プレミアムエイジ ジョインブログ
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Posts from — 11月 2014

My Love Song

友人のY君が、僕の作った曲を素晴らしい編曲でCDにしてくれました。単なる趣味として作詞・作曲しただけなので、人様に聴いて貰うつもりはなかったのですが、Y君がかなりの時間と労力を掛けて作り上げてくれたものなので、恥かしながら、当ブログに掲載させて貰うことにしました。

前に「俺のラブソング」という題名で詩だけ当ブログに紹介させて貰ったものです。最終的な題名は「My Love Song」となりました。40年近く前、僕の友人が結婚を決めたその日に、ぼくの部屋を訪れ、お酒の勢いを借りて明け方まで、2人のなれ初めや彼女を射止めた喜びなどを沢山語って行った時のことを思い出して作った曲です。

秘かなる趣味として作曲を重ね、これが丁度50曲目の作品です。ところがこれ迄の殆どが駄作で、後で恥ずかしくなるような曲ばかりですが、この曲は珍しく自分でも一寸気に入っています。でも他の方にはどうなんでしょうねぇ?

こわごわインターネットにアップしましたので、聴ける環境のある方は、どうか聞いてやって下さい。但し、歌は入っていませんので悪しからず(下記をクリック下さい)。感想など頂けると大変嬉しいです(酷評も大歓迎)。

https://dl.dropboxusercontent.com/u/27826613/mylovesong.mp3

 

My Love Song
                       作詞作曲 神童覇道
.                       編曲     八木祥之

Wow Wow Woh  Oh Yey Yey Yeh
Wow Wow Woh  Oh Yey Yey Yeh

The words just like a music of love
You whispered,’ I long for you’
Just at that moment I felt ten feet tall

I’ll swear everlasting love
And guard you through my life
Cause you made me the happiest man in the world

You are beautiful, you are so beautiful
You are the only light that shines in my heart
You are beautiful, you are so beautiful
You are the only light that shines in my life

(間奏)

I wonder if it can be true
Now we are walking hand in hand
On the path in falling leaves There’s nobody else

I’ll swear everlasting love
And guard you through my life
Cause you made me the happiest man in the world

You are beautiful, you are so beautiful
You are the only light that shines in my heart
You are beautiful, you are so beautiful
You are the only light that shines in my life

You are beautiful, you are so beautiful
I got a reason to live  I love you

Wow Wow Woh  Oh Yey Yey Yeh
Wow Wow Woh  Oh Yey Yey Yeh

【和約】

君は愛の調べのような言葉をささやいた
「前から貴方が好きでした」と
その瞬間、僕は10フィートにも大きくなったのを感じたんだ

永遠の愛を誓うよ
そして死ぬまで君を守ってみせる
君は僕を世界で一番幸せな男にしてくれたのだから

君は美しい  君はとても綺麗だ
君は僕の心を明るくしてくれる一条の光
君は美しい  君はとても綺麗だ
君は僕の人生を輝かせてくれるただ一つの灯り

(間奏)

これは本当のことなんだろうか
僕達は今こうして手と手を取り合って歩いてる
枯葉舞い散る小径(こみち) 僕達だけの世界

永遠の愛を誓うよ
そして死ぬまで君を守ってみせる
君は僕を世界で一番幸せな男にしてくれたのだから

君は美しい  君はとても綺麗だ
君は僕の心を明るくしてくれる一条の光
君は美しい  君はとても綺麗だ
君は僕の人生を輝かせてくれるただ一つの灯り

君は美しい  君はとても綺麗だ
僕は生きる意味を初めて知った  I love you

11月 30, 2014   2 Comments

若者の挑戦

今、僕が監査役をやっている小さな保険会社の若者が、本日をもって退職し、新たな挑戦を始める。年明けにミャンマーに渡り建築資材制作&住宅建築の仕事を知人と始めるという。元々彼の父親は記者として世界を駆け回った人のようで、本人も将来は世界を股に掛けた仕事をしたいと思っていたようだ。

25歳のH君は、この保険会社の営業マンとして、この会社を1年で4倍の収入保険料(売上げ)に伸ばした原動力の一人だから、会社としては彼を失うことは大変痛いところだが、しかし、夢に向かう彼の門出を気持ち良く送り出そうと、最終日に会社挙げての送別会(壮行会)が行われたのだった。

この数年、若者の海外志向が弱まり、海外留学希望者が激減しているという。バブルが弾けた後の、長い日本経済の停滞が、若者の夢や大志を縮め安全志向なり内向き志向に導いた影響も多分にあったことは否定出来ないだろう。

そんな中で、小さい時から父親の背中を見て育ったH君の「海外に羽ばたく」という夢の実現への挑戦は出色だと思う。そうは言っても、ミャンマーでのビジネスがそれ程簡単ではないと思うが、彼は3年は石に噛り付いても頑張ると宣言した。

H君の話によれば、かなり前の話になるが、国名がビルマからミャンマーへと変わった軍事政権の時、H君のお父様は記者として、アン・サン・スーチーさんの独占インタビューに成功したそうである。しかし、時の政権からは危険人物と見做され、以降、ミャンマーへの入国は禁止となったという。

いつかH君には、スーチーさんに会ってお父様からの伝言など渡して貰ったらいいなぁと勝手に思っている。

余談ながら、彼は学生時代バンドでドラムを叩いていたそうである。今もたまに仲間と演奏することがあると言う。僕も今ドラムを叩いていることを彼も知っていて、世代が2つも3つも違う僕に、何かと親しげにいろいろな話をしてくれたのだと思う。

彼の出勤最終日を目前に控えたある日、「今日、彼女にミャンマーに移り住むことを話さないといけないんです。別れ話は辛いですけど、これ以上先延ばし出来ませんからね」と僕に洩らしてくれた。僕は、「連れて行けばいいじゃないか」なんて能天気なことを言ってしまったが、生活がどうなるのかも分らない中で、そんなことを簡単に言える筈ないことを思い、自分の無責任を恥じた。

翌日、H君にどうだったか聞いた。「彼女にとっては、本当に突然のことでしたから、そりゃぁ驚いて言葉もないという状況でした。でも、最後は分ってくれたと思います。思いたいです」との答え。僕は思わず尋ねた。「君の方は、大丈夫か?」と。「僕は大丈夫です」と、そうでもない顔をしながら彼は言った。

仕事だけでなく、全てを投げ打って、外国に渡るというのはそういうことなのだ。それだけの覚悟を決めたH君には、本当に頑張って欲しいと願う。

11月 30, 2014   No Comments

園遊会


.  僕の高時代の親友に、ある女子大の理事長をしているIという男がいる。その彼が今月6日に行われた陛下主催の園遊会に招かれた。Iは、文部科学省の委員会の委員(全国の学校法人<私学>の経営状況を現地でヒヤリングし、指導・助言する委員)をやっている関係で、推薦されたのだろうと言うが、これは途轍もなく名誉なこと。

  僕の知り合いや間接的な知人に、園遊会に参列した人は一人もいないから、他人事ながら誇らしい気分になる。いや、一人だけいたか。元外務省事務次官で駐米大使の後、中央大学教授、国際海洋法裁判所長を務める傍ら、安倍晋三首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(例の集団的自衛権発動の答申を行った懇談会)で座長を務めた柳井俊二さんがいた。

  柳井さんとは、彼が中央大学の先生だった時、僕らが演奏していたライブ・バーに良く学生達と来てくれたので、幾度となく話をさせて貰った。Iがそういう人物と肩を並べたかと思うと嬉しく思うのだ。

  ということで、先日、Iを祝う有志の会が開催された。Iからは、宮内庁からの菊の御紋入りの招待状や当日の模様を撮った写真集、記念品の写真など事細かく紹介・報告があり、聞く方も全く知らない世界を垣間見たい思いで、興味津々で聞き入った。

  広い庭園(赤坂御苑)を背景に、奥様とのツー・ショットの写真を見て思ったことがある。彼も僕と同じで、家庭を顧みず(?)、外で仕事に遊びに一生懸命といった部類だから(30代40代の若い頃のIは知らん)、決して褒められた亭主ではないと思うが、その全てを解消し、この上ない奥様孝行をしたんだなぁと。

  そして、彼がおもむろに差し出した写真が、フォーク歌手のイルカとのツー・ショットだった。園遊会当日夜のNHKニュースで、その模様が報じられたが、僕はIが映るのではないかと目を凝らして見ていたのだが、彼が映ることはなかった。映像は、イルカが天皇皇后両陛下から質問され、それに答える場面が中心だった。

  なので、イルカが招待客であることは知っていたが、まさかIが二人で写真に納まっているのには正直驚いた。何を隠そう、Iは大学時代フォーク・バンドで歌っていたから、イルカの大ファンだった。このチャンスを逃してなるものかとイルカに話し掛け、イルカも快く応じてくれて成功した写真なのだそうな。

  その後イルカとはフォークの話で盛り上がったと、この点に最も力の入ったIの報告だった(笑)。僕は昔から彼のこういう感覚が好きなのだ。芸能人やスポーツ選手以外は各界を代表するような功成り名を遂げ、威厳に満ちた堅物と思しき人物が招待される園遊会だ。そういう中でこういうミーハー(失礼)が出来るIは人生の達人だと思う。

  僕と彼は中学こそ違うが、家が近かったから高校で同じクラスになってから、良く彼の家に遊びに行かせて貰ったものだ。お母様がまた僕を凄く歓待してくれて、当時では珍しい洋菓子や紅茶を振る舞ってくれたのを良く覚えている。

  今の彼が言う。「お前が来るとおふくろが喜んでサ、俺も食べたことないような高級な菓子を出すんだよね」と。それを目当てに彼の家に寄らせて貰ったのかも知れない。ウェスト・サイド・ストーリーのサウンド・トラックLPをIと一緒に聞いたり、思いを寄せる互いの彼女のことを話したり。16~17歳の頃の思い出の一つである。

  縁は奇なものとは良く言ったもの。僕が会社のシステム部門の部門長だった時の担当役員で、その後社長になったSさんという人がいる。仕事上だけでなくゴルフや飲み会でも親しくご一緒させて貰った。

  Sさんが社長を退任し会長になって暫く経った頃、高校の同期会が東京で行われた。久し振りに会ったIが僕に、「お前の会社の社長だったSさんと大学の理事会で一緒なんだよ」と言う。

  更に、「いやー、Sさんは相手が学長だろうが教授だろうが、ズケズケ物を言うから気持ちいいよ。どう見たってSさんの言ってることの方がまともだもん。俺はサァ、内部の人間だから上司にそうそう盾つくようなことは言えないけど、いつも心の中でSさんに拍手喝采している」と言ってくれた。

  Sさんは、ほぼ同時に会社の会長と出身大学(W大)のOB会の会長に就任したのだった。OB会の会長は自動的に大学の理事(普通の会社の取締役相当)に就任する制度だという。I君もW大の事務方のトップで理事になっていたから、2人はこの時接点が出来、謂わば同僚になった訳である。

  僕は余計なことながら、Sさんに今回Iが園遊会に招待されたことを伝えた。Sさんからの返信は、12月にIを是非ともお祝いしたいと3人の会食を設営してくれた。そのことをIも大変喜んでくれている。

  50歳過ぎた頃から、別々だった縁がいろいろ繋がって拡がって行く不思議な経験を何度もしているが、これなどはその最たるもの。だから、昔の人はご縁を大切にと言ったのだろうな。今になってその意味が分かる今日この頃である。

  しかし、僕が言う縁は飽く迄も人の縁のこと。

       円安も 園遊会も 縁がなし  (むーさん)

  お粗末。

11月 25, 2014   No Comments

健さんの訃報


今月10日、健さんが亡くなっていたとのニュースが今日流れた。享年83歳だった。悪性リンパ腫とのことで、世間には全く知らされていなかった。正に突然の訃報だ。誰が誰と深夜デートしただの、誰が既に別居しているだの、どうでも良いことをあからさまにする芸能人が多い中で、高倉健は殆ど私生活を晒さない、昔の大スターのスタイルを最後まで貫いた人だった。

  当ブログでも過去に何度か触れたが、僕は小さい時から彼の大ファンだった。小・中の頃、高倉健の大ファンだった姉が、僕を良く東映映画を観に連れて行ってくれたから、デビューの頃から彼の映画を観ている。

  少し後に、日活の石原裕次郎や若大将の加山雄三などが銀幕に登場し、一世を風靡するが、僕の中のナンバー・ワンは変わることなく高倉健だった。

  その当時は、青春ものが多かったと記憶するが、何人もの美人から言い寄られるが、シャイな彼は逃げ回る、といったシーンが多かった。この辺りが後の若大将シリーズのヒントになったのではないかと想像していたくらいだ。この青春映画時代が、映画俳優高倉健の第一期と勝手に定義している。

  その健さんが、再び脚光を浴びたのが東映のやくざ映画路線を切り開いた「網走番外地」だ。それからは健さんのやくざ映画が次から次へと大ヒットして行く。映画を観る限り、健さんの一人殴り込みの時の啖呵はド迫力だった。本物のやくざもビビるのではないかとさえ思わせる凄味があった。

  やくざ映画時代を彼の俳優人生の第二ステージとすれば、「幸せの黄色いハンカチ」「八甲田山」以降。「駅STATION」「夜叉」など、文芸路線とでも言うのだろうか、男の内面を描く俳優に変わって行く。僕流の定義では、第三期突入である。

  この第三期は、遺作となった「あなたへ」まで続いた。内面を台詞ではなく背中で語らせたら彼の右に出る者はいないと思う。その上カッコいいから堪らない。

  「鉄道員」の原作者の浅田次郎氏が、映画の舞台挨拶を高倉健や他の映画出演者と一緒に行うことになった。その時健さんに挨拶したら、浅田氏が頭を上げるまで、彼は決して先に頭を上げようとはしなかったという。スーパー・スターでありながら、誰に対しても偉ぶらず丁寧に接する健さんを実にカッコいいと思ったと述べている。

  僕はこの第三期の作品群が一番好きである。尤も、健さんのファンなら皆さん同じだろうけど。病と闘っていたとも知らず、次の作品を早く観たいと思っていたので、ショックは大きい。

  「あなたへ」は、日中合作映画「単騎、千里を走る」から6年の沈黙を破って映画出演した作品だ。「自分も降旗康男監督もジジイになって来たから今の内に撮っておかないと、と思った」と語っているが、この日の来ることを予言していたように思えてならない。

  もう、健さんの新作が観られないとなれば、ツタヤからDVDでも借りて、第三期の映画を最初から順を追って全部観直してみるのも良いかも知れない。そうだ、そうしよう。追悼の意を込めて。

  健さん、ありがとう。ご冥福をお祈り致します。

 

11月 18, 2014   No Comments

さよならと言ってなかった

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2年前の11月下旬、友人の猪瀬が都知事選に立候補を表明し、12月に行われた選挙では都知事選史上最多の433万票という圧倒的得票数で当選した。

この時、僕も大勢の高校同期の連中達と彼の選挙事務所に駆け付けて、選挙事務所開き、出陣式、陣中見舞(仲間達からの差し入れ届け)、開票日の勝利演説など全て居合わせ、この目で見ているから自分のことのように興奮した日々であった。

年が明けてから直ぐにオリンピック招致運動に取り掛かり、猪瀬は奥様のゆり子さんを伴って、ロンドンやニューヨークに赴いて、各市長やIOC委員から東京招致への協力取り付けなどに奔走した。

5月のサンクトペテルスブルグのオリンピック招致プレゼンの出発直前に、ゆり子さんの脳腫瘍が発見され、余命数か月を宣告される。夫妻でプレゼン会場に向かう予定だったが、猪瀬一人で向かう。

帰国後、直ぐにゆり子さんの長時間に及ぶ手術。医師は、完治は有り得ないが、脳を圧迫していた腫瘍の大部分を取り除いたから、死期は数か月延びるだろうと伝える。だが自身、快復を疑ってもいなかったゆり子さんは、数日後容体は急変し、こん睡状態に陥る。6月のローザンヌでの招致プレゼンの前には、医師から「いつどんな変化があってもおかしくない」と言われた。要は、いつ死亡するか分らないと言う意味だ。

「ローザンヌから戻るまでは何としてももってくれ」と祈りつつ猪瀬は機上の人となる。ローザンヌでは、スペインがフェリペ王子をプレゼンターとして登場させたため、流れは一気にスペインに傾いて行った。プレゼンが終わるまで、猪瀬は妻の危篤状態に関して誰にも言わなかった。日本のプレゼン・チームの動揺を恐れたのだ。

最終日、プレゼンが終ってから、フェンシングの太田選手、義足の走り幅跳び選手の佐藤真海選手、プレゼンターの滝川クリステルさんに打ち明けると皆涙を流してくれた。帰国後直ぐに病室に向かう。寝息を立てて眠るようにしか見えないゆり子さんは、頑張って夫の帰りを待ってくれていたのだ。そして翌7月21日、遂にゆり子さんは帰らぬ人となった。

葬儀は青山斎場で行われたが、この時僕も参列しているから、猪瀬が挨拶に立って話すのをじっと見ていたが、途中何度も涙声で詰まったりする猪瀬を、この時初めて目撃した。

9月。ゆり子さんの写真を入れたブレスレットを胸に、ブエノスアイレスに向かう。猪瀬としては、その年の1月からいつも一緒に招致活動をして来た奥様と共に、最終決戦の場にいたいという思いだったのだろう。そして遂についに、先行していたスペインを追い抜き、例の「お・も・て・な・し」で2020年のオリンピックは東京開催と決まったのだった。

その2か月後、例の5千万円事件が発覚し、猪瀬は追い詰められ辞任に追い込まれた。刑事事件としては略式起訴・5年間の公民権停止の処分を受けた。

正に前年の12月から始まった猪瀬の都知事の道は、丁度その1年後あっけなく幕を閉じたのであった。それにしても何という激動。何という落差。あの一年は猪瀬にこの本を書かせるためにあったのかと思わせるほどだ。

ホリエモンがこの本を読んで、人生の絶頂には必ず悲劇が付いて来ると、自身の絶頂と転落に重ねて感想を述べているが、たった1年の間に、これだけの天国と地獄を経験した人物も極めて稀だろう。

猪瀬は、小学校の教師だったゆり子さんの残した資料を取り上げて、彼女の仕事を通した人となりを紹介している。それは「微笑子(えみこ)の物語」の章だ。ゆり子さんの書いた日誌だが、それ自体が一つの物語なのだ。僕を感動させずにはおかなかった。

彼が長い謹慎と沈黙を破って、世に出したこの本は、奥様へのレクイエムであり、433万票を託してくれた都民に対する懺悔の書であり、何と言っても奥様との47年間の愛の記録である。友人として、彼が作家活動を再開したことはとても嬉しい。

猪瀬自身も、「普通だったら命日に墓参りをするだけかも知れないが、こうして本を書くことで、ゆり子への僕流の供養が出来るのだから、作家をやっていて本当に良かった」と言っている。

奥様への思いも5千万の問題も、全て包み隠さず、彼の気持ちが率直に現れていて好感が持てるし、何よりも真実を語る説得力はさすが大宅壮一賞作家・猪瀬だ。アベノミクスがあやしくなって来た今、猪瀬がやり遂げたオリンピック招致は、日本にとって疑いのない唯一の希望の灯ではないだろうか。都民だけでなく沢山の日本人が猪瀬の偉業を決して忘れることはないだろう。

そろそろ、彼とごく少数の悪友達で飲む機会を作ることにするか。

僕は猪瀬に協力するつもりで本を買い求め、読み終わった丁度その日に、彼から直筆サイン入りの同書が自宅に届いた。2冊あるので、読みたい方はご連絡ください。

11月 17, 2014   No Comments

内視鏡手術

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先週、内視鏡による大腸ポリープの摘出手術を受けた。9月に検査した時は、2つ見付かっていたのだが、今回改めて腸内を調べたら、極く小さな3つ目のポリープが見付かった。

医者は、「この3つ目も今回取りましょうかね」と言うので「お願いします」と言って切除が始まった。内視鏡の映像は目の前のテレビに映し出されるので、僕にも摘出の模様の一部始終が見える。

前回見付かった2つは、先生によると3mm程度の至って小さいもののようだ。「色や形からして悪さをするようなポリープではないから、まだ取らなくてもいいようなものですが、取っちゃった方が安心ですよね」とか仰る。切除する目的で来たのに。先生は内視鏡の管に切除用具を通して操作し始めた。

1つ目は、管の先から針金が円形状に出た器具で、ポリープの根本を挟んで切除。切取られたポリープは直ぐに管に吸い込まれたようだ。次に2つ目を探す。奥に行ったり戻ったりして漸く探し当てた。看護師の女性が、「先生、前回良くこの小さいポリープを見つけましたねぇ」とか言って先生の気持ちを盛り立てる。

2つ目も、同じ針金状の器具で取ろうとしたが、小さいためなかなか挟めない。そこで先生は、器具を変えて再チャレンジ。今度は管の先から、物を挟むジャイアント・クリップの、挟む歯の幅を狭くしたような器具でポリープをつまむ。そして、その歯に通電したのだろうか、一瞬で引っ張られた部分とその周囲の粘膜が白くなり、ポリープは切り離され管に吸い込まれた。

「ご覧のように、焼き切って取りましたので、旨く行きました」と医者が言うが、僕は白くなった所が残るけど、そこは大丈夫なのかなと疑問を抱く。それを察したかのように「この白い部分も4~5日で治りますから」と僕を安心させる。

さて最後は、この日、新たに見つかった3つ目のポリープの摘出だ。早速取り掛かる。先生に言わせると、1.5mmもないと言う。針金器具で挟もうとするが、小さ過ぎて上手く行かない。上っ面を空振りする。2~3度やったが挟めない。僕は、またさっきのジャイアント・クリップで取るのかなと思ったが、そうではなかった。

「これは小さ過ぎるので、今日はやめておきましょう。残しておいても全く問題のないポリープですし、途中で消えちゃうことも良くある大きさなので」と仰る。僕は率直に、「これも焼切ること出来ないんですか?」と聞く。「これだけ小さいと、健康な細胞の方のダメージが心配ですから」ということらしい。

処置が終わって先生は、摘出したポリープは一応検査(悪性か良性か)に出すが、10日ほどで結果が分かるので、その頃聞きに来るようにと言った後、「でも、色も形も大きさも、全く問題のないポリープですからご安心下さい」と言う。どっちなんだよ。

僕としては、3つ目を残したままなので、尚、スッキリしないが、ポリープは小さいうちに見付けて切除すれば大事に至ることはまず無いとの医者の言葉で納得することにした。

「先生、60歳の時の記念検診で見付かって切除して貰ってからは、ずっとポリープは無かったのに、昨年今年と連続して出来たのはどうしてでしょう?」「体質の変化もあるし、耐性の問題、辛い物が好きだったり、お酒を沢山飲まれたり、いろいろ考えられます」と先生。

僕は、あぁ、お酒だ! と直ぐにピンと来た。だけど、お酒飲まないでポリープが出来ないのと、お酒飲んでポリープを切るのと、どちらを選ぶかと聞かれたら、そりゃぁ、さぁ~ぁ、やっぱ後者でしょ。

僕は、小さいポリープを取っただけだから、今日は入院無しで帰れるんだろうと勝手に判断してたら、「一応、ポリープを2つ取りましたし、焼切る手術もしましたので、術後ケアのため、一晩入院して下さいね」と軽く言われてしまった。

9月の検査の時に、「大きいポリープや複数のポリープを取った時は3~4日入院となりますので、そのつもりで来て下さい」と看護師から言われていたから、準備はして来たが、一泊二日ならまぁ良しとするか・・・

その晩は重湯、翌朝は3部粥、昼も似たようなもの。腸は痛みも何もないし、他は至って健康体なのだから、つらい空腹状態のまま丸一日過ごしたようなもの。4日も入院していたらそれこそ餓死してたな(笑)。手術から明日で丁度1週間。禁酒が解けるまであと1日の我慢だ(嬉)。飲むぞぉ!

11月 11, 2014   No Comments

反省

.  9月末に行った高校同期のゴルフ・コンペは100以上を叩き最悪の結果で、2日続けてブービーを取ってしまった。3ヶ月振りだったからとか言い訳を言ってはいけない。なんせ、ゴルフ歴40年なんだから。尤も、この10年は90を切ることも極めて稀になってしまったが、昨年、やはり3ケ月振りにやった時、88が出たのだから、必ずしも久し振りが悪い訳ではない。

  実は、そのコンペの前々日に練習場に行って、真面目に準備したのだ。それが良くなかったのかも知れない。その日、幾らやっても良い当たりが出ないので、少しベンチで休んでどうすればいいのか考えた。

  6月にゴルフに行った時、一緒に回った友人から、「神童さん、テークバックは良いんだけど、トップでタメがないですよ。チャー・シュー・メンのシューがない」と言われたのを思い出した。「メン・タン・ピン」とか「1・2・3」とかいろいろな言い方があるが、要は、トップでの切り返しが急ぎ過ぎということだ。トップでタメが無いということだ。「チャー・メン」とか「メン・ピン」になってしまっているらしい。

  閃いた。遊園地にある乗り物のことだ。何人も座れる大きな船でブランコのように前後に大きくスイングする、通称バイキング(スーパー・バイキング)という乗り物だ。ものが大きいだけに、船の前後どちらでもトップに向かって登る時は、トップに近付くほどスピードがゆっくりになり、やがてトップになる。

  そして、トップで一瞬静止してから、今度はゆっくりと下に降りて行き(登りと同じゆったり速度で始動)、徐々に加速して、最下点を通過した直後がトップ・スピードとなる。

  早速やってみた。「チャー・シュー・メンのシュー」で止めることを意識し、その前後はあの乗り物のトップ前後のユックリズムのイメージを大切にしながら。そしたらどうだ。それまで、どうやってもダメだったのに、ボールが芯を食って真直ぐ飛んで行くではないか。何発打っても8~9割気持ちの良い当たりが出た。これだと思った。バイキング打法と名付けた。

  そしてその翌々日、練習場の成果が出ると信じ、且つ、自分に期待してコンペの日を迎えた。早速バイキング打法で第1打を打った。ダフッた。銀座のテンプラだ。高いという意味。第2打、チョロッた。トップで止めるのを意識してやってるが旨く行かない。

  何でだよ! という気持ちが湧いて来る。一昨日、あれほど旨く当ってくれた打ち方なのに。早々とバイキング打法を止め元の打ち方に戻した。が結果は変わらないまま終了してしまった。

  僕は分かっている。前々日に新しい打ち方を始めて、幾らその日旨く行ったからと言っても、自分のものになっていないから(フォームを固めていないから)、グリーンに出ると練習場でやった様に打てていないだけだ。身体に覚え込ませるだけの練習量が必要だということだ。

  11月は2回ラウンド機会があるので、その前にバイキング打法が正しいのかどうか、もう1回確認をして、正しいのならその打ち方で量をこなすため、3連休に練習場に行ったのだ。

  練習場ではバイキング打法を思い出すのに少し苦労したが、分かってからは、前回の練習同様何発も気持ち良く打てた。良い当たりが出るまで少々時間が掛かったのは、トップで右手が蕎麦屋の出前のようになっていなかったから。そこに気付くのに手間取ったのだ。バイキング打法も、そういう基本的なことがダメならダメということも分かった。

  今日の練習で、前回のゴルフより少しはマシになる見通しがホノ見えたような気がするが、さ~て本番は如何に? 


.
追記 

  暫くの間当ブログを休みます。9月の検査で発見された大腸ポリープを明日切除しますが、術後ケアのため何日か入院させられるかも分かりませんので。但し、ポリープは全て小さいのでご心配無用に願います。入院よりも、1週間から10日間アルコールが禁止になる方が辛いです(笑)。

 

11月 4, 2014   No Comments

のどごし生バンド

各位

久し振りに、「のどごし生バンド」のライブのお知らせです。

今年の春、バンド結成10周年を迎え、メンバー一同、次の10年を目指そうと、決意も新たに精進して参ります。

ただ、10年後は一体何歳になるの? 良く聞かれます。そういう時僕は、「え!? うそ!? 喜寿!?」と、驚いたフリをします。

でも、そこまでこの同じメンバーで演奏やれたら本望。幸せですよね。頑張りま~す。

「青春とは、人生の一時期を指すのではない。心のありようを言うのだ」(サミュエル・ウルマン)

最近、この詩が大好きになりました。その心意気で、「のどごし生バンド」はライブを続けます。

次回開催は下記の通りです。是非、是非、是非、お越し下さい。新趣向のステージにもチャレンジ致します。

日時    11月29日(土) 17:00開場、18:00開演
場所    グレコ (横浜・新子安)
JR・京浜急行「新子安駅」徒歩4分
ジャンル  ジャズ、オールディーズ、Jポップ

なお、その次のライブ予告もさせて頂きます。

12月20日(土) 於グレコ 「のどごし生バンド X’mas Live」

今回来れない方は、是非そちらにお越し頂来ますよう、お願い申し上げます。

                  QP神童 こと James 神童

.    第16回 のどごし生バンド イン グレコ   

.               第16回 のどごし生バンド イン グレコ

11月 2, 2014   No Comments

映画「ジャージー ボーイズ」

.          フォー・シーズンズ     写真はネットより拝借

.          フォー・シーズンズ     写真はネットより拝借

.  昨日、クリント・イーストウッド監督作品の「ジャージー ボーイズ」を観た。友達が観て、「神童が喜びそうな映画だった」と教えてくれたので、早速上映館を調べて連休にでも観に行こうと思った。

調べてみたら、その映画は昨日(10月31日)で最終日の所が多かったので、他をキャンセルして会社の帰りに新宿の映画館に行って来たという次第である。

トニー賞を取った同名のミュージカルを映画化したものだが、内容は僕が高校の頃大ヒットした「シェリー」を歌ったフォー・シーズンズの伝記映画である。「シェリー」とは、「♪ シェエリー・シェリ・ベイビー・シェエリー」のあの裏声が轟く歌だから、ご同輩には懐かしい曲ではないかと思う。

彼等は自分で曲を作り、自分達で演奏するスタイルだったから、作詞・作曲も演奏も自らが全て行う「ビートルズ」の形、即ち、シンガー・ソング・ライターの先駆者だったのかという新しい発見があった。しかもビートルズと同じ4人組である。

.            フォー・シーズンズ   自ら演奏し歌うスタイル

.            フォー・シーズンズ   自ら演奏し歌うスタイル

また、全ての音楽伝記映画に共通するが、名もない頃のチンピラ達が、唯一音楽だけには情熱を傾け青春時代を送り、全く売れない時期を越えて遂に世に出るまでのシンデレラ・ストーリーは観ていていつも楽しい。だが、大ヒットを連発して絶頂期に入ると、徐々にメンバーの間に気持ちのすれ違いや、不満が噴き出して脱退する者が現れ、メンバーの入れ替えが起きる。

メインボーカルのフランキー・ヴァリとキーボード&作曲のボブ・ゴーディオが最後まで残り、ヴァリのソロ・シングル「Can’t take my eyes off of you」(君の瞳に恋してる)が大ヒットする。その直前、ヴァリは18歳の娘を麻薬で失い、失意の中にあった。

それを見かねたゴーディオが、彼に元気を取り戻して貰いたいと願って書いたのがこの曲だった。ヴァリはクラブでこの曲を初めて歌う。歌い終わった時観客は全員がスタンディング・オベージョンで讃える。この場面は泣かせる。

ところで、僕はこの「Can’t take my eyes off of you」が、フォー・シーズンズのメンバーが作り歌った曲だとは、全く知らなかったから、とても驚いた。このことも、この映画を観なければ知らないままだった。この映画を勧めてくれた友人に感謝しなければいけない。

と言うのも、この曲を僕が初めて好きになったのは、1980年代に、「ボーイズ・タウン・ギャング」がディスコ調の曲として大ヒットさせた時だったからだ。いろんな歌手がカバーしている曲だが、オリジナルは「ボーイズ・タウン・ギャング」だと思い込んでいたのだ。本当のオリジナルは「シェリー」を歌った「フォー・シーズンズ」のボーカリストだったとは。

映画のラストは、1990年に「フォー・シーズンズ」がロックの殿堂入りが決まり、その式典のステージで、25年振りにオリジナル・メンバー4人が「シェリー」を歌う。最早初老の4人だが、ステージでは当時のままのパフォーマンスを披露した。メデタシ、メデタシである。

.                          写真はネットから拝借

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11月 1, 2014   No Comments