プレミアムエイジ ジョインブログ
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Posts from — 1月 2016

素直になれなくて

「シカゴ」。1970年代~1980年代に一世を風靡したロックバンドだが、僕はその時代の洋楽は、全くのブラインドなのだ。学生バンドをやっていた頃は、何と言っても「ビートルズ」・「ローリングストーンズ」・「アニマルズ」が公共の電波を占有していた時代だった。

大学を卒業してサラリーマンとなったのは1969年。僕は卒業と同時に音楽も卒業したのかも知れない。気楽な学生生活から実社会に飛込むことへのケジメと覚悟の現れだった、というのは嘘で、先のブリティッシュ・ロック御三家の後、「ピンクフロイド」というバンドが急浮上して来たのだが、僕にはとても難解でその良さが全く分らなかった。

そのことがキッカケで、洋楽やロックへの興味が急速に冷めて行ったという経緯がある。それでも、ラジオやレコード店で流れていた「シカゴ」の「長い夜」は知っていた。それまでのエレキギター中心のロックバンドに、初めてブラスを加えた新感覚のサウンドだったのを覚えている。「シカゴ」はブラス・ロックの先駆者として有名だった。

だから僕は、「シカゴ」はギンギンのハードロックのバンドという印象しかなかった。だが、最近、あるライブハウスで日本人のバンドのバラードを聴いた。僕の琴線に触れるメロディーなのだ。

どこかで聞いた記憶がある曲ではある。歌い終わってボーカリストが「シカゴの~」と言ったのは分った。題名は聞き逃したのだが、「シカゴ」ってハード・ロック以外にもこんな良い曲を作っていたのかと驚いた。

その夜、僕はYOUTUBEで「シカゴ」を検索して探した。頭出しの要領で、ハードロックを飛ばしてスローの曲だけを順番に聞いて行った。あった。遂に見付けた。題名は「素直になれなくて」(原題:Hard to say I’m sorry)だった。

恋人から、「お互い暫く離れた方が良いと思う」と言われてしまった男の心情を歌っているのだが、詩の内容よりもボーカルの「ピーター・セテラ」の、シャープな声ながら哀感に満ちた歌い方に即魅せられてしまった。そして、この曲、是非歌ってみたいと思った。1曲しかない僕のレパートリー「アンチェイン・マイ・ハート」に代る曲として。

ロック・マニアの多いダンディー・クイーンのメンバーに、「誰かこの曲の楽譜を持っている人がいたらコピーを送って欲しい」、と問い合わせたら、さすがロック・R&Bの専門家のKoが持っているとのこと。早速、メールで送ってくれた。準備は出来た。

音源はスマホでいつでも聞くことが出来る。早速、歌詞を見ながら練習を開始した。だが、昔と違ってなかなか暗記出来ない。覚え切るには若い頃の10倍繰り返し歌わないとダメなのは承知の上だが、それにしても歌詞を覚えるのがこれほど大変だとは、いやはやである。

ドラムを叩きながら歌うには、歌詞カードを見ながらではリズムが狂うので暗記しないとダメなのだ。これも、ボケ防止だ。亀の如くゆっくりと、いつか必ずゴールの時が来ると信じて練習しよう。それは桜の咲く頃か、はたまた初夏の日差しが眩しい頃か?

 

.  素直になれなくて  ― Hard to say I’m sorry ―

.                       by CHICAGO

Everybody needs a little time away
I heard her say, from each other
Even lovers need a holiday
Far away, from each other

Hold me now
It’s hard for me to say I’m sorry
I just want you to stay

After all that we’ve been through
I will make it up to you. I promise to
And after all that’s been said and done
You’re just the part of me I can’t let go

Couldn’t stand to be kept away
Just for the day, from your body
Wouldn’t wanna be swept away
Far away, from the one that I love

Hold me now
It’s hard for me to say I’m sorry
I just want you to know

Hold me now
I really want to tell you I’m sorry
I could never let you go

After all that we’ve been through
I will make it up to you. I promise to
And after all that’s been said and done
You’re just the part of me I can’t let go

After all that we’ve been through
I will make it up to you. I promise to

  (間奏)

You’re gonna be the lucky one.

Everybody needs a little time away
I heard her say

1月 25, 2016   No Comments

OB会新年会

  出身保険会社のOB会は、毎年1月中旬の土曜日に新年会を開催することになっている。今年も1月16日に会社のホールを借りて、約250名の参加を得て開催した。会社からも社長・副社長以下、現役の役員・部長クラス総勢18名が来賓として出席してくれた。

  この日、幹事の順番で僕が司会を務めることになっていた。通勤でも僕はブレザー姿なのだが、来賓側(会社側)のドレス・コードがスーツ&ネクタイ着用となっている以上、僕もそうしないと流石に失礼に当るので、何年振りかでスーツ姿で出掛けることにした。

  現役引退と共にスーツは新しい方から3着だけ残して全て処分したのだが、それを着る機会は殆ど無かったが、やっとそれが役に立った。着心地もジャケットとさして変らないが、ネクタイはこんなにも喉元がキツイものかと改めて思う。喉元を緩めるとだらしなく見えるし誠に始末が悪い。それでも会場に着くころには慣れたせいか違和感も薄まっていた。

  さて、司会のことだが、僕は昔友人や後輩の結婚式で10回以上司会をやった経験はあるのだが、それ以来、ある種形式ばった会の司会を務めたことはなかったので、一応、間違いのないよう、進行のシナリオを準備した。

  以前だと、シナリオを作って事前に2~3回読めば覚えてしまい、当日はその場のアドリブを加えて自由に出来たものが、今はそうは行かない。覚えられないのだ。こういう場合は、シナリオ通りに話そうとすると、寧ろ、それを思い出そうとするあまり、舐めらかに話せず、失敗したりぎこちなくなる危険性大である。

  そこで、作戦を変え、場面場面で言うべきポイントのみ箇条書きにしたものを司会テーブルに置いて進めた。やはりこれが成功だった。最初の切り出しこそ硬かったと自覚しているが、しゃべり始めてしまえば後はいつもの調子で進められたと思う。ライブのMCのノリだ。

  OB会の会長挨拶の次は、来賓の保険会社のS社長の挨拶。事前にS社長には挨拶の後、来賓全員を僕が紹介すること、その後、S社長に引き続き乾杯の音頭をお願いしておいた。

  合併に次ぐ合併で今や1万5千人を優に超える従業員を抱える大会社の社長と言っても、僕より4歳後輩で、昔、仕事で一緒だったこともある間柄なので、こちらも気が楽.という利点もある。

  ただ、S社長、挨拶が終ったら直ぐに「それでは乾杯に移りたいと思います」と自ら言われてしまい、段取りが狂った。会場は待ってましたとばかりグラスにビールを注ぎ始めた。仕方なく、「社長、スミマセン。乾杯の前にご来賓の方々をご紹介させて頂きます。ご来賓の皆様には、グラスを持って前の方にお進み頂ければ幸甚です」と割って入った。

  S社長も、あぁ、そうだった、という素振りを僕に送って来てくれた。僕は順番に来賓の役職名と名前のみ紹介して行ったのだが、何せ人数が多いので数分掛かってしまった。その間参加者はグラスを持ったままお預け状態となった。

  段取りが狂った影響と思うが、全員の紹介を終えたところで、僕は「来賓の皆様、どうぞ、お席の方にお戻り下さい」と言ってしまった。言って直ぐ誤りに気が付いたのだが、仕方ない。全員が席に戻ったところで改めて「それでは社長、乾杯のご発声をお願い致します」と言うしかなかった。

  来賓はビールの入ったグラスを持ってステージに並んだのに、乾杯の前にまたグラスを持ってぞろぞろと席に戻ることになったのだった。本来は、乾杯の前に来賓紹介を終らせ、来賓が席に戻ってから、乾杯の準備を促す筈だった。でも、僕はそんなミスをした素振りも一切見せず最後まで司会をやり抜いた。

  しかし、しっかりOB会の会長にはバレていて、「神童らしくていい」とからかわれてしまったが、こちらも、ミスっても狼狽えないスキルはライブで充分身に着けているから、「さすが会長、良く分りましたねぇ」と返した。

  立ちっ放しの2時間、新年会が終ったら、忘れていた右膝痛が蘇って来た。これはアルコールで痛さをマヒさせるしかない。1次会で飲めなかった分、2次会では良く飲んだ。非日常的な一日が終った。

 

1月 21, 2016   No Comments

華麗減少

  1ヶ月前の今頃だった。点滅している信号を急いで渡ろうと早足で進んだら横断歩道の真ん中で、右膝の力が抜けたような感覚になり、カクッとなって思わずコケそうになった。信号は赤になってしまったから、誠に格好の悪いことながら細いグリーンベルトの所で再び信号が青になるのを待つしかなかった。

  昨年の冬もそんなことがあったが、膝に力が入らない感覚だけで特に痛みもなく、スクワットを開始したら1週間で症状はなくなった。今回も、何がしかの違和感はあったが痛みはなかったので、その翌日から2日連チャンのゴルフを行った。

  だが、その翌日から右膝の内側に少し痛みを覚えるようになった。それが2週間も治らず、年明けの初詣で長い距離を歩いていると、右足を前に踏み出す時、ピリッと鋭い痛みが走るようになり、ビッコ引き引きの初詣となった。

  正月休みが明けて医者の通常診療が再開されると同時に、僕は整形外科に飛込んだ。医者は寝そべる僕の足のあちこちを触ったり、上や横に動かしたりして痛い部所を特定したり、レントゲンを撮ったりして、最後に診断を下した。

  医者は膝の模型を見せながら、「膝の関節の中には、骨と骨の間にこういうパッキンがあるのですが、内側の方が少し薄く硬くなっているようですね。これは右膝正面のレントゲンですが、写真の右側の方が左側より少し薄くなっているのが、分かりますか?」「確かに」。

  「座っていたり、寝ている時は痛まないということですから、まだ初期症状だと思います。痛み止めとパッキンを柔らかくする薬を出しますが、当面リハビリに通って下さい」。

  「先生、原因は?」「まぁ、一般的な加齢現象ですねぇ」。という訳で、通院が始まった。薬を1日3回飲み、湿布を貼ってサポーターをして、週3回光線治療と理学療養士のマッサージ&リハビリを受けている。トホホである。

  先生の診断を聞いて、僕が一番心配したのは、歩けなくなる心配よりも右足でバスドラムを打てなくなるのではないかということだった。右膝を軽く上げて少し足を浮かせてペダルを踏む場合と、踵をペダルに着けてつま先を上げてペダルを踏む場合があるが、試してみるとどちらも大丈夫だ。

  腰掛けて、右足を動かす分には膝に体重が掛からないので痛みは走らないようなのだ。 30日にライブを控えていたから、もしダメだったら、予定しているお客様にキャンセルの連絡をしなければならないところだった。一応最悪は避けられたかとホッとした。

  もう一つ問題がある、2月にはゴルフの予定が3回入っている。恐る恐る医者に聞いた。痛みが引くまでは、ゴルフも他の運動も避けるべきだと言う。それはそうだが、痛みがなくなる時期が問題だ。「いつとは言えないが、まず、1ヶ月は自重して貰った方が良い」とのご託宣だった。

  1ヶ月前の2連チャン・ゴルフで痛めた右膝だから、またゴルフで更に悪化させたらアホ以外の何ものでもない。僕は、幹事に連絡して、2月のゴルフを泣く泣く全てキャンセルしたのだった。「よーし、こうなったら、『加齢現象』を『華麗減少』にとどめるぞ!」と言って力む神童であった。

 

1月 18, 2016   No Comments

仙台公演決まる

昨日、ある新年会があった。それは、昨年11月に「銀座タクト」でライブを行なった時の主催者のKeiさんを初めとする出演者たちの再会の場だった。場所は東銀座の「しのだ家」という割烹料理屋だ。

昨年の暮れに連絡があり、午後5時からとのことだったが、僕は一応勤労者で就業時刻が午後5時なので、30~40分遅れるが必ず参加すると伝えてあった。だが、まだ仕事始めての時期で、社員は殆ど挨拶回りで出払っており、僕自身も特に急ぎの仕事もなかったので、失礼して4時半に会社を出た。

5時少し過ぎたが、既に全員揃っていて乾杯も終わっていたが、2回目の乾杯と言うことで、新年と再会を祝した。この中には、Keiさん初め、竹原さん(ベース)、錦糸町のジュリー、マコリン(キーボード)、「ベサメムーチョ」を歌った女社長がいた。僕と女社長以外は全員プロのミュージシャンだ。

酔う前にと、Keiさんが「皆さんの意向を確認したいことがあります」と言いながら提案をした。「今年の7月に銀座タクト、それから12月は仙台で、皆さんと一緒にライブをやりたいのですが、皆さんどうですか? 保山さんには既にOKを頂いています」。そうだ、保山さん(ギター)がいないことにやっと気が付いた。今日は都合が悪かったらしい。

夫々、ノートやスマホを取り出して日にちを確認している。全員大丈夫とのこと。僕はといえば、仙台公演に素人の僕が「皆さん」の中に入っているとは思わず、スケジュールを調べようともしなかった。

そしたらKeiさんが、「神童さんもOK?」と聞く。「えっ?!」と僕。「新幹線代、宿泊代、ギャラを全部出しますから、何とか都合付けて」と仰る。「私なんかでいいの? 元シャープ5のドラマーとか、もっと相応しい人がいるでしょ?」「いえ、仙台公演は是非神童さんにドラムやって貰いたいのよ」。

「でも、竹原さんや保山さんにとっては(プロにとっては)気持ち良く演奏出来ませんよ。ねえ?」と僕は竹原さんに助けを求めた。「いやー、神童さん、この前素晴らしかったです。何の問題もありません」と彼も言う。

少なくても足手まといではないと言ってくれたのかなと、内心は嬉しかったが、「ここで、ノーと言っちゃうと新年会が始まらない様なので、それでは皆さん宜しくお願いします」と頭を下げた。仙台は、国分町の「スコッチバンク」という市内ナンバー1のライブハウスだと言う。嘗てC&Sと一緒に沖縄や福岡に演奏旅行に行ったことはあるが、所謂「あごあし付き(=プロ仕様)」の演奏旅行は初めてだ。

Keiさんが仙台公演には是非神童を連れて行きたいと言う理由は聞かなくても分かっている。僕が大学4年間を過ごした地であることと、18年前の単身赴任の時、「デザート・イン」というKeiさんが仕切る小さなライブバーで、Keiさんに出会ったのも仙台だからだ。

学生バンド以来30年近く完全に音楽から遠ざかり、企業戦士の一員として自分の時間の殆どを犠牲にして来た僕としては、間違っても音楽に触れる場面など皆無だった。Keiさんの店には、ピアノ・ギターアンプ・ベースアンプ・ドラムなどが置いてあって、且つ、客は自由に触って良いと言う。社会人になって以来、そんな場面は初めてだった。だがだがだがだ。30年のブランクは途轍もなく大きかった。

頭では分かっているつもりでも手足がそのようには動かない。1~2曲やると直ぐに足が攣る。手首が非常に疲れる。それが悔しくて、単身赴任の気楽さから毎週末は「デザート・イン」に通い詰めたのだった。

音楽好きの会社の後輩や部下大勢を連れて行って、彼等にもKeiさんにも喜ばれた。カラオケで英語の歌を何曲も歌う上司(東北北海道本部の本部長)の転勤の送別会も「デザート・イン」で行なった。彼は生バンドをバックに歌い、いたく感激して何曲も歌ってくれた。会社の接待でもお客さんに喜ばれもした。

僕のドラムの腕前はなかなか昔のようには行かず苦戦が続いていたが、それでも現役の頃の60~70%くらいまで回復したかなと思う頃、東京に呼び戻されてしまった。もう1年置いといてくれたら80~90%まで回復しただろうにねぇ。

しかし、今思えば、この時の、ドラムに触れた30年振りの得難い機会が無ければ、今の僕は音楽とは一切無関係な生活を送っていた訳だ。音楽を通じて多くの人と知り合ったり、気の合った仲間とずっと音楽活動を続けられる今の人生は、まず有り得なかっただろう。

こんなに充実した第2の人生を送れていることを、Keiさんに深く感謝しなければいけない。仙台「スコッチ・バンク」ではステージの上でこのことを絶対に言おうと思う。前乗りの日に飲み過ぎなければ・・・だが。

 

1月 6, 2016   No Comments

慰安婦問題の合意

  日韓の間に横たわる解決不能と思われたこの問題が、国交正常化50周年の年の年末ギリギリに合意に漕ぎ着けた。まずは、そのことを是としたい。

  韓国の要求する「法的責任」の表明と謝罪は、1965年の条約で「完全に解決済み」とする日本政府が絶対に受け入れられないものだし、韓国政府もそれ無しの合意は有り得ない立場だろうから、国交回復50周年の昨年中の合意はとても無理と思っていたのは、僕だけではなかったのではないか。

  中国の海洋進出・北朝鮮の核ミサイルなど東アジアの安全保障上の問題から、米日韓の結束を不可欠とする米国からの、日韓の争いの収束に向けた強い働き掛けや、経済の不調などの理由から、ギリギリの妥協案で合意したというところだろう。

  ただ、今後世論(特に韓国の世論)がこれで収まるかは非常に難しい状況ではある。夫々相手国を嫌いとする世論が70%以上だの90%だのという状況が簡単に改善する筈もない。

  だが、いずれにせよ、両国の政府が正式に合意し、世界の各国も賛意を表明した今回の出来事は、両国の今後の協力体制や展望を切り開く上で、これまでとは全く違った大きな転換点となるだろうし、そうしなければならない。

  ところで、僕は40年以上とっていた「朝日新聞」を年明けから他紙に変えることにしていた。あまりにも中立性を欠いた記事や論調に遂に我慢の限界が来たからだ。そういう意味で、12月28日合意の翌日の「朝日新聞」を注目していた。「朝日新聞」が変るとすれば、今回のニュースの伝え方や社説でどう表明するかに掛かっていると思ったからだ。

  だが、やはり一縷の望みは見事に打ち砕かれた。

  この問題では、誤報により大問題となるキッカケを作った朝日新聞は、飽く迄も謙虚にあるべきなのに、社説では「日韓両国は激しい『告げ口』外交を展開し、傷付き疲れ果て、日韓が悟ったのは『不毛な争いは何も生み出さない』という当り前のことだった」と述べた。

  この偉そうな言い方に、流石の僕もほとほと愛想が尽きた。誤報で問題の種を撒いて、両国民に互いに大きな嫌悪感を抱かせ、両政府の長い相克を生み出して置きながら、今回の両政府のギリギリの妥結交渉の結果を、これほどに上から目線で物を言う資格が朝日新聞にあるのかと一人憤慨した。

  更に、「日韓両国の激しい告げ口外交」との記述も非常な違和感を持つ。「告げ口外交」と言う言葉を、以前から引用の形ではあったが朝日新聞も使っている。それは専ら、朴槿恵大統領が行なった、アメリカ議会での「恨み千年演説」や、ドイツやイギリスの首相との首脳会談で日本非難を行ったことをマスコミが表す言葉として使っていた。

  別に安倍首相の肩を持つ訳ではないが、あれだけ世界を飛び回って各国の首脳と会談して来た首相が、会談で韓国政府を非難したという朝日新聞のニュースを見たことがない。

  多分、日本外交がアメリカとの水面下の交渉や事情説明や働き掛けをしたことを「告げ口外交」と言ったのだろうが、外交戦略上不可欠な水面下の交渉をそう言うなら、朝日新聞の常識を疑われても仕方ないだろう。

  11月に行われた世界野球で、レフトフライを見失ってヒットにして先制点を奪われてしまった筒香が、中田が決勝打を打って勝利した時、自分のミスを帳消しにしてくれた中田に、真っ先に駆け寄って感謝していた姿が浮かぶ。

  何故朝日新聞は、自分の間違いで両国間に大きな反目を生じさせてしまったにも拘らず、それを収めた両国の首脳に何故感謝出来ないのか。仮令感謝出来なくても、何故もっと謙虚な社説を出せないのか。あまりにも人の心を知らなさ過ぎる。失敗した時の似非エリート達のブザマさを見る。

  かく言う僕も、学生時代から「朝日ジャーナル」の愛読者だったし、社会人になってからは新聞は日経と朝日を愛読してバランスを取って来た人種だ。だから、2ヶ月前に昨年末を持って朝日新聞との決別(他紙への移行)を決めていたけれども、心残りの部分が無い訳ではなかった。けれども、最後の最後に朝日新聞の方から僕に別れを告げてくれたのだ。さよなら朝日新聞。

 

1月 6, 2016   7 Comments