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Posts from — 10月 2016

平尾を叱りたい

.     山口監督  ネットより拝借 

.     山口監督  ネットより拝借

  僕の周囲にはラグビー育ちの奴が何人もいるし、ラグビーの試合を見るのが何よりも好きという奴も多い。だが、僕は極端にラグビーに疎いし、テレビでも試合を最初から最後まで全部観たという経験もない。

  勿論、昔の「釜石の松尾」だとか、「神戸製鋼の平尾」だとかのスター選手は知っているし、ラグビー日本代表が昨年のワールド・カップで強豪に勝ったり、手古摺らせたりした時は、人並みに、いやー、強くなったなぁ、と興奮したものだ。

  そんな僕でも、平尾誠二の訃報を知った時はかなりショックだった。まだ53歳の若さだったし、日本ラグビー界の王・長嶋のような存在だったからだ。その日の夜、彼の追悼番組を見ていたら、高校時代の恩師がインタビューに答えていた。

  伏見工高時代の山口良治監督(73)が、教え子の訃報に時々声を詰まらせてインタビューに答えていた。「代われるものなら代わってやりたい。なんで先に逝くんや…」。

  39年前、京都府秋季大会決勝戦で、監督は陶化中3年だった平尾を初めて見た。そのプレーに惚れ込み、自宅を訪ねた。既に特待生で名門花園高への入学が決まりかけていたが、熱く夢を語りかけた。

  「当時は親御さんが『あんな学校には行かせられない』と言うくらい、伏見工はワルの集まり。授業料免除で、ラグビーの強い高校に誘われたら普通はそちらへ行く。でも平尾はそれを振り切って私の夢を追ってくれた」。

  忘れられない思い出があると、平尾のあるエピソードを語った。高校1年の京都大会決勝で花園高に敗れ、全国大会出場を逃した帰り道。平尾は表彰式で受け取った準優勝トロフィーを投げ捨てて帰ってきた。その悔しさをバネに、翌79年度に全国大会初出場を果たし、最終学年の80年度には初の全国制覇を成し遂げたのだった。

この快進撃は、テレビ・ドラマ「スクール☆ウォーズ」として描かれた。「泣き虫先生」こと山口監督が、ワル達をどう指導したものか、苦悩しつつその気にさせて行くドラマは、僕も偶然見ていたので、記憶に残っている。確か視聴率は20%を超えて、ラグビーを人気スポーツに変える切っ掛けになったのではなかったか。

「本当に真面目ないい子。あんな子と一緒にラグビーがやりたくて・・・。平尾が私の夢を選んでくれなければ、伏見工の優勝はなかった」。

山口監督が数年前、脳梗塞で倒れた時も、平尾は病室でずっと手を握りしめ励ましてくれたと言う。そして、一度も平尾を叱ったことがないと言いながら、インタビューを締め括った。それは僕の心に深く残る言葉だった。

「今こそ、叱ってやりたい。何で先に死んでしまうんや!」。

.     故 平尾誠二氏   ネットより拝借

.     故 平尾誠二氏   ネットより拝借

10月 25, 2016   No Comments

不良老人

  毎年春秋の2回、同期の一泊ゴルフ旅行が行われる、場所はもう15年間も同じ栃木県の温泉ホテル付きのゴルフ場で開催されている。何故栃木県かというと、仙台に住む同期が参加し易いようにということでそうなったのである。

  今回は8人の参加を得て2日連続のコンペとなる。最初の頃は12~13人の参加者で始まったが、年齢を重ねるうちに、徐々にゴルフを卒業する人が増えて、ここ数年は安定的に8~9名で行われている。

  初日のゴルフが終わって、6時からは大宴会だ。大宴会と言っても8人だけだけど。毎年2回はここでワイワイガヤガヤやってる気の置けない仲間だから、久し振り感は全くなく、話が良く盛り上がるのだ。

  しゃぶしゃぶを突つきながら、お酒が進み宴会も最高潮に達した時、同期だが一浪しているので僕より1~2歳年上のHが、「最近、女と別れた」と言い出した。彼がもう何年も前から奥様以外の女性複数(今は4人)と付き合っていることは、この仲間うちでは公然の秘密、いや、秘密でもない何でもない。毎回Hが報告するから、聞きたくなくても皆んなが知っている。

  彼が話すには、東大で研究に没頭する夫(理系准教授?)の妻と何年も関係を続けていたが、その女性から、2人目の出産入院中、上の子(4~5歳)の子守をして欲しいと頼まれたと言うのだ。彼女の旦那は夜10時ぐらいに家に帰って来るので、朝、彼が出掛ける時に引き取って、夜、旦那に引き渡して欲しいと。

  流石にHも困り果て、自分のカミさんに相談した。Hが普通でないのは、自分の愛人のことを写真付きで全てカミさんに報告しているところだ。しかし、その依頼に対しては、「写真でしか知らない女性の子供を預かるなんて出来ません」と断られた。

  仕方ないから次に、愛人の中で一番付き合いの長い女性に、同じ依頼をした。そしたら「絶対に嫌です」と泣かれてしまった。Hは、愛人にも他の愛人については包み隠さず話しているのだそうだ。

  今回、泣かれたのは、一番古くから(20年以上)の彼女だそうな。彼女はいたく自尊心を傷付けられ、「他の愛人とは別れて! それが出来ないなら私が別れる」と言い出したそうな。子守を頼んだ方は2番目に長い(15年以上)らしい。

  Hは我々に、「オレ、そんなに酷いこと言ってないよねぇ?」と聞く。皆んな呆気に取られて答えることも出来ない。正直、なんだこいつ、という空気が流れた。だが、それを気にしないH。どこか異星人に見えて来た。

  彼はその彼女と別れられるか自問した結果、それは無理と判断し、他の3人の愛人と別れる決断をした。出産を控えた彼女には、力になれなかったことを詫びて、2人目が生まれるのを潮時として別れようと言ってケリを付けた。

  ただ、「その子が、オレの子か旦那の子かだけは確認したいんだよな」と言った時は、何人かが「知るか」とか「Hの話はもういいね、次行こうよ」とか声が上がった。それに対してHが「皆さん、こういう話、羨ましくないの?」と言うから、Tが怒り出した。「自分の悪趣味を押し付けるなよ。羨ましくもないし、聞きたくもない!」。

  最後に、他の2人の愛人とはその後1か月掛けて別れたと言い、子守を頼まれた愛人の写真だと言ってテーブルに置いて、「一寸これで席外すけど、明日朝7時半の集合でいいんだよね?」と幹事に確認してどこかに出掛けて行った。夜8時を過ぎていた。

  Hが残して行った写真に納まるHと愛人とその子供(4~5歳)の3人を見ると、正に、爺さんと娘と孫の図だ。驚くことに、40歳だという娘(愛人)が僕の想像とは大きく違い、「森高千里」似の清純系の美人だった。

  そんな写真を持ち歩いているHは、別れたこの女性に未練があるのか、我々に自慢したかったのか。残ったメンバーの呟きは、「この女の気持ちが分からねー。旦那もいて、子供も小さいのに、平気でよその男としょっちゅうセックスを重ねるって、ありかよー」だった。「彼女、夫婦仲は良い方だと思うよ」とのHの説明を思い出し、益々、分かんねー。

  宴会の最初の盛り上がりも、すっかり冷めて白けてしまった。何だか折角の機会が台無しになってしまいそうなので、僕は、カラオケに行こうと提案しホテルのカラオケバーに全員を導いたのだった。

  翌日のゴルフではHと同じ組だったので、あの後何処へ行ったのかを尋ねたら、車で30分程行った別のホテルに泊まったと言うのだ。勿論、1人だけ残った愛人と一緒だったそうな。

  まっ、Hは、僕なんかには絶対真似の出来ないくらいマメな奴なんだろうな。そこだけは尊敬に値する。カミさん含めて女が5人。ふと気になって聞いてみた。

  「名前を呼ぶ時、間違えたりしないのか?」。返った答えは、「うん、間違える。それでも先輩の愛人の名前に間違うのは問題無いんだけど、後輩の名前に間違えると事件になる」だって。

10月 21, 2016   No Comments

川柳の会

  会社のOB会の中に「川柳句楽部」なる会があり、3年前の発足以来参加している。部員は現在13人。例会は月に一度であるが、毎回、季節に関わる旬なテーマがお題として指定され、それを2句、自由テーマ3句の計5句を作句して臨まなければならない。

  持ち寄った句を全員で評論し、各人のベストを選び出し、OB会のホームページに掲載して発表する形で進めるのだ。年に2回ほど、イベントとして全員の投票により1位・2位・3位を決めて顕彰することも行う。

  さて、毎月の作句。最初の2年ほどは、計10句であったが、あまりにもキツイとの声が多く上がり(何を隠そう僕も声を上げた1人)、只今は5句が宿題となっている。自由テーマは、ボケ防止、孫、サラリーマン時代、鬼嫁、時事問題、スポーツなど、思いのままに作句出来るが、指定されるテーマについてなかなか句が浮かばないのだ。

  例えば、9月の例会のテーマは「旬の食べ物」だった。松茸だのサンマだの直ぐに思い付くが、川柳に求められる面白さや、思わず皆が手を打つような気の利いた句というのが出来ない。

  それでも宿題締切日ギリギリになると、何とか捻り出せるもので、次のような2句を提出した。

       松茸の 薄さお見事 土瓶蒸し

       大海の 捕獲逃れた サンマ君 ・・・ 遠洋での台湾の大量捕獲を
.                               逃れて日本まで泳ぎ着いた
.                               愛おしいサンマよ)

  松茸の句は自信作だったが、例会でのメンバー評は散々で、5句のうち選ばれたのは次の自由句だった。

       許してね オレに似ちゃった 孫娘

  大体において、本人が一番良いと思っている句は選ばれないことの方が圧倒的に多い。今やこのサークルの最大の特徴かも知れない。

  しかし、他のメンバーの作った句に刺激を受けたり、品評会の中で出る、「言葉をこう変えるともっと良くなる」などの意見が、句の良さをグッと際出たせたりするから、実はこれが面白い。

  更に、我々の年代特有のテーマでは皆が合点するし、身につまされて哀れを誘うものもある。他のメンバーの作品。

       病院で いつも言われる 歳だから      おミズ

       コンビニが 今のおいらの 喫茶店      オーちゃん

  幾ら良い句でも時宜を失すると面白くも何ともなくなるから、それも川柳の難しさだと思う。6月にモハメド・アリが74歳でこの世を去った。それを思い出して作った句がこちら。

       アリに聞く 世界最強? そりゃボクさー

  皆の感想は、「何で今頃?」「何で突然アリなの?」となるのであった。最高傑作なんだけどなー。分かんねーかなー。分かんねーだろーなー。

10月 17, 2016   No Comments

意外な飲み会

  去る月の土曜日、珍しい懇親会が行われた。その2ヶ月前、合併前の会社(H損保)の子会社の社員だったAから突然メールが来た。「神童さんと飲む会を企画したいと思っています。まず神童さんの予定を抑えたいので、土曜日で空いている日を教えてください」と。

  土曜日はライブがあったり、同窓会があったり、結構埋まっているので、唯一空いていた日を答えて置いた。僕の他に、当時システム子会社の執行部として僕を支えてくれた同世代の3人にも声を掛けているとのこと。

  Aは僕より16~17歳若く、当時、僕の進める改革方針に、何度も疑問の声を上げては手古摺らせてくれたが、納得したら手下を纏めて一瀉千里駆け抜けるような男だった。その彼が、僕が退職して8年後に、このような会を設営してくれるのは、意外でもあり嬉しくもあった。

  それから1か月後、Aから連絡が来た。「全部で20名くらいです。会場は勝手に決めさせて貰いました」と、場所と時間を伝えて来たのだった。

  会場は池袋のさる居酒屋の座敷。夕方5時からである。僕は、Aが主催するのだから、元H損保の、それも、システム子会社出身の連中が中心なんだろうと思って出掛けた。スマホの地図を頼りに何とか時間前に店に到着。

  既に大多数の者が着席していたのだが、顔ぶれを見て驚いた。H社出身者だけでなくF社出身の人もかなり多い。旧H社だ、旧F社だのという、仕事上邪魔な意識を取っ払うために、当時いろいろな取り組みをしたのが噓のようだ。だから僕にはとても「嬉しい光景」なのだ。

  考えてみれば、もうあの合併は15年も前のこと。以来ずっと一緒に仕事している連中にとっては、今や同じ釜の飯を喰う仲間なのだから、もうあの頃とは違うのだ。そして更に驚いたのは、社員だけでなく協力会社(ソフトハウス)の懐かしいメンバーも何人か参加していることだ。これは本当に意外だった。

  「いやー、懐かしいねぇ。嬉しいねぇ」とか言いながら、指定された席に着いた。「協力会社の人達も来てくれたんだね。ありがとうね」と言って声を掛けてみた。「当時大変お世話になったX社のLです。今日はAさんにお願いして無理矢理お仲間に入れて頂きました」と返って来た。

  単価引き下げ交渉などで本当に協力してくれた某社の窓口役だったL。お世話になったのは寧ろ僕の方だよ。なのに、わざわざこの会に出席してくれるってのが嬉しいね。

  懇親会開始時刻になっても、僕と同世代の4人中2人がまだ現れない。Aが「神童さん、Yさんの電話番号知っていたら一寸連絡してみてくれませんか」と頼まれた。もう一人のHさんは15分程遅れるとの連絡が入っているようだ。

  「もしもし、Y? 今何処にいる?」「今、家ですけど」「もう懇親会始まってるよ」「えっ!? 何でしたっけ?」「おいおい、Aが頑張って準備してくれた懇親会だよ」「あっ! スイマセーン! 完全に忘れてました! 今から家を出たんじゃとても間に合わないなぁ。申し訳ないですけど、神童さん、Aに心から謝っていたと伝えてくれませんか?」。

  会の最初に、指名されて僕が挨拶。

  「皆さん、お久し振りです。こうして懐かしい皆さんの顔を見ることが出来て、大変幸せな気分です。我々古希間近の世代の方も、全員揃って、こうして皆さんに元気な姿を見せることが出来て良かったです、と言いたかったのですが、2人がまだ現れません」(笑)。

  「1人はすっかり忘れていて家にいるし、1人は場所を間違えたとかで遅れると言うし。これ、古希に近づくと普通の現象なので、どうか許してやって下さい」(笑)。

  「いずれにしても、15歳以上も若い皆さんに、一緒に飲みたいと言われる幸せ、こうして集まって貰える幸せ、まだ若い皆さんには分からないでしょうけど、とっても嬉しいもんなんです。皆さんありがとう。そしてこの場をセットしてくれたA君に心から感謝します」と挨拶した。これは本音だった。

  その後、各人の近況報告やら、参加出来なかった人からの僕への伝言やら、他の人の動向などを僕らシニア・グループに伝えてくれたり、50代後半で結婚したカップル(どちらも僕の元部下)の説明をしてくれたりで、あっという間に3時間が経過した。

  幹事のAはちゃんと2次会会場も用意しており、それが終わると22時頃になっていた。これで池袋駅解散、夫々の方向に帰る筈であった。しかし、僕は、彼らの会社から徒歩8分の所に住んでいるから、同じ電車で同じ駅まで帰る連中が半分近くいる。

  その中の1人、Fが「神童さん、地元でもう少し飲みましょう」と誘う。女性陣も「行きましょうよ」と仰る。まぁ、地元なら時間の心配もないのでOKだ。じゃ、僕の行き付けの隠れ家風の飲み屋に行くかと聞くと全員賛成。

  1時間後、店に着いた。マスターは1人カウンターで眠そうにしていた。こちらの人数は7名。8年分を語るのは幾ら時間があっても足りないというように、皆よくしゃべる。眠そうだったマスターも酒を勧められてテンションが上がって行く。終わってみれば夜中の2時を回っていた。

  遅くまで付き合ってくれて、皆さんありがとうね。また、8年後会いましょう。

10月 11, 2016   2 Comments

同窓会(下)

  この小学校同窓会の数日前に、高校時代の親友と連絡を取り、同窓会(12時~4時)終了後、夕方5時に会う約束をしていた。9時過ぎの新幹線で東京に戻るつもりだから3時間は一緒に飲める。

  彼、Tは高校2~3年生の時同じクラスで、なんとなくウマが合って良く行動を共にしていた。高校は県下でも有数の進学校だったし、学校のスローガンが「質実剛健」だったから、バンカラでとても優秀な人間が多かったが、その分真面目な奴が殆どだ。

  そんな中で、2年次の成績は上の下くらいで、僕と似たり寄ったりだったTは、とても真面目な学生とは言えない少数派の男だった。しかし、その不良ぽっさが妙に様になっていて、僕に比べてやたらと大人ぽかった。

  そんなTと授業の合間に話すのが面白くて、彼といる時間が多くなって行ったのだと思う。放課後なども一緒に帰って、時に長野駅前の喫茶店に2人で入って長時間話し込んだり、別の店ではジュークボックスを占有して何曲も聞いたりしたものだ。

  今では考えられないことだが、あの時代、僕らの高校では喫茶店の出入は固く禁じられていた。それは、今と違い、喫茶店の内部は薄暗い照明で怪しげな雰囲気の場所だったからだ。でもTは全く臆することなく、コソコソせず、堂々と喫茶店に入って行くのだ。「禁止なんだから、N高の連中は誰も来ないよ」がいつもTの口癖だった。

  Tは、東京の大学に進み、外資系の食品会社に就職したが、10数年後その会社を辞め、一念発起して長野市の繁華街に自己資金を投じて有名なフランチャイズの店を出したのだった。

  その頃、高校のクラスメート達で温泉旅行をしたが、そこで久し振りにTに会って以来、彼と会う機会は皆無となった。他の友人に聞いてもTの消息は分からないと言う。ただ、Tは店を手放して何処かに行ってしまったようだ、という噂話はあった。もう25年も前のことだ。

  ところが、昨年の高校同窓会にTが突然現れたのだ。事前に配布された出席者名簿にも無かったのに。地元の連中は口々に「あいつ元気に生きてたんだ」とか言っていた。

  その日9クラス合同の同総会の後、2次会として同じクラスの者だけの2次会があった。長い間行方不明だったTが現れたのが余程嬉しい驚きだったのか、そこでも話題の中心はTだった。2次会もお開きになって、僕とKが幹事指定のホテルに戻ろうとした時、「もう1軒行こうよ」とTが言うのだった。

  もう、深夜近くだったが、僕ら2人は彼の後に付いて繁華街の路地裏の店に入り、遅くまで旧交を温めたのだった。

  それから1年。この日、夕方からTと会った。Tと僕の2人差しつ差されつの時間。彼は僕のことをいろいろ聞きたがった。保険会社でシステムをやっていたことや、今は、第2の職場、ベンチャー損保の監査役を務めていることなどを話した。

  彼は、それだけでは満足せず、僕がどこまで出世したのかと遠慮会釈なく聞いて来る。52歳の時、取締役に引き上げられたこと、その後損保業界全体の大合併が始まり、僕は合併損保のシステム子会社の社長になったこと。そして61歳で退任・退職したことを正直に話した。

  Tは、「そうか、それは良かった。高校の時、オレに付き合った連中は大体において、ろくな人生送ってないから。神童のことも心配だったんだ。それは良かった」としみじみと言う。

  そろそろTの雲隠れの25年のことを聞いても良いかなという雰囲気になった。「君が長野一番の繁華街に店を出したところまでは知っているし、オレも姪っ子を連れてその店に1・2回行ってる。その後のことは全く知らないんだ」と促してみる。

  「オレか? 最盛期は市内に5か所店を持ってた。長野市内では独占みたいなもんだから、えらく儲かったよ。自分自身の実入りも毎年2千万~3千万円はあったな」。「40代の頃だよねぇ。凄いな」。「高校の時のXを覚えているか? 彼はさぁ、当時外車販売の仕事しててサ、一番高い車買ってやるから持って来いって言ったんだ」。

  「それがよ、精々700万程度の車なのよ。長野市じゃそれ以上の外車はまず売れないから置いてないって」。「君は長野市一の金持ちだったってことだよね」。「いやぁ、違うな。本当の金持ちはそんな見栄で金使わないもの。その車もオレの金じゃなく会社の費用だから一銭も懐が痛まなかった。今思えば贅沢な生活だった」。

  「まっ、俄か成金だったんだよな。使える金が沢山手に入ると、元々真面目じゃないオレのことだ。お定まりのギャンブルに手を出してね」。「どういうギャンブル? 競馬とか?」。「いや、海外に行ってカジノをやるようになっちまったんだ。ラスベガスやマカオとか、数え切れないくらい行ったよ」。

  「社会全体もバブルだったけど、オレもバブル。そのうちバブルがはじけて店は苦しくなるは、自分の博打の借金は膨らむはで、にっちもさっちも行かなくなり、遂に自己破産。今だから言うけど、死ぬことも考えた」。

  「生命保険が1億5千万掛かっていたから、女房に言ったんだ。オレが自殺すればその金が入るけど、いいか? って。そしたら女房の奴、私も働くから絶対に死なないでくれって・・・」。

  僕は何て言って良いか分からず、「たった一度の人生、君は普通のサラリーマンでは絶対手の届かない生活を経験出来たんだから、それはそれで面白い人生だったんじゃないの」と的外れなことしか言えなかった。

  Tはうんうんと頷きながら自分を納得させているように見えたが、何かを振り払うように言った。「悪りー、悪りー、くだらねぇ話聞かせちゃった。でも、女房には感謝しないとな。こうして神童と飲めるんだから」。この話はここまでと、彼は当時のマドンナ達の話に切り替えたのだった。

  帰りの新幹線ではビールでも飲みながら、寝て行くつもりだったが、彼の身の上話が蘇り、冴えた頭のまま帰宅したのだった。時計は午前零時を回っていた。気が付けば、Tと2人きりで飲んだのは、後にも先にもこれが初めてだった。

10月 5, 2016   No Comments

同総会(中)

  同窓会出席者の中に、武田徹という男がいた。彼とは小学校から高校まで一緒だった。また、小学校・中学では野球部のチームメイトだった、彼はチームのエース・ピッチャーで、僕は、1番または2番バッターでサードを守っていた。

  高校卒業後、彼は東京の大学に入り、僕は仙台の大学に進んだので、別々の道を歩むことになったのだが、大学一年の春休みに共に長野に帰省していた時、彼が家に呼んでくれたことがあった。

  驚いたことに、彼の部屋にドラムセットが置いてあった。聞けば、大学のサークルでジャズ・ドラムをやっているという。早速「ドラムを聞かせてよ」と頼むと、彼はドラムを叩いて見せてくれた。「おう、カッコいいな」、掛け値なしにそう思った。

  丁度その頃、仙台の仲間でバンドを作ろうとか言う話が持ち上がっていて、僕はドラムをやりたいなと思っていたから、少し叩かせて貰ったが、初めてで旨く行く筈もない。でも、このドラム初体験が今に生きていることを思うと、武田には心から感謝する。

  彼が大学3年4年の時は、学生にとってメジャー中のメジャーだった、W大ニューオリンズ・ジャズ・クラブのレギュラー・ドラマーを務めたのである。あのタモリなども出入していたサークルだという。

  そして今、武田徹は長野県で知らない人がいない程の有名人なのだ。彼は地方放送局(信越放送等)で自分の冠番組を幾つも持つパーソナリティーとして活躍している。だから、4クラス合同の同窓会では皆が彼を離さない。何度も他のクラスの女性陣から声が掛かり、写真に納まっていた。

  彼は、仕事の傍ら音楽活動も継続している。僕の場合は学生時代に音楽活動をしただけで、社会人になって以降30年以上遠ざかった後、再びドラムを叩き始めた口だが、武田はこの50年間ずっと演奏活動を続けているから、彼のジャズ・ドラムは正にプロのレベルにあると言って良い。

  彼は、FM長野でジャズについて大いに語る新番組を始めると言っていた。長いジャズ・ドラマーとしてのキャリアからすれば、ラジオ番組のパーソナリティーとして、既にそういう類の番組はやっていただろうと勝手に想像していたが、ジャズを主題にする番組は初めてなのだそうだ。

  4,000枚に及ぶジャズ・アルバム、スイング・ジャーナルを始めとする雑誌・書籍は部屋に埋まる程だと言う。彼にジャズを語らせたら、そんじょそこらのジャズ評論家はしっぽを巻くだろう。

  幾つもの番組を持って活躍して来た武田が、ジャズの番組を一度もやらなかったのが寧ろ不思議なのだが、多分、己の演奏活動と仕事とを明確に区別して来たということではないか。しかし、古希を迎えて心境が変化し、人間武田徹として番組を作りたいと思った時、最早その区別自体が無意味となり、自分のすべてを曝け出したいと思ったのではないか。大いに期待したい。

  僕が同窓会の会場に入った瞬間に、「おぉ、神童! 遠方からご苦労さん。まだバンド活動やっているんだよなぁ?」と彼が声を掛けてくれた。「勿論やってるよ。12月には仙台公演の予定だよ」と答える。

  「凄いな。前に聞いた時は福岡だの沖縄だの、名古屋だとか言ってたけど、相変わらず全国又に掛けて活動してるんだ。羨ましいよ」と武田。10年前の同じ同窓会で話した時のことを覚えていたようだ。だがそれは、僕ら「のどごし生バンド」がC&Sのバックバンドをやっていた頃の話だった。今はC&Sからは独立して活動している。

  もう8~9年ほど前になるが、長野のホテルでC&Sのコンサートがあり、僕も出演したことがあった。その1週間前には、武田は自分の番組でC&Sコンサートを特集の形で紹介・宣伝してくれたのだった。

  そしてコンサート当日、武田は忙しいスケジュールの合間を縫って、奥様(ジャズ歌手)と一緒に聴きに来てくれた。何となくプロ・ドラマーの前で演奏するのは気恥ずかしかったことを覚えている。

  同窓会がお開きになった時、武田から誘われた。「10月15日に、(長野)市内のレストランでジャズ・ライブやるんだけど、神童も来れたら来てよ」と。実は僕は彼の演奏を直接聞いたのは、学生時代にW大ニューオリンズ・ジャズ・クラブのコンサートに行った時だけなのだ。

  僕は是非とも聞きたいと思い、スマホでスケジュールを確認した。10月15日は・・・、残念! その日は「のどごし生バンド」練習日@新子安「グレコ」となっていた。

  「グレコ」の料理人万作さん夫妻に贈る曲を完成させる日だった。「その日は予定が入っているなぁ。出来れば、今後の君のライブ予定を報せてよ。都合の付く時に絶対聴きに来たいから」。

  僕にとって、武田が今もドラムをやっていることは大変嬉しいし励みになるが、多分彼も同じだろうと思う。小学校以来の幼馴染みが、同じ古希ドラマーとして頑張っている図は、有りそうで、そうそう無いものだ。

  小学校の同窓会で、僕にとって貴重な存在の武田徹と会えたのは大いなる収穫であった。

10月 3, 2016   No Comments