プレミアムエイジ ジョインブログ
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Posts from — 7月 2014

何かおかしい

無題

.  僕は特段の相撲ファンでも、まして白鵬のファンでもないことを断った上で書く。

  大相撲名古屋場所の千秋楽に白鵬が30回目の優勝を飾った。これは、大鵬の32回、千代の富士の31回に次ぐ史上3人目の優勝回数30回の仲間入りである。

  記者に白鵬の引退後の一代年寄の可能性を聞かれて、日本相撲協会の北の湖理事長が、「年寄の資格は日本国籍を有している者。日本の伝統文化である以上、例外はあり得ません」と明言したというのだ。

  年寄名跡を取得する協会の規定は日本国籍を有する者となっている。白鵬はモンゴル国籍で年寄名跡を取得する資格を満たしていない。このため北の湖理事長は、今後、大鵬の32回を超え歴代1位の優勝回数に達しても「変えることはありません」と言い切った。  

  一代年寄とは、現役のしこ名のまま年寄として協会に残ることができる一代限りの制度で、過去、協会に著しく貢献した横綱に贈られて来た。通常の年寄株を買って親方になる制度とは全く別に、協会が特別に報いるものだ。大鵬、北の湖、貴乃花の3人が襲名している。優勝31回の千代の富士は理事会で贈呈が決まったが本人が辞退した。

  規定上、白鵬は日本へ帰化すれば、引退後に親方として協会に残る道は残されてはいるが、一寸待って欲しい。

  まず、現在の横綱は3人ともモンゴル出身で、過去も曙・武蔵丸以来外国人横綱が大宗を占めて来た。これは相撲協会が積極的に大相撲の国際化を推進して来た成果なのではないか。外国人力士は認めるが外国人親方は認めないとは理解し難い規定だ。

  次に、外国人親方だと日本の伝統文化を弟子達に伝えられないとでも考えているのだろうか。30回も優勝を続ける白鵬が、他の日本人力士が親方になることに比べて、どれだけ相撲文化に対して洞察不足があるというのだろうか。

  第3に、そもそも、一代年寄が相撲協会に際立った貢献をした力士に与えようという趣旨であれば、国籍など関係ないだろう。通常の親方制度全体でなくとも、せめて、一代年寄だけでも国籍不問にすることは出来る筈だ。

  そんなことは、憲法を変えずに解釈で集団的自衛権発動を可能にするのに比べれば至極簡単なことだ。理事長の気持ち一つで出来る。北の湖理事長の何もしない、何も変えない、姿にはうんざりする。

  兎に角、力士は国際化、親方は反国際化という中途半端な国際化は誰にもどの国にも理解されまい。国際化するならどちらも国際化すべきだし、国際化しないなら外国人力士を締め出して日本人純血主義の相撲協会に戻る、このどちらかにすべきだろう。

  朝青龍の問題の時も、相撲部屋の暴力死亡事件の時も、八百長事件の時も、北の湖理事長は一切改革しようとはしなかった。改革に命を賭けたのは放駒親方だ。何もやらない北の湖の後を継いで、理事長として大改革を断行し急逝したのだった。その後再び北の湖が理事長にカムバックしている日本相撲協会の不思議を思う。

 

7月 29, 2014   No Comments

苦節15年 (下)


.  僕の知り合いに、業界紙(保険業界)の新聞記者がいる。名をYという。彼は僕の現役時代に取材に来てその記事が業界紙に載ったことがある。それ以来の知り合いなのだが、つい最近、現在の僕の会社(少額短期保険)の社長をインタビューさせて欲しいというので、取り次いだことがあった。

  会社のことも、社長の経歴やプロ―フィールは良く調べて来ているのが分かるので、社長に取次いだのだ。新聞に載った記事は思っていた以上に良く書けていた。正直僕はYの文章力が気に入った。それを知ってか知らずか、「神童さんお勧めの保険と関係する良い取材先はありませんかねぇ?」と言って来た。

  咄嗟に思ったのは、3月に一部上場を果たし、7月上旬に、帝国ホテルでその記念パーティーを行う旨の案内状を僕に送って来てくれていた東邦システムサイエンス社のことだった。

  Yでなかったら断ったところだが、彼が記事にするなら、同社にとってプラスにこそなれマイナスになることは有りえないと分かっていたので、篠原会長にアポイントメントを取り付ける約束をした。

  篠原氏の了解を得て、6月中旬に、僕もYに同行して2人で同社の会長室に篠原会長を訪問した。その時の取材記事が某保険新聞に載ったのは、奇しくも、同社の東証一部上場記念パーティーが開催されたその日の朝だった。

  篠原会長は、そのパーティーに僕を個人的に招いてくれたのだった。通常このような記念パーティーは顧客先を招待して、ビジネス上のパートナーシップをより強固にする目的で行うから、僕のように、現役を退いて6年にもなる自由人を招待することに経営的なメリットは全くない訳だから、篠原氏の律義さの成せる業と言う外ない。

  ホテルのパーティーは現役時代何度か経験しているが、手下も必ず数人招待されるし、何よりも主催者側の担当者達ががっちりガードするので、自由が利かない。だが、この日は自由人として呼ばれているので、会場の中央テーブルのオードブル、フルーツ、会場の両サイドに設営された屋台の寿司、しゃぶしゃぶ、焼き鳥に日本蕎麦などの出店を精力的に歩き回り、豪勢な食べ物と飲み物を充分堪能させて頂いた。

  退職後6年、時代が移り変わっているので、300人以上の招待客の中で知り合いはいないだろうと思って歩き回ったのだが、さに非ず。食欲が一段落したところで、「神童さん、ご無沙汰しています」「相変わらずお元気そうで何よりです」と2人の男に呼び止められた。

  僕の退職後、新たな合併が相次ぎ、会社の形も様相もかなり変わってしまったが、間違いなく当時の僕の役割を引き継いでくれているSと、この日何故来ているのか今一意味が分からない損害調査社の副社長のHだった。が、2人とも懐かしいことに変わりはない。

「さすがに帝国ホテルだけあって、食い物が頗る美味しいな。ところで、Hは何しに来たの? 損調部門から定年前にシステム部門に異動でもさせられたか?」と僕は聞いた。
「損調システムの開発で、この会社と一寸関わったもので」とH。
「ほー、当時はシステムに関わりたくないって、いつも逃げてたのに、Hもシステム部隊を使えるようになったんだ。成長したねぇ」
「いえ、逆ですよ。Hは煩いって、神童さんが僕を避けてただけですよ」

  と、まぁ、当時いつも会う度やってたジャブの応酬を再現。当時も今もいい奴なんだ、Hは。応酬が終わるのを待ってSが僕に聞いた。

「神童さんの今の会社に、ウスイがいるんですよね? 確か」
「今もF君のもとで頑張ってくれてるけど、そのウスイって響き嫌いだね」。(意味不明? 皆まで言わせないで。髪の毛気にしてるのよ!)
「あっ、失礼しました。ウスイは旧姓でしたね。今はWでした」

  ステージではプロのジャズメンが4人、いい雰囲気で懐かしい曲を演奏している。パーティー会場を、女性2人を従えて名刺交換のために会場を回っていた篠原会長が、僕ら3人のところに来た。

  彼は笑いながら「さぁ、神童さん、ステージに上がりましょうか。僕が歌いますから、是非、ドラムをお願いします」と仰る。まだ会場の半分を回らないといけないのだからジョークなのは百も承知。「いやー、プロ達を食っちゃいけませんから」と僕もジョークで返す。こんな遣り取りにSもHもビックリといった表情だ。

  当時、篠原社長は社員を大勢引き連れて、NHKホールにも国際フォーラムにも、そして、オペラシティーにも、忙しい中を駆け付けてくれた人だ。その篠原氏と今もこんなジョークを言い合える関係に感謝しながら、彼の晴れ舞台を見届けた。感無量の一日だった。

                         苦節15年  ― 完 ―

 

7月 17, 2014   4 Comments

苦節15年 (中)


.  親会社が倒産して、システム開発の子会社としては、誰しもが泥船から逃げ出してもおかしくないのに、経営陣・社員共に一人も逃げ出すことなく、全員で自立した独立系ソフトハウスを目指して走り始めたのだから素晴らしい。そして、2年後には早々に店頭上場を果たした。その間の苦しみや苦難は並大抵ではなかったと思う。

  その後、篠原氏は東証第二部上場を視野に、最後は一部上場企業を目指すことを全社員を前に宣言した。篠原氏に聞くと、それはやはり、顧客獲得上大きな効果(信用力の裏付け)があるし、何よりも1部上場企業の社員という信用力は大事で、住宅ローン等の銀行融資枠が最大に拡がるなど、社員に生活上の大きなメリットを享受して貰うためだという。

  あの時の会食で、趣味の話に及んだ時、彼は、本当は音楽の仕事がしたかったと言い、お父様と同じビクターに入りたかったが(お父様は確かレコードの制作から発売までのプロデューサーから重役になった人だったと聞いた記憶がある)、叶わず、已む無く生保業界に飛び込んだそうである。

  僕も、青春時代を音楽で過ごした口だから話が弾む。更に驚いたのは、現在も会社の進発式などで会社のバンドでギター演奏とボーカルをやるとのこと。何ということ。その時僕も、会社のクリスマス・パーティーで会社のバンドでドラムを叩くために正に特訓中だったから、楽しいやら驚くやら。

  篠原氏に当社での講演をお願いした翌々年の4月、今度は僕が篠原氏の会社で特別講演を頼まれてしまった。その直前に認められた東証第二部上場記念のパーティーを兼ねた新年度進発式での講演だった。篠原氏に講演して貰った場所は、社内の大会議室だったが、僕が講演する場所はサンシャイン・ビル内のプリンスホテルだから、何か篠原氏に申し訳ないような気分に襲われた記憶がある。

  僕自身の講演は、彼のようなドラマティックな物語が有ろう筈もなく、当時損保業界を取り巻いていた「保険金支払い漏れ」の真の原因について、また、支払い漏れの防止もやはりシステムの役割が多きいこと、従って、そういう点でも御社に期待するところ大である旨を400名の前で話した。その後、場所を変えて、第2部のパーティーに突入した。

  パーティーでは篠原社長も、「東証第二部という字の横棒を早く1本取り除きたい」と挨拶されていたのを思い出す。豪勢な食べ物を頂いてアルコールも少し効いて来たところで、社員の皆さんのバンド演奏が始まった。3曲ほど終わったところで、「さぁ神童さん、舞台へ上がりますよ!」と篠原氏。

  「え?」。全く聞いていないよ。一緒に来ていた部下のOはさっさと舞台に上がっている。「あいつ、俺には何も言わなかった」とブツクサ言いながら、舞台に上がった。篠原さんが「亜麻色の髪の少女、大丈夫ですよね?」と断定的に仰る。「まぁ、確かに昨年のクリスマス・パーティーでやった曲ですから」と応じながら、全てOが篠原氏と打合せ済みだと理解した。

  良く覚えていないが、全部で3曲ほどぶっつけ本番でドラム演奏させられたような気がする。プリンスホテルだけに音響が凄く良かった。篠原氏がギターを弾きながら歌った甘い声は今でもしっかり耳に残っている。結局、僕は「講演」と「公演」の両方をさせられた訳だ。

7月 15, 2014   No Comments

苦節15年 (上)


.  (株)東邦システムサイエンスというソフトウェア開発会社(通称ソフトハウス)がある。元々は東邦生命という生保会社の子会社で親会社のシステム開発を請け負っていた。ところが、1999年、あろうことか資産5兆円の親会社が倒産してしまったから、さぁ大変。

  親会社が潰れて子会社が生き延びるなどという奇跡は普通あり得ないこと。東邦生命を買い取った米国資本GEキャピタルは、米国のシステムでやるので、システム子会社は不要と通告して来た。一縷の望みも絶たれ奈落の底に突き落とされたのだった。文字通り、親を亡くした「みなしご」となってしまったのである。

  さて、この物語は絶体絶命に追い詰められた元生保マンが、営業という自身のキャリアとは全く畑違いのシステム開発がメインのこの子会社を、自活・自立の道に踏み出させ、遂にこの3月、「みなしご」をして晴れて東証一部上場し、一流会社の仲間入りをさせた感動の物語である。一部上場は、正に苦節15年の涙ぐましい努力が報われた瞬間だった。

  彼の名は篠原誠司。(株)東邦システムサイエンスの現会長である。

  実は僕がまだ現役だった時、東邦システムサイエンスには協力会社として当社のシステム開発に参加して貰っていた。その篠原氏(当時社長)とある時会食したことがある。生保会社からシステム子会社を預かっていた篠原氏と、損保会社のシステム子会社を任されていた僕。似たような境遇から直ぐに意気投合した。学年は僕より1年下だが同い年の生まれだ。

  どん底から這い上がる経験を語ってくれた篠原氏に、その場で同じ立場の当社で講演をお願いした。親会社があることに安心し切っている社員達に緊張感を与えたかったのだ。どのくらい社員に伝わったかは分らないが、「会社の名前で仕事してたり、会社の中だけで仕事しているだけでは分らない『その人の市場価値』というものがある。それが高いか低いかなんです、大事なのは」という彼の言葉はとても印象深かった。

  東邦システムサイエンス社は親会社倒産の時点で、一定程度外売り(親会社以外の受注)を行っていたことが、その後、100%外売りの独立系ソフトハウスとして地位を確立していく上で大きな拠り所となったと篠原氏は言う。

  元々外売りの業務を行っていたSE達は、親会社が倒産しようがしまいが、自分の顧客先の業務を行っている限り何の痛痒も感じなかったようだが、親会社の仕事だけをして来た人達は、もう一度顧客先の信頼を得なければならない。実はそれが物凄く大変だった。

  大変さの一つは、顧客先は生保でなく、損保や証券、銀行だから、今までの生保業務の知識は何の役にも立たなかったこと。第二は、システム子会社のSEは協力会社SEへの指示や進捗管理などを司るが、今度は立場が逆になること。第三は、それまでプロジェクトのチームは同じ会社の同僚だったが、様々な協力会社の寄せ集め集団の中で仕事をしなければならなくなった。

  これらを精神的にも業務知識に於いても乗り越えて仕事を取る、ということの大変さを嫌というほど感じた。要は、親会社の仕事に「おんぶに抱っこ」だったことの克服が最大のハードルだったかも知れない。篠原氏は、僕の会社の社員に対してそんな話をしてくれた。

  篠原氏の講演を聞いて、何の疑いも持たなかった自分達の仕事のやり方が、一般社会(世間)に通用するのかという視点ではどうかという、全く別の尺度が存在することに気が付いたSEが少なからずいたことは、僕にとっても嬉しいことだった。

  9年も前のことだった。

 

7月 14, 2014   1 Comment

銀座タクト出演の巻 (9) 終わり

.  正直言うと、4年前の秋に、クーペ&Shifo と別れて、おじさんバンドが独立したのは良いが、おじさんバンドの活動の場を失うという大ピンチに見舞われた。その時、僕は何としてもこの気のいい仲間を失うまいと心に誓った。そして、最年長の僕がバンマスを務めようと勝手に思った。(それまでのバンマスは実質的にShifoだった?)

「マンスリー・ライブを始めないか」と皆に声を掛けて、漸く翌年4月、多摩郊外のライブハウス「コルコバード」で第1回目のライブを敢行した。この時は観客が大勢駆け付けてくれて、店のマスターからは「コルコバード始まって以来の大入り」と言われるほどの大盛況だった。以来、1年間で12回のライブを遣り切った。

  以前は、クーペの店で毎週1回、おじさんバンドの日というのがあったので、毎週のように演奏していたのが、「コルコバード」のライブまで何ヶ月も演奏をする機会が無かった。第1回のライブは、メンバー全員が演奏することに飢えていたかのような、パワー全開の熱い熱いライブとなった。今でも忘れられない記念のライブだ。

  それから3年半、1月のグレコから6月の銀座タクトまで、これまでのおじさんバンドの集大成のような10周年の記念ライブの数々が実現しどれも成功した。この気のいい仲間を失うまいとの、あの時の誓いは形になり達成されたとの感慨をもって、この日、僕がバンマスを降りて10歳年下の佐藤さんにバトンタッチ出来たのはとても幸せなことだった。

  ライブから遠ざかった時期に、僕らの仲間意識を風化させずに済んだのは、大木先生のご自宅のスタジオで、飲み会とも練習ともつかない集まりを月一でやらせて貰ったのが大きかった。その点で大木先生には感謝してもし切れない。

  そして、2年前の春、大木さんが校長先生を退任すると同時にご自分のライブバー「グレコ」を開店されたので、僕等の拠点は「コルコバード」から「グレコ」に変わって今がある。自分達の活動拠点、否、自分達のお店と思える場所があったのは、大変幸せなことだった。その点でも感謝したい。

  大ピンチや大病を含めて様々なことがあったにも拘らず、こうして10年も続いたアマチュア・バンドは珍しい。メンバー達も多分、この「のどごし生バンド」を他に代え難い生涯の仲間と思ってくれていただろうことに感謝したい。

  また、若い亜希さんとマエマエが加わり、それまでとは違うジャンルの音楽にも挑戦する機会を得て、「のどごし生バンド」の新たな魅力や可能性を引き出してくれた。若い女性2人が、こんなジジイばかりのバンドに、良くぞ入ってくれたと思う。お蔭でこちらは、いつも楽しい音楽の時間(お酒の時間?)を過ごさせて頂いた。本当にありがとう。

  最後に、僕たちを温かく見守り長い間応援して来て下さった皆様に、厚く御礼申し上げます。

  僕自身は、大きな節目を最高の形で終えられた満足感がある一方、この半年間の疾走から解放され、虚脱感、乃至、脱力感のようなものを、今、強く感じているのも事実。許されるなら、少し休ませて貰って、気力・体力を万全に整えた上で、夏の日差しが収まる頃、ライブの再開をさせて頂ければ有難いと思っています。

  いずれにしましても、「のどごし生バンド」は、新体制でマジに20周年を目指します。今後とも、どうか倍旧のご支援を賜りますよう心からお願い申し上げます。

                                    神童覇道 謹拝

 

【銀座タクト 曲目】

  第1部  Kei & シャープ・ファイブ

     1.  ブルドッグ
     2. 朝日のあたる家
     3. バケーション
     4. カラ―に口紅
     5. 素敵な16歳
     6. オー・キャロル
     7. この世の果てまで
     8. ダイアナ
     9. ラブ・ミー・テンダー
    10. コーヒー・ルンバ
    11. ラストダンスは私に
    12. 青い影
    13. ガラスの部屋
    14. ロコモーション
    15. イズント・シー・ラブリー
    16. 星影のバラード

   第2部  のどごし生バンド

    17. テイク・ファイブ
    18. キリング・ミ―・ソフトリー
    19. 鈴懸の径
    20. ルート66
    21. 真夜中のボサノバ
    22. アンチェイン・マイ・ハート
    23. ジョニー・B・グッド (アンコール)

  第3部  Kei & シャープ・ファイブ

    24. この素晴らしき世界 (ドラム唯一の休み)
    25. ビーナス
    26. ルイジアナ・ママ
    27. 涙の太陽
    28. 天使の誘惑
    29. 恋のバカンス
    30. 好きにならずにはいられない
    31. キッスは目にして
    32. スタンド・バイ・ミー
    33. 上を向いて歩こう (飛び入り)


                   銀座タクト出演の巻  ― 完 ―

 

.    窮屈でスミマセン お詫びに歌います     Photo by Yamane

.     窮屈でスミマセン お詫びに歌います

7月 3, 2014   4 Comments

銀座タクト出演の巻 (8)

.                銀座タクトのステージ (HPより)

.             銀座タクトのステージ (HPより)

.  ライブが終わった時、僕は大きな達成感と満足感を味わっていた。第1部は緊張からか、自分の硬さを感じながら、ミスも幾つか犯したが、第2部の「のどごし生バンド」の仲間とのいつも通りの演奏で、リラックス出来、第3部は、それこそ、プロ達と一緒の演奏を思いっ切り楽しむことが出来たのだから。

  尤も、最後の曲(上を向いて歩こう)の時は、左足の靭帯の辺りが妙に攣ってしまい、いつものやり方である、ハイハット・シンバルのペダルをつま先と踵を交互に踏む奏法が出来なくなり、已む無く、左足を上げては下ろす踏み方で乗り切った。さすがに32曲は無理があるようだ・・・

  終了後、Keiさんに、プロ・バンドの皆さん(シャープ・ファイブ)や、Keiさんの熱烈なファン達との打上げ会に誘われたが、僕ら「のどごし生バンド」は別の場所で打上げ会を予定していたので、丁重に断り、且つ、本日銀座タクトにゲスト・バンドに招いてくれたことに礼を言って、会場の「和民」に向かった。

  まずはジョッキの生ビールを注文し、皆で乾杯した。何とも旨いビールだった。

  それもその筈なのだ。「のどごし生バンド」は名前の如く、演奏前も幕間も、必ずと言って良いくらいビールを飲みながらが普通のスタイルなのに、この日の僕は、休憩なしで、第1部から3部まで出ずっぱりだったから、アルコールはただの一滴も飲んでいなかった。

  さて、一息吐いたところで、僕は正式にある提案をした。

「10周年記念ライブは、1月から始めて都合3回グレコで行いました。そして、今日の銀座タクトが10周年記念行事の締めくくりでした。今年の年明け、10周年ライブを何としても成功させたい、そのために自分の全エネルギーを投入する、と誓いました」。

「そして、それが今日全て終わりました」。

「そこで提案ですが、次の10年を考えた時、私より10歳若い佐藤さんにバンマスを引き継いで貰うのがベストだと思うのです。皆さんどうかご了承下さい」。

  佐藤さんが、「皆さんのご協力を得て何とかバンマスを務めさせて頂きますので、宜しくお願い致します」と挨拶したので、一応、メンバー達もバンマス交代を静かに追認してくれた格好になった(これは言い間違い。みんな僕に気を遣って交代大賛成の声を遠慮したのが真実)。

  尤も、この話は、既にメンバーには伝えてあって、銀座タクトのライブ打上げ会で、正式にバンマス引き継ぎを承認して貰う形を取っただけなのだが、箱根駅伝ではないけれど、半年に及ぶイベントの終了と、この日の32曲の演奏で体力・気力の限界が重なり、フラフラの状態で、佐藤さんに無事タスキを渡すことが出来て、僕は不思議な幸せ感に包まれたのだった。

7月 2, 2014   No Comments

銀座タクト出演の巻 (7)

.    シャープ・ファイブのベース 竹原氏     Photo by Yamane

.    シャープ・ファイブのベース 竹原氏     Photo by Yamane

.  「のどごし生バンド」のステージが終わって、直ぐに第3部。最初の曲はゲストのOさんが歌う「ホワッタ・ワンダフル・ワールド」。間奏ではOさん自身がトランペットを吹く。

  僕は当日のKeiさんとの打ち合わせで、32曲のうち、この曲だけドラムのお休みを貰った。なので正しくは31曲になったと思ったが、最後の最後に予定外の1曲が追加されたので、やはり僕のドラムは32曲だった。

  2曲目からは、Keiさんが8曲連続で歌うステージだ。まずは「ビーナス」(ショッキング・ブルー)。僕自身、緊張の第1部、のどごし晴れ舞台の第2部を無事終えホッとしていることもあり、大変リラックスして「ビーナス」を演奏出来たと思う。

  この曲は、12年前、前の会社のクリスマス・パーティーの時、会社の軽音部バンドで演奏した曲で、33年振りに人様の前でドラムを叩いた思い出の曲だ。

  昨年の1月、目黒ブルースアレイでも、ダンディー・クイーンで演奏しているから、何の不安もなく楽しんでドラムを叩けたことが大きいのだろう。この曲で僕はノッた。自分の中では、第1部に比べたら何倍も安定したドラミングが出来た。

  Keiさんも、第1部より集中して歌い、「Kei On Stage」を作り上げたように思う。「ルイジアナ・ママ」「天使の誘惑」「恋のバカンス」「キッスは目にして」など、懐かしいロックンロールを7曲演奏し、最後は「キャント・ヘルプ・フォーリング・イン・ラブ・ウィズ・ユー」(プレスリー)でしっとりと締めた。

  僕としては、第3部のドラムは、オーバーに言えば、自己最高の出来と思えるほど、気持ちが乗った楽しいステージだった。

  途中、おば様達がステージに上って踊り出すハプニングがあったり、沢山の花束贈呈があったりKeiさんのリサイタルぽくなって終わった。 筈が、トランペット片手にOさんがステージに乱入して来て、マイクを取った。またぞろハプニングか。

  「皆さん、折角ですから最後に、上を向いて歩こう、を一緒に歌いましょう」と言ってギターの保山さんにキーを告げてトランペットでイントロに入ってしまった。バンド・メンバーは何の打合せもなく、「上を向いて歩こう」の伴奏に入って行く。さすがはプロ。凄い。

  ドラムは、音階がないから、キーが何かは考えないで良い点が最大の長所だ。ただリズムが何かを思い出せば良い。最初、僕はシャッフル風に叩いたが、どうもしっくりこないので、普通のスウィングに変えたらまずまずだったので、最後までスウィングで押し通した。

  会場のお客さんが果たして歌うのか、と危惧したが、大勢の歌声が聞こえて来た。Oさんが、次の歌詞を早口で伝え、皆がそれを歌う。昔流行った歌声喫茶風だ。

  後日寄せられた感想メールでは、このOさんの「勝手歌のおじさん」フィナーレは評判が頗る悪かった。「誰も彼を止められなかったのか!」と僕がお叱りを頂戴した。「Keiさんが最後を締めるべきだ」とも。

7月 2, 2014   No Comments

銀座タクト出演の巻 (6)

.    のどごし生バンド @銀座タクト   Photo by Bella

.    のどごし生バンド @銀座タクト   Photo by Bella

.  僕らのステージは30分の予定だったが、ラストナンバーが終わったところで35分掛かっていた。だが、会場はアンコールの合唱になっている。僕は、舞台袖にいる筈のKeiさんを目で探した。やっと目が合った。アンコール曲をやっていいかという意味で、指でOKサインを作って尋ねた。

  彼女は、ウンウンと頷いてくれた。時間オーバーだが、アンコール曲「ジョニー・B・グッド」を開始した。普通ギターでイントロを弾くが、僕らのバンドにギターはないので、大木さんのピアノでギターの代わりに弾いて貰うのだ。

  でも、僕は、先生のピアノのイントロの方が「のどごし生バンド」のカラーにピッタリ合っているので寧ろ好きだ。

  佐藤さんが歌い始めると同時にアンディーがステージ中央に躍り出て、強烈なツイストを踊り始めた。僕らには定番のアンコールだが、初めて「のどごし生バンド」を見るお客様には相当に強いインパクトを与えたようだ。

  いや、それだけではない。新子安の「グレコ」では何度も見掛ているアンディーのツイストも、銀座タクトの舞台で見ると、女性客にとっては新鮮に、そして、セクシーに映るものらしい。

  「アンチェイン・マイ・ハート」と「ジョニー・B・グッド」の時、後ろの方では何人もが立ち上がってディスコを踊っていた。演奏している方からすると、そういう景色は、皆さんが相当ノッてくれている証拠と見えるので、気分良く演奏することが出来た。

  ゲスト出演ではあったが、結成10周年の記念ライブの最終回は、僕個人としては大満足の45分だった。出演メンバー全員が大満足のライブと感じてくれたら嬉しいのだけれど、残念ながら大木先生にとっては、いつものグランド・ピアノでなくシンセでの演奏(銀座タクトにはピアノが置いてない)だったため、気持ち良くハイテンションで演奏出来たかというと、決してそうではなかったと思う。

  それでも観客からの感想には、「場所が場所だから、大木先生はバリバリ前面に出てピアノ演奏すると思ってたら全く逆で、凄く抑制の利いた渋い演奏をしてたので、それが、大木先生の本当の凄味だと思った」というのがあった。何をやってもここまで感心させる大木さん、やはり只者でない。

  感想ついでに、「のどごし生バンド」に関する感想を幾つか紹介すると、

「今度は、のどごし生バンドだけで銀座タクトでライブやって」
「のどごし生バンドは、遂に銀座に受け入れられた。是非、定期演奏会を」
「今日ののどごしのステージ衣装は落ち着きがあってとても良かった」
「今までで一番良い出来だったのでは」
「亜希さんを入れて、もう一度銀座タクトでやって」
「32曲もドラムを叩いた神童さんは凄い。若い。青春真っ只中だね」

  と、押しなべて好意的な感想が寄せられているのは正直嬉しい。しかし、ライブ全体となると厳しい意見も相次いだ。

「生徒の発表会みたいで、ライブ全体のコンセプトが全く分からなかった」
「飲み放題でなく、ワンドリンク付きで良いから、発泡酒でなく生ビールにして」
「Keiさんは小柄なのに、とってもパワフル」
「お金出して来てるんだから素人に歌わせるなよ」
「あの態度のデカイ小太りのおっさん、どうだ、俺上手いだろう? という歌い方。鼻持ちならなかったね」
「最後にトランペットの変なおじさんが、ステージに乱入して来て、ラストを仕切っちゃったけど、誰も止められなかったの?」
「途中で、勝手にステージに上がってダンス躍った女の人、ダンスの先生かなんか知らないけど、身内の忘年会じゃないんだから」
「神童のワンマンショーみたいだった」(良い意味ではなく、それならチケット高過ぎという意味)

7月 2, 2014   No Comments

銀座タクト出演の巻(5)

.       のどごし生バンド イン 銀座タクト    Photo by Yamane

.     のどごし生バンド @銀座タクト  Photo by Yamane

.  2曲目はアンディーの「キリング・ミー・ソフトリー」。今日のお客さんの半分はKeiさんやお弟子さん、ゲスト・シンガーのお客様だから、のどごし生バンドの演奏は初めて聴く人達だ。アンディーが歌い始めたら、「オー」という驚きに近い声が聞こえて来た。

  それに気を良くしたか、アンディーもいつもより更に甘く低音を響かせて歌っているように感じたのは僕だけか? 女性の心を鷲掴みするような声だった。

  当日を含めライブ終了後に僕にメールをくれた女性陣には、アンディーの「キリング・ミー・ソフトリー」と、アンコールの曲をバックにステージ上で躍った彼のツイストには、「アンディーの声がヤバイ」「グッと来た」「とてもセクシー」という感想が多かった。

  アンディー、良かったね。何回もライブやって来たけど、こんな感想を寄せられたのは初めてかも知れない。それにしても、アンディーは「おば様達」にモテるね~。銀座タクトでライブやって良かったね。

  続いて、浜ちゃんのクラリネットで、定番の「鈴懸の径」。この10年、浜ちゃんのこの曲は何十回と演奏して来ているが、珍しく、浜ちゃんが緊張しているのか、途中音が出ない箇所があった。その時の浜ちゃんの「しまった!」というのか「恥ずかしい」というのか、その表情が何とも可愛いらしかった。

  4曲目は38F佐藤さんの「ルート66」だ。佐藤さんはオリジナルの日本語詞を付けて歌う。日本橋から日野までの「ルート20(国道20号)」と日本橋から新子安までの「ルート1(国道1号)」を歌い上げるのだ。

  実は、以前、ヨッシーが僕らのライブに来てくれた時一番気に入ってくれた曲だ。今日は、そのヨッシー初め、TAKA・AYA・トオルちゃん・ナッケンの、高校同期のバンド(タペストリー)仲間5人が駆け付けてくれたので、この曲をセットリストに入れた。

  他のお客さんも、土方歳三や安藤広重が登場する、普通と違う一風変わった「ルート66」を大変興味深く聞いてくれているのが分かる。この佐藤さんについての後の感想では、「ルート66」と共に、MCが大変良かったという人が多かった。MCは、まずよく通る声で簡潔に纏める表現力、客席を旨く乗せる話術などと、かなりの好感度だった。

  そして、次が急遽差し替えた「真夜中のボサノバ」。レパートリーの中では、マエマエとアンディーの代表的デュエット曲だが、ここのところあまり演奏の機会がなかったから、少し不安なスタートだったが、始まってしまったら直ぐに曲の中に入り込めた。

  「テクファイブ」と共に「真夜中のボサノバ」も、マエマエとアンディーの歌唱力とハーモニーがとても評判が良かった。「マエマエのソロ曲を是非聞きたかった」という声が多いのも事実。佐藤さんと亜希さんを含めた4人のボーカルが、「のどごし生バンド」の売りの一つであることを改めて確信した銀座ライブとなった。

  最後の曲は、恥かしながら、僕の持ち歌である「アンチェイン・マイ・ハート」だ。歌う前に、佐藤さんからマイクを僕に振って貰う手筈通りに、僕が少ししゃべらせて貰った。

  「先程からQP神童と呼ばれていますが、私にもちゃんと本名があるんです。全く普及しませんでしたが、正式にはジェームス神童と言います」。笑が来た。

  「決して押し売りでなく少ししつこくお願いしたら、約60名の方がチケットを買って下さいました。大変ありがとうございました。しかしそのために、Keiさんのお客様と合わせて120名にもなり、大変窮屈な思いをさせてしまいまして誠に申し訳ありません。そのお詫びと言っては何ですが、一曲歌わせて頂きます」と口上を述べて、いつものように歌った。

  寄せられた感想の中で、この曲に対するものは、「ベースの弾き方がR&B風で凄く良かった」「先生のピアノソロはさすがでした」「アンディーとマエマエのバック・コーラスを従えて、神童さんとても贅沢」で、結局、僕の歌に対する感想は殆どない。なんで?(笑) 唯一の例外は、「神童さんのアンチェイン・マイ・ハート、今までで一番良かったです」というのがある。これまでどんだけ酷かったか、だね!?(笑)

7月 1, 2014   No Comments