プレミアムエイジ ジョインブログ
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Posts from — 12月 2015

大宮の忘年会

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.           新橋SL広場より大宮に向かう

僕の出身会社の後輩でEという男がいる。60歳過ぎてから、僕はEとゴルフをやる機会が多くなり、また、最近は同じ「川柳の会」の仲間として一緒に楽しんでいる。今回、そのEのお誘いで、僕と同じ町に住むKと一緒に所謂忘年会目的で大宮まで出向くことになった。

Eからは、大宮に大変歌が上手くて若い美人がいると随分前に聞いていた。その彼女を含む3~4人で忘年カラオケ大会をやるので、良かったら来ませんかと声が掛かったのだ。

丁度その日は、岐阜から東京に戻って来ているKと地元で飲む予定を組んでいた日だった。どうせ飲むなら大勢の方が良いと2人で大宮くんだりまで出掛けることにした。Kとは、何度も当ブログで書いた冠動脈手術をした男のことだ。

Kは「彼女の歌を聞いて、もし、いけるとなったら、会社のバンド(ダンディー・クイーン)のボーカルに採用しましょうよ」と大乗り気だった。

Eの事前説明では、彼女は独身で、僕らの出身会社の現役の社員だという。それも、彼女の仕事は他の殆どの女子社員と同じ内務事務だったのが、今は営業担当者に抜擢されて男に混じって営業に飛び回っているそうだ。仕事も出来るのだろう。美人で独身で仕事が出来て歌も上手いって? もしそうなら、埼玉の男達は何故放って置くのか?

Eは、入社年次で2年後輩だが、年齢は同じということもあり、若い頃組合で一緒に活動した仲だ。そして、Eは若い頃から、女性から注目されるような男だった。と言っても、決してジャニーズ系のイケメンという部類でなく、どちらかと言えば渋みのある男っぽさが魅力だった。

営業部門(支店配属)の彼が本社に来て、僕と立ち話でもしたとしよう。それを目撃していた女子社員が、「今の人、誰ですか?」と僕に聞く。支店と名前を教えると、「佐藤浩一みたいな人ですね。私、佐藤浩一大好きなんです」とか仰る。それが1人2人ではなかった。

今でも、いや、この歳になった今の方が、年齢に相応しい渋さが自然でとても良いし、人柄の良さは当時と全く変わらない。Eは50代で退職し、何人かの保険代理店を束ねて会社組織にし、長いこと社長を務めていたが、それを後進に譲り今は会長さんになっている。

彼の作った法人代理店を担当する保険会社側の営業マン(いやウーマン)が大宮の歌姫なのだろう、というのが僕の勝手な想像だ。その意味ではこの日は営業上の「忘年会」なのだ。一次会は魚や寿司をメインとする広い居酒屋だったが、彼女は営業なのでなかなか時間が自由にならないらしく、1次会の終わりの頃現れた。

実は、彼女が会社の音楽祭(於ブルースアレイ)に1~2度来てくれているので、僕は遠目からは見ている。今回こうして間近に見るとその美しさは際立つものがある。EがKと僕に正式に彼女を紹介してくれた。名前をⅠという。年齢を聞くのは失礼なので聞かなかったが、見た感じ30代後半と推察。

早速場所をカラオケ店に移して歌合戦となった。ただ、Ⅰさんはこの時間まで(午後8時半)食事を取れなかったようで、カラオケ店で牛丼を頼んだのには少し驚いた。結構、気さくな性格なのかも知れない。

皆で順番に2~3周歌ったが、Ⅰさんは確かに上手い。声は僕の好きなハスキー掛かった声ではなく、透明感のある声だが、高音部もしっかり声が出ていて音程も確かだ。「ボイス・トレーニングとかしてるんですか?」と僕が聞くと、「いえ、いえ、そういうのは全くないです。カラオケで歌う程度ですから」との答えが返って来た。

彼女が最後に歌った、テレサ・テンの「空港」は、正に彼女の18番なのかも知れないが、声質・感情移入含めて、正にテレサ・テンが目の前で歌ってくれているような錯覚を覚えた。

歌い終わるや否や、「ダンディー・クイーンで歌ってくれない?」とKがいきなりマジ顔で聞く。「そんなぁ。人様の前で歌言うなんてとてもとても・・・」と、何とも謙虚。

Kは大宮からの帰途でも、「彼女、歌も素晴らしいし、あのビジュアルだから絶対に受けますよ」と言う。そうなるに越したことはないが、しかし、保険業界の中で最も良く働くことで有名な会社の営業係であれば、仕事の終わる時間は全く読めないから、本番前の何回かのスタジオ練習もままならないだろうと思う。

ダンディー・クイーンの勝手マネージャーを自任しているKに、「後は任せるので、EとⅠに話してみてよ」と頼んで家路についた。自宅に戻ったのは午前1時頃だった。

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.           機関手はサンタさん

.           機関手はサンタさん

12月 30, 2015   No Comments

新春ライブのお知らせ

来年のことを言うと鬼が笑うと言いますが、鬼も含めてみんなで笑える一年にしたいものです。

さて、その来年のことですが、私達「のどごし生バンド」は、1月30日に新年最初のライブを開催致します。

新子安・グレコでの20回目の記念ライブとなります。

行ってやろうと思召す方、是非是非ご一報下さい。お待ちしております。

詳細は、添付資料の通りです。

尚、このお知らせは、神童の生存証明も兼ねておりますので、どうか宜しくお願い致します(笑)。

2016.01.30 グレコ ライブ チラシ
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.                 師走はね ゆっくり歩いちゃ ダメらしい

12月 23, 2015   No Comments

卒業50周年 後編

Toは、高校時代、質実剛健を謳う我が母校に於いて、どちらかと言えば軟派学生で、その不良っぽさで有名だった。1~2年生の頃、何度か先輩達から呼び出され注意を受けたこともあるらしかったが、全く意に介さず、改める素振りすら見せない奴だった。そんな彼と僕は妙に気が合うところがあり、よく行動を共にしていた。

当時高校生が喫茶店に入ることは厳禁だったが、何度も彼とは駅前の喫茶店に入ったり、ジュークボックスの前に陣取って、何曲も何曲も聴いたりしていた。3年生になる直前の春休みに、京都への修学旅行があったのだが、その時も夕食後旅館を抜け出して、Toをリーダーに何人かで新京極の音楽喫茶に繰り出して、先生に怒られた思い出もある。

そんな彼とは、高校卒業後20年程経って一度だけ会ったことがあるが、その時Toは、長野市の繁華街で「マクドナルド」を経営していたが、その後、店を畳んで行方が分からなくなっていた。その彼が、この日現れたのであった。実に30年振りの再開である。僕にとっては嬉しいサプライズだった。

本人曰く、「別に雲隠れしてた訳じゃないよ、仕事も変わり、長野を離れていただけ」とのことだが、いろいろな苦労があったのだろうと察した。それ以上のことは聞くことは止めて昔話に興じたのだった。彼とは高校2年間(2~3年次同じクラス)しか一緒ではなかったけれど、30年振りに会っても一瞬であの頃のように戻れるのだから不思議なものだ。

3次会が終わって気が付けば、あの頃よく一緒に行動していた仲間3人(To・Ta・僕)が残って、権堂という繁華街(当時も繁華街・飲み屋街)を目指している。今回、Toに連絡を付けて同期会に誘ったのもTaだったのだ。

さて、Toが案内したその店は、ライブハウスの様な場所だった。そこは、結構広くステージもあり、ドラムも置いてある店だった。夜11時は過ぎていたと思うが、客が結構入っている。Toに聞けば、店の主が女性シンガーで、通常はプロのミュージシャンをバックにして彼女のステージが行われるのだとか。この日は、日曜日だったので、ミュージシャンはキーボード奏者一人だけで、ママが歌う日だと言う。

席に着いたら、早速、そのオーナー兼歌手(ママ)がToに挨拶に来た。彼は「こいつ、ドラマーなの。東京のあちこちで演奏してるみたいだから、一緒にドラムやらせてやって」と余計なことを頼んでいる。無理やり僕を連れて来たのはそういうことだったのか。僕は慌てて「今日は4次会目で酔っ払っていますから、ドラムなしで」と打ち消した。

それに納得したのか彼女は去って行ったが、今度は店のマネージャーみたいな男がやって来て、「音楽はどう言ったジャンルですか?」と僕に聞く。「ヘタクソですが、ジャズ・ポップス、ロック、ラテン、一応真似事ですが」と僕。「じゃ、早速お願いします」とマネージャー。「えっ!?」。

マネージャーだと思った男はステージに上がり、キーボードにスタンバイしながら、僕を手招きする。ママも直ぐに来てマイクの前に立つ。彼女も手招きするから仕方なく僕もステージへ。「ホット・スタッフ」が始まった。どうやら、カラオケ風にバックに演奏が流れるのに合わせて生キーボードが加わる形の演奏だ。直ぐに僕も加わった。

僕のすぐ目の前にカップルがいて、じっと僕を見ているのが少しプレッシャーだが、酔った勢いで構わず演奏に没頭する。とは言え、勝手に走らない様、ベース音やキーボードの音だけは注意深く聞きながらの演奏に努めた。ママの歌も声と言いフィーリングと言い、ドナ・サマー張りだった。

間奏でママがマイク越しに「ドラム、上手い!」と拍手してくれた。と同時に、気難しそうな目の前の客も拍手をくれたのだ。続いて2曲目、「君の瞳に恋してる」。これも過去に何度か演奏したことがある曲だから、戸惑いはない。

2曲終って、このステージは終わった。僕がステージを降りようとした時、目の前の客が、「ドラムソロ、お願いしま~す」と大きな声で仰る。幾らなんでも僕はそこまで図々しくはない。「出来るといいんですけどね、無理です」と断って席に戻った。

それにしても、音響も凄く良いし、ドラムもかなり高そうなセットで、シンバルの音が素晴らしかった。こんな場所が長野にあることに感動した。生まれ故郷での初めてのドラム演奏だという感慨もあった。いや、よく考えると違うな。もう8年ほど前になるか、IOI倶楽部主催で、C&Sと一緒に駅前ホテルでステージに上がったことがあったっけ。

兎に角To、Ta、ありがとうね。お蔭でホテルに帰って、目覚ましが鳴るまでぐっすり眠ることが出来ました。

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12月 19, 2015   No Comments

卒業50周年 前編

今年は高校卒業から丁度50周年ということで、先週、地元長野で同期会が行われた。同期会自体は毎年、通常長野市のホテルでこの時期開催され、5年に1回東京での開催となるが、今年は東京開催の順番だったが、記念大会ということで地元開催となった。

幹事は各クラス持ち回りで、今年は5組の主催だった。僕は1組なので4年前の幹事組の時、長野で「ザ・タペストリー」の同期会デビューをさせて貰った。それ以来の参加となる。この日は80名程の参加者だったが、今回は遠くからの参加者が結構いた。大阪・京都・神戸辺りからは5~6人来ていたようだし、遠く札幌から来た者もいる。

近畿からは、在来線で金沢に出て新幹線で長野にやって来たそうで、従来の東京経由に比べ1時間ほど早く来られたと口々に言う。僕も北陸新幹線で東京から向かったが、今までは長野新幹線と言って長野駅が新幹線の終着駅だったから、車内でビールを飲んで気楽に寝て行けたが、今度は寝過ごしたら富山だの金沢に連れて行かれるから、行きのビールは我慢した。その意味では僕にとっては大変不便になった(笑)。

同期会は午後4時からなので、僕は早めに着く新幹線に乗り、姉夫婦の家(僕が育った場所)に寄ることにした。姉は2年前、免疫細胞が暴走する病に倒れ生死を彷徨った。最初に入院した病院は病名も特定出来ず、姉は連日40度を超える高熱にうなされる状態だった。院長の説明も全く要領を得ない。義兄から連絡を受け、僕は直ぐにTに電話で事情を話した。そしたら、直ぐにうちの病院に移せと指示されたのだった。

Tは長野市民病院の院長先生である。高校時代同じクラスで、当時僕の何人かの友達の一人だった。高校時代から「将来医者になる」と言っていて本当に医者になり、病院の院長にまでになったのだから大したものだ。その頃、僕はと言えば、将来こうなりたいという確たるイメージもなく、また、自分が何者かも分らない不安の中にいたのとは対照的だと思った記憶が蘇る。

彼の専門は脳外科なので、姉の病気は専門外だが、Tは病院内に何人かの専門医でチームを構成してくれて、24時間完全監視の状況を作ってくれた。そして病名も判明。膠原病に似た症状だが、専門家には似て非なる病との説明を受けた。以降、ステロイド投与を含めた治療が始まり、熱も冷めて行き、姉は元気を取り戻したのだった。

退院後、月一度の通院を続け、ステロイドも徐々に少なくして来ていると言う。確かに、1年前に会った時は、所謂ムーン・フェースだったのが、今回は、かなり元に戻って来ているのを確認した。

義兄も僕も同じ意見だが、もし、Tという友人がいなかったら、最初の病院で姉はヒョッとしたら命を落としていたかも知れないのだ。正にTは姉の命の恩人だ。今回の同期会出席の大きな目的の1つは、彼にお礼を言うことだった。

同期会では真っ先にTに会い、深々と頭を下げ礼を言った。彼は偉ぶったところは全くなく、「オレの大親友のお姉さんだから頼むぞ、と若い医師達に言ったらみんな一生懸命にやってくれたよ。若いけど優秀な連中なんだ。お姉さん、元気になって良かったね」と自分ではなく、若い医師達を褒めた。病名も特定出来ず、従って治療法も的外れな最初の病院とはこの辺りが全く違うと思った。

同期会そのものは2時間半程度で終わり、その後は、三々五々街に繰り出し、僕は、結局4次会まで付き合うことになってしまった。3次会が終って僕がホテルに帰ろうとしたところ、30年振りに会ったToが、もう一軒だけ付き合えと、同じホテルに宿泊するもう一人のTaとを連れて、繁華街に向かった。

 

12月 19, 2015   No Comments

映画「ジェームス・ブラウン」

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友人に誘われて、先月、下高井戸シネマというマンションの2階にある小さな映画館で、映画を観た。館内は椅子なども立派で広いが、何となく昔懐かしい名画座の趣きなのだ。このマンションのオーナーが、映画好きが昂じて映画館を作ってしまった。そして、自分の好みの、或いは、価値観が一致する映画だけを集めて上映している所だという。

道理で、観た映画はテレビCM等でPRされるようなメジャーな映画ではなかった。「ジェームス・ブラウン」というアメリカ・ソウル界の大御所の伝記映画だ。僕はそういう映画があったことさえ全く知らなかった(知らないのは僕だけかも知れないが)。

ジェームス・ブラウン(JB)は、僕が大学生だった頃に「イッツ・ア・マンズ・マンズ・ワールド」という曲で大ヒットしたソウル・ミュージックの大スターだ。R&Bというかソウルというか、そういうジャンルの中で、僕はこの曲が最高峰ではないかと思っている。今も大好きで、YoutubeのURLを「お気に入り」に入れている。

男が道路を作り車を作り世界を作った。だけど女がいなけりゃそれも無意味なんだ、と歌っているある種哲学的な曲なのだが、JBの声とマイナーなこの旋律は、僕が落ち込んでいる時に聞くと、益々落ち込む効果があるので、要注意な曲なのだ(笑)。他にも「ゲロッパ」と聞こえる「セックス・マシーン」も大ヒットした。

1933年生まれの彼は、残念ながら、2006年の12月に亡くなっている。73歳だった、1933年と言えば大恐慌の年だ。アメリカの一番貧しかった時代だろう。特にアメリカ南部に生まれた黒人のJBは、他の一般的な黒人がそうであったように、極貧の少年時代を過ごした。

彼が幼い頃に母は家を出て、街で軍人相手の娼婦に身を落とす。この時の母に対する「捨てられた」という気持ちは成人しても彼の心に澱のように残ったままだった。彼が後に大スターになった後、生活苦の母が訪ねて来たが、会話は空々しく心の虚しさを増幅するだけだった。

しかし、母が帰った直後、彼は、親友ボビー・バードに、泣きながら、「彼女の生活が不自由のないようにしてやって欲しい」と頼むのだった。

幼きジェームス少年を置いて母が家を出て行ってから、父も荒れて横暴な上、大酒飲みでどうしようもなくなった。父もこのままではにっちもさっちも行かなくなると、軍への入隊を決意し、娼婦館の女主に幼いジェームスを預けて入隊してしまう。

16歳の時、車上荒らしをして捕まり、少年院で過ごす羽目に。その少年院時代に親友となるのが、後に一緒に音楽活動を行うことになるボビー・バードだった。ボビー・バード率いる音楽グループが、少年院に慰問コンサートに来たのだ。2人は歌を通して息投合する。JBは釈放後、ボビー・バードの家族に生活の支援を受ける。

JBはボビーの妹と恋仲になり、一緒にステージで歌ったりしていたが、ゴスペル中心だったボビーのバンドが、JBの声と歌に合うR&Bバンドに変ると共に、彼らの恋も終わりを告げ、JBは結婚。

JBの歌が地方放送局でも流されるようになり、その存在が徐々に知られるようになって行く。この頃から、バンドのリーダーはボビーからJBに自然と移って行く。同時に彼らがキングレコードの目に止まり、遂にメジャー・デビューを果たす。

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以降は、彼がスターダムに上り詰めて行く過程が描かれているが、見せ場は何と言っても彼のライブ・ステージの場面だ。僕の好きな曲が沢山聞けるだけで最高の気分なのだが、それだけではない。

ジェームス・ブラウン役は、勿論、他の俳優(チャドウィック・ボーズマン)がやっているのだが、完全にJBだと思わせるほどに、歌も(勿論アテレコ)ダンスも凄いのだ。

この映画を観ていて気が付いたことがある。彼のステージ上でのキレのあるダンスを見ると、歌とダンスを合わせ技にしたライブは、ジェームス・ブラウンが最初で、それを完成したのがマイケル・ジャクソンだったのではなかったかと思ったのだ。

他にもバンド・メンバーとの喧嘩別れ、親友ボビー・バードとの意見の対立・離別・再会、母との再会等など、実話というには余りにも沢山のドラマの詰まった見応えのある映画だった。感動して涙が滲む場面が少なくなかった。

音楽映画はいい。友達よ、僕を誘ってくれてありがとう。

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12月 14, 2015   No Comments

高松出張(3) ― 完 ―

.          栗林公園の花     Photo by Shindou

.          栗林公園の花     Photo by Shindou

栗林公園は本当に広い。僕は園内を隈なく歩いたため、2時間半ほど掛かった。公園を出て、バスにするかタクシーにするか迷ったが、まだ午後4時半で、6時半からの四国支部の忘年会までには時間があるので、徒歩で宿泊先に向かうことにした。

1.5km弱と踏んで歩いたが、これが結構遠かった。多分、栗林公園で長時間歩き回ったために、足が重かったのだろう。やっとの思いでホテルに辿り着きチェックイン。部屋でスマホの「本日の歩数」を見たら、15,000歩となっていた。3月のスマホ購入以来の新記録だ。

部屋で小一時間休んでから忘年会会場に向かった。まだ開始時間より7~8分前なのに、既に参加者が殆ど集まっていた。Ⅰ支部長や他のメンバーに挨拶して席に着いた。四国支部OB会の会員は13名で、この日の来賓である現役の高松支店の営業次長と僕を入れて総勢15名の集いとなった。

支部長の開会の挨拶の後、僕が指名された。残念ながら、出席者の殆どは合併会社の相手社の出身の人だし、僕と同じ会社の出身者2名(うち1名は女性)も当時全く面識のない人だったから、最初に自己紹介として入社年次や現役当時の主職務などを話した。

続いて、「同窓会に新幹線に乗って行ったことはありますが、忘年会に飛行機で駆け付けたのは、これが初めてです」と言うのも忘れなかった。これは普通凄い金持ちしか出来ないこと。確かに、と会場が沸いた。

そして、昨年まで、四国支部からホームページへの投稿は1件だけだったのが、今年は支部長自ら幾つも投稿してくれて、それも写真付きだから、そのITスキルは凄いと感謝し褒め讃えた。

それを聞いて、僕の向いの席の女性(四国支部の幹事さん)が、「写真はⅠさんではなくて私がやってるの!」と仰る。「そうですよね。Ⅰ支部長がいきなり離れ業をやれる筈無いですものね」と返したら、ドッと来た。来年はOB会合併後10周年を迎えるので、一緒に何か良い企画を考えましょうと述べて挨拶を締め括った。

宴も進んだ時、件の女性から質問があった。「昭和44年入社と言うことは、68~69歳ですよね? そうは見えないくらいお若いですけど」と。「はい、実は私中卒ですから60になったばかりでして」と僕。「嘘ばっかり」(笑)「多分、私は人生の苦労が足りないのでしょうねぇ」「いえ、還暦は、生まれ変わるという意味ですだから、60代は50代より若返るのが正しいんです」。へー、知らなかった。

僕がこの後ホテルに帰って寝るだけと知ってか、支部長さんが2次会に誘ってくれた。高松市の中心街のとあるビルの2階のクラブ風スナックだった。2次会には6人ほどが参加したが、他の客のグループもいて、自然とカラオケ歌合戦の様な塩梅になった。

支部長も僕に是非歌えとマイクを向ける。相手が英語で「ダイアナ」を歌っている時だったので、「じゃぁ、私もやはり英語の曲で対抗します」と言って、英語の曲はこれしか歌えない「アンチェイン・マイ・ハート」を歌った。演歌でも歌うのだろうと思っていた参加者をチョッとだけ驚かせてしまったみたいだった。

.            高松城(=玉藻城)址公園入口

.                高松城(=玉藻城)址公園入口

翌日は午後の飛行機なので、午前中に、今度は高松城跡公園(玉藻公園)に寄って散策することにした。高松城は日本で3つしかない水城とかで、その特徴は、城郭が海に面していて3重に城を囲むお堀が全て海水を引き込んで自然の要塞としていることだと説明書きにあった。

確かに今でもお堀には鯛やボラなどの海の魚が群れていた。餌を撒くと魚が競うように口を大きく開けて餌を取る図は池の鯉や金魚たちと変わらないのだが、水面に銀色の横腹を見せると、やはりそれは鯛だった。

.               内堀には鯛の大群が餌を待っている

.                 内堀には鯛の大群が餌を待っている

飛行機の着陸やり直し、飛行機で忘年会に駆け付ける、餌付けされた鯛を見る、3つの始めてを土産に帰京の途に着いたのであった。

.            高松城址 海に対する監視櫓

.            高松城址 海に対する監視櫓

.            高松城内の石垣

.                 高松城内の石垣

12月 13, 2015   No Comments

高松出張(2)

.               栗林公園

.               栗林公園

OB会の事務局が、僕のために気を遣って取ってくれた飛行機は高松空港に13時過ぎ到着だったの便だった。18時半からの忘年会までに観光する時間を充分に確保してくれたのだ。飛行機は15分ほど遅れたが、全く問題ない。

僕は、以前カミサンと四国一周旅行のツアーに参加して、あちこち見て回った時、最初の見学場所が「栗林公園」だった。とても広く美しい日本庭園、物凄く大きな立派な松の多い公園だったという記憶があるが、如何せん短時間の見学だったので、今回は栗林公園を隅々までじっくり歩いてみようと思った。

.                無人の栗林公園

.                無人の栗林公園

入場料410円を入口で払い、パンフレットを頂いて園内に入る。金曜日ということもあって人はまばら。実に良い日に来たなと思いながら、案内に従ってまずは庭園の南側を散策。ところが、薄曇りだった天気が、次第に暗くなりポツリポツリ来た。仕方ないから大きな松の下で雨宿り。

そうだよ、この松並木だよ。記憶に残っていたのは。その松の下で夕方の忘年会の会場をスマホで確認などしていたら、雨は直ぐに上がった。小径を歩いていても、たまにアベック(最近の言葉ではカップルと言うらしい)に出合うくらいで、とても静かだ。

.                 懐かしい松並木

.                 懐かしい松並木

この緑の多さ、手入れの良さ(この日は樹木を手入れする職人さんがかなり多く入っていた)、広い庭園と後方の自然の小山。こんな平地で森林浴をしている気持ち良さ。

案内によると、この公園の南西の隅には、築山があり、そこから庭園が一望出来るとのこと。写真を撮るには最適な場所と入口の案内のおば様が教えてくれた。案内ルートに沿ってそこまでゆっくり歩く。

すると、そこには中国人と思われるツアーの一行が、思い思いに写真を撮ったり大声でしゃべっていた。細い小路だから、10人ほどの彼らが立ち止まって写真を撮っている間は進めない。仕方なく皆の撮り終わるのを待った。

.                根上がり五葉松

.                根上がり五葉松

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ここで日本人との違いがハッキリ出る。撮り終わったオバサンは僕に気付いてもどこうとしないし、他の仲間に注意を促すこともしない。待っている人に申し訳ないという素振りは全く見せないのだ。

それでも、写真を撮り終わるまでそんなに時間が掛からないだろうと待ったが、急いで撮り終わろうともしないし、再びアングルを変えてカメラを構える。僕も流石に頭に来て、「エクスキューズ・ミー」と大きな声を出して、彼らの間を縫うように抜けた。英語が話せないのかどうか知らないが「ソーリー」の一言もない。通りたきゃ勝手に通れば、みたいな態度に感じた。

折角の静かさを独り占めしたような至福の時が、一気に褪めてしまった。何て連中だ。騒がしいし、無遠慮この上ない、とぶつぶつ言いながらも気を取り直して庭園全体が見張らせる築山に向かった。

向かいながら考えた。僕のこうした感じ方も、実は日本人特有の文化から見るからかなぁ、と反省してみた。要するに「他者への気配り・気遣い」は、一般中国人には縁のないことなのかもと思い直したのだ。35年前に50日間のアメリカ研修に行った際も、彼らの世界では、「思いやり」よりも「アピール・プレーの世界」だと感じたことも正直なところだった。

しかし、陽気なアメリカ人は「エクスキューズ・ミー」に対しては「オー・アイム・ソーリー」と両手を広げて体を引いて通してくれたものだが。

築山の頂上からの景色は絶品だった。大きな池、そこに架かる太鼓橋、池の左右に広がる松林(栗林もあるのだが、何たって松が目立つ。流石高松)、そして正面後方には標高50mくらいの自然の小山が聳え、日本の景色が凝縮された日本庭園の本質を見たと思った。

受付のおば様にここで写真を撮るよう勧められたのを思い出し、スマホを取り出そうとした。その時、残念なことに先程の中国人一行が現れその太鼓橋を渡り始めた。またかよ、と舌打ちしたい気分で彼らが橋を渡り終り視界から消えるのを待った。

彼らはまたまた、太鼓橋の頂上でお互いの写真を撮ったりするので時間が掛かる。僕も、四国支部の忘年会には充分過ぎる時間があると自分に言い聞かせ気長に待つことにした。10分ほど待たされたがやっと全員橋を渡り終わった。やれやれ、と思ったら、多分彼らの一行と思うが、遅れて来たカップルがやはり橋の頂上で写真を取り合っている。

ここまで待たされると意地になって視界から誰もいなくなった無人の庭園を撮影すると妙な決意が固まった。その内、男の方が登って来た橋を引き返して、多分トイレの方に消えた。その間女は橋の頂上で、スマホを見始めてそこを退く気配を見せない。彼氏を橋の頂上で待つつもりなのだろう。

彼がトイレから戻るのを僕も今か今かと待っている。何であいつのトイレを僕が待たなくちゃいけないんだ? 妙な話だ、まったく!

.                これぞ栗林公園

.                これぞ栗林公園

そんなことも克服して遂にこの日一番の写真が撮れた。それがこの1枚である。良い写真を撮るにはただひたすらその時を待つんだ、と写真部の先輩が言っていたのを思い出した。腹も立ったが、やはり栗林公園は素晴らしかった。ここだけの話、兼六園も偕楽園も後楽園も、栗林公園には遥かに及ばないと思った。

12月 12, 2015   No Comments

高松出張(1)

.        高松市のアーケード     Photo by Shindou

.        高松市のアーケード     Photo by Shindou

僕が所属した会社は、14年前にもう一つの損保会社と合併している。それに伴い、夫々のOB会も9年前に合併した経緯がある。以降、OB会本部の常任幹事会は、両社の出身者同数のOBにより構成されている。

僕はそのOB会の副会長を仰せつかっている。昨年のOB会総会で、何人もいた出身会社の先輩たちがこぞって常任幹事を辞めてしまい、気が付いたら副会長になるべき先輩は一人もいなくなっていた。つまり、同じ出身会社で僕以外は全て後輩となってしまった。

完全な逃げ遅れである。辞めて行く前OB会長にも「君も会社には世話になったのだから、是非副会長を受けてくれ」とか、理不尽な説得を受けて仕方なく当番のつもりで受け入れたのだった。仕方ないと言うのは、先輩が一気に辞めることを事前に察知も出来なかった己の不明を思ったからだ。

理不尽と言えば、そもそも、僕が常任幹事になった経緯だ。5年前、前述の前会長さんが僕に電話して来て「OB会のホームページを作りたいので、力を貸して欲しい」と依頼があった。僕がシステム部門出身だからだと思う。現役時代にお世話になった人だから、このボランティアを快諾したのだった。

暫くして、「ホームページを作っても、その後会員に定着させないといけないから、この際、君をホームページ担当の常任幹事にするので了解してくれ」と言って来た。なんのこっちゃ分らないが、兎に角ホームページを作れば良いんだから身分はどうでも良いと了解した。

それから、1週間後また電話をして来た。「君はOB会の会員じゃなんだってな。それは一寸拙いから直ぐ入会してくれ」とのこと。「どうすればいいんですか?」「入会金3千円と年会費2千円の合計5千円払えばいい。簡単だから」。

世の中に「有償ボランティア」というのはあるが、このケースはなんて言うのだろう?  5千円払ってボランティア。「有料ボランティア」かなぁ?

本人の意志とは殆ど無関係に行き掛り上常任幹事にさせられて5年、副会長にさせられて約2年が経つ。全国に8つのOB会の支部があって、毎年、5~6月頃に開催される各支部の総会には、会長・副会長が現地に行って本部方針を説明したり、現地の会員と語り合い懇親を深めるのが慣例となっている。

僕の担当は四国支部なのだが、この支部は毎年、総会ではなくて12月の支部の忘年会に参加することになっているようで、やはり今年もこの時期に呼ばれた。僕は羽田から飛行機で高松に向かった。この日は全国的に風が強い日だった。機内では機長が「今日はいつもの高度は風速200mを超える強い向かい風なので、高度を下げて7千mを飛んでいます」と説明していた。

高松に近付き、雲の間を降下する時はかなり揺れた。ストーンと落ちる感覚も何回かあり、少し心配になった。無事着いてくれよと祈るような気持ちがなかったと言ったら嘘になる。それでも徐々に地面が近付き、やっと着陸かと思った時、飛行機は再び上昇に転じた。

ゴー・アラウンドだ。すかさずアテンダントのアナウンス。「只今、当機は着陸を見合わせて再び上昇致しました。後ほど機長より詳しい説明があります」とのこと。これは心配だよ。車輪が出なかったのかとか、滑走路に何か障害でも生じたのかとか、強風で降りられないのかなど、いろいろ想像してしまうからね。

ゴー・アラウンドは生まれて初めての経験だ。上空を旋回して、さぁ着陸再挑戦。最悪なら(胴体着陸なら)、乗客に防御の姿勢を取るようアナウンスがある筈だから、そうでないことは分った。そして飛行機は滑走路に近付き着陸し逆噴射でスピードが緩められた。

滑走路から駐機場までの間に機長から説明があった。「一旦着陸態勢に入ったのですが、強風のため、機体のバランスが崩れたので着陸をやり直しました。ご心配をお掛けしましたが、当機を安全に着陸させるための必要な処置だったことをご理解賜りたく存じます。そのため到着が遅れましたこと、心よりお詫び申し上げます」。

終わり良ければ全て良しだ。無事到着できたことが全てだ。機長ありがとうね。

.                     栗林公園

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12月 12, 2015   No Comments

この数か月、拙ブログでは度々友人知人の病気のことを書くことが増えてしまった。高校同期のIや大学時代のバンド仲間Aや会社の後輩Kのこと、そして実姉のことなどなどだ。

ならば、神童自身のことはどうなのだ、という声が聞こえる。僕は60歳の時還暦記念の人間ドックで1cm大の大腸ポリープが見付かり、内視鏡手術でそれを摘出したことがあった。細胞検査の結果が1週間後に分かると言うので、恐る恐る病院に出掛け結果を聞いた。

医者は、最初に、1cm以上のポリープの場合、癌化しているケースは5分5分だ、と脅かしてから、徐に「神童さん、良かったですねぇ。良性でした。運が良かったですよ」と仰る。緊張が一気に緩んだのを今でも覚えている。

以来、毎年1回、大腸の内視鏡検査を行って来たが、5年間は何事も無く過ぎたが、ここ2年連続で5mm程度のポリープが出来て切除している。ポリープは切ってしまえばどうということはないのだが、医者から1週間、食べ物が限定され、何より飲酒を禁止されるのが辛い。

今年もまた先週検査の時期を迎えた。2年連続だから、今年も覚悟を決めて検査に臨んだ。腸が全く綺麗だという訳にはいかないのは分かっていたが、今回は3mm程度のものと2㎜に満たないポリープが見付かった。僕もテレビ画面をリアルタイムで見ているから、それらを発見するのは先生とほぼ同時だ。

医者曰く、「小さい方は消えることも多いし、切除も難しいから放っておいて良いでしょう」。そして「大きい方はどうしますか?」と僕に聞く。「切らなくてもいいということですか?」と僕。「この形だと消えることはないので、次回には切った方が良いですねぇ」との返事だ。

内視鏡手術といっても、切るか切らないかを患者の意志に任されるというのは困りものだな。「1年経ったら、えらく大きくなっているってことはないんですか?」「それは何とも言えませんが、神童さんのこれまでの経緯を見る限り、1年後大きくなっても5mmくらいかと思いますがね」。

それで決まった。「じゃ、来年は少し早目に、7月頃検査に来ます」と僕は宣言した。先生は「それは良い考えですね。その時は1週間、飲酒は勿論、ゴルフや出張など何の予定も入れないで下さい」と仰る。これで次回4回目のポリープ摘出が決まってしまった。あ~ぁ。

「ところで先生、何でポリープが出来るんですかねぇ?」「遺伝だとか食べ物だとか刺激物だとか、いろんなことが言われていますが、神童さんの原因は何だとは簡単に言えないんですよ。お酒飲みますか?」「はい、タシナミ程度は(嘘、笑)」「辛い物が好きだとか、喫煙とかは?」「はい、それもタシナミ程度は」「あ~ぁ、やっぱりね、そういう人に多いんですよ、ポリープは」。少しも嬉しくない。

このように僕は60歳以降、大腸検査は友達のようになっているが、バンド仲間のYも最近初めての検査で、大腸ポリープが幾つか出来ていたのが分かり切除したと言う。また、今僕と一緒に仕事をしているS君も、初めての内視鏡検査で大小5つのポリープが見付かり、本日切除手術に臨んでいる。大事に至らないよう祈るばかりだ。

何せ僕は、S君と50歳過ぎのパートのお嬢様の、たった3人で仕事している関係上、S君が元気に復帰してくれないと、大変困ったことになるから、必死に祈るのであります。

12月 9, 2015   No Comments

銀座タクト後日談

実はライブで、「錦糸町のジュリー」の他にもう一人、Keiさんの歌の生徒さんで、帝国ホテル内の革製品ショップの女社長さんが出演している。「ベサメムーチョ」と「コーヒー・ルンバ」を歌った60歳前後の彼女は、流石に顔が広く、大勢の知人が会場に駆け付けていた。その中には銀座のバーのママもいて、ライブ後の打上げはそのお店で行うことになっていたようだ。

僕らは、楽器の片付けやら何やらでライブ終了から小一時間後、バー「九州の旅」に着いたのだが、そこにはライブを聞いてくれた人達が7~8人がいて、既にみんな盛り上がっていたが、全員が拍手で僕らを迎えてくれた。

Keiさんに対して、口々に、「とてもいいライブでした」「僕たちには懐かしい当時の曲が多くて嬉しくなって随分踊っちゃいました」「バンドの皆さんも、凄かったです。迫力ありましたねぇ」とか、「i-padで全部録画したので、DVDにしてあげますよ」とか、皆さん、やや興奮状態のよう。

こう言われて気分が悪かろう筈はないのだが、その中にシャンソン・カンツォーネのプロ歌手がいるのが分かって、気分は落ち着かなくなった。

「戸川昌子さんとか雪村いずみさんとかと良くコンサートご一緒するんです。先週も三越小劇場でライブやったばかりなんですよ」とサラリと仰る。えっ! 僕はそういう人の前で歌ってしまったの?

雪村いずみ、ってまだ生きてたんだ、と思ってそう言うと「ええ、お元気ですよ。ひばりさんやチエミさんは随分前に亡くなられましたけどねぇ」と上品に仰る。

年の頃は僕より何歳か上だと思う。年は重ねられても、若い時は相当の美人だったことを伺わせる女性だ。「そういう方がいるのも知らないで、下手な歌をお聞かせしてしまってスミマセン」と言うしかなかった。

だが彼女は、「いえいえ、素晴らしかったですよ。グッドでした。もう1~2曲聞きたかったです。それにドラムのリズム感が抜群でした」なんてお世辞を言ってくれたが、何だかバツが悪い。

他の人が、「この女性(ひと)はね、ジェームス三木の前の奥様なの。山下典子さん」と教えてくれた。当時超売れっ子の脚本家ジェームス三木の元妻だと聞いて2度驚いた。確か15~16年前に離婚騒動がテレビで取り上げられていたのを思い出した。

僕がその店でハイボールを3~4杯飲んだところで、その日ライブに来てくれた仲間から電話があり、そちらでも盛り上がっているので直ぐ来いとのことなので、Keiさんに断って移動することにしたのだった。

この打上げ会、僕の想定と違った。後からこのバーに到着した中で、出演者側として参加したのは、Keiさんと女社長と僕だけで、あとはKeiさんの旦那様とか仙台からこの日のために駆け付けたKeiさんの友人とかだった。

僕はてっきり、バックバンドも全員参加するものと思っていたが、僕が本当にお世話になったその人達が1人もいないのは凄く残念だった。会費5千円は彼等には高いだろうとのKeiさんの配慮(?)だったようだ。

でも、次の共演の予定はないのだから、もう2度と会えないかも知れない。いろいろアドバイスを貰い、この日の演奏が何とか成功したことのお礼を言いたかったし、彼等プロ・ミュージシャンが、僕をバンドの一員として扱ってくれたから、一緒に飲みたかったのだ。

しかし、彼らはプロ、もう明日は違うステージで演奏する身。僕みたいに一度のライブで共演したからと言っていちいち交流していたのでは身が持たぬ。もう今頃は次の仕事に頭が切り替わっているのだろうと考えて、諦めることにした。

ところが翌日、ベースの竹原さんからメールが来た。「昨日はお疲れ様でした。一緒に打上げが出来なかったので、日を改めて、スケキョン(助川恭子:キーボード)と保山さん(ギター)に声を掛けますので、小打上げでもやりませんか?」と。

これには僕も大喜びして、是非是非と返事を返したのは言うまでもない。12月は彼らにとって一番忙しい時期だから、多分年明けの打上げ会になるだろう。

 

(なお、銀座タクトで演奏した曲は次の通り)

 

第1部 

1.  ブルドック

2.  朝日の当たる家

3.  哀愁のヨーロッパ

4.  バケーション

5.  カラ―に口紅

6.  ビーナス

7.  この世の果てまで

8.  キッスは目にして

9.  勝手にしやがれ

10.  時の過ぎゆくままに

11.   天使の誘惑

12.  素敵な16歳

13.  ルイジアナママ

14.  サンライト・ツイスト

15.  星影のバラード

 

第2部

1.  アンチェイン・マイ・ハート

2.  スタンド・バイ・ミー

3.  ベサメ・ムーチョ

4.  コーヒー・ルンバ

5.  オ―・キャロル

6.  恋のバカンス

7.  ラ・バンバ

8.  大人になりたい

9.  好きにならずにはいられない

10.  ファンキー・モンキー・ベイビー

11.   メリー・ジェーン

 

12月 8, 2015   No Comments