プレミアムエイジ ジョインブログ
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Category — 日記

自由人1ヶ月

         大栗川遊歩道

  会社生活を終えて1ヶ月余りが経った。それ以前と一番違うのは、毎朝の通勤が無くなったことだ。私鉄3本を乗り換え、1時間20分掛けて東京タワーのある神谷町まで通っていた時間が、まずそっくり空いた。その代わりに家の近くを流れる川沿いの遊歩道を、スマホの音楽を聞きながら1時間ほど散歩することにしている。

  と言うのも、朝の通勤の1時間20分は、座れず立ちっ放しのことの方が圧倒的に多かったので、それが結構足腰を鍛えてくれていたようだから、朝の散歩を習慣付けないと消費カロリーのバランスが崩れそうだと思ったからだ。

  ただ、散歩だけでは通勤の消費エネルギーに遥に及ばない。かと言って走るのはとても無理なので代替案を考えた。

大栗川1

  その川は大栗川という。1kmほど下流で多摩川に流れ出る支流の一つだ。遊歩道は堤防より一段低く内側(川側)に整備されている。堤防の上から遊歩道に降りる階段が所々ある。階段の段数は17段だ。散歩途中でこの階段の上り下りを5往復することで消費カロリー数の帳尻を合わせている。10往復を目標に徐々に増やしていくつもりだ。

  平日の朝、歩いて分かったことがある。同じ時間帯に、僕と同じような年の頃と思わしき人々が大勢散歩しているということだ。これまで全く知らなかった朝の光景である。ウォーキングもいればジョギングもいる。団塊世代の退職組がかなりの勢いで増えているということをこんな所で実感した次第である。

  さてこの散歩も、毎朝ではないのが神童流だ。即ち、雨の日と二日酔いの朝はパスするのだ。雨の日も風の日もというストイックな日課は、僕には不向きで長続きしないことを良く分かっているからだ。70年も自分と付き合って来たから100%外さない自信がある。

  散歩から家に戻って朝食だ。この朝食も自分のは自分で用意する。基本は和食である。和食と言っても、しらすおろし、ネギ入り卵焼き、納豆、野沢菜、それに味噌汁とごはんと言った簡単な食事だ。20年前の仙台単身赴任の時の朝食メニューとほぼ同じ。単身生活はこんなことに役立っている。

  カミサンは朝は洋食を好むし、僕が約1時間の散歩に行っている間に朝食を済ませているので、朝食は夫々が勝手に作って勝手な時間帯で食べる。因みに、僕の場合は、2食主義にしたので昼食は摂らない。夕食だけ共にしている。勿論夕食はカミサンが作る。

  この食事のルールは、1か月前に新たにカミサンと取り決めたルールである。僕が自由人になるに当って、カミサンも自由人になるべきだと思って決めたのである。と偉そうに言っても掃除洗濯は全部カミサンの担当のままなのだが。

  この自由主義は1日の時間の過ごし方にも表れる。即ち、昼間は、一緒に出掛ける日以外は、お互いが干渉せず自由に行動することを旨としている。カミサンは専らジム通い。そんなに鍛えてどうするつもりだ、とは聞かない。自由主義だから。

  僕はと言えば、まだルーティンが確立してはいないが、昼間はゴルフ練習・ドラム練習・川柳練習・読書練習・孫娘とのデート練習、それと1度か2度の出社(顧問として)で埋まった。4月は退職翌月という特殊な月だったせいか、夜の飲み会も何度となく誘われて、スケジュール表がギッシリ埋め尽くされた。

  従ってまだ、通常のペースが掴めていない状況と言ったところか。しかし、定時に起きてさあ会社に行くぞという気合も義務感も全くない「のどかな朝」には直ぐ慣れた。

  神童は会社を辞めてからブログに全く投稿もせず、一体何をやっているのか? とのお声が耳に届いたので、取り敢えずこの1ヶ月の生活について簡単に報告させて頂きました。

大栗川2

5月 4, 2017   No Comments

卒業

先月初めに古稀(満70歳)を迎え、本日3月末をもって長い会社生活に終止符を打った。思えば、22歳で大学を卒業し損害保険会社に就職して以来39年、今のベンチャー損保(株フレックス)に移って9年、通算48年の長きに亘って、元気に会社生活を送れたことは無上の喜びであり、関係者には心より感謝申し上げたい。

しかし48年と聞いて、あと2年で会社生活50周年なんだから、そこまで頑張ればいいじゃないかとか、古希になったからって辞める必要はないではないかと言う人もいたが、僕の勝手な価値観というのがあって、随分前から70歳誕生日を迎える年度末には完全リタイアすることを固く決意していた。

その価値観というのは、70過ぎても会社勤務すべき人は、辞めることが社会や会社の損失となる人のことで、常人の場合は老害を撒き散らすか、アイデア・キラーとなって、若い力を殺ぐ側の人間になり易いという事実なのだ。いろんな経験や事例から思うところ大である。

そうなる前に、或いは、もうそうなり始めているかも知れないので、僕の我が儘として、若き経営陣から卒業の許しを頂いた次第である。

それにしても、まさか僕が70歳を迎えるまで会社勤めをするなどという図は、若い頃の神童には全く想像出来なかったことである。こんなに長く生きられると思っていなかったから。

入社数年後に患った酷い十二指腸潰瘍は、ストレスによるものとされたが、その痛さは半端でなく、僕は、50歳までは生きられないだろうと勝手に決め付けていた。痛さもさることながら、社会人になって間もない若者が、これほどストレス耐性に欠けるのでは、普通の社会生活に向いておらず、このストレス社会で長生き出来る訳がないと思っていた。

何度となく胃カメラを飲んで診察を受けた。薬を飲んでも、一向に潰瘍が治癒せず、酷い時は、内視鏡が出血中の十二指腸潰瘍を捉えたりした程だ。その時医者に「1か月後、もう一度内視鏡検査を行い、同じ状況だったら手術を考えましょう」と言われる迄に追い込まれたのだった。入院期間は凡そ3週間とのこと。若干25歳の頃である。

運良く、1ヶ月後の検査で出血は見付からなかったので、辛うじて手術は回避されたが、毎食後与えられた薬を飲むことは当然の義務であり習慣となっていた。生活も、お酒を飲むことなど以ての外だった。直ぐ出血するからだ。尤も、学生時代もそうだったが社会人になってもあまりお酒が飲める方ではなかったから、禁酒は僕にとって辛いことでも何でもなかった。今とはエライ違いだが(笑)・・・

その後の結婚を挟んで10年間、医者の薬を飲み続け、何とかそれ以上の悪化を防ぎながら、十二指腸潰瘍を騙し騙し生活をしていた。勿論、カミサンにもプロポーズの時、潰瘍のことを伝え、50歳まで生きられるかどうかだと思うと伝えた。プロポーズの言葉は忘れたが、短命を理由に断られても仕方ないと覚悟を決めて話したことは覚えている。(今カミサンはそのことを短命詐欺とか言うけれど 笑)

定期検査を行なったある日、主治医から近年ピロリ博士の見付けた胃の中に存在するある菌の説明を受けた。その菌が悪戯をして、胃潰瘍や十二指腸潰瘍を引き起こすことが多いとの説明だった。

もしかしたら僕の十二指腸潰瘍もそのピロリ菌が原因かも知れない。いや、そうでないかも知れないが、兎に角、この苦境から脱出出来る可能性があるならどんな検査も受けてみたかった。

早速、胃に内視鏡を入れ細胞を採取して検査に掛けられた。意外と簡単な検査らしく、1時間もしない内に医者が、5本の試験管が立ち並んだ入れ物を持って僕の前に現れた。その5本の試験管の中には液体が入っていて、左から完全な透明、右に行くに連れて赤さが増して行き、一番右は一番濃い紅色だった。

「これはピロリ菌の濃度です」と説明した。そして徐にもう1本別の試験管を取り出して、「これが神童さんの胃から取った繊維を培養したもの」だと言う。真っ赤である。「レベル4(最高位)ですねぇ。十二指腸潰瘍の原因はピロリ菌の可能性が極めて高いです。ピロリ菌駆除をやってみますか?」と医者が言うので、「是非お願いします」。

その日から1週間掛けて駆除の薬を飲み続けた、その間毎日酷い下痢に襲われたが、何とか終了。もう一度、内視鏡で胃の繊維を抽出し前回と同じ培養がおこなわれ、医者が試験管を僕に示した。完全なる透明な液体がそこにあった。「ピロリ菌駆除は成功したようですね」と嬉しいご託宣。

これで、後は潰瘍治療薬が効いて十二指腸の痛みが消えたら完治だそうだ。空腹になると痛みが走り、特に夜、横になると耐え切れないほどの痛みが走り、立ち上がらざるを得ないことも多かったが、そのような痛みが出ることはこの日以降二度と無かった。

2ヶ月後の検査で、医者から、十二指腸潰瘍の痕は残るものの、潰瘍自体は完治とのお墨付きを貰ったのだった。34~35歳の頃だ。あの痛みと投薬から解放されたことは、僕にとって大きな転機となったことは間違いない。

どこか沈みがちになる気分が遠くに押しやられ、仕事でも家庭でも、行動や思考が前向き・積極的に変わって行ったように思う。ピロリ博士様々である。そして、仕事でも、立場上部下とのコミュニケーションやら接待やらを含め、丁度その頃から飲む機会が増えて行った。十二指腸潰瘍のままだったらとてもそんな付き合いは出来なかっただろうから、世の中なかなか旨く出来ている。

話は大きく逸れてしまったが、50歳ではなく70歳まで48年間もの長きに渡って会社生活を送れたのは、ピロリ博士の新たな細菌発見の賜物ではあるものの、本当は会社の皆さんの暖かい叱咤激励があってこそとつくづく思う。

特に、今のベンチャー損保・フレックスでは、4年間で20倍の売上げ(5千万 → 10億)を実現した若い力が生み出す「熱気と勢い」の真只中に身を置き、沢山の元気と若さを頂いた。お蔭様で、「同世代の中で最も若い」と仲間達から言って貰える神童である。

半生を振り返れば、仕事自体は苦しいことが、それはそれは多かったけれども、決して嫌ではなかった。苦しかったことも、今では鮮烈な思い出、生きた証だし、楽しいことも同じくらい沢山あって、48年があっという間であったようにも感じる。そう思えるのは大変幸せなことではないかと今改めて感じている。

 

関係者の皆様には、長いことお世話になり、重ねて感謝申し上げます。今後は非常勤の顧問として、フレックスが真に「日本一の少額短期保険会社」になる日を楽しみに、少し離れたところから、愛を込めて声援を送り続けたいと思います。

3月 31, 2017   3 Comments

ぼんのてい

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東京郊外に聖蹟桜ヶ丘という街がある。僕の住む町だ。もう15年以上前になるが、僕の務める損保企業ともう一つの損保企業が合併した時、僕の職場がこの街の駅前のコンピューター・センターとなった。なので、それ以来退職までの8年間、僕は自宅から徒歩8分で通う幸運に恵まれたのだった。

その合併の時、僕がシステムの責任者だったことから、会社合併のためのシステム統合には大変苦労したが、僕にとっての最大の統合効果は、合併会社のコンピューター・センターが合併相手社のそれに決まったことだった。

両社のコンピューター・センターのどちらを採用するかという選択に迫られた僕は、駅に近く優秀なSE社員の中途採用でも有利な、相手社のセンターを選んだ。自社のセンターは最寄り駅からシャトルバスで通勤するような場所だったからだ。

いろんな人から「神童は、自分の家から歩いて通えるから、相手社のセンターにした」と揶揄されたが、決してそんなことはない。たまたま僕が決定権者だっただけで、将来に亘って優秀人材が集まり易い場所を選んだに過ぎない。

僕が徒歩で通える場所となったのは、会社にとってのメリデメを慎重に測定した結果である。僕にとって最高の結果になったのは認めるが(笑)。僕を揶揄する後輩には、「20年思い続ければ、ことは成る」と諭したものだった。

つまり、僕が阿佐ヶ谷から聖跡桜が丘に引っ越したのは1980年で、合併後のコンピューター・センターがこの地の相手社センターに決まったのは2000年だった。その間僕は同じSEとして、当社でなく相手社に入社していれば、満員電車でなく徒歩で通勤できたのに、と思って来たことを、半分冗談で言ったまでだが。

とは言え、この街も当時と比べると高齢化が進み、また、大学や企業も都心回帰の流れなどがあり、徐々に寂しくなって来ている。だが、逆に、この聖蹟桜ヶ丘という街が大いに気に入り、ここに店を出すのが夢だったという京都出身の夫婦がいる。

鉄板焼きの店を出したのは1年前だと言うが、僕はついぞ知らなかった。先日、僕らのライブでたまに手伝って貰っている「ミノル&ヨーコ」から、「鉄板焼き屋さんでミニライブをやるので、是非来てください」との連絡が入った。

聞けば、マスターは昔フュージョン系のギタリストとして活躍した元プロだと言う。彼のギターをメインに「ミノル&ヨーコ」が歌うとのこと。通常の営業は夕方5時半からだそうだが、その前の1時間半、ミニライブを行なうらしい。尤も、営業時間中もマスターが乗れば演奏してくれるとのことだった。

日曜日の午後4時、僕は地元の親友Kとフッ君の3人でお邪魔した。既に「ミノル&ヨーコ」はリハを終えたと言う。他に、6人の客と、店のマスターと店を手伝うその奥様という顔ぶれだ。

その店は、Lの字にカウンター席が10席、テーブル席2席ほどのこじんまりした店だった。ただ、カウンター・テーブルに接する鉄板が広くて大きいので、高級ステーキハウスを思わせる作りだ。店の名は「ぼんのてい」。

さてさて、ライブと言うが一体どこで演奏するのか。マイク・スタンドが2つ、カウンタの中にセットされている。つまり、カウンター内の料理人が腕を振るう場所で、演奏に腕を振るうということか。

ライブ料金はワン・ドリンク付き千円。僕ら3人はビールを頂く。そしてライブが始まった。この店の常連客でSさんという方が、井上陽水の「帰らない2人」他をギターの弾き語りで聞かせてくれた。「ミノル&ヨーコ」がコーラス、マスターがギターの間奏(アドリブ)弾く。Sさんの声も良く出ているし、コーラスもギター・アドリブも素晴らしい。やるねー。

.            Sさん

.            Sさん

昔、新宿のゴールデン街のカウンター・バーに流しがやって来て弾き語りをするのを聞いたことがあるが、何となくうらぶれた感があった。しかし、「ぼんのてい」のフォーク・ライブは僕ら客席の目の前で、4人の演奏が聴けるのだから、ある種贅沢感があって「フォーク鉄板焼きの店」と言えるような新鮮さがある。

Sさんの十八番を何曲か聞いたあと、「ミノル&ヨーコ」の歌を聴く。ヨーコの「なだそうそう」、ミノルの「上を向いて歩こう」など、たっぷりと夫婦息の合った演奏を聴けた。彼らの歌も元々素晴らしいのだが、その全ての曲にマスターのギター・アドリブが入るのだから、余計に高級感と言うかハイレベルな雰囲気に包まれる。

.          ミノル&ヨーコ

.          ミノル&ヨーコ

と、そこへ38階佐藤さんと浜ちゃんがドアを開けて現れた。「ミノル&ヨーコ」から連絡を受けた「のどごし生バンド」7人の内、4人が参加したことになる。

次に、マスターの独奏で「サニー」をフュージョン風と言うかジャズ風に演奏してくれた。この曲、数年前まで「のどごし生バンド」で僕が歌っていた曲だったから、思わず口ずさんでしまう。佐藤さんと僕で、各コーラスの先頭で「サニー」と掛け声をかけると、マスターが何とも嬉しそうな表情を浮かべて演奏するのが微笑ましかった。

さすがはフュージョン系元プロ・ギタリストのソロ演奏である。通常、エレキギターのアドリブはロックだが、彼は、リズムこそ8ビートだが、本質的にジャズ・ギターなのだ。僕の耳には凄く心地よく聞こえる。

.        右がマスター  写真が暗くてスミマセン

.    右がマスター  写真が暗くてスミマセン

マスターに「僕らの若い頃は、ジャズ・ロックという名前で8ビートのジャズが流行り、その後フュージョンとなり、今やスムース・ジャズって言うように変遷して来ているんだよね」と言うと、「そ、その通りなんです。よーくご存知ですね、嬉しいです、そういう人に聞いて貰って」と返って来た。

ライブ終了後は、沢山のメニューの中から、幾つかの鉄板料理を堪能し、ビールやハイボールを強か飲んで気分最高のまま店を出た。上級者の音楽が聴けて、美味しい鉄板料理が食べられ、お酒も美味しい僕好みの店が見付かった。「ミノル&ヨーコ」に感謝したい。

 

3月 21, 2017   2 Comments

心配

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昨日一枚のハガキが舞い込んだ。僕の学生時代に、ストレンジャーズという学生バンドで一緒に活動したAからだ。こんなことが書いてあった。

「・・・ 現在私は、特発性間質性肺炎という進行性の難病を発症し、2年経過した今、肺活量が半分になり日常生活でも息切れすることが多くなりました。その様な訳でリタイア後アルトサックスで6回、ギターで1回、7年間続けた Jazz Live を断念することにしました」

「ここまで続けて来られたのは、皆様の応援の賜物と心より感謝しております。これからは音楽をはじめ読書、映画鑑賞等まだまだ人生を楽しみたいと思います ・・・」

そして、多分PCで作成したものと思う、彼の演奏風景の写真入りハガキの余白には直筆で、「ドラムでの出演ありがとうございました。ゴルフも卒業としました」と書かれている。言うまでもなくAと僕は同い年だ。ややオーバーに言えば、退職後はジャズとゴルフに情熱の限りを注いだ人生だったから、彼の気持ちが痛い程分かるので辛い。

学生時代は、Aが奏でるロック・サックスが素晴らしく、他のバンドからも一目置かれる存在だったし、僕らのバンドの中でも、彼のスキルは抜きん出ていた。

彼に触発されるように僕も他のメンバーも一生懸命練習して、大学3年の時には、仙台の学生バンドとしては3本指に数えられるまでになり、レコード大賞受賞直後のあのブルーコメッツの仙台公演で、前座を務めてバンド活動の最後を飾ったのだった。

その後、メンバーは全員別々の企業に就職し、音楽から遠ざかって行ったのは皆んな似たような状況だった。僕も、仙台単身赴任をしなかったら音楽再開のキッカケは全くなかったと思う。

仙台単身赴任は1996年~97年だったが、赴任した時、仙台に住むストレンジャーズ・メンバーだったOが僕の歓迎会をやってくれた。その時の2次会で同じく学生ハワイアン・バンドのメンバーだったSの案内で、3人で押し掛けた店があった。

そこが、昨年末他のプロ達と一緒に仙台公演を行った時の主催者のKeiさんの店だったのだ。その店は、ピアノ・ドラム・ギターなどが置いてあり、勿論プロの演奏もあるが、客も自由にセッション出来る店だった。Sは神童が仙台に来るなら是非連れて行きたい店だったと言う。

27年振りにドラムを叩かせて貰った。しかし、ブランクは大きかった。頭では分かっているのに、手足が付いて行かない。動かない。それが悔しくて、単身で何も予定のない週末は良くその店に通った。

半年も経つと、細かいテクニックは無理だが、何とか目立ったリズムの崩れなく演奏することが出来るようになり、店のプロもママのKeiさんも僕のドラムをバックに演奏してくれるようになって行ったのだった。

それが音楽再開のキッカケとなって、その後、C&Sと知り合い、のどごし生バンドのメンバー達(全員C&Sの店の客)と知り合い、本格的にバンド活動をするようになって行った。

そして、C&Sのバックバンドとして、最初に立った有名な会場が「日比谷野音」だった。その時に、僕はAに声を掛けてチケットを買って貰ったのだった。それがAの音楽再開の触媒になったのかどうか分からないが、彼からジャズ・サックスに取り組んでいるという年賀ハガキを貰ったりしたのもその頃だった。

Aは大手食品会社の執行役員だったが、その後、何年か四日市にある関連会社の社長を務めて、東京に戻り退職。そして、退職の挨拶状代わりに届いたのが、Aの第一回ジャズ・ライブの案内だった。

会場は、このブログでも何度か触れているが、東中野の「DRUM」というライブハウスだ。僕も彼のサックスのバックで2曲ほどドラムを叩かせて貰った。

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この店は、Aが定期的に練習に訪れる場所なので、僕も何度か同行し、一緒に演奏させて貰った。店のマスターは皇室のイベントなどで演奏を依頼されるドラマーの三戸部氏である。僕は毎回、三戸部氏に鋭い指摘と指導を受けたものである。

以来、毎年1回、Aはジャズ・ライブと言うか、自分のリサイタルを開催して6回を数えたのだが、2年半前のライブの後、特発性間質性肺炎を発症して、もうサックスは吹けないと連絡して来た。それでも、サックスをギターに持ち替えて、ジャズを続けるので「DRUM」に来てくれと言うから駆け付けた。

Aは自分のサックス・レパートリーをギターで演奏しようとあれこれ試みていたが、これがなかなか良いのだ。ギターの音がまず綺麗で、リズム感やアドリブ感はサックスで鍛えたものをそのままギターで表現するので、完成度が高くて驚いた。

昔からとても器用な奴だったが、だからと言って、普通、サックスがダメになったからギターでという訳には行かないものだ。大したものだとつくづく感心させられてしまった。ギターのライブを是非聞きたいと思った。

そして、7回目のライブは、ジャズ・ギターの夕べだった。場所は巣鴨「ムーングロウ」。Aのジャズの師匠であるプロ・ピアニストの坂口さんのお店だった。

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正直、Aのギターで奏でるジャズは素晴らしかった。こう言っては彼に失礼だが、同じ曲もサックスよりギターの方が遥かに心に響く。サックスが吹けなくなっても、これからは、ギターでジャズ・ライブをずっと続けて行けばいいよ。肺炎なんてぶっ飛ばせ。流石、NAOYA・Aだ、と思っていた。

そこに、今回の「ライブ中止のお知らせ」だ。心配にならない訳がない。歩くのも息苦しいと言うことだろうか。肺活量が半分でも、急激な運動とかしなければ大丈夫だよね。ギターを弾くのに問題ないよね。自宅に音楽室もあるのだから、是非、ジャズ・ギターは続けてよ。そして、体調にも自信が持てるようになったら、是非8回目のライブをお願いします。

勿論、場所はライブハウスとかじゃなくても、自宅の音楽室でも良いから。2時間掛けても絶対に伺うので。

これ以上悪化しませんように。そして少しでも改善して、また、あのジャズマンAの雄姿が見られますように。

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3月 15, 2017   2 Comments

ムッシュ逝く

無題

ムッシュ・カマヤツが逝ってしまった。彼がスパイダースで「フリフリ」や「バン・バン・バン」「ノー・ノー・ボーイ」を作り、自ら歌って大ヒットさせた頃、僕も19~20歳青春真っ只中だった。学生バンドをやってたこともあり、ビートルズ・ローリングストーンズ・アニマルズに夢中になったが、日本ではGS創成期で、ブルーコメッツとスパイダースが人気・実力で双璧だった。

GSのメンバーは、例外なく、若くて痩身でハンサムが条件かと思わせるくらい、カッコ良かったが、そんな中で年齢不詳のオジサンがいた。ビートルズ以来、マッシュルームカットは一般化したが、彼のそれは、他のものよりも大きくて長く、独特の存在感を放っていた(と言うか、化け物に近かった)。

ステージ上でも、かまやつ・ひろしの動きは予測不能で、何とも自由な表現者といった強烈な印象を僕は持った。要はそんな彼が好きだったのだ。オジサンとは言ったが、享年78歳と言うから、当時は27~28歳だったのかと思う。堺正章と僕は同い年だから8歳上なのだ。

その頃の印象が、その後50年間ずっと変わらぬままの人だった。歳を取らないと言うのか、元々酷い老け顔だったと言うのか、こんな人も珍しい。

スパイダースのステージで、「バン・バン・バン」や「フリフリ」を歌う時のムッシュは、ステージ上を所狭しと動き回るのに、可笑しかったのは、あのミリオンセラーの「夕陽が泣いている」の時、マチアキと井上順の後ろで神妙な顔してギターを弾いているムッシュの姿があった。

大ヒット曲ではあったけど、その曲は偉い作曲家の先生(浜口庫之助)が作った曲だったから、彼としては気が進まなかったり、ノレなかったりしたのかななどと勝手なことを思ったものだ。

ムッシュ・カマヤツの予測不能な行動は、何もステー上だけではない。1989年のベルリンの壁崩壊の世界的ニュース映像の中で、彼がその壁の上で、ギターを抱えて「バン・バン・バン」を歌って姿ほど驚かされたものはない。たまたまその映像を自宅のテレビで目撃したのだが、その時はビックリしたの何のって。僕の予測不能の人がまたまたやってくれました。

でも、なんでわざわざベルリンまで行って「バン・バン・バン」? いいんです、そんなことは。久し振りにムッシュ・カマヤツの予測不能を目の当たりに出来て、僕は嬉しくなって一人喝采を送ってた。

そして、今日、やはり予想不能の死を遂げたのだった。今日の夜は僕の大好きだった「我が良き友よ」をしんみりと聴くことにしよう。 アーメン。

 

3月 2, 2017   No Comments

Birthday Live

                              Photo by Matsumoto

.                     Photo by Matsumoto

 

先日、「のどごし生バンド」は、いつもの通り、横浜・新子安の「グレコ」でライブを行った。「グレコ」でのライブはこの日で26回目となるが、僕ら「のどごし生バンド」にとっては、特別なライブであった。

今年は酉年だが、一周り前の酉年の2月にバンドを結成したので、この日は丁度バンドの12回目の誕生日となるのだ。12年前もこの7人で立ち上げ、今も全く同じ7人で活動が出来ていることが何とも嬉しいではないか。最低あと8年は続けて20周年は迎えたいもの。

12年前は7人とも、それはそれは若かった。フッ君や38階佐藤さんやアンディ―は何せ40代だったのだから。サンシャイン大木も浜ちゃんも中保さんも50歳を過ぎたばかり。最年長の僕だって、確か40代後半だった。とう年取ってだけど・・・。それが今じゃアンディ―以外全員60代だからねぇ。えっ! 僕? 勿論60代ですよ、あと1週間だけど。

この12年間を振り返ればいろんなことがあったなぁ。大木先生が「グレコ」を開店してからこの5年間は、「のどごし生バンド」は、あたかも「グレコ」の所属バンドの如く、隔月定期ライブをさせて貰っているが、それ以前は結構あちこちに出演していた。例えば、NHKホール、例えば東京国際フォーラム、よみうりホール、或いは、日比谷野音や初台のオペラシティ―など。

勿論、それらは僕らが主役ではなくて、「C&S」というプロ2人組のバックバンドとして出演したんだけどね。でも、他のバンドからは、アマチュア・バンドがどうしてそんな凄い場所に立てるのかとビックリされる。「のどごし生バンド」は、実力はさて置き、これまでに立ったホールは超一流なのだ。

各地への演奏旅行も楽しかったなぁ。沖縄・福岡・名古屋・長野。それもこれも、「C&S」とは身内のような付き合いをして、常に行動を共にしていたからこんな貴重な経験が出来たのである。現在、メンバーの間で当時のことは話題にこそならないが、これらの体験について、今も皆んな「C&S」には感謝していると思う。

しかし、そんな「C&S」の世界から「のどごし生バンド」が卒業する時が来た。徐々に、「C&S」と「のどごし生バンド」の間に、活動を巡って意見の違いが生じ始め、遂に、僕らは独立することにしたのであった。6年半前のことだ。

独立後、銀座タクトやブルースアレイと言った都内有数のライブハウスでのライブでも、少しも気後れせず、図々しくステージ上でまず自分達が楽しんじゃう、いつもの「のどごし生バンド」を出せたのも、以前の経験が生きていたからだろうと思う。

さて、この日のライブ。前日に38階佐藤さんから「38℃を超える熱があるので、ライブを欠席させて欲しい」との連絡が来た。残念だが仕方ない。「のどごし生バンド」のBirthday Liveは、佐藤さん抜きでも出来る曲目に急遽変えて当日のライブに臨むことにした。

前回のライブ(2016年12月)で、遠くから来てくれた来場者から、帰りの時間が気になるので、もう少し早めに初めて早めに終わって欲しい、との意見があったので、いつもより開演時刻を30分早めて、6時開場(これはいつもと同じ)、6時半開演(いつもは7時)とした。

そのせいか、6時から6時20分の間に来場予定の9割方の人々が揃ってくれた。いつもは6時半でも5割なのに。皆さんやはり開演時刻を意識して集まって来られるのが良く分かる。

この日は、僕の高校同期が3人来てくれた。O、M、Yの3人だ。彼らが来てくれて、会場は丁度満席状態となった。Yは高校同期のバンドで一緒だったから、過去にも数回来てくれているが、OとMは初めだ。特にMは事前連絡もなくいきなり現れたから、僕がビックリした。

と言うのも、Mはある合唱団に属していて、オーストリアやドイツの有名ホールで毎年のように歌っている声楽家なのだ。彼のような専門家に来られると、なんちゃってドラマーとしては緊張せざるを得ない。しかしまぁ、緊張しても、いつもより上手くなる訳じゃないので、緊張するのは止めたけどね。

でも、3人よく来てくれたね。ありがとう。他にもアンディーが新しいお客様を3人呼んでくれたし、これまた初めての僕の後輩が友人と共に来てくれて、常連のお客様を含めてとても暖かい雰囲気の中、思いっ切りライブを行うことが出来た。初めてのお客様の評判も頗る良く、次回もまた参加してくれるとのことだ。

特に、Mから「仙台でプロと一緒にディナーショーをやったというドラムの腕前に嘘はなかったな」とお褒めに預かったのは流石に嬉しかった。

             Photo by Matsumoto 

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【セットリスト】

 

第一部    (6:40~7:20)

1. マイアミビーチ・ルンバ

2. この胸のときめきを

3. ラブ

4. 鈴懸の径

5.  シェルブールの雨傘

6.  イマジン

7. アンチェイン・マイ・ハート

8. 時空の風に

 

第二部  (7:40~8:00)

      K&B   4曲

 

第三部  (8:15~9:00)

1. 朝日のようにさわやかに

2. 嘘は罪

3. バードランドの子守歌

4.  ファイブ・スポット・アフター・ダーク 

5. ユー・ビー・ソー・ナイス~

6. キリング・ミー・ソフトリー

7. 素直になれなくて

8. センチメンタル・ジャーニー

 

e. ハウンド・ドッグ

             Photo by Matsumoto 

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2月 24, 2017   No Comments

ボケ防止

出身会社OB会の常任幹事や副会長を仰せ付かって、断り下手な僕は、昨年5月まで都合5年間、それなりに真面目に働いたつもりだ。飽く迄も「それなりに」ではあるが。

僕に課せられたテーマは、新しい時代に合わせた、IT活用の会員相互コミュニケーションの場の提供というものだった。当時の会長さんが、そのことの必要性を僕に熱く説き、OB会の会員でもなかったのに、常任幹事会に引っ張り込んだのだった。

現役時代、仕事で彼にはお世話になった関係で、僕は無下に断れなかった。半分は義理で、半分は他の会員にはそのミッションは無理だろうとの思いで、早速、ホームページ作りに取り掛かった。半年後、当OB会初の双方向ホームページが完成した。

完成後、OB会の各種活動をホームページに掲載するなど各方面に働き掛けたりする中で、幾つもの同好会があることを知った。その中で、現在僕は「川柳句楽部」に所属している。月1回、一人5句持ち寄って、メンバー全員で審査し、各人の今月の1句を選びホームページに掲載することを定例活動にしている。

また、ホームページに連載のショート・コント「笑たいむ」をもう一人の仲間K君と執筆を続けている。2人で週1回のペースで新作を掲載している(従って、夫々2週間に1回の執筆)。

現役時代のように、急遽、明日の朝までに提案書や計画書を作成しなければならないとか、ピンチの時必死に打開策を考えるなどという、厳しい切迫感の中に身を置く機会はほぼ無くなって、かなりの時間が経つ。

緩んでしまった頭のネジを絞め直すのに、この2つの活動、特に期日が迫って苦悶しながら作品を絞り出すことが、大いに役立つと信じているのである。それが実は一番の目的かも知れない。開き直りで言う訳ではないが、自分の作品が他の人にとって面白いかどうかなど二の次である。

とは言いながら、やはり、「いいねぇ」とか「面白い」とか言って貰えると、この歳になってもやはり嬉しいものである。お世辞を含めて、まずまずの評判だった(と勝手に思っている)作品を掲載させて頂く。

 

【川柳句楽部】  雅号 むーさん

 

人生は 死ぬ時までの 暇つぶし

真珠湾? 三重県でしょと 女子高生

ばあちゃん家(ち) 苦手先食べ 追加され

水不足 オイラの職場 ミス不足

許してね オレに似ちゃった 孫娘

 

【笑たいむ】  ペンネーム 二遊亭益乃(にゆうてますの)

 

面接試験

 

面接試験が終わり、

面接官 「最後に、会社について、何か質問はありますか?」

学生  「御社は一部上場企業ですが、全部を上場するのはいつですか?」

面接官 「・・・」

この学生は落ちた。

 

慣れない敬語

 

ある日、上司が髪の毛を短く切ってきた。

それを見た新入社員のS君が、自分の頭を指さして、

「あたま、いかれたんですか?」

「頭、行ったんですか?」で良いものを、慣れない敬語なんか使うから。

 

タイプじゃない

 

妻 「隣の奥様が、歩いていたらいきなり抱き付かれたんですって」

夫 「ほう、それで?」

妻 「警察に被害届出したそうよ。貴方、そんなこと絶対にしないでよ」

夫 「それは絶対ない。誓うよ。彼女は僕のタイプじゃないから」

 

老人の右足痛

 

医者 「うーん、検査の結果では特に異常はありませんねぇ」

老人 「じゃぁ、この痛みは何ですか?」

医者 「まぁ、お年のせいでしょう」

老人 「先生、そんないい加減なこと言わないで下さい」

医者 「どうしてです?」

老人 「だって先生、左足も同い年なのに痛くない」

 

2月 7, 2017   4 Comments

スマホを洗濯しちゃった(3) 完

3時の予約時刻に再び修理受付カウンターを訪れた。直ぐに呼ばれて係員と面談。「水没ですか。電源は・・・、ダメですね。交換になります。この画面で ID と PW を入力して下さい」。自信持って入力した。しかし、無情にも「パスワードが違います」と出た。「えっ?」と焦る。でもまぁ ID は正しいということだ。

もう一度、同じ PW を入れてみる。またダメだったが、「先頭の文字は大文字ですよ」と係員。3回目、やっと旨く行った。GPS による紛失時捜索機能の解除など後の処理は係員に任せた。彼は、新しいスマホを持って来てSIM カードを壊れたスマホから抜き取り、新しいスマホに入れ替えて、イニシャライズを開始した。

僕の前で幾つかの機能を試してハード障害が無いことを示してくれた。最後に、僕が質問した。「データが復元出来ないと大変困るのだけれど、何かやりようはないですか?」と。係員は、「データのバックアップが取られていれば出来るのですが、それはどうですか?」と逆に質問される。

スマホの設定が、「バックアップ取得を行う」となっていて、且つ、WiFi 環境で充電していれば自動的にバックアップされるのだそうだ。そんなこと今まで意識したことがなかった。一縷の望みは、我が家の PC 環境はノート・パソコンなので、無線LAN を使って来た関係で、偶然スマホのWiFi 環境にもなっていたことだ。

更に、「バックアップが取られていない場合、壊れたスマホのメモリーからデータを読み取るとは出来ないですか?」と質問。「水没したスマホはまず無理でしょうね。仮に読み取れるとしても費用がかなり掛かりますから。まずはau ショップに行ってバックアップからの復旧を試される方が良いと思います」との答えが返って来た。

一難去ってまた一難。現役時代、システム部門が長かったから、大トラブルを幾つも経験しているが、追い詰められたこの感覚は正にその時のものだった。でも経験則から、もう打つ手が何もない、と絶体絶命に至った時に、何らかの道が開けることが多いのも分かっている。

八王子から地元に戻ってau ショップに直行した。この日の朝、僕に八王子の修理カウンターの場所を教えてくれた係員がたまたま担当してくれて、話はスムーズに通じ、データ復旧が目下の最大の問題であることを彼は理解してくれた。

彼はまず、スマホ購入時にガラ系から移行した電話帳のバックアップがau サイドのサーバーに保管されていることを確認してくれた。よし。これで最低でも2年前の電話帳は入手出来る。

次に、彼は僕の新しいスマホで「データ復旧処理」を開始した。もし icloud 上にバックアップされていれば、処理途中でバックアップされた日付が出る筈だという。「どうか出ますように」自然と揉み手になっている。暫くして、「あっ、バックアップありますね」と笑顔で言う。彼の顔が神様に見えた。「ありがとね」。

日付は2016年12月28日となっていた。1か月以上前のバックアップだが上等だ。それ以降アドレス帳に登録したものなど皆無に等しいからだ。良かった。アドレス帳以外のデータも殆ど回復出来た。絶体絶命からの復活。係員に礼を言い深々と頭を下げて店を出た。外は夕闇が迫っていたが、足取りも軽やかに家路に着いたのであった。

問題発生から問題解決まで一日仕事になったが、 ID の重要性やらバックアップの仕組みやらいろいろ勉強になった。「今頃勉強? 元SEとも思えない」という声が聞こえる。確かにね・・・。まっ、それは置いといて、「もう2度と洗濯しないから!」とスマホに誓う神童覇道であった。

.           スマホを洗濯しちゃった  ― 完 ―

2月 6, 2017   1 Comment

スマホを洗濯しちゃった(2)

八王子駅の改札付近で公衆電話を探したが見付からない。携帯電話がないとホント不便だ。その時、店のガラスに緑の公衆電話が映っている。反対側を見た。あった。だがそれは、JRの改札を入って直ぐの所だった。何で中なんだ? 公衆電話が2台置いてあるが、使われることは少ないからだろう。携帯・スマホの時代だもんね。

迷うことなく、改札を入って会社に電話した。電話に出たRさんに僕のPCを開けて貰ってアドレス帳を調べて貰う。Rさんは「分かったら電話します」と言ってくれたが、こちらはスマホが使えない。5分後にもう一度電話すると言って一旦切った。

2回目の電話で、僕のメルアドが正確に分かった。そのメルアドをそのまま au ID にしているのは、何度も操作しているので分かっている。だから Apple ID も、そのメルアドの@以下を「@icloud.com」に変えれば Apple ID の筈だ。

その場から、Apple のコールセンターに電話して、Rさんから聞いたメルアドの@以下を「 @icloud.com 」に変えたIDで合っているかを聞いてみた。「違います」と言う。何で? 「どこが違うか教えて欲しい」と頼んでも、規則上、正しいか違うかしか答えられないの一点張りだ。

彼女は「最初に登録頂いた3つの質問にお答え頂ければ、ID をお教えできますが」と言う。分かった、何とか答えてみよう。「最初に飼ったペットの名前は?」「チャンプ」(注、チャンピオンの略、犬)、「最初に買った車の名前は?」「スカイライン」、「最初の上司の名前は?」「xxxx」。

「3問とも違いますねぇ。最初の登録の文字のままでないと不正解になります。ペットと車名は今回はカタカナでしたが、どう入力されたか覚えていませんか?」「そんなの分からないよ。じゃ、ひらがなでやってみて。上司名はさんを付けて」「やはり3問とも不正解ですね」。

ペット名を小学校の時に飼っていた猫の名前にしたり、車名の最初に「日産」を入れたり、何回もやり直したがいつも全問不正解だった。しかし、何でこんなに厳しいんだと少々腹立たしい気分になって来た。電話では住所も名前も自宅の電話番号も伝えてある。それは登録内容と同じだと言うんだから本人が電話しているのは分かってるだろうに。

まっ、しかし、全世界のユーザーを相手にしているのだから、様々な不正やなりすましがあるので、幾ら本人が電話して来ても、ID・PW が分からなければダメということなのだろう。

再び僕は途方に暮れて電話口で黙っていると、「あのー、神童様。あと1回だけ答えられますが、どう致しますか?」「えっ、あと1回って、それでダメだったらどうなるの?」「はい、一旦ロックが掛かって、8時間後にまた再チャレンジ可能になりますが」。

どの道、このままだと3時に修理受付カウンターに行ってもスマホの交換が出来ないのだから、ロックされてもされなくても一緒だ。殆どヤケクソとダメ元で、「英字にしてみるか」と言って、チャンプを「champ」、スカイラインを「skyline」に、上司名を他の人に変えて照合して貰った。

「神童様!」、オペレーターの声が明るい。「3問中2問正解でした。なので、IDをお教え出来ます」と言って遂に Apple ID を伝えてくれたのだった。ふー。

au ID と違う点が確かにあった。au ID の方は途中に「-」が入っているが、Apple ID には「-」がなく文字が詰まっている。ただそれだけの違いだった。何でそんな違いをわざわざ入れてしまったのだろうと自分を呪った。そのお蔭で、コールセンターとの電話は冷や汗ものだった。いや本当に身体が汗ばんでいた。とても寒い日なのに。やれやれ。

 

2月 2, 2017   3 Comments

スマホを洗濯しちゃった(1)

スマホをズボンのポケットに入れたまま洗濯物入れに入れたらしい。僕が。カミサンはそうとは知らず、そのまま洗濯機を回したら、洗濯槽がカタカタと音がするので、変だと思って、一旦洗濯機を止めて中を改めた。

そしたら、僕のズボンからスマホが出て来たと言う。僕を直ぐ呼んだ。「これ! 洗濯しちゃったでしょ! もう!」と言って濡れたスマホ渡すのであった。「えーっ!?」と驚く僕。スマホ画面の左上が、薄い明かりが差し込んだように微かに光っている。もうこりゃダメだなと悟りながらも、ティッシュで一生懸命拭く。

電源を入れてみる。ウンともスンとも言わない。あーぁ。内部のショートで一巻の終りだなと覚悟した。無駄と分かっていても、またスマホを拭いて何度も電源をいれてみるのだった。この気持ち、わかる? 割れたお皿を手でくっつけようとするのと同じ。

前の晩は川柳の会で、その後は恒例の飲み会だった。カミサンには「酔っ払って帰って来るから、こんなことになるのよ」と責められたが、僕は僕で、ズボンにスマホを入れたまま洗濯物として出したのは確かに僕だけど、それを洗濯しちゃったのはお前だろう、と思っても絶対に言わない(笑)。

それよりも、スマホが使えないと誰とも連絡出来なくなることに大きな焦燥感が襲った。電話番号やメールアドレスは全部スマホの中だ。昔のように皆の電話番号をノートに書き留めている訳ではない。更に悪いことにPCも故障しているので、誰とも連絡が出来ず、「外界との完全遮断」という深刻な事態に頭を抱える。

仕方ない、取り敢えず、auショップに行こう。朝10時の開店に合わせて店に飛び込んだ。事情を話すと係員はiPhonの修理はここでは出来ないので、八王子のApple修理受付カウンターに行くように地図を渡された。

その指示に従って、20分後、八王子駅ビルの中にある修理受付カウンターに到着。午前中なのに結構混んでいる。係員から必要事項の記入用紙を渡される。住所氏名電話番号を記入し、次の欄。「破損」か「水没」かのどちらかに丸せよという。「水没」に丸印する。破損の場合は更に細かく記入を要するようだが、「水没」は記入が簡単だった。

それを提出した後、順番が来るまで何人か待たされ、やっと係員が僕の所に来たので、受付けてくれるのかなと思ったら、彼は事前の聞き取り確認だと言う。僕のスマホの管理データ(Apple社側の顧客データ)を確認して、「水没は新しいスマホに取り換えることになります」と仰る。それはそうだろうと僕も思う。

係員は、PCで僕の管理データを見て、「保証が2月末まで付いているので、交換のスマホ代は掛かりませんが、作業料・手数料として7,800円掛かります」と言う。この場合、幾ら掛かろうが、早く復旧して欲しいというのが本音。

ただ参考のために聞いてみた。「保証が切ていたら新しいスマホ代は幾らなんですか?」。「はい、これと全く同じものですと34,000円です。手数料含めて41,800になります」「あっそう」。

要するに、スマホの洗濯があと1ヶ月遅かったら、41,800円掛かったということだ。今日、洗濯したのはとても幸運だったのだ(笑)。

そして係員が言う。「神童様のスマホは紛失時GPSで探す設定になっていますので、それを解除しないと交換が出来ないんです。このPCから解除できますので、Apple ID とPW を入力してください」。

おっとー。そんなの覚えてねーよ。au ID とは別に Apple ID があるのは知っていたが、購入以来使ったことのない ID だから困った。

係員は、途方に暮れる僕に「修理カウンターの受付は予約制なので、午後3時以降になってしまいますが3時で良いですか?」と聞く。「OK」と答えたものの、今11時だから4時間もある。普通だと「何でそんなに待たされるのだ」と文句の一つも言いたくなるところだが、それまでに何らかの方法でIDを思い出してくださいと言われ、素直に納得。

係員はAppleのコールセンターの番号を教えてくれた。そこに電話して、購入時に、ペット名やら車名・上司名など、3つのヒントを登録してある筈なので、2つ以上答えられれば、ID を教えてくれるとのことだった。それとても微かな記憶があるものの、不確か以外の何ものでもない。

一旦、僕は店を出た。何か良い方法はないかと必死に考えた。その時閃いた。au ID はメールアドレスをそのまま ID にしているから、きっとApple ID も同様の筈だと。 PWはいつも同じにしているから多分大丈夫。

ところが、自分の携帯メルアドなんか覚えていないし、スマホが使えないからメルアドを確認することも出来ない。誰かに電話して僕のメルアドを教えて貰おうと思い、財布の中に自分の会社の名刺が入っていることを思い出した。会社に電話して聞こう。

 

2月 1, 2017   2 Comments