プレミアムエイジ ジョインブログ
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Posts from — 3月 2017

ぼんのてい

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東京郊外に聖蹟桜ヶ丘という街がある。僕の住む町だ。もう15年以上前になるが、僕の務める損保企業ともう一つの損保企業が合併した時、僕の職場がこの街の駅前のコンピューター・センターとなった。なので、それ以来退職までの8年間、僕は自宅から徒歩8分で通う幸運に恵まれたのだった。

その合併の時、僕がシステムの責任者だったことから、会社合併のためのシステム統合には大変苦労したが、僕にとっての最大の統合効果は、合併会社のコンピューター・センターが合併相手社のそれに決まったことだった。

両社のコンピューター・センターのどちらを採用するかという選択に迫られた僕は、駅に近く優秀なSE社員の中途採用でも有利な、相手社のセンターを選んだ。自社のセンターは最寄り駅からシャトルバスで通勤するような場所だったからだ。

いろんな人から「神童は、自分の家から歩いて通えるから、相手社のセンターにした」と揶揄されたが、決してそんなことはない。たまたま僕が決定権者だっただけで、将来に亘って優秀人材が集まり易い場所を選んだに過ぎない。

僕が徒歩で通える場所となったのは、会社にとってのメリデメを慎重に測定した結果である。僕にとって最高の結果になったのは認めるが(笑)。僕を揶揄する後輩には、「20年思い続ければ、ことは成る」と諭したものだった。

つまり、僕が阿佐ヶ谷から聖跡桜が丘に引っ越したのは1980年で、合併後のコンピューター・センターがこの地の相手社センターに決まったのは2000年だった。その間僕は同じSEとして、当社でなく相手社に入社していれば、満員電車でなく徒歩で通勤できたのに、と思って来たことを、半分冗談で言ったまでだが。

とは言え、この街も当時と比べると高齢化が進み、また、大学や企業も都心回帰の流れなどがあり、徐々に寂しくなって来ている。だが、逆に、この聖蹟桜ヶ丘という街が大いに気に入り、ここに店を出すのが夢だったという京都出身の夫婦がいる。

鉄板焼きの店を出したのは1年前だと言うが、僕はついぞ知らなかった。先日、僕らのライブでたまに手伝って貰っている「ミノル&ヨーコ」から、「鉄板焼き屋さんでミニライブをやるので、是非来てください」との連絡が入った。

聞けば、マスターは昔フュージョン系のギタリストとして活躍した元プロだと言う。彼のギターをメインに「ミノル&ヨーコ」が歌うとのこと。通常の営業は夕方5時半からだそうだが、その前の1時間半、ミニライブを行なうらしい。尤も、営業時間中もマスターが乗れば演奏してくれるとのことだった。

日曜日の午後4時、僕は地元の親友Kとフッ君の3人でお邪魔した。既に「ミノル&ヨーコ」はリハを終えたと言う。他に、6人の客と、店のマスターと店を手伝うその奥様という顔ぶれだ。

その店は、Lの字にカウンター席が10席、テーブル席2席ほどのこじんまりした店だった。ただ、カウンター・テーブルに接する鉄板が広くて大きいので、高級ステーキハウスを思わせる作りだ。店の名は「ぼんのてい」。

さてさて、ライブと言うが一体どこで演奏するのか。マイク・スタンドが2つ、カウンタの中にセットされている。つまり、カウンター内の料理人が腕を振るう場所で、演奏に腕を振るうということか。

ライブ料金はワン・ドリンク付き千円。僕ら3人はビールを頂く。そしてライブが始まった。この店の常連客でSさんという方が、井上陽水の「帰らない2人」他をギターの弾き語りで聞かせてくれた。「ミノル&ヨーコ」がコーラス、マスターがギターの間奏(アドリブ)弾く。Sさんの声も良く出ているし、コーラスもギター・アドリブも素晴らしい。やるねー。

.            Sさん

.            Sさん

昔、新宿のゴールデン街のカウンター・バーに流しがやって来て弾き語りをするのを聞いたことがあるが、何となくうらぶれた感があった。しかし、「ぼんのてい」のフォーク・ライブは僕ら客席の目の前で、4人の演奏が聴けるのだから、ある種贅沢感があって「フォーク鉄板焼きの店」と言えるような新鮮さがある。

Sさんの十八番を何曲か聞いたあと、「ミノル&ヨーコ」の歌を聴く。ヨーコの「なだそうそう」、ミノルの「上を向いて歩こう」など、たっぷりと夫婦息の合った演奏を聴けた。彼らの歌も元々素晴らしいのだが、その全ての曲にマスターのギター・アドリブが入るのだから、余計に高級感と言うかハイレベルな雰囲気に包まれる。

.          ミノル&ヨーコ

.          ミノル&ヨーコ

と、そこへ38階佐藤さんと浜ちゃんがドアを開けて現れた。「ミノル&ヨーコ」から連絡を受けた「のどごし生バンド」7人の内、4人が参加したことになる。

次に、マスターの独奏で「サニー」をフュージョン風と言うかジャズ風に演奏してくれた。この曲、数年前まで「のどごし生バンド」で僕が歌っていた曲だったから、思わず口ずさんでしまう。佐藤さんと僕で、各コーラスの先頭で「サニー」と掛け声をかけると、マスターが何とも嬉しそうな表情を浮かべて演奏するのが微笑ましかった。

さすがはフュージョン系元プロ・ギタリストのソロ演奏である。通常、エレキギターのアドリブはロックだが、彼は、リズムこそ8ビートだが、本質的にジャズ・ギターなのだ。僕の耳には凄く心地よく聞こえる。

.        右がマスター  写真が暗くてスミマセン

.    右がマスター  写真が暗くてスミマセン

マスターに「僕らの若い頃は、ジャズ・ロックという名前で8ビートのジャズが流行り、その後フュージョンとなり、今やスムース・ジャズって言うように変遷して来ているんだよね」と言うと、「そ、その通りなんです。よーくご存知ですね、嬉しいです、そういう人に聞いて貰って」と返って来た。

ライブ終了後は、沢山のメニューの中から、幾つかの鉄板料理を堪能し、ビールやハイボールを強か飲んで気分最高のまま店を出た。上級者の音楽が聴けて、美味しい鉄板料理が食べられ、お酒も美味しい僕好みの店が見付かった。「ミノル&ヨーコ」に感謝したい。

 

3月 21, 2017   No Comments

心配

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昨日一枚のハガキが舞い込んだ。僕の学生時代に、ストレンジャーズという学生バンドで一緒に活動したAからだ。こんなことが書いてあった。

「・・・ 現在私は、特発性間質性肺炎という進行性の難病を発症し、2年経過した今、肺活量が半分になり日常生活でも息切れすることが多くなりました。その様な訳でリタイア後アルトサックスで6回、ギターで1回、7年間続けた Jazz Live を断念することにしました」

「ここまで続けて来られたのは、皆様の応援の賜物と心より感謝しております。これからは音楽をはじめ読書、映画鑑賞等まだまだ人生を楽しみたいと思います ・・・」

そして、多分PCで作成したものと思う、彼の演奏風景の写真入りハガキの余白には直筆で、「ドラムでの出演ありがとうございました。ゴルフも卒業としました」と書かれている。言うまでもなくAと僕は同い年だ。ややオーバーに言えば、退職後はジャズとゴルフに情熱の限りを注いだ人生だったから、彼の気持ちが痛い程分かるので辛い。

学生時代は、Aが奏でるロック・サックスが素晴らしく、他のバンドからも一目置かれる存在だったし、僕らのバンドの中でも、彼のスキルは抜きん出ていた。

彼に触発されるように僕も他のメンバーも一生懸命練習して、大学3年の時には、仙台の学生バンドとしては3本指に数えられるまでになり、レコード大賞受賞直後のあのブルーコメッツの仙台公演で、前座を務めてバンド活動の最後を飾ったのだった。

その後、メンバーは全員別々の企業に就職し、音楽から遠ざかって行ったのは皆んな似たような状況だった。僕も、仙台単身赴任をしなかったら音楽再開のキッカケは全くなかったと思う。

仙台単身赴任は1996年~97年だったが、赴任した時、仙台に住むストレンジャーズ・メンバーだったOが僕の歓迎会をやってくれた。その時の2次会で同じく学生ハワイアン・バンドのメンバーだったSの案内で、3人で押し掛けた店があった。

そこが、昨年末他のプロ達と一緒に仙台公演を行った時の主催者のKeiさんの店だったのだ。その店は、ピアノ・ドラム・ギターなどが置いてあり、勿論プロの演奏もあるが、客も自由にセッション出来る店だった。Sは神童が仙台に来るなら是非連れて行きたい店だったと言う。

27年振りにドラムを叩かせて貰った。しかし、ブランクは大きかった。頭では分かっているのに、手足が付いて行かない。動かない。それが悔しくて、単身で何も予定のない週末は良くその店に通った。

半年も経つと、細かいテクニックは無理だが、何とか目立ったリズムの崩れなく演奏することが出来るようになり、店のプロもママのKeiさんも僕のドラムをバックに演奏してくれるようになって行ったのだった。

それが音楽再開のキッカケとなって、その後、C&Sと知り合い、のどごし生バンドのメンバー達(全員C&Sの店の客)と知り合い、本格的にバンド活動をするようになって行った。

そして、C&Sのバックバンドとして、最初に立った有名な会場が「日比谷野音」だった。その時に、僕はAに声を掛けてチケットを買って貰ったのだった。それがAの音楽再開の触媒になったのかどうか分からないが、彼からジャズ・サックスに取り組んでいるという年賀ハガキを貰ったりしたのもその頃だった。

Aは大手食品会社の執行役員だったが、その後、何年か四日市にある関連会社の社長を務めて、東京に戻り退職。そして、退職の挨拶状代わりに届いたのが、Aの第一回ジャズ・ライブの案内だった。

会場は、このブログでも何度か触れているが、東中野の「DRUM」というライブハウスだ。僕も彼のサックスのバックで2曲ほどドラムを叩かせて貰った。

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この店は、Aが定期的に練習に訪れる場所なので、僕も何度か同行し、一緒に演奏させて貰った。店のマスターは皇室のイベントなどで演奏を依頼されるドラマーの三戸部氏である。僕は毎回、三戸部氏に鋭い指摘と指導を受けたものである。

以来、毎年1回、Aはジャズ・ライブと言うか、自分のリサイタルを開催して6回を数えたのだが、2年半前のライブの後、特発性間質性肺炎を発症して、もうサックスは吹けないと連絡して来た。それでも、サックスをギターに持ち替えて、ジャズを続けるので「DRUM」に来てくれと言うから駆け付けた。

Aは自分のサックス・レパートリーをギターで演奏しようとあれこれ試みていたが、これがなかなか良いのだ。ギターの音がまず綺麗で、リズム感やアドリブ感はサックスで鍛えたものをそのままギターで表現するので、完成度が高くて驚いた。

昔からとても器用な奴だったが、だからと言って、普通、サックスがダメになったからギターでという訳には行かないものだ。大したものだとつくづく感心させられてしまった。ギターのライブを是非聞きたいと思った。

そして、7回目のライブは、ジャズ・ギターの夕べだった。場所は巣鴨「ムーングロウ」。Aのジャズの師匠であるプロ・ピアニストの坂口さんのお店だった。

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正直、Aのギターで奏でるジャズは素晴らしかった。こう言っては彼に失礼だが、同じ曲もサックスよりギターの方が遥かに心に響く。サックスが吹けなくなっても、これからは、ギターでジャズ・ライブをずっと続けて行けばいいよ。肺炎なんてぶっ飛ばせ。流石、NAOYA・Aだ、と思っていた。

そこに、今回の「ライブ中止のお知らせ」だ。心配にならない訳がない。歩くのも息苦しいと言うことだろうか。肺活量が半分でも、急激な運動とかしなければ大丈夫だよね。ギターを弾くのに問題ないよね。自宅に音楽室もあるのだから、是非、ジャズ・ギターは続けてよ。そして、体調にも自信が持てるようになったら、是非8回目のライブをお願いします。

勿論、場所はライブハウスとかじゃなくても、自宅の音楽室でも良いから。2時間掛けても絶対に伺うので。

これ以上悪化しませんように。そして少しでも改善して、また、あのジャズマンAの雄姿が見られますように。

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3月 15, 2017   2 Comments

ムッシュ逝く

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ムッシュ・カマヤツが逝ってしまった。彼がスパイダースで「フリフリ」や「バン・バン・バン」「ノー・ノー・ボーイ」を作り、自ら歌って大ヒットさせた頃、僕も19~20歳青春真っ只中だった。学生バンドをやってたこともあり、ビートルズ・ローリングストーンズ・アニマルズに夢中になったが、日本ではGS創成期で、ブルーコメッツとスパイダースが人気・実力で双璧だった。

GSのメンバーは、例外なく、若くて痩身でハンサムが条件かと思わせるくらい、カッコ良かったが、そんな中で年齢不詳のオジサンがいた。ビートルズ以来、マッシュルームカットは一般化したが、彼のそれは、他のものよりも大きくて長く、独特の存在感を放っていた(と言うか、化け物に近かった)。

ステージ上でも、かまやつ・ひろしの動きは予測不能で、何とも自由な表現者といった強烈な印象を僕は持った。要はそんな彼が好きだったのだ。オジサンとは言ったが、享年78歳と言うから、当時は27~28歳だったのかと思う。堺正章と僕は同い年だから8歳上なのだ。

その頃の印象が、その後50年間ずっと変わらぬままの人だった。歳を取らないと言うのか、元々酷い老け顔だったと言うのか、こんな人も珍しい。

スパイダースのステージで、「バン・バン・バン」や「フリフリ」を歌う時のムッシュは、ステージ上を所狭しと動き回るのに、可笑しかったのは、あのミリオンセラーの「夕陽が泣いている」の時、マチアキと井上順の後ろで神妙な顔してギターを弾いているムッシュの姿があった。

大ヒット曲ではあったけど、その曲は偉い作曲家の先生(浜口庫之助)が作った曲だったから、彼としては気が進まなかったり、ノレなかったりしたのかななどと勝手なことを思ったものだ。

ムッシュ・カマヤツの予測不能な行動は、何もステー上だけではない。1989年のベルリンの壁崩壊の世界的ニュース映像の中で、彼がその壁の上で、ギターを抱えて「バン・バン・バン」を歌って姿ほど驚かされたものはない。たまたまその映像を自宅のテレビで目撃したのだが、その時はビックリしたの何のって。僕の予測不能の人がまたまたやってくれました。

でも、なんでわざわざベルリンまで行って「バン・バン・バン」? いいんです、そんなことは。久し振りにムッシュ・カマヤツの予測不能を目の当たりに出来て、僕は嬉しくなって一人喝采を送ってた。

そして、今日、やはり予想不能の死を遂げたのだった。今日の夜は僕の大好きだった「我が良き友よ」をしんみりと聴くことにしよう。 アーメン。

 

3月 2, 2017   No Comments