プレミアムエイジ ジョインブログ
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Posts from — 9月 2015

建て替え

35年前、僕ら一家は杉並の阿佐ヶ谷から現在の郊外の町に引越して来た。それまで、同じマンションの異なるフロアの2部屋に両親とは別々に暮らしていた(両親5階、僕らは8階)が、子供も出来て部屋が狭くなって来たのと、子供の遊び場もないような都心ではなく、自然が残る郊外の一戸建てに移り住もうと、第2子の出産を前に転居を決心したのだ。

病気がちの両親を置いて、自分達だけ遠くに引越すのも気掛かりで、一緒に移り住むことを先ずカミサンに相談してみた。彼女がOKしないことには、両親にも話せないからだが、暫く考えた後、「自信はないけど、努力します」と言ってくれた。

東京郊外で僕らは3世代同居を開始した。昭和55年6月のことである。子供たちが小学生の頃、3世代同居の家族と言うのは新興地域では珍しいらしく、「○○ちゃんちは、サザエさんちみたい」と良く言われたそうだ。3世代同居と言っても、それ用の広さがある訳でなく、上の娘が高校、下の息子が中学くらいになると家の広さも部屋数も足りなくなる。

仕方なく、簡単な増築で何とかしのいだのだが、それも数年で限界となり、直ぐ近くにマンションの1室を購入して、大学生となった娘をそちらに住まわせるなどした。そして、娘は就職すると同時に、自立自活すると宣言して、マンションを出て職場に近い都心に引越してしまった。

その後、息子も就職し勤務地が札幌となってからは、2世帯同居に戻ったのだが、その両親も亡くなり、「サザエさんち」と言われた我が家は、ついにサザエさんとマスオさんだけとなってしまった。30年近くも経つとあちこち補修が必要になった上に、狭かった家も2人で住むには広過ぎる。

そこで7年前、思い切って娘の住んでいたマンションに引っ越すことにしたのだった。マンションは広さで言えば、これまでの約半分の広さだが、2人で住むには充分の広さで、戸建てに比べれば、冬は暖かいし、12階なので夏も風が通って快適である。その上、駅に近く鍵一つで出掛けられるのが良い。

但し、前より狭い分、古い家には当面不要なものはそのまま置いて来た。引っ越して以来、古い家は謂わば倉庫代わりにして来たのだ。それを見て近くに住むK君などは「もったいないですよ。古い家貸しましょうよ」とか、「本当はマンションの方が駅に直ぐだから、もう一度古い家の方に住んで、マンションを貸しましょう。それだと月18~20万円になりますから」とか、余計なアドバイスをするのだった。

確かに、古い戸建ての方は、何れ息子か娘が帰って来て住む時に、建て替えるなどすれば良いと思ってはいるものの、週2回ほどカミサンが庭の草取りに行ったり、衣替えに行き来したりするのが大変なようなので、何とかすべきかなと気にはし始めていた。

札幌から3年前に大阪に転勤していた息子から、ある日、カミサンに電話が掛かって来た。第2子(2人目の女の子)が生まれるのを機に会社を止めて東京に戻りたいと言う。聞けば、彼の会社で大阪は一番商売が難しいらしく、落ち込んだ営業の立て直しの命を受けて赴任した場所だそうだが、彼は大阪の地に合わず、仕事も厄介な案件ばかりで希望が持てなくなり、会社を辞めてもっと自分のやりたい仕事をやりたいと言って来たらしい。

カミサンは、「2人目の子供が生まれるというのに、何考えてるのよ!」と叱ったと言う。一旦は息子も勤務を続けると言った。その後、今年の4月に東京勤務となったが、やはり決意は変わらず先月退職を決めた。

彼のお嫁さんもなかなか胆の据わった人で、2児を抱えながらも「彼の好きな道を進ませたい」と言うので、カミサンも渋々了解した模様だ。僕はと言えば、35歳の男が悩んだ末に決断をしたこと、大の大人が自分の人生を選択するのに親がとやかく言うべきでないと決め、彼の決断を是とした。ただ、「家族への責任だけは忘れるな」とだけ伝えるに止めた。

そして、最終的に社宅を出ることが決まった日、彼らの住居確保のため、古い家を取り壊して小さな家を建てることに決めた。資金は息子と僕との共同出資で計画が動き出した。次の仕事が決まるまで、無職ではローンも借りられないから仕方ない。所謂共同名義というやつだ。

取り敢えず2週間ほどは僕のマンションに、それこそ昔懐かしい3世代同居をしたが、何せそれには狭すぎるので、彼らは新しい家が出来上がるまでの半年ほど、近くのアパートに移り住むことにして一昨日引越して行った。あとは、息子がやりたいと言う次の仕事を決めるのを待つだけだ。

同居中、5歳になった孫娘の遊び相手は専ら僕の役だったから、お爺ちゃん、エラく好かれてしまった。しかし、彼女の際限のない遊びのリクエストにはエラく疲れた。家の中でも公園でも、デパートに行っても、それはどこまでも続く。彼女は全く疲れを知らないから恐れ入る。

それにしても孫娘って可愛いもんだね。朝、僕が会社に行く時「お爺ちゃん、今日は会社に行かないで!」と涙目で抱き付いて来て離さない。「早く帰って来るからね」と言って無理やり手を振りほどいて出掛けるのだが、いつも家を出る時は後ろ髪を引かれる。下の子はまだ2ヶ月の赤ん坊だが、いずれは彼女も同じようになついてくれるのだろうか。楽しみではある。早く大きくな~れ。

 

 

9月 30, 2015   No Comments

難病

3人目は高校の親友Z君。僕らの同期生は、既に完全リタイア組が圧倒的多数になり、仕事をしている者も第2、第3の職場で気楽に過ごしている人が殆どの中、Z君は珍しく仕事は現役そのもので、且つ、ある大組織の最高責任者を務めている。

前回会った時は、頗る元気で現役のリーダーそのままに、明るく話す彼の姿に自然と惹き込まれるようなオーラを感じたのだが、今回、同期3人で集まった時、彼はしんみりと自分の出来事を打ち明けたのだった。

「遂この前の健康診断で難病に罹っていることが分かったんだ」とカミングアウト。2人とも「えっ!?」と声を揃える。血液中の血小板がかなり少なくなっているのだと言う。病名は「特発性血小板減少性紫斑病」とのこと。難病に指定されているらしい。

血小板が少ないということは、血が止まらないということだとは知っている。彼の場合、普通の人より相当血小板が少ないが、まだ、深刻なレベルではないと言う。だが、医者からは、怪我をしないよう充分注意するようにと言われ、特に頭を打つようなことだけは無いようにと忠告されたと言う。脳内の細かい血管が切れただけでも大変な事態になると脅されたそうだ。

彼はそう報告しながら日本酒を美味しそうに飲むから、「おいおい酒なんか飲んで大丈夫なのか」とつい言ってしまう。「大丈夫、大丈夫。今は怪我だけ注意すればあとは今まで通りの生活で良いと医者が言うんだから」と仰る。「今までの生活って言ったって、医者が酒を勧める訳ないだろう?」と僕。「酒がダメならそう言うだろうけど、特に言われなかった」と言いながらZはまたお猪口に口を着ける。

「特発性血小板減少性紫斑病」は子供に多い病気だが、成人、特に高齢者にままある病気らしい。僕も、気分はまだ50代後半くらいの気持ちだが、考えてみれば学生時代や会社の同期は皆古希に近づいている訳だから、いろいろ症状が現れても不思議ではないのだと思い知らされた。

Zは我が高校同期の太陽みたいな存在なので、何とか健康を取り戻して貰いたい。また「神童、今日あいてる? 稲田屋(新宿西口)で飲みたいんだけど」と声が掛かるのを待ってるからね。

僕の場合は、運良く今のところ、病気らしい病気は現れていないが、3年前から右手親指の痺れが続いているし、最近では左肩が痛くて往生している。僕は四十肩、五十肩などは一切経験していなかったので、周囲には「遂にオレも四十肩になっちゃったよ」と言っているが、会社の若手からは「それって七十肩でしょう」と突っ込まれる。

数日前からは、左手親指の付け根が痛くなって、ペットボトルのキャップを捩じるのも辛いのだが、今月はゴルフの予定が3回も入っているので、日曜日にゴルフ練習場に行ってみた。左肩も左手も痛い筈なのに、ゴルフ・スイングではそれほど痛くない。

2時間の打ちっぱなしを目一杯やれたのが不思議だった。何とも遊びには好都合な肩痛・左手痛ではある。これでスコアさえ欲張らなければ充分皆に付き合えそうだ。同伴者の皆さん、どうか宜しくお願い致します。

両親の墓参りなどでは僕はいつも「死ぬまで元気でいられますように」と祈ることにしている。いずれ僕にも不治の病が降り掛かるだろうが、なるべく「それは死んでからにして下さい」とも。

ただ、病気とは別に、僕にとって良くないことが続いている。僕にとって大切な会が解散してしまったり、2人目の赤ちゃんが生まれたと言うのに、息子が会社を辞めてしまったり、実姉が免疫細胞が暴走する難病になるなど、悪いことが我が身に降り掛かっている。男の厄年は62歳(後厄)で終わった筈なのに。

そして、3日前からは腰痛が出て、昨日は遂に動くことも出来ず、会社を休む羽目になってしまった。トホホなのである。

9月 26, 2015   No Comments

転向

2人目は、音楽仲間の親友Y君。彼は現役引退後毎年秋に自分のリサイタルを行っている。昨年も行われ、僕は聞きに行った。ただ、丁度その日は夕方から僕の勤務先の社長(32歳)の結婚式だったから、そちらに出席しなくてはならずライブの前半しか聞けなかった。

いつもそうだが、この日もピアノ・ベース・ドラムはいずれも錚々たるプロのミュージシャンだった。そのトリオを従えて吹く彼のサックスもまたプロのレベルを感じさせた。何年か前に比べると彼の上達ぶりは半端でないと思ったものだ。家を新築して防音装置を施した部屋で、ほぼ毎日練習しているのも頷ける。

ただ、1曲終ってY君がMCを務めるのだが、何故か話しながら息切れしているようで少し心配だった。あとで彼からお礼のメールが来た。そこには、あの時、彼もおかしいなと感じたようで、その後も咳が出たり直ぐ息が上ったりしたので、病院で診て貰ったら肺炎だったと書いてあった。

そうかと、最近テレビ・コマーシャルでもやっているが、65歳以降の肺炎は死亡率が高いから注意しろよとメールを打った。その時はそれほど深刻には捉えていなかった。

そして、先月、彼から強く誘われ、彼が行き付けのライブハウスのセッションに出掛けた。僕はすっかり彼の肺炎のことは忘れていた。セッションを一緒にやろうと誘われたくらいだから。

ところが、店に着いてみると、彼はサックスでなくギターを持ち込んでいる。彼は言った。「肺炎にもいろいろあるが、自分の場合は、普通は風船のように柔らかい肺の外郭が硬くなってしまっているらしい。病名は『間質性肺炎』という難病だ」と。だから、サックスはもうやめてジャズ・ギターに転向したのだと言う。

根本的な治療法はなく完全治癒することはないそうで、悪化すると命にも関わる病だと医者に脅された。かなり激しい副作用を伴うが、ステロイド治療で更なる悪化を避けることは可能だが、それを服用すると普通の生活が難しく外出も出来なくなるとのことで、好きなゴルフ(ご夫婦で週一のゴルフ)に行けなくなるので、彼はその劇薬は選択せず漢方薬を服用している。

原因は以前の喫煙だそうだ。彼は、若かりし頃ヘビー・スモーカーだったが、30年前に大変苦しみながらも禁煙を成し遂げた人だ。その頃も勿論よく知っている。それなのに、昔の喫煙が原因で、今頃そんな症状が出るというのは何とも理不尽なものである。

僕が禁煙したのは、60歳の時だった。それまでは仕事中タバコを吸わないと、構想も文章も纏められない人だった。1日2箱(40本以上)、場合によっては3箱以上も稀ではなかった。僕の禁煙は結構いい加減なもので、飲み会で誰かが吸っていれば貰いタバコをして来た。ただ、それ以外の時は吸わないので、平均で言えば、月1箱(20本)程度に減っていた。

ところが、昨年夏の終りくらいからは、7年振りに自分でタバコを買って吸うことが復活してしまった。そろそろまた禁煙しようと思っていた時のYの肺炎告白だった。そう思うと、その病気は彼ではなく、僕にこそ降り掛かるべき病のように思った。

Y君はギターでジャズを2曲演奏した。それがとても良いのだ。なかなか聞かせてくれる。曲によってはサックスよりもギターの方が人の心に響くものがある。勿論そうは言えなかったが。この辺りがY君の凄いところだと思う。何らかの理由で、自分のやって来た楽器が演奏出来なくなった時、じゃぁ違う楽器に転向しようなんて、普通はとても出来ない。

好きなサックスを吹けなくなったショックは察して余りある。心が折れそうになった筈なのに、ギターに持ち替えて再び立ち上がった彼の根性を讃えないではいられない。彼の今を支えているのは、正しくジャズだということがビンビン伝わってくる。彼の音楽の練習やライブには出来るだけ付き合おうと思った。

 

 

9月 26, 2015   No Comments

手術

ここ数ヶ月の間に、僕の親友3人が相次いで軽くはない病に罹った。一人はX君。実は彼とは家が近いので、僕の車で運転を交代しながら良くゴルフに行っていたのだが、数か月に、心臓近くの血管のステント手術を受けることになって、急遽入院となってしまった。以来、僕も必然的にゴルフに行く頻度が少なくなってしまった。

心臓に繋がる3本の血管(冠動脈)の内2本が狭くなっていて、このまま放置すれば心筋梗塞を起こす恐れがあるため、ステント(細くなっている部分の血管内に置く管)を埋め込まないといけないということだった。

結果からすれば手術は成功したのだが、開腹手術ではなくカテーテルによる手術だから、1時間ほどで終わると言われていたようだが、実際には4~5時間掛かってしまったらしい。

全身麻酔ではないので、目も耳も頭も普通に働いているから、執刀医の「あれ?」とか「う~ん」とかの声が全部聞えて不安だったそうだ。一番不安になったのは、一時間ほど経った頃、手術を中断して執刀医がその場からいなくなってしまった時だったと言う。

よくテレビや映画で歌手の録音場面があるが、広い窓ガラス越しのミキシングの機械が置いてある部屋がある。手術室にも丁度同じような部屋があって、執刀医を含めて数人がこちらを見ながら何やら話をしている。

手術後に医者から詳しい説明があった。普通、動脈硬化が進むと、血管内に貼り付いた老廃物は固くなっているが、彼の場合はそれがフワフワしていて極めて柔らかかった。普通にステントを細い場所に通そうとすると、その柔らかい老廃物を血管から切り離してしまい、それが脳に行ってしまうと脳梗塞を起こす危険性が高かった。

そこで、急遽、手術を中断し専門医が集まって、作戦変更の打合せをしたのだという。そして、老廃物が流れ出してもそれを受け止める網の様なものを先にセットして、老廃物が心臓に向かうのを防ぐ手立てを講じた。その手立て自体が老廃物を切り取って流してしまう危険があるので、かなり時間を掛けて慎重に進めざるを得なかったとのこと。

2か月後2本目も慎重な手術の末成功したので、僕も胸を撫で下ろしたのだった。X君は今、入院で弱った足腰を鍛えるため散歩等で鍛えているが、いつ老廃物が頭に飛ぶか心配で急激な運動は怖くて出来ないと言っている。好きなゴルフの練習もフルショットは無理で、ひたすらアプローチの練習をしていると言う。「神童さん、お蔭でアプローチはプロ並みになりましたよ」と苦笑いする。

X君は、元々糖尿病を患っていて、それが原因で今回の血管の詰まりに繋がったのかも知れない。医者からは、今までのような適度なお酒はOKとか、ゆるい食事制限では命の保証は出来ないと言われ、厳しい管理を言い渡されている。

幸か不幸か、勿論幸なのだが、彼の奥様はプロの栄養士で調理師なのだ。今は彼女がX君の食事療法を全面的に引き受けてくれているので、完全な食事ケアが出来ている。奥様も自らのスキルを旦那様のために活かせることに、新たな喜びと人生の目的を見出したようだ。それだけで彼の寿命は、同じ状況の人に比べて何倍も伸びるだろう。

だが彼は、囚人かペットにでもなったような気分だと打ち明ける。それは「3食とも女房の出してくれる餌を食べるしかない。それって結構辛い。決して不味くはないのだが、自分の好みで今日はあれが食べたいとかこれが食べたいとか、選択も出来ないし、外で友人と食事なんて以ての外。勿論お酒ダメ。人生の楽しみの半分を失ったようなもの」と嘆く。

「そりゃ、贅沢な悩みだ。X君専用のプロを雇って、君の健康のために一週間単位で献立を考え、栄養バランスやカロリー計算をして毎日3食作って貰ったら、一体幾ら掛かると思ってるの。奥さんに感謝すべきだよ」と僕は言ってやったのだが、彼の気持ちも分からないではない。

喩えグラス1杯のビールでもいいから、いつか一緒に飲める日が来ることを秘かに祈る。

 

9月 25, 2015   No Comments

面白小噺2

【70歳の爺さんと20歳の孫娘の会話】

 

孫娘 「お爺ちゃん、藤原竜也、って知ってる?」

爺   「おう、知っとるよ。なかなかカッコいい奴じゃ」

孫娘 「でしょう。私、大ファンなの」

爺   「お前もなかなか男を見る目があるのう。何を隠そう、

.           このワシもな、昔からファンなんじゃ」

孫娘 「嘘~、お爺ちゃんも???」

爺   「この前、『龍三と7人の子分たち』という映画見たら

.           主役やっとった」

孫娘 「えっ? それって藤竜也でしょ!」

 

【70歳の婆さんと20代の孫との会話】

 

孫  「お婆ちゃん、檀れい って知ってる?」

婆  「そりゃ知ってるわよ。美人だよね」

孫  「俺さ、ああいうのタイプなんだよね」

婆  「お前若いのに偉いねぇ。あんな昔の女優さんがタイプなんて」

孫  「えっ? 昔じゃないよ。今テレビCMとかよく出てるんだから」

婆  「そうかい? まだ生きてたんだねぇ。加賀まりことか団令子とか、

.           とっても綺麗で、お婆ちゃんも若い頃憧れたもんさ」

孫  「あちゃ~!」

 

お後が宜しいようで

9月 23, 2015   No Comments

求愛のポーズ

今年の9月は本当に良く雨が降る。何日も雨が続く。今日も朝から雨。僕は通勤電車を降り、新宿駅南口を出て傘を差して歩き始めた。行く手は人が多く傘と傘がぶつかり合いそうだから、少しすいている駅舎側の壁近くを歩こうとそちらに移動した。

次の瞬間、側溝の上を覆う金属蓋のレール状の上を、左足が前に滑り、どうにも身体を支えることが出来ず、僕は右膝を地面につくしかなかった。拙いことにそこは水溜りだった。その上、硬いアスファルトというか石畳のような所だから、そこに着地した右膝に激痛が走った。

間の悪いことに、僕の正面から歩いて来た肥えたおば様の目前でやらかしてしまったのだ。おば様は「大丈夫ですか?」と心配するのでなく、「わー、ビックリしたぁ!」と仰りながらも笑っておられる。

僕は、膝の痛みと格好悪さとびしょ濡れのズボンのために、「スミマセン」というのが精一杯で、やおら立ち上がり、そそくさとその場を立ち去ろうとしたが、痛くてビッコを引き引き歩く羽目になってしまう。

歩きながら、その場面を反芻してみた。おば様が向こうから歩いて来て、僕の直ぐ近くに来た時、ここぞとばかり、急に左足を前に出して右膝をつき、そして、両手で傘を上に差し上げているのだから、持っている物が傘でなく花束だったら、これは正しく求愛のポーズではなかったか?

このことに気付いた時は、可笑しいやら、痛いやら、恥ずかしいやらで何とも言いようのない気分になった。あのおば様の笑いは、きっと僕が側溝の鉄蓋に足を取られたのは分かっていたけど、偶然求愛のポーズみたいになったのが可笑しかったんだろうなと思い至った。会社への道すがら、薬局でサビオを求め、ズボンを捲って右膝に貼った。打撲箇所は痛々しく擦り剥けていて少し血が滲んでいた。

朝からこんな状態だから、今日は相当悪い一日になるなと覚悟した。案の上、酷い一日だった。仕事上では僕の担当しているシステムがトラブルを起こすし、その後、ポケットの中でスマホのコール音がしたから取り出して見ると、あまり話したくない相手の名前だった。

仕方なしに電話に出ると、「もしもし」と言っている。「神童ですが、何でしょう?」と言うと、「えっ? 何でしょうはないだろう。今、お前が電話掛けて来たから出たんでしょうが!」。「あっ、スミマセン、間違えました」と切ったものの、何かに一寸触っただけで直ぐ電話が掛かってしまうスマホの欠点が、この日初めて出たのだった。

若い女子社員が数日前、「長崎のハウステンボスに行く」と言っていたのを思い出し、「今日から出社? 旅行はどうだった?」と声を掛けたら、「昨日から出社していますよ。昨日挨拶したじゃないですか!」と叱られてしまった、とか、何か妙にズレの目立つ一日となってしまったのであった・・・

9月 21, 2015   No Comments

面白小噺 1

夫婦の会話

司法試験の問題作成に当たる教授が、答を受験生に教えた件

 

夫  「司法試験の問題と答を教えちゃうなんて、とんでもない教授だなぁ」

妻  「女子学生への恋愛感情からだって、さっきテレビでやってた」

夫  「その教授、一体何歳だ?」

妻  「67歳だって。あなたと同い年ね。相手は25~6よ。全く、いい歳し

.    てサ、バッカじゃないの。見っともないったらありゃしない!」

夫   ドキッ! ソワソワ

妻  「どうしたの? あなた!」

夫  「・・・」

妻  「答えなさいよ!」

夫  「あっ、いや、その、やっぱり答を言っちゃだめでしょ」

 

お後が宜しいようで。

9月 16, 2015   No Comments

のどごし生バンド 復活ライブ

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最初に、当ブログを半年間サボってしまったことに対してお詫びをさせて頂きます。この半年はバンドのお休み期間と一致します。元々ブログとバンドとは何の関係もないのですが、僕の中ではその2つは車の両輪だったようです。片方を休むと片方も休まないとバランスが取れないというような(笑)。

とか言い訳していますが、正直ではないですね。本当は、元々ブログの方はネタも枯渇気味な上に、書く気になれない状況も続き、少しサボったら益々遠ざかり、完全に怠け心が身に付いてしまいました。そうなると、いつしかブログを書かないことが「新常態」(ニュー・ノーマル)となって行ったというところでしょうか。

その間、先輩や知人・友人・後輩などから、度々、健康を心配して下さるメールや次のライブの問合せの電話などを多数頂戴致しました。この場を借りて、心よりのお詫びと感謝を申し上げます。エイジさんにブログで「神童編集長」(プレミアムエイジの)と書かれ、そうだった、一応僕はこの連立ブログの責任者だったと思い出し、勝手にサボっていてはいけないらしいと思った次第です。

ゆっくりなペースでも、生存証明として、また、ボケ防止に、日々の出来事や、休みの間のことなどを遡及して気楽に綴って行きたいと思いますので、どうぞ宜しくお願い致します。

さて、本題。

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のどごし生バンドは結成から10年目を迎え、昨年から1年間、何回も10周年記念ライブを行い、満10年となる今年2月にはその締め括りとして、目黒ブルースアレイで100名の客席が全て埋まる大盛況の中、思い出に残るライブをさせて貰った。

それが終って、燃え尽き症候群になった訳でもないが、暫く休むつもりが気が付けば、既に半年が経っていた。その間、池袋に新たにオープンしたビア・ガーデンへの出演依頼なども頂いた。

オーナーには、「ジャズあり、ザ・ピーナッツあり、ロックンロールありの『のどごし生バンド』は、何より客を楽しませるコツを知っているので、是非お願いしたい」と言われたが、バンド活動休止中だったので、丁重にお断りしたこともあった。

そして9月になり、そろそろバンド・メンバーで集まろうかと、久し振りにグレコ(新子安)に、飲み会目的で集まったのであった。

他の客も2名しかいなかったし、ほぼ貸し切り状態なので、良く食べ良く飲み良く語り、大いに盛り上がったところで、半年振りにチョッと演奏をしようとなり、全員ステージに着いた。お客さん2名のための演奏会が始まった。

「オール・オブ・ミー」。これこそが、10年前僕らのバンドで最初に仕上げた曲だ。この10年間で何回演奏したかな。100回は優に超えているだろう。佐藤さんの歌もアンディーの歌もあの頃より今の方が遥かに味があって良い。半年振りでも勝手に身体が覚えているものだ。みんなほぼ完璧。

「マイアミ・ビーチ・ルンバ」、「オン・ザ・サニー・サイド・オブ・ザ・ストリート」、「メモリーズ・オブ・ユー」、「小さな花」、「鈴懸の径」、「ルート66」、「キャラバン」など、ジャズ中心のステージとなった。

半年振りという不安はあったが、やってみるとそんなにブランクを感じない。少し自信が持てた。2人のお客さんも喜んでくれた。またライブやろうか。そんな声がメンバーから上がる。

再び席について小ミーティング。バンド活動を再開してあと10年頑張って、20周年まで続けることを確認し合った。そうは言っても、もう僕らのバンドは嘗ての「おじさんバンド」ではなく、もう「爺さんバンド」の部類だから、果たして全員が20周年を迎えられるか否か保証の限りではないのだが・・・。 最年長者は僕だしね(笑)。

だから本当は、20周年までと言うより「死ぬまでやろう」が正しいのかも知れない。もし、そうなれば、人生の最終コーナーを大好きな仲間と共に過ごせるのだから、それはそれでて素晴らしい人生と言えるだろう。

この日半年振りに演奏したのは、それこそ僕らが、10年前に演奏していたような曲が多く、何となくステージ上で互いの以心伝心が働いていたあの当時を思い出す。懐かしい。それまでメンバー夫々が歩んだ人生は別々で、一度も交差することがなかったのに、突然、知り合ってあっと言う間にバンド結成に至った奇跡。それが10年も続いた奇跡。

さぁ、「のどごし生バンド」の再スタートだ。早速「復活ライブ」をやるぞ! まずは、僕らの原点に立ち帰り、自分達を見詰め直すライブから再開しようとメンバー全員で一致した。

という訳で、ライブのご案内です。是非お越し下さい。お待ちしております。

2015.10.10 グレコ ライブ チラシ

9月 14, 2015   No Comments