメンバーでずっと活動が続いている(今は「のどごし生バンド」というバンド名がついた)。

但し、一昨年からはマエマエ・亜希さんという若い女性ボーカリスト2名が加わってくれたので、平均年齢はぐっと落ちたけど。

さて、天城高原のホテル・ロビーで行ったデビュー戦。その日、夕方から雪が降り初め、演奏開始の19時になると2月とは言え伊豆では珍しい吹雪になり、終いには雪が真横に走る猛吹雪となってしまった。

丁度ステージの真後ろが床から天井までの全面ガラス張りの上、外の庭をライトで照らすようになっていたため、横殴りの雪が恰も映画のロケ・シーンのように鮮やかに映し出されるのだ。

観客には、僕等が猛吹雪のステージに立って演奏しているように見えただろうな。でもまぁ、部屋の中は充分に暖房が利いているから問題はないのだが、レパートリーの「アロハオエ」の演奏の時、ノリと先輩の女性が2人でフラダンスを踊ったのには観客も驚いたと思う。

何せ、激しい吹雪をバックにムームー姿の彼女達が楽しそうに踊るのだから。そのコントラスト、北国と南国が一緒にやって来たような景色なんだから。これが演出だったらとても奇抜な天才的設定だ。

3月初めにそのノリから、友人の結婚式のため上京するので、そのついでに大木先生の店(グレコ)に寄りたいとの連絡が入った。

早速おじさんバンドの皆に連絡したが、平日だったこともあり現役組は横浜まで出向くのが難しく、リタイア組の僕と大木先生、それに「グレコ」の料理長の万ちゃんの3人で応対した。

いやー、懐かしかったねぇ。何せ9年ぶりだから。NHKホールだったか東京国際フォーラムだったかには、応援に来てくれたのは覚えているが、ゆっくり話すのはあの吹雪の日以来かも知れない。

吹雪の中のフラダンスの話でかなり盛り上がった。彼女、5年前に広島に帰り、以前のエステの師匠の元に戻ってもう一度修業を積んで、今度、尾道で自分の店を出すと言っていた。凄く頑張ってた。

「結婚しないのか?」と聞いたら、「年取って一人は寂しいから、いずれはしたいですよ。でも、今は仕事が恋人。結婚はその足手纏いになると思うから、まだ先の先ですね」と返って来た。昔は、仕事に打ち込む男の姿はカッコいいというのがあったが、今、仕事に生きるノリはもっとカッコ良かった。

遠くまでよく来てくれたので、たまたま来ていたベースを弾ける客と大木先生と僕で、ピアノ・トリオの曲を2曲ノリにプレゼントした。彼女の開くお店が成功しますようにと願いを込めて。

  大木先生のピアノ演奏    Photo by N.Ogawa

   大木先生   Photo by N.Ogawa

            Photo by N.Ogawa

            Photo by N.Ogawa

3月 9, 2013   2 Comments

反省会という名の・・・

 

  美人シンガー達  左から ケイコ、クミコ、藤原綾香

        ケイコ          クミコ            藤原綾香

  雛祭の日(日曜日)の午後、出身会社軽音楽部のパーティーを開いた。場所は、我らが大木先生のライブハウス「グレコ」。日曜定休日のところを大木さんに無理をお願いしてやらせて貰ったのである。

  5回目となる「AD音楽祭」(Aioi- Nissei- Dowa Sonpo 音楽祭)は、昨年に続き目黒の「ブルースアレイ」を借り切って開催し、最後にディスコ・サウンドの特集ライブを行ったこともあり、会場は全員が立ち上がってディスコ・ダンスに興じるなど、凄い盛り上がり方だった。

  手前味噌だが、この大成功を出演者達でじっくり噛締めようとの趣旨で、「反省会」と称して、大打上げ会を行おうというのだ。演奏者の打上げパーティーだから、気分次第で演奏したり、飲みながら大いに語らったりしながら自分達で楽しむ会のつもりだった。

  でも折角「グレコ」で飲み会をやるのなら、演奏を聞いてくれる人も何人かいてくれた方が、張り合いがあるというもの。バンドメンバーに、親しい友人を最大10人くらい呼ぶように頼んだ。

  そんな経緯で、「反省会」が始まった。集合時刻は午後2時。僕が店に入った時は、もう既に、観客(バンドメンバーの知人友人)12~13人が詰め掛けていた。

  勿論、正式なライブのつもりではないから、リハーサルの時間なんて設けていない。でも、聞きに来てくれた人達は、演奏が始まるのを今か今かと待っていてくれているような雰囲気だ。どうもライブと思って集まってくれたらしい。

  2時20分頃、僕の発声で全員で乾杯した。どうも、僕らが考えていた飲みながら食べながら、気が向いたら演奏して・・・、なんて感じは許されない雰囲気。早く演奏を聞かせろと観客の顔に書いてある。

  2時半、こうなったら、ライブのつもりでやりましょう。僕が総合司会を務めて、独断で「ライブ」を進めて行った。最初は2人組の「サブウェイ」の1回目のステージ。アリスやジローズの懐かしいフォークソングを中心に披露してくれた。

  続いて、「ダンディー・クイーン」の1回目3曲。次に「セブンス・ウェスト」のギタリストW君の弾き語りで2曲。そのあと、大木先生(Piano)に入って貰って、到着したTAMA児玉(Sax)とMr.Koba(Bass) 、それに僕(Drum)の4人でジャズを2曲演奏させて貰った。

  そして、僕の指名に従い、ゲスト・シンガーの藤原綾香(ステージ・ネーム)がその場で選んだ「Love Love Love」(ドリカム)を歌った。急な指名にも拘らず、藤原綾香は聞かせてくれる。大したもの。

  暫くの休憩の後、再び「サブウェイ」の登場。Mr.Koba(Bass)とTERAさん(Drum)を従えて、Jフォーク・Jポップスの数々を歌ってくれた。いやー、何度聞いても「サブウェイ」はいい。ハーモニーがとてもキレイだ。「グレコ」の常連客もいたのだが、彼等も「サブウェイ」を絶賛していた。

  さて、最後は「ダンディー・クイーン」の2回目のステージ。例によってディスコ・サウンドを響かせ、続いて、ゲスト・シンガーをステージに呼んだ。そこで、問題が起きた。MCは僕だ。Sさんを紹介し題名「わがまま」(上田正樹)を伝えたところまでは良かったが、MCを終えて、さぁ僕がカウントを出さなくちゃ、と思ったのだが・・・

  イントロのメロディーが全く思い浮かばない。1月13日から2ヶ月弱。記憶力に大いに問題ありだな。これではカウントを取れないのでMr.Kobaに頼んだ。彼は携帯でメトロノーム音を出しながら言った。「テンポは68ですから」。

  彼のカウントでドラムも入ったがどうも合わない。やり直し。だが、僕の感覚とえらく違う。仕方ないから最初の8小節はドラムレスにして貰い、歌と一緒に入った。

  何とか合わせていたが、僕の記憶ではこんなゆっくりなリズムではない。後で分かったことだか、歌のテンポとして68は正しい。だが、ドラムはそれを倍テンポ、乃至、スロー8ビートを16ビートで演奏するから、テンポは136と捉えた方が合うのだった。

  イントロをやり直すという、こんな大失態もあり、反省会らしく反省点を見付けられたので、趣旨に合ったとても良いライブ・パーティーだったと言える(トホホ)。

3月 7, 2013   No Comments

66 ?

         ネットから拝借    ルート66

         ネットから拝借    ルート66

この数字は何か? その昔、ナット・キング・コールやジョージ・マハリスが歌って大ヒットしたアメリカのスタンダード・ナンバーの「ルート66」か? 僕等の「のどごし生バンド」では38F佐藤さんが、「国道20号線」に置き換えて歌っているが・・・

違うのだ。僕の年齢が昨日からそうなってしまったのだ。思えば10代の時から始まったゾロ目の歳だ。11年毎に現れたゾロ目。たった6回目なのにもうそんな歳になってしまったのか、と改めて時の経つ速さに驚いている。

日頃は、年齢差を超えて、且つ、それを意識させないで付き合ってくれる若い仲間達と音楽活動をさせて貰っているからか、自分の歳を感じることは少なくて済んでいるのだが(自覚的精神年齢は50歳? 言い過ぎ?)、誕生日ともなるとそうはいかない。改めて、重ねた馬齢の多さにうろたえざるを得ない。

そろそろ、全て了解し全てを受け入れ、心穏やかに自然を愛で、孫の姿に目を細め静かに暮らす、そんな心境になってもよい時期かも知れないのに、僕は相変わらず昔のまま何も変わっていない。

ほとばしる自分の気持ちを持て余し、揺れ動き、抑えられない自分が未だにいる。映画を見て一人涙する自分がいる。美しい人(女性)に見とれる僕がいる。そういう人から話し掛けられるとドギマギする僕がいる。自分を(良くない意味での)ナイーブな少年のようだと思うことが多い。

仕事に邁進していた現役時代の前と後、つまり20代と60代の自分に共通点を発見して戸惑っているのかも知れない。その点では38F佐藤さんの歌は正しい。66号線よりも20号線の方、66歳より20歳の方が自然だからね。

一昨日、出身会社の大先輩のお2人(元社長さんと僕の上司の元担当役員さん)に声を掛けて頂いて、神田の小料理屋でご馳走になった。僕が尊敬するお二人との会食は本当に久し振りだったから、その分、お酒が美味しかった。

しかしながら、お二人共持病のためお酒はビール1杯までとか、焼酎のお湯割り1杯までと決められておられ、代りに料理はよく召し上がられた。仕方ないからお酒は一番若い僕が専ら引き受け、近況報告などさせて頂いた。

今僕が参加しているベンチャー保険会社のこと、家族のこと、音楽活動のこと、ゴルフのこと等々。僕が話し終えた途端に元社長さんは「神童君、あの頃と全く変わっていないねぇ。若いままだ。どうして歳取らないの?」と仰る。だから、明日が66歳の誕生日などとは言えなくなり、「いえ、見掛けを少しばかり誤魔化しているだけで」と答えた。

甘かった。「現役時代に仕事、相当手を抜いていた証拠だな。俺なんか命懸けで仕事したから、今インシュリンを手放せないんだ」と元社長さんにいじられた。

5歳年上の元社長さんは、当時も僕に対してその手のからかいをしながら、厳しく指導してくれた大先輩であるが、僕の企画した仕事に対しては、お二人共、とことんサポートをしてくれた上司達だった。今も深く感謝している。

ところで、今回の誕生日に際しては、フェースブックの所謂「友達」から、それはそれは大勢の人から、HBD!(appy irthay!)メッセージを頂いた。また、他の多くの友人がわざわざお祝いの携帯メールを送って来てくれた。

もう、出来れば誕生日は迎えたくなかったのだが、これは今も結構嬉しいものだということが分かった。この場を借りて厚く御礼申し上げたい。

無題

3月 2, 2013   5 Comments