プレミアムエイジ ジョインブログ
Random header image... Refresh for more!

Posts from — 7月 2017

平尾昌晃逝く

  (ネットより拝借)

(ネットより拝借)

  小学校から中学に変わる頃、「星はなんでも知っている」「ミヨちゃん」とか言う歌がよくラジオに流れていた。女の子達にはかなり人気だったが、運動部(野球部)の僕等にはナヨナヨとした印象で、男らしさから程遠いという理由で、好きな奴は稀だった。ロッカビリーとかいう訳分かんない、遠い世界の存在だった。

  その印象が変わったのは、アメリカのテレビ・ドラマ「幌馬車隊」が始まった時だった。アメリカ西部開拓時代のそのドラマの最初と最後に日本語の主題歌が流れるのだ。僕は一発でその曲が好きになった。歌っているのは何とあの平尾昌晃だったから、えらく驚いたのを覚えている。

  僕はテレビで流れるその主題歌の歌詞を書き取って、直ぐに空で歌えるようになった。学校の休み時間にチョッと歌ったりすると女子が「歌詞を教えて」とか言うので、その場でノートに書いてページを破って渡したりして、少し鼻が高かった。

  それから時代は移って大学1年生の終わりの頃。我が大学の軽音楽部にベンチャーズ・バンドがあって、彼等が小樽商大のバンドを招待して大学の記念講堂でジョイント・コンサートを開催したことがある。僕も入場券を買って聞きに行った。

  我が大学のベンチャーズ・バンドは、それこそベンチャーズのレコードのまま忠実に再現した演奏だった。曲の最後のフェードアウトまでレコードと同じなのだ。それに引変え小樽商大のそれは、同じベンチャーズでもライブ・バージョンだから、様々なショー・アップが施されていて、躍動感が違った。残念乍らどう贔屓目に見ても小樽商大の方が何枚も上手だった。

   そして、更に憎いのが、ラスト・ナンバーの1曲前と断わりながら、ドラマーが「今、北海道だけで流行ってる曲を歌わせて頂きます。曲は僕が大好きな平尾昌晃が作曲し布施明が歌っている『おもいで』」と言ってドラムを叩きながら歌ったのだ。

  正直しびれた。それまで僕はドラマーが歌う場面など見たことがなかったし、歌が上手かった。後のグループ・サウンズでは歌うドラマーも珍しくなくなったが、ベンチャーズ全盛期では有り得なかった。「おもいで」という曲も青春時代の僕等には凄くピッタリ来るロマンティックなメロディーで、僕も仲間も直ぐに覚えたのだった。

  平尾昌晃に感心した2回目の瞬間だった。その直後に出した「霧の摩周湖」はミリオンセラーとなったが、確かに「おもいで」はマイナー・ヒットの部類だったようだ。

  因みに、小樽商大のバンドのラスト・ナンバーは「キャラバン」である。それも、ベンチャーズのライブ・バージョンだ。そう、ドラマーがドラムソロを終え、シンバルを叩きながら前に移動して、エレキベースの弦をスティックで細かく叩くあれである。そこに自分たちのアレンジを加えて迫力満点に演奏したのだった。

   そして3度目。社会人になってカラオケというものが流行り始めた頃、僕が初めて歌った曲が「よこはま たそがれ」だった。実は当時、この曲の作曲家が平尾昌晃とは知らずに歌っていたのだが、後で何かのテレビ番組で知った次第。

   若い頃の何度かの「おもいで」のある平尾昌晃が79歳で逝った。黙祷・・・

7月 24, 2017   2 Comments

朝帰り

  仲間と飲んだ。2年振りの人もいて、大層盛り上がった。夕方から飲み始めて3軒目で飲んでいた時、店の外が少し明るみ始めた。おっとぅ! もう明け方じゃん。時計を見たら4:30だった。10時間は飲んでいる。

  直ぐに飲み会を解散して家に帰った。静かにドアの鍵を開け、静かにドアを開け、静かにドアを閉めた。靴を脱いで上がり框を上がった。

  何と、そこにカミサンが両腕を腰に当てて、立ちはだかっていた。

  僕はてっきり、「何時だと思っているのよ!!!」と言われるのかと思った。が、違った。

  「何歳だと思っているのよ!!!」だった。

  朝まで飲むなんて、50代の頃が最後じゃなかったかな。確かに、古稀過ぎてそんなバカをやる人はまずいないだろう。カミサンに言われなくても、それは分かっている。

  だが、それだけ楽しい飲み会だったということだ。3年前にある問題が発生し、以来ずっと引きずっていた気持ちに、大きな一区切りをもたらしてくれた飲み会だった。だから、そりゃぁもう僕の気持ちは一点の曇りもない全開の酒席となるでしょ。

  そんな訳で10時間が2~3時間くらいにしか感じられない楽しく嬉しい飲み会だったのだ。皆んな遅くまで付き合わせてしまって申し訳なかったね。しかし、ちゃんとツケは来るもので、その朝の寝起き時から悪酔い症状が2日続いて、やっと3日目に正常に戻った(三日酔いなんて初めて、やはり歳だね)。

  その間、体調は頗る付きの悪さだったが、不思議と気持ちの方はこの上ない軽やかさだった。「始めがあれば必ず終わりがある」とは昔の人は良く言ったものだ。忘れる以外、終わりなんて有り得ないと思っていた僕の問題も、3年で終わりを迎えたのだった。

  皆んな本当にありがとうね。一区切り付いたことで、気持ちは100%前に向いて進んで行けそうだ。やりたいこと、やり残したこと、兎に角一歩ずつ前に進もう。残り時間のある限り。

7月 10, 2017   2 Comments

常勤監査役を辞任

Flex 少短の人々 写真最前列左(横になっている)が若き社長W、その真後ろがもう一人の代取K、その斜め左後ろが創業者K

Flex 少短の人々 写真最前列左(横になっている)が若き社長W、その真後ろがもう一人の代取K、その斜め左後ろが創業者K

  一昨日まで僕が監査役を務めたベンチャー損保「Flex少額短期保険」は、開業から年半程になる。開業の前から僕とFuと、それに、現役時代に僕のシステム・チームで開発に加わってくれた女子プログラマー3人の、OB・OG5人のチームでこの会社のシステムを作って来た。ただ、3人の元女子プログラマーはこの5年の内に一人もいなくなってしまったのだが。

  このベンチャー企業、ご多聞に洩れず、最初の3年間はなかなか計画通りに事が運ばず、大赤字が続いて、もういつ潰れても可笑しくないところまで追い込まれたのだが、4年前、経営陣が大幅に若返ってから漸く拡大基調に入り、以降はそれが急加速して4年で20倍の収入保険料(売上げ)を記録したのだ。

  会社は、大苦戦も急成長も味わった創業からの第一ラウンドが終り、今年度から新たな中期計画(3年計画)が始まった。第二ラウンドの開始だ。今の2倍の収入保険料の会社にする目標に向かって走り始めた。

  僕はこの3月に古稀を迎えた。元々勤務は最大でも70歳までと決めていた。その同じ3月末が創業からの第一ラウンドの終わりとも重なり、僕が辞めるにはまたとないタイミングであった。それも今後は更に飛躍して大きな夢と明るい未来が開け行く筈のフレックスを、頷きながら見送れる幸せな引退となる筈であった。創業者のKもきっとご苦労さんと言ってくれるだろうと。

  ところが、監査役の退任は勝手な時期に出来ないことが分かり、3月末退任とはならなかった。即ち、株主総会で後任の監査役を選出するまで僕が務めないと、監査役の定員(現在3名)を割り込むことになってしまうからだ。

  という訳で、3月末ではなくて6月の定時株主総会(6月30日)に於いて、後任も選出されやっと正式に監査役辞任が認められたという次第である。

  義務教育で小学校に入った6歳の時以来、全ての義務から解放されたのであった。63年振りの完全自由人となった瞬間だった。7月からは顧問(非常勤)の肩書を頂いたので、月一度くらい会社に出向いて、若き経営陣や社員を励まして行こうと思っている。

  フレックス少額短期保険の皆さん、宜しくね。日本一の少短めざして頑張れ!!!

 

7月 2, 2017   1 Comment