プレミアムエイジ ジョインブログ
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Posts from — 11月 2016

安倍さんの正念場

  アベノミクスも当初の勢いは何処へやら、庶民に好影響が及ぶ前に失速してしまい、外交面でも、その成果は急に怪しくなって来た。どうやら安倍さんの正念場を迎えたように思う。

  地球儀俯瞰外交と言ってあれだけ精力的に世界各国を飛び回った首相は過去にいないと思う。4年間で100ヵ国以上を訪問したという。政治家ではなく仕事人として見たら、その体力や交渉などのストレス耐久力、その成果など超人的なものを感じる。

  外交の成果としては、韓国との間に大きく横たわっていた慰安婦問題を解決し、中国包囲網構築では、フィリピン・ベトナム・インドなどと連携を深めた。また、アメリカとは当初の安倍不評(歴史修正主義者と見做された)を見事に覆して、日米同盟を深化させたとマスメディアも評価した。

  更に経済面でも、TPP交渉を纏め世界GDPの4割を占める一大自由経済圏構築が目前に迫っていた。勿論、TPPをアベノミクス第三の矢・成長戦略の柱として全力を挙げたものであるが、一方で、中国に対抗する大経済圏の出現を狙った。

  ところが、ここに来て風は日本にではなく中国に吹き始めた。

  フィリピンにドテルテ大統領が誕生すると、南シナ海での中国の強引な進出を思い止まらせるべき当事国フィリピンが、中国と融和的姿勢に転じた。国際司法裁判所に訴え出て完全勝訴したにも拘らず。

  これに合わせるように、ベトナムもマレーシアも中国と対話外交に転じたように見える。南シナ海の紛争に於ける中国包囲網の構築に努力して来た日本の(安倍さんの)戦略は瓦解し始めた。この情勢変化にも拘わらず、警備艇などの艦船を提供する約束を予定通り実施するようだが、どうなのか。

  アメリカではトランプが次期大統領となり、早速TPP脱退表明がされてしまった。安倍さんとしては、それでもトランプを説得して、アメリカが再びTPPに復帰するよう働き掛けるつもりのようだが、あれだけ、雇用を奪われた中央アメリカのプアー・ホワイトの票を集めて当選したトランプをして、公約を破棄させるのは至難の業だろう。

  更に、トランプとプーチンがお互いに関係改善意欲を示したことは、日本にとってアゲンストの風になり始めた。ウクライナ問題で欧米の厳しい経済制裁で追い詰められたプーチンは、日本から平和条約締結を目指した極東の経済協力提案を受けたことは、国内経済の停滞が深刻さを増す中、咽喉から手が出るほどの出来事ではなかったか。

  安倍さんは、この経済協力をテコに、北方領土問題で何らかの成果を得て、日露平和条約締結の道筋を付けたかった。同時に、日米に対する中国の対抗力(中露連携の力)を半減させる意図を有していた。

  だが、ロシアに対して最も厳しい姿勢を貫いていたアメリカが、次期大統領にトランプに決まり、一気に露との関係改善を進めそうな具合に変わった。ロシアが日本を必要としていたのは米露・欧露の冷たい関係があったればこそだった。

  これでプーチンはわざわざ日本に譲歩する必要が無くなった。それが証拠に、安倍さんが期待していた、ペルーAPEC首脳会議での日露首脳会談では、プーチンから、北方領土の主権はロシアにあると明言され、事実上のゼロ回答が返って来た。

  そしてもう一つ。日本に頑なな態度を取り続けた韓国の朴大統領と、昨年暮れに慰安婦問題で劇的合意に至り、やっと日韓関係が改善し始めたところに、今回の大統領弾劾騒動が起きてしまった。

  朴大統領が世界の首脳に告げ口外交をしていた頃は、憎たらしく見えていたのに、今弱々しく見える彼女には、「何とか頑張れ!」とエールを送りたくなるのだから不思議なものだ。いや、人を見る目なんていい加減なものだ。

  だが、これは単なる感情の問題ではなく、毎週繰り返される100万人デモの中心には、左翼系・進歩系の人々(親北・反日派)がいることが懸念されるからだ。反日一辺倒だった2年前までのあの韓国に舞い戻り、慰安婦問題合意も日韓軍事情報協定も白紙撤回され、またぞろ、韓国の「蒸し返し」に振り回されるのではないか。

  更に言えば、親北・親中・反日派野党が政権を取れば、THAAD配備も白紙に戻り、いよいよもって、韓国・中国・北朝鮮が手を組み反日・抗米で一致する構図が見えてくる。杞憂に過ぎないことを祈るが、この4年間、主要国の中では突出して活発な首脳外交を見せた安倍さんの超人的努力にも拘らず、風は中国にフォーローとなり始めた。

  さて安倍さん、この正念場をどう切り抜けますか? それでも徹底的に中国包囲網構築を進めますか? 或いは、あれほど動かないと思われた慰安婦問題の合意に漕ぎ着けたように、中国との関係打開に思い切って軸足を移しますか?

11月 29, 2016   3 Comments

12月のライブ

  今日は、都心の正午の気温が2℃、みぞれが降っています。短い秋があっという間に過ぎ去り、木枯らしを聞く間もなく真冬となってしまいました。巷ではクリスマス・ソングが流れ、今年も残り1ヶ月少々となり、何となく気忙しくなって来たような気がします。

  そこで、我が「のどごし生バンド」は、皆様と共に「忙中閑あり」を楽しみたく、12月17日(土)にクリスマス・ライブを開催致します。是非大勢の方にお越し頂きますようライブのお知らせをさせて頂きます。

  僕らがこの4年間、活動の拠点としている横浜・新子安「グレコ」の料理人の万作さんが12月末をもって「グレコ」を辞めて、奥様と一緒に札幌に移り住むことになりました。今回は、彼と奥様がこれまで僕らを陰に陽にサポートしてくれたことに感謝して、ご夫妻をテーマにしたオリジナル曲を初披露させて頂くつもりです。

  タイトルは「時空の風に」で、作詞:38階佐藤、作曲:神童覇道・サンシャイン大木、アンディーのボーカル、浜ちゃんのサックス間奏、中保さんのベースソロ、そして、フッ君のコンガソロが入り、メンバー全員で作り上げた曲です。

  是非是非、聞きに来てください。詳細は下記の通です。

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  また、上記とは別に神童は、12月11日(日)に仙台で行われるプロのライブに、ドラマーとして参加します。

  ジャズ歌手であり、ポップス歌手でもある女性ボーカリストKei、そのバック・バンドとして、その昔テレビの番組でレギュラーを務めて一世を風靡したエレキバンド「シャープ・ファイブ」が演奏するライブに、僕が一人、アマチュア代表でドラム&ボーカルを務めます。

  こちらは、入場料が12,000円もするので、来場の呼び掛けではなく、単なる近況報告です。バンドメンバーの交通費・宿泊費・ギャラなどを計算するとそうなるようです。ライブはディナー・ショー形式とのこと。

  それでも、20年前の仙台単身赴任時代の友人知人や、学生時代の友達が何人か来てくれることになっていますので、彼らに会えるのがとても楽しみで、僕は前日に仙台入りして旧交を温めつつ、僕の出来栄えが悪くても、「金返せ」とは言わない約束を取り付ける所存(笑)。

  そうは言っても、80人からの観客の殆どは知らない人ばかり。ドラマーに対する観客の不満が出ないよう、先月から週一のスタジオ個人練習を続けております。ハイ。それでも30曲を完璧に出来るようにするのは、なかなか大変です。曲の最初のカウントとか途中のブレークとか、所々忘れてしまうんですね。年齢の為せる業でしょうか(笑)。

  注意点はアンチョコを作って備えますが、ここまで練習したんだから大丈夫と、自己暗示を掛けるために個人練習を続けているような気がして来ました。さてさて、どうなるやら、結果はまた当ブログでお伝え致します。

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11月 24, 2016   No Comments

少額短期保険

  今、僕が監査役を務めている少額短期保険会社「FLEX」は、10年ほど前に金融庁が新たに打ち出した制度、即ち、「無認可共済の廃止・少額短期保険事業の新設」に沿って開業した、新しいベンチャー保険会社である。

  1990年代の日米保険協議は、日本の保険市場を海外の保険会社に解放させるための米国の圧力の場という色彩が濃かったが、経済グローバル化の流れと相俟って、日本政府も遂に保険の自由化に舵を切ったのだった。

  その後の経緯は、周知の如く保険通販・安い保険を武器に、海外勢(例えばアクサ・ダイレクト)や日本の他産業からの参入(例えばソニー損保)が相次ぎ、日本の保険業界の寡占・独占状態にピリオドが打たれた。

  米国はそれだけでなく次に狙ったのは、やはり大きなシェアを持つ郵便局の簡易保険と共済市場だった。米国の批判は、国の庇護を受ける簡易保険は、自由市場の対極にあり解散すべきであるというもので、強く日本政府に迫った。また、会員相互扶助を掲げて保険と類似の役割を果たして来た共済も、米国から見れば、閉じられた保険、排他的保険市場と見做された。

  日本政府は、小泉首相当時に、激しい攻防の末郵政民営化を実現し、その何年か後には、沢山存在した無認可共済を廃止して、文字通りそれを保険会社に移行させて金融庁監督下に置く新たな政策を実施に移したのだった。

  この新しい保険会社は、少額短期保険会社と呼ばれる。既存の保健会社と違って、基盤が脆弱なことから、顧客保護の観点でリスク引受額は一定額(例えば1,000万円まで)に制限され、且つ、長期の保険は禁じられた(保険期間は例えば2年までとされた)。

  この少額短期保険会社は、現在、80社を超えるが、その倍以上あった共済は自然淘汰されたようである。この80社は、共済からの移行組だけでなく、新制度の発足と共に、新たに小額短期保険会社を創業する会社が幾つも現われ、第2の保険自由市場となっている。

  さて、我がFLEX少額短期保険会社は、その新規開業・新規参入組である。来年3月末に満7年を迎える。創業者は僕の友人Kだったが、創業から3年過ぎた時、大手損保出身の最優秀営業マンだった30歳の男をスカウトしてFLEX社の社長に据え、自らは新しい事業に移って行った。今はそのW社長がこの会社を率いて4年目に入っている。

  この会社に、昨日、保険の業界紙の新聞記者がやって来た。と言っても、その記者Yは、僕の知人でもあるのだが。成長著しいFLEXを是非取材させて欲しいというので、この日の社長取材と相成った。

  記者の最大の関心事は、W社長就任時5千万円だった年間売上(収入保険料)が、4年で20倍の10億円(来年3月末)、顧客数も高々5千人だったものが10万人にまで急成長した理由である。

  Wは、勿論、賃貸入居者用の保険(家財・責賠)を販売するビジネス・モデルがユニークでそれが、チャネルである不動産業者に受け入れられたことを説明した。既存損保のやり方だと、不動産会社に保険代理店委託し、賃貸契約時に保険手続きも一緒に行って貰うのが一般的だ。

  ただ、保険代理店の行うべき業務は細部に亘って細かく規定されているし、代理店資格を取得しなければならない。だが、当社のビジネス・モデルは、それとは全く異なり基本が通信販売である。不動産店には見込客を紹介して貰い、以降の保険手続きの一切は保険会社と顧客間で行うのである。

  当社と契約を結んだ不動産店は保険代理店ではないから、保険代理店として細かく規定された面倒な保険業務から解放されるので、このビジネス・モデルに賛同してくれる不動産業者が急増した。

  保険の申込みをしてくれた顧客には、当社のコールセンターから、全員にサンキュー・コールし、契約内容の説明・再確認が行われ、いつでも問合せが出来る安心感があると言って貰えている。

  そして、見込客を紹介してくれる不動産会社の開拓は、テレマーケティングによりアポイントを取り、営業マンが直接訪問して当社のBP店(ビジネス・パートナー店)になって貰うという方法である。

  記者は、これらの回答を得られ満足した模様でインタビューを切り上げて会議室から出て当社の事務所を案内した時、急に驚きの表情を見せた。それは、事務室が隅々まで綺麗に整理整頓されていることにである。

  保険会社を幾つも回っている記者の目から見て、書類に埋まる机が当たり前の業界にあって、この整然とした近代的なオフィスは信じられないといった驚きだったろう。

  これは、W社長が生み出した独特の社内チーム・スピリット醸成の手法であり、「環境整備」と称する社内運動の成果なのだ。その基本には「保険会社である前にサービス業である」を、社員が毎日の実践する「凡事徹底」の思想がある。

  毎朝、20分間、社員全員でPC・机・椅子・ロッカー・床・窓・ブラインドなどを徹底的に掃除するのだ。仕事では、ベテランと新人では実力に差があるのは当然だが、こと整理整頓・掃除清掃に経験の差はないので全員が等しく取り組める運動だ。もう2年以上毎日欠かさず行われている。

  「物には住所がある」という思想で、すべての物の置き場所に印を付けて使い終わったら必ず元の場所に置く(仕舞う)が徹底されているから、来客は必ずと言って良い程、整然とした綺麗な職場に驚く。

  記者は、当初の急成長の理由聞くことをインタビューの目的としていたようだが、この「環境整備」の取り組みに強烈な印象を持ったようで、後で送って来た記事の原稿は、このことが紙面の半分を占めるほどの入れ込みようだった。

  記事は、11月28日の業界紙に掲載されるとの知らせが入った。

11月 22, 2016   No Comments

リリーの訃報

   永遠のリリー   ネットより借用

.  永遠のリリー   ネットより借用

  1974年の夏休み、僕は友達と2人で東京から姫路・倉敷を巡り鳥取の砂丘を目指すドライブの旅に出た。友人は、会社は違うが入社以来営業なので、毎日車を運転しているらしく、既に自動車の運転はベテランの部類だ。途中、サービス・エリアで休憩は取るものの一泊目の姫路までは彼1人で運転してくれた。

  さすがに彼も疲れたらしく、着いた旅館で風呂と夕食を取った後、横になると直ぐに鼾をかき始めた。僕は少し反省した。600Km以上を彼一人に運転させてしまった。途中変わるべきだったなと。但し、僕も免許証は持って来ているが、当時車も保有していなかったし、運転する機会は極々稀だったから、長距離ドライブに自信がなかったのだ。

  でも、彼の鼾を聞きながら、明日は勇気出して僕が運手しようと決意したのだった。そして、姫路城を見た後、倉敷まで運転したのだが、彼はゆっくり車の中で休むどころか、僕の運転が心配でやたら気疲れしたようだった。

  それでも何とか無事倉敷に着いた。そこから鳥取に向かう最中も所々運転を交代したが、徐々に友人も僕の危なっかしい運転に慣れたのか、やっと目を閉じて仮眠を取るまでになった。安心したのではなく、睡魔に勝てなかったのだろうけど。

  二泊目は宍道湖の近くに泊まり、その日は夕食後も昔話に花が咲いた。それでも彼は「神童が運転は全くの初心者だって知ってたら、もう一人運転できる奴を誘ってたよ」なんて言いながら僕を揶揄うのであった。

  しかし、この車の旅で、僕は車の運転に自信を持ったのだ。その後車を購入してあちこち乗り回すようになれたのは、正に、彼に負うところ大である。

  以来、毎年、年賀状の遣り取りだけは欠かさなかったが、ある年、僕の出した年賀状が戻ってきてしまった。どうしたのかと思って携帯に電話しても「この番号は只今使われていません」と返って来てしまう。

  あちこち手を尽くしてやっと分かったことは、1年以上前に離婚していて子供は奥様が引き取り、彼は1人で生活していたようだが、どうやらこの世を儚んで自殺したらしいとのことだった。何でだよ。悩んでいるなら何で連絡くれなかったんだよ。今なら君のお蔭で車で駆け付けられたのに。何も出来なくても、話くらいは聞いてやれたのに・・・

  その中国地方の旅からの帰りの道中、カー・ラジオから擦れた声の女性歌手が歌うブルージーな曲が流れて来た。僕のツボにピッタリ嵌まる声であり、曲調なのだ。初めて聞いて「ウワッ、これいい」と声に出したのを覚えている。

  僕の場合、初めて聞いた時に「大好き」と思える曲はそうそうない。この曲以前で言えば、レイ・チャールス「アンチェイン・マイ・ハート」、プロコルハルム「青い影」、尾崎紀世彦「また逢う日まで」くらいだったと思う。殆どは何回か聞くうちに好きになって行った曲だった。

  こういう場合、大変なのは、曲名と歌手が分かるまで時間が掛かることなのだ。インターネットもない時代だから、次に同じ曲が掛かる時を待って、メモするか覚える以外に知りようがない。ダイヤル回して違う放送局も聞いてみるが、なかなかその曲が流れて来ない。そのまま東京に着いてしまった。

  こうなると、どうしてもその曲が聞きたくなる。東京駅で彼と別れた後、僕は八重洲のレコード店に入った。そして、店員の女性に、「題名も歌手も分からないけど、買いたいレコードがあるんですが」と伝えた。

  店員は「何かヒントはありませんか?」と聞く。そりゃそうだよね。探すに探せないもの。「うーん、ラジオで1回聞いただけだから」と僕。「女性歌手ということですが、何か特徴は? 透明感のある声だとかハスキー・ボイスだとか?」「はい、ハスキーな声でした」。

  それだけで店員の頭の中ではかなり絞り込まれたらしい。だが、そこからだ、問題は。彼女が挙げる歌手名は全部僕の知らない人ばかりだ。「じゃぁ、曲のメロディーを少しだけでも覚えていませんか?」「えっ、ここで歌うの?」「歌ってくれれば、若しかしたら分かるかも」。

  仕方なく覚えていた最初のフレーズだけ小さい声で歌った。「♪ 私は泣いています  ♪」「ああ、分かりました。『私は泣いています』という曲です。リリーという歌手です。今ヒットチャート急上昇中ですよ」。なーんだ。最初の歌詞が題名だったか。

  旅の疲れも忘れて気分ウキウキで帰宅したのであった。レコード屋で歌って探して貰ったのは、後にも先にもこれ1回だけだ。いや、こんな経験する客の方が珍しいだろう。

  こんな思い出のあったリリーが今日亡くなった。リリー様、私は泣いています。あの時、一緒に旅した友人はもういない。2人の冥福を静かに祈る。

11月 11, 2016   No Comments

友人の訃報

  朝の通勤時、電車内でスマホに電話が架かって来た。相手の名前を見たら高校同期のNからだ。車内で電話には出にくく、あと10分もすれば着くので、折り返し電話することにして電話には出なかった。そしたら、ショートメールが飛んで来た。

  「お知らせがありますので電話ください」。何のお知らせだろうか? 12月のライブのお知らせを送って置いたから、若しかしたら出席の連絡かな? いや違うな、それならメールにそう書くだろう。

  朝の9時台の電話だ。もしや、と胸がざわついた。Nはタペストリーという高校同期バンドで2年ほど前まで一緒に音楽活動した仲間だ。住む場所が近いNとMiとMaの3人は、タペストリーの終了後も慰問など3人で音楽活動を続けていた。だから、Nが一生懸命僕に連絡して来るのは、MiかMaに関することではないか? 嫌な予感がする。

  駅に着いて直ぐNに電話した。「Miが亡くなった。急ぎ連絡したくて」とN。「えっ!」僕は絶句するしかなかった。胸騒ぎは当ってしまった。悪い予感って本当に良く当たるものだ。良いことは全く当たらないのに。

  「動脈瘤破裂だって。彼は地元の野鳥の会に入っていてね。その日は介護施設に野鳥の会が慰問に訪れて、いろいろお話をする日だったそうだ。彼が壇上に立って直ぐにその場に倒れ込んだらしい。介護施設の看護師さん達もAEDで蘇生しようとしたり一生懸命に手を尽くしてくれたがダメだったと、野鳥の会の方からの連絡だった」。

  「そして昨日が葬式だったので、私とMaで取り敢えず参列した。家族葬だと言われたけど無理やり入れて貰って・・・」。一昨日からタペストリーのメンバーにメールで連絡したが、神童宛てのメールがエラーで帰って来てしまったから、今日電話連絡したのだという。確かに、このところ自宅のPCが不調でメールが不通になってしまっている。

  Miは度々僕らのライブに来てくれた。確か7月ライブには1人でフラっと来てくれたっけ。それが最後の姿となってしまった。

  65歳まで高校の教師を全うした後、老人ホームや介護施設を慰問したり、いろんな形で地域貢献して来たMiが突然逝ってしまった。僕と違って、酒も飲まず煙草もやらず、品行方正に生きた君が先に逝くなんて想像だにしたことはなかった。不摂生な僕の方が先でなきゃ変だよ。

  僕が大学に入って地元を離れてから30年間、殆ど高校時代の友人達とは疎遠になって同期会にも出席せず、いつしか僕は高校同窓会では行方不明扱いになっていたらしい。それを再び同窓会名簿に名前・連絡先などを掲載する切っ掛けを作ってくれたのは、正にMiだった。

  高校でクラスが一緒で、席順はあいうえお順だから、いつもMiとは前後の関係だった。授業中も良くヒソヒソ話をして、先生に注意されたのも一度や二度ではなかった。高校時代はブラス・バンドの指揮者で、僕から見てもカッコ良かった。Miが女子生徒達に人気があり注目の的だったのも認めよう。

  そんなMiが、もう10年も前になるが、C&Sのライブに来てくれて、楽屋まで僕を訪ねてくれたことがあった。同じブラバンのサックス奏者だったTと2人揃って。場所はNHKホールだったか、東京国際フォーラムだったか。或いは、調布グリーン・ホールだったかも知れない。

  その時の僕の下手なドラムを聴いて、彼ら2人が触発され、遠ざかっていた音楽を再び開始したことを後で聞いた時はとても嬉しかった。Miはフルートを、Tはジャズ・サックスを始めたと言っていた。それが、何年か後のタペストリー結成に繋がって行ったのだった。

  最近も帰省した時、必ず高校同期と楽しい語らいが出来るのも、行方不明の僕をMiが同窓会に戻してくれたお蔭なのだ。良くグレコにやって来て僕を励ましてくれたMi。もう2度と現れないことを思う時、僕の悲しみはどこまでも深くなる。

  冥福を祈るしかない。

11月 4, 2016   No Comments

古い友達

  先日、父親の13回忌のため、北陸新幹線で長野に向かった。午前中に実家(今は姉夫婦が住んでいる)で法事を済ませ、長野駅近くの寿司屋で親戚一同献杯の会食となった。

  カミサンが膝痛で来られず、我が家からは僕一人の参加となった。実姉には3人の子がおり、連れ合いや、その子供達(孫)を含めて、遠くは横浜や海老名から総勢12人が集まった。

  要は、姉夫婦の子供・孫達が一堂に会した場に、僕が陪席したようなものだった。だが、父親の法事の主催者は僕なのだから、何とも妙な感覚だったが、遠くからこんなに大勢が集まってくれるとは思ってもいなかったので、とても嬉しい光景だった。

  驚いたのは、この日仕事で来られなかった、横浜に住む次女夫婦の小学生の娘2人が、長女の娘(川崎在住21歳)に連れられてやって来たことだ。姉が会食前に「孫が孫を連れて神奈川からやって来る」と言っていた意味がやっと分かった。

  他所の子はあっという間に大きくなる。思えば、実姉の孫たちと会ったのは、母親(彼らの曾祖母)の葬儀の時が最後だったから、それから8年が過ぎている。今小学生の2人は上の娘が2歳で下の子は生まれて数か月しか経っていなかった。

  彼女達を連れて来た長女の娘も、確か中学に入学したばかりの頃だった。それが、今や川崎の病院勤務のしっかりした大人の女性に成長していた(壇蜜によく似ているのは想像外だった。口には出せなかったけれど)。

  久し振りに若い者たちに囲まれた時間が終わり、さて次は、高校時代の古希の友人たちとの会食が控えている。場所は長野駅前の居酒屋。

  先月会ったTTの他に、病院長のTM、松本からわざわざ来てくれたTK、高校の時僕からギターを教わったというW、それと、当時室内楽部でフルートを吹いていたM(Mは今も演奏活動を続けている)、それと僕の6人が集まった。

  彼らとは昨年の高校同窓会でも会っているので、古いが懐かしい友ではないので、乾杯後いきなり会話が弾む。近況を報告したり、50人のクラスの内、既に物故者となった人を確認したり、今、あいつはどうしてる? とかの情報交換の時間となった。

  僕は、4年前TMが姉の命を救ってくれたことを説明し感謝の言葉を述べた。姉がある病院に入院したが、40度の熱が1週間続いて一向に好転せず、まだ原因もハッキリしないらしいと義兄から連絡を受け、直ちに長野市民病院の院長先生だったTMに連絡を取った。

  彼からは姉を直ぐ自分の病院に転院させるよう指示された。転院後詳細な検査がなされ、且つ、脳外科が専門のTMは、姉の症状が血液の疾患であることから、病院の血液の専門医から成る特別チームを編成してくれた。

  そして、前の病院では分からなかった姉の病名が遂に判明した。「血球貪食症候群」という病名だ。要するに、免疫細胞が暴走して敵ではなく味方まで攻撃する難病だった。

  直ちに24時間監視体制の下、ステロイド治療等が始まった。一週間後、高熱は収まり、37度台の体温に落ち着いた。市民病院に担ぎ込まれた時は、意識も朦朧として僕の目にも生死を彷徨っているのが分かる程だった。僕が3か月後に見舞った時は、ベットの上に座って普通に話が出来るまでに快復していたのだった。

  あの時、友人のTMがいてくれなかったら、多分、姉はこの世に止まるのは難しかったろうと思っている。50年の付き合いの中で、この時ほどTMに感謝したことはない。

  TMは長野市民病院を既に退任し、別の病院の院長として頑張っているし、フルートのMも地元放送局の専務を退任し、今は子会社の社長だ。2人は翌日は勤務があると言いながらも、二次会に付き合ってくれた。一同タクシーで権堂という市内一の繁華街に移動し、6人全員で生オケ・パブに入った。50~60席はある広い店だった。

  客も演奏出来るように、ギター・ドラム、ベース、キーボードなどがステージにセットされている、元プロ・シンガーのママがオーナーの店だ。だが、この日は日曜日ということで、ミュージシャンがお休みで生演奏は出来ず、カラオケ大会となってしまった。

  それでも、みんな結構上手いし次々リクエストするのだから大したものだ。確か皆さん、音楽の授業を苦手としてたんじゃないの? 僕も負けずに、ポップスと青春歌謡と演歌の3曲歌った。

  この日はそこで一応解散し、帰る方向が一緒のWとTKと僕の3人は長野駅方面に向かった。Wは迎えに来られた奥様の車に乗って帰って行った。素晴らしいご夫婦だね。飲んだくれた旦那を深夜に車で迎えに来る奥様。我が家では到底考えられない光景だ。尤もウチのカミサン、自動車免許も持ってないけど。

  残ったTKと僕は、駅近くの居酒屋で3次会に及んだのだった。2人だけの反省会だ。この歳で3次会をやってることが唯一の反省点だと一致した。だが、TKと別れホテルに向かう道すがら間違いに気付いた。僕は法事の会食を昼に行なっているから正しくは4次会だったのだ。急に酔いが回って来た。

11月 2, 2016   No Comments