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Posts from — 3月 2015

ロータリー・エンジン

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.  歳に似合わずRX-8(マツダ)というスポーツカーに乗って、今度の5月で満10年が経過する。10年前、何故RX-8を買おうと思ったかと言うと、丁度、NHKのプロジェクトXという人気番組で、RX-8が取り上げられていたのを見て、いたく感動したからだ。

  それは、マツダの経営が苦しくなってフォードの傘下に入った時、親会社のフォードから、マツダの技術陣が執着と誇りを持っていたロータリー・エンジンは将来性無しと結論付けられ、ロータリー・エンジンからの撤退を命じられたことから、物語は始まる。

  ドイツ人の発明によるロータリー・エンジンは、レシプロ・エンジンのピストン運動に比べ、エンジン内の回転子(ローター)の回転運動なので動きもスムーズでエネルギー効率が良く、且つ、構造がシンプルということで、あらゆる自動車会社が開発を競ったが、マツダは市販車として世に数多くの車を出すことに成功した数少ない会社の1つだった。

  だが、その後の自動車各社のレシプロ・エンジンの改良・開発スピードは目を見張るものがあり、燃費の点でもロータリー・エンジンは後塵を拝するようになってしまう。2002年、フォード社の指示により、ロータリー・エンジン搭載車RX-7(スポーツカー)が製造中止となり、遂にロータリー・エンジン搭載車の歴史は幕を閉じられてしまう。

  ところがだ。フォードの命令にも拘らず、マツダの技術陣はフォードに隠れて秘かにロータリー・エンジンの改良開発を続けたのだった。そして技術陣の自信作であるRX-8の試作車を作り上げてしまう。

  丁度その頃、アメリカから技術陣の総帥(副社長)がマツダ社に出張でやって来ることを知った技術陣は、この試作車を是非彼に試運転して貰おうと作戦を練る。だが、マツダ社の経営陣にしてみれば、親会社から禁じられたロータリー・エンジンの研究を隠れて続行していたことや、その試作車まで作っていたことがばれると只では済まないから、なかなか同意しない。

  それでは、と言うことで、エンジンについては伏せて、彼に試作車に乗って貰って感想を得ようと謀る。

  そして遂に、マツダのテスト用サーキットにて、フォードの技術担当副社長が、RX-8を試運転する日が来た。彼はサーキット何周かしてマツダのスタッフ達の元に戻って来た。技術陣は彼の言葉を固唾を飲んで待ち構えた。

  彼の最初の声は、「It’s great.Wonderful!」だった。技術陣は心の中で快哉を叫んだのは言うまでもない。そして、この試作車のエンジンはロータリー・エンジンであることを、正直に副社長に伝えた。彼は、この車が技術者達の執念と人知れぬ努力の成果であることを知り、咎めるどころか市販車にすべく、その場でGOサインを出したのだった。

  僕もシステム・エンジニア出身だったから、マツダの技術者達の思いがヒシヒシと伝わり、感動のあまりこのRX-8を直ぐに買いたくなったという次第だ。

  しかし、58歳でこの車に乗った時は、仲間から「年齢を考えろ」だの「全く似合わない」「運転席から出て来た時、若者でなくオッサンだったら皆ビックリしちゃうよ」等々散々な言われ方だった。

  僕は28歳の時、結婚を機に初めて車を持って以来、4台を乗り潰して来た。他人より同じ車を長く乗る方なので、1台当たり平均7年強乗ったことになる。しかし、今回だけは出来る限り長く乗ろうと思っている。

  昔と違ってガソリン代も高くなっている上ハイオクでなければいけないし、且つ、現在では最も燃費の悪い車種の一つに挙げられる車だ。その上、10年も経つといろいろな部品やパーツを取り換えなければならない。

  かなりお金が掛かる車には違いないのだが乗り続けたいと思うのは、未だに高速を走ると、えも言えぬ爽快感に満たされるからだ。未だにあのプロジェクトXの場面が鮮明に思い出されるからだ。10年で走行距離は未だに4万キロにも満たないからだ。そして何より、2012年、マツダも遂にRX-8の生産を中止し、文字通りロータリー・エンジンに別れを告げた現在、日本で走っている極めてレアな車だからである。

  2年後、会社勤めを辞めたら、この車で全国各地を車で一人旅したい。その時までリペアしながら、我が愛しのRX-8を長生きさせようと思っている。

 

3月 31, 2015   No Comments

ダンディー・クイーンの打上げ

.       ダンディー・クイーン       Photo by Hara

.           ダンディー・クイーン       Photo by Hara

.  2月8日のブルース・アレイ・ライブに出演した「ダンディー・クイーン」の打上げを、3月中旬に行った。昨年の9月くらいから月1回の練習を積み重ねて、本番を迎えたから、実に5ヶ月に亘るプロジェクトだった。

  練習場はいつも西新宿の音楽スタジオを借りて行なって来た。前回の「ダンディー・クイーン」とはメンバーが2名入れ替わり、女性シンガーは2人から1人になった。入れ替わった1名は、前回ピアノ担当だったKo君の代わりに、元「OGサウンズ」(ダンディー・クイーンの前身)のY君が入った。

  彼は、ピアノ・ベース・ギター・ドラム・ボーカル何でもOKというマルチ・プレーヤーだ。特に彼のエレキ・ギターのアドリブはかなりレベルが高いと思っている。彼には、毎回僕のオリジナル曲のCDを作って貰っているが、いつも途中の間奏に、彼のオリジナル・アドリブを挟んでくれるので、見違えるような曲に仕上がる。

  それを友人に聞いて貰うのだが、僕の作ったどの曲も、メロディーより間奏で彼が弾くエレキ・ギターのアドリブの方を褒める人の方が圧倒的に多い。トホホなのである(笑)。  

  もう一人は、ベース担当のキクちゃんが1年半前に軽井沢に移り住み、ギター職人となって頑張っているので、今回は急遽、O君のバンド仲間のKuさんに助っ人をお願いした。 彼が、ピンクレディーの増田恵子さんの旦那様であることは以前このブログでも触れた。

  その彼が、実に気配りの人で、練習中の雰囲気を凄く良くしてくれるのだ。他のプレーヤーに注文がある時も「xxさん、そこで少し強めに音を出してくれると嬉しいかな」とか、誰かがミスると「大丈夫、大丈夫。その前のコード、俺が間違えちゃったからだよね」とか言って空気を和らげる。

  その上、本職がPAなので、スタジオのマイク・ボリュームや、アンプの音量などあらゆる音のバランスは全部彼がやってくれるし、ドラム用のマイク・スタンドや譜面立ても彼が準備してくれたりで、僕は大助かりだった。

  それ以外の4人は、過去2回のブルース・アレイ・ライブの時と同じ、女性ボーカルのHさん、サックス&ボーカルのKo、ギター&ボーカルのO、そしてドラムの僕である。

  2月8日のライブから1ヵ月半が経っているが、あの日以来の集まりだったから、結構みんなテンション高く、大いに飲み大いに語り大変盛り上がった。やはり話題はあの日の演奏のことになる。

  全員の意見が一致したのは、Hさんの歌(ジャズ)が、練習を通して本番が一番良かったという点と、Koの歌は殆どプロの領域だったという2点。Oと僕は次回は演奏に徹することをその場で表明した。ブルース・アレイ初登場のYの歌う「一億の夜を超えて」は、練習では常に足を引っ張っていたドラム(僕)を、本番では完璧だったとYが言ってくれたのが嬉しかったね。

  Yの歌もかなりのもんだったよ。ただ、次回はドラムがもっと簡単なオフコースの曲にしてよね(笑)。Yは仕事も家庭も超多忙な日々なので、好きな音楽はインターネットを介して一緒に演奏するスタイルでここ何年かやって来ているらしく、「人前で演奏したのは何年かぶりだから、とても楽しかった」と言う。

  僕は、Kuさんに感謝の言葉を伝えた。「Kuさんが楽しい雰囲気を作ってくれたので、練習も本番もメンバー全員が心から楽しめたと思います。掛けがえのない5ヶ月にしてくれたことを感謝します」と。

  Kuさんは、「ベースマンは皆さんに楽しく演奏して貰うのが最大の役割ですから。皆さんも一生懸命だったから、自分もとても楽しかったです」。なかなか出来た人物だと改めて思った。

 

3月 23, 2015   No Comments

高校の仲間

ブルース・アレイに来てくれた高校同期の人達3名と僕で、新宿の「稲田屋」という店で、久し振りの飲み会を開いた。その3人は、昨秋まで高校同期バンドで一緒だったAYAとIとヨッシーだ。この会は、ライブに来てくれた仲間へのお礼の会として、僕が呼び掛けた会だったが、彼等も僕への慰労会としてやってくれたのだった。

嬉しいもんだね、こういう会は。皆同い年だし、青春時代を共有している仲間だから、何の遠慮も要らないし、気の置けない安心感がある。そういうお世辞のない連中に、あのライブがとても良かったと言って貰えたのは、他に勝る嬉しさがあった。

AYAさんは、高校バンドでは無理やりベースを担当して貰ったが、彼女の本業はハワイアンのスティール・ギター奏者なのだ。彼女は、本場ハワイは勿論、アメリカのウェスタン音楽の祭典にもスティール・ギター奏者として招かれている程の有名人なのだ。

その彼女が、ブルース・アレイ・ライブ当日、会場の入り口でリハの時からこっそり覗いていたらしい。まだ午前中ということもあり、みんな声が今一つ出ていなかったのを聞かれていた。だが、本番になった時、2曲目に歌ったアキとマエマエの「恋のバカンス」が、気持ち良いほど声が良く出て伸びていたから一発で気に入ったそうだ。

女子大の理事長のIは、自身がW大のフォークソング同好会で活躍していたから、急遽3曲歌って貰った「みずすまし」のフォーク3曲がいたくお気に入りで、今度彼らのライブがあったら是非参加したと言っていた。そして彼もまた、アキとマエマエの2人の歌をベタ褒めしていた。それで、終わった後思わず2人に声を掛けて少し話したらしい。ありがとね。

ヨッシーは広告業界から転じて、昨年からIに招かれて同じ女子大で広報の仕事に従事している。彼は銀座タクトの時も、わざわざ楽屋まで来て褒めちぎってくれたが、この日も「のどごし生バンド」のパフォーマンスを何度も素晴らしいと言ってくれた。

但し、彼は音楽の世界では司会業が長いせいで、MCに一家言持っている。まず、「ダンディー・クイーン」については、もっとちゃんとMCをやればステージ全体の印象はかなり変わるのに、と言っていた。個々人の音楽レベルは凄く高いのに、ステージ全体の印象は残念ながら薄いとのこと。

それに比べ「のどごし生バンド」の佐藤さんのMCは、大変グーだそうだ。アドバイスをするとすれば、歌わないコンガやクラやピアノに一寸でもマイクを向けて肉声を聞かせると親近感はもっともっと増して一層盛り上がること間違いなしとのことだ。

そんなことを3人に言われると、僕も嬉しくなって舞い上がりそうだったが、実は違うことを考えていた。昨年10月のライブを最後に、高校同期バンド「ザ・タペストリー」の4年間の活動を終わらせたのは、他ならぬ僕自身だった。

「タペストリー」のラスト・ライブに漕ぎ着けるまでに疲れ切り、また、他のことで気の重い時期と重なり、一旦活動休止を提案したのだった。

現在彼等3人は、「タペストリー」が休止してしまったため、他に音楽活動の場がないのだ。口にこそ出して言わないが、僕のステージを羨ましく観ていたのではないかと思った。そこに思い至った時、僕は彼らに本当に申し訳ないことをしたと心の中で謝った。

今年の秋、高校同期会が、長野ではなく5年に1度の東京開催となる。この席上で「タペストリー」復活ライブが出来るよう、これから真面目に作戦を考えようと思った飲み会であった。

 

3月 22, 2015   No Comments

浅田次郎

 

.      浅田次郎氏    ネットより   

.      浅田次郎氏        ネットより

「鉄道員(ぽっぽや)」で直木賞を受賞して、一気にブレークした浅田次郎は、僕が最も好きな作家である。とは言え、通勤電車の中で読むため文庫本中心だから、僕は彼のハードカバーの新刊本は買ったことがない。なので、いつも早くて新刊発売後1~2年後に読む。多分、文庫本になっている彼の本は、例外を除きほぼ読破していると思う。

そうは言うものの、最初のキッカケは、僕が高倉健の大ファンだから、やはり「鉄道員(ぽっぽや)」の映画を観て原作者に興味を持ち、同じタイトルの文庫本を買って読んだことだった。だから、一般の浅田次郎ファンに比べたら、かなり遅れて来たファンである。

「鉄道員(ぽっぽや)」もそうだけれど、最初は彼の短編集を中心に片っ端から読み漁った。一話一話の短編の中に、人の心を熱くしたり、切なくさせたり、そして大笑いさせたり、兎に角、こんな作家に今まで巡り合ったことがなかった。

困るのは、電車の中で感動の涙が滲む時が度々あることだ。ジジイが本を読んで涙ぐむ図は、どう見たって可笑しいだろう。他人に見られていないかと気にしながら、目にゴミが入ってハンカチでそれを取っている振りをして誤魔化したり、結構大変なのだ。浅田次郎は「平成の泣かせや」の異名を持つ。

短編は、通勤の片道か往復で完結して読み切れる良さもあるので、それらを買っては読んでだ。浅田次郎は短編小説を一体幾つ書いたのだと言うくらいに数多かったが、既刊の短編(文庫本)は全て読み終わってしまったので、次に、彼のエッセー集に移った。最初に読んだエッセーは「勇気凛凛ルリの色」だった。それにまた見事にハマった。

エッセー集は、彼の実体験の面白話が満載で、こちらは涙の心配はないのだが、思わず吹き出す時があり、周囲の乗客の目が気になりながらも図々しく読み続ける。浅田次郎と言う男、エッセーの中で、実物よりもかなりデフォルメして描いているだろうことは承知ながら、いろいろな人生経験をした人物だと分かる。

小さい頃は、芸者上がりの粋な祖母に連れられて歌舞伎に連れて行って貰い、その祖母が思いを寄せているらしい矍鑠とした紳士と祖母との間に座って観劇しながら、祖母と自分は席を入れ替わった方が良いのではないかと考えるマセた少年だった。

中坊の頃からは、やたらと女性に興味を持ち、沢山のナンパもし、事実多いに持てたらしい。ただ、祖母の影響もあり、女に関して彼一流の粋という哲学があり、それを外して溺れることはなかった。

絶対にいつか小説家になると決めていた彼は、高校時代に雑誌社の募集する小説にも応募している。そこで編集長が目を掛けてくれたのに気を良くして、「私の小説、行けますか?」と聞いた。そしたらその編集長に、「10年後にまた持って来て」と言われて悔しい思いをしたことなどがエッセー集には詳しく載っている。

高校を卒業して、彼は大学に行かず、何と自衛隊に入隊する。その頃のエピソードや小説ネタがエッセーには沢山出て来る。除隊後は様々な職業を転々とするが、一貫して小説家になる夢は捨てなかった。

アパレルの仕事では、結構いい線行ったらしく、彼の服装センスは今でもTPOを弁えたセンスの良さで通っているとは本人の弁。事実、過去にベストドレッサー賞を獲得してもいる。また、高校時代から競馬に通い始めた競馬通でもあり、エッセー集の中には競馬だけをテーマにしたものさえある。

既刊本のエッセーも全て読み終わり、仕方なく、彼の長編小説を読み始めた。その最初が、「地下鉄に乗って」。その次が「日輪の遺産」だったと思う。彼のストーリーが現在とあの頃を行きつ戻りつ展開して行く面白さと、最後の意外な結末などに魅せられて行く。

そして、完全に浅田次郎を尊敬の眼差しで読んだ「蒼穹の昴」「珍妃の井戸」「中原の虹」「マンチュリアン・リポート」のシリーズ。中国清朝と満州を描いたこの作品を夢中で読んで、帰りの通勤電車で降りるべき駅を乗り越してしまったことも1~2度あったと記憶している。

「天切り松 闇がたりシリーズ」に至っては、明治大正時代の窃盗団の物語にも拘らず、江戸っ子気質の「やせ我慢」を美徳とする仲間達のカッコ良くて胸のすく物語の数々に感動せずにはいられなかった。

「プリズン・ホテル シリーズ」では愛すべきヤクザ達の人情味溢れる物語は、浅田次郎が、現在日本人作家の第一人者と目される人物であることを、成る程と納得させられるのだ(現日本ペンクラブ会長)。

他にも沢山の作品があるが、文庫本はほほ読み終わったので、今は彼の新刊文庫本を首長くして待っている状況である。浅田次郎を読んだことのない方には、是非ともお勧めしたい。間違いなくハマること受け合います。

 

3月 21, 2015   No Comments

コルコバード

.  3月の第2土曜日の午後、東京郊外にある「コルコバード」というライブハウスに顔を出してみた。ここは、4年前に1年間毎月「のどごし生バンド」のライブをやらせて貰った懐かしい場所だ。

  それまでは単に「おじさんバンド」と呼ばれ、C&Sというプロのユニットのバックバンドをやっていたのだが、そのユニットから独立して、半年間漂流をした後、名前を「のどごし生バンド」に変えて、ライブ活動を再開した場所が「コルコバード」であった。4年前の4月のことだった。

  当時、「のどごし生バンド」の僕は、「REJAN」という別のバンドにも属していて、「のどごし生バンド」とのジョイント・ライブも、この「コルコバード」で2~3度やったことがある。この日は、「REJAN」の時の女性メンバーの2人が中心となって行うジャズのセッション・デーだった。

  彼女達のセッションは、毎月第2土曜日の午後である。実は大分前から彼女達から是非ドラムをと誘われてもいたのだが、土曜日は「のどごし」のライブだったり練習日だったり、その他の予定が入り易い日で、なかなか参加出来なかったが、この日はたまたま近くに寄ったので伺うことが出来たのだった。2人は僕を大歓迎してくれた。懐かしかった。

  「REJAN」では、Wさんがピアノ、Hさんがキーボード担当だったが、セッションでは2人ともジャズ・ピアノを、交代で演奏していた。あれから、ずっと「コルコバード」で演奏しているだけあって、2人ともビックリするほどの腕前になっていた。

  セッションだから、彼女達の知らない曲も、その時に参加するプレーヤーが持って来た譜面や、店に備え置きの譜面集さえあれば難なく弾いてしまうし、アドリブも堂に入っていた。大したものだ。彼女達、コンボを組んで、観客を前にバンド活動を始めれば良いのにと思った。そうするに十分の力量を持っている。

  この日は、僕を含めて11人しかいなかった。その内訳はピアニスト2人、ギタリスト3人、ベースマン2人、トロンボーン奏者1人、ドラマー3人(コルコバードのマスター含む)が交代で演奏して楽しんだのだった。

  僕は2月8日のブルース・アレイ・ライブ以降、全くドラムに触っていなくて、いきなりジャズ・ドラムをやるのは大いなる不安を感じたが、知らない曲を何曲もやらされて、逆に勘が戻った自覚があった。ゴルフにしろ、麻雀にしろ、過去の経験則で言えば、遠ざかればやりたい気持ちはドンドン薄れるて行くが、1回でもやってみるとまた直ぐやりたくなるもの。

  ブルース・アレイ・ライブという大イベントを終え、一度それまでの集中力をリセットしたくて、1ヶ月以上音楽から遠ざかっていたから、このセッションは再び僕の音楽意欲に火を付けたかも知れない。来て良かった。

  そして、マスターも僕を大歓迎してくれて、他の日も来てドラムやって欲しいと言ってくれた。また、いつか是非「のどごし生バンド」のライブもお願いしますと言われてしまった。

  Wさんには翌日、「神童さんに来て貰って本当に嬉しかった。今度、ほかの『REJAN』メンバーもお誘い頂いて、是非ご一緒にお越し下さい」とのメールを頂いた。でも、「REJAN」のジャズ・シンガーだったR子さんは、既にこの世におられない。

 

3月 19, 2015   No Comments