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Posts from — 3月 2014

お知らせ(4月のライブ)

  「のどごし生バンド 10周年記念ライブ 第3弾」を4月12日(土)に、また、「のどごし生バンド」を含めた3バンドによる、グレコ2周年記念ライブ、題して、「3 BANDS IN GRECO」を4月19日(土)に開催致します。

  2週連続のライブとなりますが、「のどごし生バンド」結成11年目のスタートのつもりで、気分も新たにメンバー全員張り切って参ります。皆様のお越しを心よりお待ち申上げております。

2014.04.12 のどごし生 10周年ライブ チラシ

無題  

3月 26, 2014   No Comments

「信濃の國」物語(6) 完

 

.         十州に囲まれる信濃国

.         十州に囲まれる信濃国

最後にこの曲と長野県の南北問題の関わりについて触れておかねばならないだろう。

1871年(明治4年)7月14日、明治政府は、中央集権確立のため、それまでの藩の体制(封建体制)を廃止して、府・県体制に移行した。所謂「廃藩置県」である。大化の改新(646年)で令制国として定められた信濃国は、以来現在の長野県とほぼ同じ(木曽地方のみ飛騨国)だったが、これにより信濃国内の藩は全て廃止され、南北2つの県に分割された。

北部は「長野県」(県庁は長野)、南部は「筑摩県」(県庁は松本)となった。筑摩県には飛騨国も含まれていた。

それが、1876年(明治9年)の府県統合により、「長野県」と、飛騨国を除く「筑摩県」は合併し、新「長野県」となった。県庁は松本(松本城内)に置かれた。しかしその後、県庁の火災などがあり県庁が長野に移されたのだった。

この県庁移転以降、松本を中心とする旧「筑摩県」の人々の感情として分県意識(「筑摩県」に戻せ)が芽生え、後世に伝わって行く。

戦後間もない1948年(昭和23年)春の第74回定例県議会で、長野県を南北に分割しようとする分県意見書案が旧筑摩県域の南部出身議員らから提出され、分割に反対する北部議員の病欠などもあって可決されそうになった。

この際に、分割に反対する北部の住民が占拠する議場の傍聴席から、突如として「信濃の国」の大合唱が沸き起こり、分割を求める県会議員たちの意気を消沈させ、分割を撤回させたという出来事が起きた。「信濃の國物語」は、この辺りの空気感も良く伝えている。

「信濃の国」に纏わるこのエピソードも、昔それとなく聞いていたので、僕は、分県運動など長野県内の南北対立を解消し、「長野県は一つ」という県民融和を目的として作られた曲だと思い込んでいた。

だが、今回、それは全くの誤解で、「信濃の国」は明治30年代の小学生達が、自分達の生まれ育った地(長野県)に誇りを持てる唱歌として作られたものであることが分かった。そして、この曲が県分割のピンチを救ったのだった。僕にとっては、この本に幾つもあった発見の一つである。

因みに、僕の出生地である安曇野市豊科は旧筑摩県に属し、小学校から高校卒業まで過した松代町や長野市は旧長野県に属するので、僕個人としては南北意識は全くないのだが、長野オリンピックの時の長野市の大変な盛り上がり様と、松本市の全くの無関心の落差は現実にこの目で見ている。

そのことを含めても、ほぼ100%の信州人が、114年もの間歌い愛し続けた「信濃の国」は他県にない極めて珍しい県歌と言えるのではないか。

「信濃の國物語」には沢山の発見と沢山の驚きがあり、ワクワクしながら一気に読み終えた。この貴重な書籍を貸して下さった信友会のKさんに心より感謝申上げます。
.                                                                         「信濃の國」物語 ― 完 ―

 

「信濃の国」の合唱曲は下記 Youtube  でお聞きください。

http://www.youtube.com/watch?v=F-VWrBooua8

 

               信濃の国

                           作詞 浅井 洌
                           作曲 北村季晴

信濃の国は十州に 境連ぬる国にして
そびゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し
松本 伊那 佐久 善光寺 四つの平は肥沃の地
海こそなけれものさわに 万ず足らわぬ事ぞなき

四方にそびゆる山々は 御嶽 乗鞍 駒ヶ岳
浅間はことに活火山 いずれも国の鎮めなり
流れ淀まず行く水は 北に犀川 千曲川
南に木曽川 天竜川 これまた国の固めなり

木曽の谷には真木茂り 諏訪の湖には魚多し
民のかせぎも豊にて 五穀の実らぬ里やある
しかのみならず桑採りて 蚕養いの業のうち開け
細き世すがも軽からぬ 国の命を繋ぐなり 

尋ねまほしき園原や 旅の宿りの寝覚の床
木曽の桟かけし世も 心して行け久米路橋
来る人多き筑摩の湯 月の名に立つ姥捨山
著き名所と風雅士が 詩歌に詠てぞ伝えたる

旭将軍義仲も 仁科五郎信盛も
春台太宰先生も 象山佐久間先生も
皆この国の人にして 文武の誉れたぐいなく
山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽ず

吾妻はやとし日本武 嘆き給ひし碓氷山
穿つトンネル二十六 夢にも越ゆる汽車の道
道一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき
古来山河の秀でたる 国に偉人のある習い

3月 21, 2014   2 Comments

「信濃の國」物語(5)

無題

  作曲家の北村季晴は、1872年(明治5年)4月の生まれの季晴は、生粋の江戸っ子である。初代の季吟から代々江戸に住み、七代目の父季林も将軍家茂の侍講を務めていて、家屋敷は銀座っ子が通った泰明小学校の辺りにあった。

  教育者の父がアメリカ人のヘボン(ヘボン式ローマ字を考案した人物)と親交があった関係で、幼い頃からヘボンの学校や教会に遊びに行って、いつでもオルガンに触れることが出来た。やがてヘボンの勧めで明治学院(創始者はヘボン)に入る。

  ここで季晴は島崎藤村と友達となった。島崎がよく鹿鳴館のことを話すので一緒に見に行った。そこで西洋の管弦楽や歌声を初めて耳にした。一方、家の近くでは三味線や鼓の音と歌声を聞く。このようにして彼は、洋楽・邦楽・能楽など幅広い音楽に接する機会に恵まれたのである。

  1887年(明治20年)に「東京音楽学校(現東京芸術大学)」が出来ると、北村季晴にチャンスが到来する。ヘボンにも励まされ受験は難なく合格し、1890年(明治22年)9月に、明治学院から音楽学校に転じ師範部に通学を始めた。北村18歳の時であった。

  東京音楽学校を卒業すると、父の経営する私塾向南学校を手伝うが、父が急逝し後を継ぐが旨く行かず、音楽学校の後輩の誘いに従い青森師範学校の音楽教師となる。その後、長野師範の依田弁之介(前号で触れた幻の「信濃の国」作曲者)からの誘いを受けて、病気がちの依田の後任として長野に赴任する。

  そこで、北村季晴は浅井洌との運命の邂逅をする。季晴は浅井洌の作った長歌がいたく気に入り、「是非、作曲させて欲しい」と頼み込む。依田に作曲して貰ったが、誰も歌ってくれなかった、あの長歌「信濃の国」だ。

  季晴は、何度も何度もこの長歌を読み、詞の先に見えて来る景色や人物を思い描きながら、己が持つ音楽の全ての技量と知識を駆使して書き上げたのだった。

  そして、師範学校の運動会で女子の遊戯の曲として発表したところ(1900年、明治33年)、予想外の反響があり、それをキッカケとして以降、県下に広く普及し、「信濃の国」は信州人なら誰でも歌える曲として、今日まで歌い継がれて来たのである。

  この「信濃の国」に、実は僕も全く知らなかったことがある。詞は全部で6番まであるのだが、これまで僕は、6番とも同じメロディーの繰り返しとばかり思っていたのだが、実はそうではなかったことを「信濃の國物語」で知ったのだ。

  北村季晴は4番だけ、全く別のゆっくりしたメロディーとしたのだった。これを専門用語で「トリオ」と言うらしい(メヌエットとかマーチで、別のメロディーを途中に挟む形式があり、その中間部のことをトリオと言う。三重奏のトリオとは別の意味)。

  小学一年生の時から歌っていた曲なのに、恥ずかしながら、以来60年間このことは全く知らなかった。驚いた。多分学校では2番までしか歌わなかったから、3番以降も6番まで全て同じメロディーだと思い込んでいたのだと思う。

  作詞者の浅井洌は、季晴が作曲したこの曲をいたく気に入ったのだが、中でも特に4番のトリオが大好きだったようだ。「途中の、あのゆっくりしたメロディーがとても良い」と何人もの知人に語っている。

  北村季晴は「信濃の国」作曲の翌年、1901年(明治34年)に東京に戻って三越の音楽部主任に就任し、後には、東京音楽学校邦楽調査掛として多数の邦楽曲を五線譜に採譜するなど斬新な取組みも行うと共に、歌劇「ドンブラコ」や「露営の夢」などの作品を世に出し、大正時代を代表する作曲家として名声を博した人物である。

 

3月 20, 2014   No Comments

「信濃の國」物語(4)

  「信濃の国」の歌碑  ネットより借用

 信濃の国 の歌碑  ネットより借用

  さて、名曲「信濃の国」の作詞者 浅井洌(れつ/きよし)のことである。1849年(嘉永2年)10月に、松本藩士の3男として生まれたが、その後同じ松本藩士の浅井家の養子となる。幼い頃より文武に秀でて、藩より江戸への留学生にも選ばれた秀才である。

  思うところは直言も辞さず、若い頃は自由民権運動にも身を投じた人であった。一方で、松本に於いて教職に就き国語・漢文・歴史などを教えながらも、自らは短歌・長歌何れにも才能を発揮し、彼が残した歌は膨大な数に及ぶ。

  また、1886年(明治19年)の秋に、長野県尋常師範学校(長野)に勤務してからは、「信濃名勝詞林」の編纂にも参画したことで、県下の歴史・地理には誰よりも詳しくなった。修学旅行などでは、その名勝の地に行ったし、個人でもあちこちを見て回っている。

  1898年(明治31年)に、長野県尋常師範学校の校長だった正木直太郎に頼まれて、新しい唱歌の詞を作り始めた。正木の趣旨は、「唱歌の中には未だに日清戦争当時の敵愾心を煽るものなどあり、小学生に相応しくない。もっと、自分達の住むこの県に誇りを持てるような歌が良い」とのことだった。

  浅井は七五調の長歌を数ヶ月掛かって書き上げた(1898年、明治31年)。それを、同じ師範学校の音楽教師だった依田弁之介が、浅井洌の許可を得て、曲を付けたのが、最初の「信濃の国」だった。しかし、これは全く人気が出ず殆んど歌われることがなかったらしい。

  その後、依田の後任として青森の師範学校から赴任して来た 北村季晴(すえはる) による作曲で生まれ変わり大ヒットするのである。それは、1900年(明治33年)の長野県尋常師範学校の運動会の日に女子部の遊戯の曲として発表されたのがキッカケだった。

  師範学校の学生達がことの外この歌を気に入り、卒業生が県下各地の教壇に立ち、この「信濃の国」を教えたことから、全県に一気に普及して行った。その後は、県内各小学校の行事等で歌うことが慣習となったのである。

  浅井洌の全霊を傾けた歌が遂に日の目を見たのだった。

  その後、浅井自身は78歳まで教壇に立つほど、健康で元気だったようだ。晩年、松本に帰ると、彼の下を訪ねる卒業生は後を絶たなかった。生来の丈夫な身体に加え、生涯健康維持に努力したが、1934年(昭和9年)2月27日永眠。前日まで元気だったが、家人が気が付いた時は、布団の上に座したまま亡くなっていたという。享年84歳。

  1968年(昭和43年)に県歌に制定された「信濃の国」の歌碑が、県政施行100周年を記念して建立された。県下には2箇所設置されている。一つは長野市の県庁前、もう一つは松本市の運動公園内(松本平広域公園陸上競技場)だ。僕もまだどちらも見てないので、次に帰郷の際は是非見ておきたいと思う。

 

3月 19, 2014   No Comments

「信濃の國」物語(3)

        塩尻の位置    Yahoo地図より

        塩尻の位置    Yahoo地図より

  「科野」がどういう経緯で「信濃」に変わったか。この本では、この点に詳しく触れている。

  日本に漢字が渡って来たのは3~4世紀の頃とされている。地名はそれ以前からあり、「しなの」は最初「科野」という字が当てられたが、8世紀初めの頃、朝廷より「地名は、縁起のいい漢字2文字で書き表すように」とのお触れが出て、「信」と「濃」が採用されたという。

  次に、「信濃の國物語」を読んで知った太古の時代の科野の塩について。石器時代も、人間、塩が無ければ生きて行けなかったのは今と変わらず、科野の地は海が無いので日本海側か太平洋側のどちらからか各地に塩が運ばれた。日本海側からは現新潟県から姫川や信濃川沿いに遡って運ばれ、太平洋側からは静岡県・山梨県を通って運ばれた。

  夫々の最も遠い終着地が「塩尻」という地だったと書かれている。塩尻市は松本と諏訪湖の中間くらいの位置にある。確かに海の無い地に、塩尻だとか塩山だとか塩の字が使われているだけの理由はやはりあるのだ。

  戦国時代、遠江の今川と相模の北条の両氏から武田信玄が、経済封鎖をされ塩不足で困窮していたとき、長年敵対関係にあった上杉謙信が武田信玄に塩を送って助けたという話から、「敵に塩を送る」という諺が今に伝わるが、太古の時代から今日まで、信州や甲斐の他県依存の塩事情は全く変わらない。

  第3の発見は、以前、このブログで書いた安曇野のことが違う角度で載っていて、当時僕が調べたことの一部が傍証を得たように思えたことだ。

  ブログでは、中国の春秋時代に、戦いに敗れた呉の海人達が、博多湾の志賀の島に移り住んだ。彼等の族名は安曇族(あずみぞく)と言った。そののち安曇族は、やはり戦いに敗れた越の人々を救い、中国から日本各地に亡命させて、彼らの生業だった稲作を広めさせたと書いた。

  その地の一つが信濃の安曇野であり、安曇族が越人を引き連れて日本海側から姫川を遡ってその地に辿り着いたこと。そして、そこに定住した越人が安曇族に感謝の意を表すために名付けた地名であることなどを綴ったのだった。

  北アルプスの麓、南安曇群豊科町(現安曇野市豊科)は、何を隠そう僕がこの世に生を受けた地なので、人一倍関心があって、安曇族に関する太古のロマンを調べた経緯がある。

  おっと、今気が付いた。前号で信濃には「科」の付く地名がやたら多いと書いたが、自分の生まれ故郷も「豊科」だった。

  「信濃の國物語」では、呉とか越とか中国といったことには全く触れられていないが、九州の海人安曇族が、太平洋側から川を遡って信濃に入ったことは書かれている。また、九州の阿蘇氏と信濃の安曇氏は親戚であることなどが述べられている。いずれにしても、信濃と九州とは古い時代に浅からぬ縁があったということだ。

 

3月 18, 2014   No Comments

「信濃の國」物語(2)

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  今、僕の手元に一冊の本がある。タイトルは「『信濃の國』物語」。明治42年生まれの信州人で長く教職を務めた 中村佐伝治 という人が著わした本だ。昭和53年に出版されている。

  名曲「信濃の国」の作詞者 浅井洌(あさいれつ)と、作曲者 北村季晴(きたむらすえはる)の人物像と共に、この曲が生まれた経緯や背景が詳しく書かれていて大変興味深い内容だった。

  この書は、明治31年に浅井洌が作詞し、明治33年に北村季晴が作曲するくだりが最大の山場なのだが、一方で信州の郷土史の色彩も濃厚で、僕が全く知らなかった事柄が数多く載っている。

  中でも驚くのは、戦後間もなく、野尻湖の底から象の化石が数多く発見された経緯が詳しく紹介されていることだ。この象は、それ以前にも浜名湖畔を初め、日本全国の森林や草原で発見されているナウマンゾウと鑑定された。6万年ほど前の化石だという。明治の初期に日本政府に招かれたドイツの地質学者ナウマンによって最初に発見されたことに由来する。

  現在は地球上にインドに生息するアジアゾウとアフリカゾウの2種類しかいないが、大昔の全盛期には350種類のゾウの仲間がいた。そのうちの20種類ほどが日本に住んでいたことも分かっているらしい。そのうちのナウマンゾウはインドやヨーロッパにいた種類に属するとのことで、太古の時代日本列島が大陸と陸続きだったことが分かるとのこと。

  野尻湖という湖は、小学校の頃家族で出掛けたり、学校の旅行で行った所であり、僕が住んでいた長野市からも比較的近く(当時の国鉄で数駅)馴染みの場所だったけれど、全く知らなかった。当時僕が考古学には全く興味が無かったからかも知れないが。

  野尻湖底からは、ゾウの他シカの化石も多数見付かり、石器のナイフも出土していることから、ゾウやシカが水を飲みに表れるこの場所は、先人達の格好の狩猟場だったと考えられる。この先人達は「野尻湖原人」と呼ばれる。

  「信濃の國 物語」の著者中村佐伝治は、明治時代に作られた曲、「信濃の国」誕生の背景を石器時代まで遡って書いていることが凄まじいと思う。それもその筈、彼は野尻湖の直ぐ近くの信濃町生まれだから、そこが日本でも最古の文化を有していた希少な場所という意識があったからだろうと思う。

  この本で知った幾つかを紹介する。先ずは、「信濃の国」の信濃(勿論長野県のこと)の由来について。万葉集などでは「科(シナ)野」という字が使われている。科の木が沢山生えているところだったことから付いた名前という。科の木の皮は大変強く且つ加工もし易いことから織物・衣類・縄などに使われた。科野から朝廷に対して、特産品として科の樹皮が献納されたという。

  確かに、そう言われると、長野県に「科」の付く地名が誠に多い。更科・仁科・倉科・妻科・保科・明科・蓼科・・・。

  因みに、僕が小学校1年から4年までいた場所も、長野県埴科(ハニシナ)郡松代町(現長野市)という地名だった。

 

3月 17, 2014   No Comments

「信濃の國」物語(1)

              ネットより借用

              ネットより借用

  僕は1996年に仙台に単身赴任した。赴任して間もない頃、宮城営業本部が県内の代理店会の皆さんを招いて、前年度優秀な業績を収めた保険代理店を表彰する式典とその後の懇親会を催した。

  僕は、業務部長として赴任したばかりだったから、当日、お会いする代理店さんの大多数は初対面だった。僕自身、こう見えてもかなり人見知りするタイプだから、結構緊張していた。

  そんな時に、懇親会で隣り合わせたA代理店さんが私に話し掛けてくれた。僕が今月始めに着任したばかりなのをご存知のようだった。

「神童さん、仙台は初めてですか?」
「いえ、実は大学がこちらでしたので30年前に4年間過しました。なので、とても懐かしくて、土日は学生時代によく行った思い出の場所などあちこち歩き回っています」
「あぁ、そうでしたか。その頃とは随分変ったでしょう?」
「はい、本当に。川内(大学の教養部がある場所)の下にトンネルが出来ていて立派な道路が作並の方に抜けているのにはビックリしました」
「学生の頃はどちらにお住まいでした?」
「毎年、住む場所を変えていましたから・・・、最初は長町でしたけど大学に遠いので、毎年少しずつ市の中心に移動して、最後は一番町の直ぐ近くの肴町のアパートでした」

  新入りの僕に気を遣って話し掛けてくれたのが良く分かる。僕の向かいに座っている代理店さんも割り込んで来てくれた。

「ご出身はどちらですか?」
「はい、長野市なんです。18歳まで長野で、その後4年間仙台、その後はずっと東京ですから、仙台は私の第2の故郷ですね」

  それを聞いて、先程のA代理店さんが言った。

「長野ですか? じゃ、当然『信濃の国』は歌えますよねぇ。いい歌です、あれは。私も大好きな歌で、6番まで全部歌えますよ」
「え!? もしかして長野県のご出身ですか?」
「いえ、私は、生まれてこの方ずっと仙台ですけどね。以前、観光バスの運転手をやっていましてね。信州には観光客や修学旅行生を乗せて何度も行っていまして。地元のガイドさんがバスの中で歌う『信濃の国』をいつも聞いていて覚えちゃいました。ハハハ」

  僕は仙台の地であの「信濃の国」を知っている人がいることに大変驚いた。完全に僕の人見知りは消えていた。

「小学校入学から中学卒業までは、学校の式典では校歌と共に必ず歌った曲です。長野県の県歌ですしね。もう小学校や中学の校歌はとっくに忘れましたが、『信濃の国』だけは憶えています。とは言っても、当時歌ったのは大体2番まででしたから6番まではとてもとても・・・」
「じゃぁ、神童さん、一緒に2番まで歌いましょうよ」

  と言って、彼は一人で歌い出した。仕方なく、僕も途中から唱和した。

 

  ♪ 信濃の国は十州に    さかい連ぬる国にして
    そびゆる山はいや高く  流るる川はいや遠し
    松本伊那佐久善光寺   四つの平らは肥沃の地
    海こそ無けれ物さわに よろず足らわぬ事ぞなき

  ♪ 四方に聳ゆる山々は  御嶽乗鞍駒ケ岳
    浅間は殊に活火山   いずれも国の鎮めなり
    流れ淀まずゆく水は  北に犀川千曲川
    南に木曽川天竜川   これまた国の固めなり

 

  それまで、あちこちで会話の花が咲いていた懇親会がいつしか静かになり、僕等2人が注目されるような按配になってしまった。

  歌い終わったら、皆さんから予想外の拍手を頂いた。一緒に歌ってくれたA代理店さんが、「この度、業務部長として赴任されました神童さんです。今歌って貰ったのは『信濃の国』という長野県の県の歌です。神童さんは信州出身とのことなので急遽歌って貰いました」と言って僕をお仲間に紹介してくれた。

  僕も立ち上がって簡単な自己紹介をさせて貰い、思わぬ形で代理店会の皆さんに挨拶することが出来た。「宜しくな!」とか「頑張れよ!」とか、遠くからも掛け声を頂き、極く自然な形で溶け込めたのだった。A代理店さんには心から感謝した。

 

3月 14, 2014   No Comments

どんより雲

無題

  現代社会を生きるには、ストレスと無縁でいられない。学校ではイジメが横行し、会社では鬱病患者が増え、街では通り魔事件やストーカー事件が後を断たない。

  事件の当事者には夫々の固有の問題や事情があったのだろうが、日本全体を覆う、「どんよりとした雲」のようなものが、日本人の平均的基礎ストレス量を押し上げてしまっているのではないかと強く感じる。

  どんよりとした閉塞感の一つは、アベノミクスと騒がれても未だデノミ脱却は出来ず、自動車産業等の一部の大企業以外には何の恩恵も齎されていないことだろう。一般庶民は、円安で輸入資源の高騰、様々な物価が値上がりして家計を直撃、4月からは消費税が更に追い討ちを掛ける。

  昭和40年代の高度成長期や、良い悪いは別にして、昭和60年以降のあのバブル時代には、日本人全体に元気や明るさが漲っていた。右肩上がりの経済に裏打ちされ、「今日よりも明日の方がもっと良くなる」ということが疑いなく信じられ希望に満ちていた。それが社会全体の気分だったように思う。

  バブル崩壊以降の経済失政20年の結果、結婚適齢期を迎えた若者達の多くが、正規雇用されずにとても結婚出来るだけの収入や社会的地位を得ていない問題もかなり深刻だと思う。

  僕も長い間、少子化の問題は、共働きの女性が子供を産んだ後も、安心して働ける社会環境(勤務形態・保育所の数と保育時間など)が整備されていないことに原因があると思っていた。

  だが、息子の地元の友達(小学校・中学校などの同級生)の多くが正社員ではなく契約社員、乃至、アルバイトで食い繋いでいる実態を見て真実を知った。彼らは親から独立も出来ずに親の家に居候しているケースが殆んどだ。年齢は33~34歳で勿論全員独身。

  少子化は、今や、晩婚化や共働きが一般化したために起きたというレベルの話ではない。そもそも若者が結婚出来ないのだ。彼らが希望に満ちた人生を送れている訳がない。(参考:結婚する意欲のある20代男性、正社員70.0%に対し、非正規社員は50.9%と低かった。NTTフレッツ光調べ)

  今朝の新聞では、国民健康保険の保険料滞納者に対して、地方自治体が給与の差し押さえなどを行なっていることが記事になっていた。ある非正規労働従事者のケースが載っている。月15万円の給与から滞納分として8万円が差し引かれ、アパート代を除くと2万円しか残らないと答えていた。

  このままだと、生活保護を受けないと生きていけないと言う。保険料をしっかり徴収して、生活保護費用が嵩む図はどう見たって可笑しなことで、何の解決にもならない。

  アベノミクスはデフレ脱却・インフレ2%を目標にしているが、本当の目標は若者が正規雇用される社会を取り戻すことだろう。農・工・商全ての分野の活性化を促し、更に新分野(再生可能エネルギー他)の開拓を国の成長戦略として具体化し、若者の正規雇用化実現とそのパワー活用で、日本を覆う「どんよりした雲」を取り払うという旗を高々と掲げるべきではないか。

3月 7, 2014   No Comments

思い掛けないプレゼント

  無題

  恥ずかしながら、今月1日をもって67歳に相成ってしまい・・・

  僕から見て今の50代は本当に若々しくて羨ましい。僕も10年前は57歳(当り前だ)。そんな彼らよりも、当時はもっと若く見られた僕は、現役として、あるシステム会社をゼロからもう一度作り直す仕事をしていた。その傍ら、おじさんバンドの発足にも関わって、結構忙しがっていた。

  それがつい昨日のことのような気がするが、残念ながらもう遥か昔のことらしい。時間が経つのは本当に早いものだ。

  それから4年後、61歳の時、僕は前の会社を退職し、JTから今の会社(FIS)に顧問の肩書きで招かれ今日に至っている。何の顧問かと言うとシステムの顧問である。特に3年半前に少額短期保険事業を創業してからは、専ら保険システムの構築に関っている。

  最初の2年は、販売数が伸びず、赤字が続く状態だった。必然的にシステムも外部を使う余裕は全くないので、私と一緒に移籍したF君(スーパーSE)と、パートタイムでFを手伝ってくれた2人の女性プログラマーのHさんとWさんだけで、賄えるサイズのコンパクトなシステムを構築し稼働させた。

  ミニマム・コストのミニマム・システムでここまで乗り切って来たのだが、1年前から業績が急カーブで上昇を始めるようになり、売上高が前年の4倍を超えるハイ・ぺースの状態に突入したのだ。

  嬉しい悲鳴ながら、何事も急変は様々な問題を惹き起こすもので、事務要員の増加、システムの容量や同時稼働オペレータ数の増大にも耐え得る、本格的システムにして行かなければならない。そのために残された時間は今年1年だ。その見通しを付けるのが僕とシステム・チームの課題だ。

  そんな中、誕生日を迎えたのだが、何と、(株)FISの若き社長のW(31歳)が僕に、誕生日祝いを贈ってくれたのだ。考えてもみなかったプレゼント。彼はどうやら僕のために自ら伊勢丹に足を運んで、プレゼントを買って来てくれたらしい。それもポケット・マネーで。

  多分、僕にとって今年最大のサプライズになるだろう。若き社長からすれば、僕のようなロートルは目の上のタンコブでこそあれ、心地良い存在である筈がないのにと思うからだ。前述の課題は何としても達成せねばという気になるし、いろんな意味で彼を応援したくなる。

  坂本竜馬は「人たらし」と言われたくらいに、一度話しただけで殆んどの人は竜馬の大ファンになったと言う。Wは息子のような年齢だが(実の息子より若い)その素質充分だ。世に「女たらし」は五万といるが、「人たらし」はそうそうおらぬ。尤も、このケースは「ジジイたらし」だが。

  流石、某大手損保の若手営業ナンバー1に連続して輝いた男だ。業績急上昇の手腕もさることながら、この辺りの気配りが心にくい。益々この会社の先行きが楽しみになって来た。

  この歳になって迎えたくないのが友人の葬式と己の誕生日。でも、今回は嬉しかったな、彼のその気遣いが。

無題2

3月 5, 2014   3 Comments

10周年記念ライブのお知らせ

のどごし生バンドが結成から10年を迎えるに当たって、記念に何か出来ることをやろうとメンバーで話した結果、やはりライブだねとなり、一度限りの記念ライブを企画することになりました。

ところが、遠くて普段は僕等のライブに来られない当時の関係者や仲間も、10年に一度のことなら行ってやろういう方々が、予想以上に多くおられて、誠に嬉しいことながら1回だけでは店に入り切れないので、1月と2月の2回に分けて開催致しました。

そして、2月のライブは、あの大雪の翌日だったことから、会場に来れなかった方が何人もおられて、その人達から、是非記念ライブをもう一度、との声が上がり、第3弾を4月12日(土)に行なうことになりました。大変嬉しいことであります。皆様への感謝を表すライブにしたいと思っております。

つきましては、添付資料の通りご案内させて頂きますので、お時間の許す方は、是非ともお越し頂きたくお願い申し上げます。

のどごし生バンド 10周年記念ライブ 第3弾

日時  4月12日(土) 5時開店 6時開演

場所  新子安 ミュージック・スペース「グレコ」

詳細  添付資料をご覧ください

尚、6月22日(日)夕方から、老舗ライブハウスの「銀座タクト」への出演が決まりましたので、詳細は別途ご案内させて頂きますが、今からスケジュール表に書き込んで頂ければ幸甚に存じます。

2014.04.12 のどごし生 10周年ライブ チラシ

2014.01.25  僕等の10年JPG

3月 2, 2014   No Comments