プレミアムエイジ ジョインブログ

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ボケ防止

出身会社OB会の常任幹事や副会長を仰せ付かって、断り下手な僕は、昨年5月まで都合5年間、それなりに真面目に働いたつもりだ。飽く迄も「それなりに」ではあるが。

僕に課せられたテーマは、新しい時代に合わせた、IT活用の会員相互コミュニケーションの場の提供というものだった。当時の会長さんが、そのことの必要性を僕に熱く説き、OB会の会員でもなかったのに、常任幹事会に引っ張り込んだのだった。

現役時代、仕事で彼にはお世話になった関係で、僕は無下に断れなかった。半分は義理で、半分は他の会員にはそのミッションは無理だろうとの思いで、早速、ホームページ作りに取り掛かった。半年後、当OB会初の双方向ホームページが完成した。

完成後、OB会の各種活動をホームページに掲載するなど各方面に働き掛けたりする中で、幾つもの同好会があることを知った。その中で、現在僕は「川柳句楽部」に所属している。月1回、一人5句持ち寄って、メンバー全員で審査し、各人の今月の1句を選びホームページに掲載することを定例活動にしている。

また、ホームページに連載のショート・コント「笑たいむ」をもう一人の仲間K君と執筆を続けている。2人で週1回のペースで新作を掲載している(従って、夫々2週間に1回の執筆)。

現役時代のように、急遽、明日の朝までに提案書や計画書を作成しなければならないとか、ピンチの時必死に打開策を考えるなどという、厳しい切迫感の中に身を置く機会はほぼ無くなって、かなりの時間が経つ。

緩んでしまった頭のネジを絞め直すのに、この2つの活動、特に期日が迫って苦悶しながら作品を絞り出すことが、大いに役立つと信じているのである。それが実は一番の目的かも知れない。開き直りで言う訳ではないが、自分の作品が他の人にとって面白いかどうかなど二の次である。

とは言いながら、やはり、「いいねぇ」とか「面白い」とか言って貰えると、この歳になってもやはり嬉しいものである。お世辞を含めて、まずまずの評判だった(と勝手に思っている)作品を掲載させて頂く。

 

【川柳句楽部】  雅号 むーさん

 

人生は 死ぬ時までの 暇つぶし

真珠湾? 三重県でしょと 女子高生

ばあちゃん家(ち) 苦手先食べ 追加され

水不足 オイラの職場 ミス不足

許してね オレに似ちゃった 孫娘

 

【笑たいむ】  ペンネーム 二遊亭益乃(にゆうてますの)

 

面接試験

 

面接試験が終わり、

面接官 「最後に、会社について、何か質問はありますか?」

学生  「御社は一部上場企業ですが、全部を上場するのはいつですか?」

面接官 「・・・」

この学生は落ちた。

 

慣れない敬語

 

ある日、上司が髪の毛を短く切ってきた。

それを見た新入社員のS君が、自分の頭を指さして、

「あたま、いかれたんですか?」

「頭、行ったんですか?」で良いものを、慣れない敬語なんか使うから。

 

タイプじゃない

 

妻 「隣の奥様が、歩いていたらいきなり抱き付かれたんですって」

夫 「ほう、それで?」

妻 「警察に被害届出したそうよ。貴方、そんなこと絶対にしないでよ」

夫 「それは絶対ない。誓うよ。彼女は僕のタイプじゃないから」

 

老人の右足痛

 

医者 「うーん、検査の結果では特に異常はありませんねぇ」

老人 「じゃぁ、この痛みは何ですか?」

医者 「まぁ、お年のせいでしょう」

老人 「先生、そんないい加減なこと言わないで下さい」

医者 「どうしてです?」

老人 「だって先生、左足も同い年なのに痛くない」

 

2017 年 2 月 7 日   4 Comments

スマホを洗濯しちゃった(3) 完

3時の予約時刻に再び修理受付カウンターを訪れた。直ぐに呼ばれて係員と面談。「水没ですか。電源は・・・、ダメですね。交換になります。この画面で ID と PW を入力して下さい」。自信持って入力した。しかし、無情にも「パスワードが違います」と出た。「えっ?」と焦る。でもまぁ ID は正しいということだ。

もう一度、同じ PW を入れてみる。またダメだったが、「先頭の文字は大文字ですよ」と係員。3回目、やっと旨く行った。GPS による紛失時捜索機能の解除など後の処理は係員に任せた。彼は、新しいスマホを持って来てSIM カードを壊れたスマホから抜き取り、新しいスマホに入れ替えて、イニシャライズを開始した。

僕の前で幾つかの機能を試してハード障害が無いことを示してくれた。最後に、僕が質問した。「データが復元出来ないと大変困るのだけれど、何かやりようはないですか?」と。係員は、「データのバックアップが取られていれば出来るのですが、それはどうですか?」と逆に質問される。

スマホの設定が、「バックアップ取得を行う」となっていて、且つ、WiFi 環境で充電していれば自動的にバックアップされるのだそうだ。そんなこと今まで意識したことがなかった。一縷の望みは、我が家の PC 環境はノート・パソコンなので、無線LAN を使って来た関係で、偶然スマホのWiFi 環境にもなっていたことだ。

更に、「バックアップが取られていない場合、壊れたスマホのメモリーからデータを読み取るとは出来ないですか?」と質問。「水没したスマホはまず無理でしょうね。仮に読み取れるとしても費用がかなり掛かりますから。まずはau ショップに行ってバックアップからの復旧を試される方が良いと思います」との答えが返って来た。

一難去ってまた一難。現役時代、システム部門が長かったから、大トラブルを幾つも経験しているが、追い詰められたこの感覚は正にその時のものだった。でも経験則から、もう打つ手が何もない、と絶体絶命に至った時に、何らかの道が開けることが多いのも分かっている。

八王子から地元に戻ってau ショップに直行した。この日の朝、僕に八王子の修理カウンターの場所を教えてくれた係員がたまたま担当してくれて、話はスムーズに通じ、データ復旧が目下の最大の問題であることを彼は理解してくれた。

彼はまず、スマホ購入時にガラ系から移行した電話帳のバックアップがau サイドのサーバーに保管されていることを確認してくれた。よし。これで最低でも2年前の電話帳は入手出来る。

次に、彼は僕の新しいスマホで「データ復旧処理」を開始した。もし icloud 上にバックアップされていれば、処理途中でバックアップされた日付が出る筈だという。「どうか出ますように」自然と揉み手になっている。暫くして、「あっ、バックアップありますね」と笑顔で言う。彼の顔が神様に見えた。「ありがとね」。

日付は2016年12月28日となっていた。1か月以上前のバックアップだが上等だ。それ以降アドレス帳に登録したものなど皆無に等しいからだ。良かった。アドレス帳以外のデータも殆ど回復出来た。絶体絶命からの復活。係員に礼を言い深々と頭を下げて店を出た。外は夕闇が迫っていたが、足取りも軽やかに家路に着いたのであった。

問題発生から問題解決まで一日仕事になったが、 ID の重要性やらバックアップの仕組みやらいろいろ勉強になった。「今頃勉強? 元SEとも思えない」という声が聞こえる。確かにね・・・。まっ、それは置いといて、「もう2度と洗濯しないから!」とスマホに誓う神童覇道であった。

.           スマホを洗濯しちゃった  ― 完 ―

2017 年 2 月 6 日   1 Comment

スマホを洗濯しちゃった(2)

八王子駅の改札付近で公衆電話を探したが見付からない。携帯電話がないとホント不便だ。その時、店のガラスに緑の公衆電話が映っている。反対側を見た。あった。だがそれは、JRの改札を入って直ぐの所だった。何で中なんだ? 公衆電話が2台置いてあるが、使われることは少ないからだろう。携帯・スマホの時代だもんね。

迷うことなく、改札を入って会社に電話した。電話に出たRさんに僕のPCを開けて貰ってアドレス帳を調べて貰う。Rさんは「分かったら電話します」と言ってくれたが、こちらはスマホが使えない。5分後にもう一度電話すると言って一旦切った。

2回目の電話で、僕のメルアドが正確に分かった。そのメルアドをそのまま au ID にしているのは、何度も操作しているので分かっている。だから Apple ID も、そのメルアドの@以下を「@icloud.com」に変えれば Apple ID の筈だ。

その場から、Apple のコールセンターに電話して、Rさんから聞いたメルアドの@以下を「 @icloud.com 」に変えたIDで合っているかを聞いてみた。「違います」と言う。何で? 「どこが違うか教えて欲しい」と頼んでも、規則上、正しいか違うかしか答えられないの一点張りだ。

彼女は「最初に登録頂いた3つの質問にお答え頂ければ、ID をお教えできますが」と言う。分かった、何とか答えてみよう。「最初に飼ったペットの名前は?」「チャンプ」(注、チャンピオンの略、犬)、「最初に買った車の名前は?」「スカイライン」、「最初の上司の名前は?」「xxxx」。

「3問とも違いますねぇ。最初の登録の文字のままでないと不正解になります。ペットと車名は今回はカタカナでしたが、どう入力されたか覚えていませんか?」「そんなの分からないよ。じゃ、ひらがなでやってみて。上司名はさんを付けて」「やはり3問とも不正解ですね」。

ペット名を小学校の時に飼っていた猫の名前にしたり、車名の最初に「日産」を入れたり、何回もやり直したがいつも全問不正解だった。しかし、何でこんなに厳しいんだと少々腹立たしい気分になって来た。電話では住所も名前も自宅の電話番号も伝えてある。それは登録内容と同じだと言うんだから本人が電話しているのは分かってるだろうに。

まっ、しかし、全世界のユーザーを相手にしているのだから、様々な不正やなりすましがあるので、幾ら本人が電話して来ても、ID・PW が分からなければダメということなのだろう。

再び僕は途方に暮れて電話口で黙っていると、「あのー、神童様。あと1回だけ答えられますが、どう致しますか?」「えっ、あと1回って、それでダメだったらどうなるの?」「はい、一旦ロックが掛かって、8時間後にまた再チャレンジ可能になりますが」。

どの道、このままだと3時に修理受付カウンターに行ってもスマホの交換が出来ないのだから、ロックされてもされなくても一緒だ。殆どヤケクソとダメ元で、「英字にしてみるか」と言って、チャンプを「champ」、スカイラインを「skyline」に、上司名を他の人に変えて照合して貰った。

「神童様!」、オペレーターの声が明るい。「3問中2問正解でした。なので、IDをお教え出来ます」と言って遂に Apple ID を伝えてくれたのだった。ふー。

au ID と違う点が確かにあった。au ID の方は途中に「-」が入っているが、Apple ID には「-」がなく文字が詰まっている。ただそれだけの違いだった。何でそんな違いをわざわざ入れてしまったのだろうと自分を呪った。そのお蔭で、コールセンターとの電話は冷や汗ものだった。いや本当に身体が汗ばんでいた。とても寒い日なのに。やれやれ。

 

2017 年 2 月 2 日   3 Comments

スマホを洗濯しちゃった(1)

スマホをズボンのポケットに入れたまま洗濯物入れに入れたらしい。僕が。カミサンはそうとは知らず、そのまま洗濯機を回したら、洗濯槽がカタカタと音がするので、変だと思って、一旦洗濯機を止めて中を改めた。

そしたら、僕のズボンからスマホが出て来たと言う。僕を直ぐ呼んだ。「これ! 洗濯しちゃったでしょ! もう!」と言って濡れたスマホ渡すのであった。「えーっ!?」と驚く僕。スマホ画面の左上が、薄い明かりが差し込んだように微かに光っている。もうこりゃダメだなと悟りながらも、ティッシュで一生懸命拭く。

電源を入れてみる。ウンともスンとも言わない。あーぁ。内部のショートで一巻の終りだなと覚悟した。無駄と分かっていても、またスマホを拭いて何度も電源をいれてみるのだった。この気持ち、わかる? 割れたお皿を手でくっつけようとするのと同じ。

前の晩は川柳の会で、その後は恒例の飲み会だった。カミサンには「酔っ払って帰って来るから、こんなことになるのよ」と責められたが、僕は僕で、ズボンにスマホを入れたまま洗濯物として出したのは確かに僕だけど、それを洗濯しちゃったのはお前だろう、と思っても絶対に言わない(笑)。

それよりも、スマホが使えないと誰とも連絡出来なくなることに大きな焦燥感が襲った。電話番号やメールアドレスは全部スマホの中だ。昔のように皆の電話番号をノートに書き留めている訳ではない。更に悪いことにPCも故障しているので、誰とも連絡が出来ず、「外界との完全遮断」という深刻な事態に頭を抱える。

仕方ない、取り敢えず、auショップに行こう。朝10時の開店に合わせて店に飛び込んだ。事情を話すと係員はiPhonの修理はここでは出来ないので、八王子のApple修理受付カウンターに行くように地図を渡された。

その指示に従って、20分後、八王子駅ビルの中にある修理受付カウンターに到着。午前中なのに結構混んでいる。係員から必要事項の記入用紙を渡される。住所氏名電話番号を記入し、次の欄。「破損」か「水没」かのどちらかに丸せよという。「水没」に丸印する。破損の場合は更に細かく記入を要するようだが、「水没」は記入が簡単だった。

それを提出した後、順番が来るまで何人か待たされ、やっと係員が僕の所に来たので、受付けてくれるのかなと思ったら、彼は事前の聞き取り確認だと言う。僕のスマホの管理データ(Apple社側の顧客データ)を確認して、「水没は新しいスマホに取り換えることになります」と仰る。それはそうだろうと僕も思う。

係員は、PCで僕の管理データを見て、「保証が2月末まで付いているので、交換のスマホ代は掛かりませんが、作業料・手数料として7,800円掛かります」と言う。この場合、幾ら掛かろうが、早く復旧して欲しいというのが本音。

ただ参考のために聞いてみた。「保証が切ていたら新しいスマホ代は幾らなんですか?」。「はい、これと全く同じものですと34,000円です。手数料含めて41,800になります」「あっそう」。

要するに、スマホの洗濯があと1ヶ月遅かったら、41,800円掛かったということだ。今日、洗濯したのはとても幸運だったのだ(笑)。

そして係員が言う。「神童様のスマホは紛失時GPSで探す設定になっていますので、それを解除しないと交換が出来ないんです。このPCから解除できますので、Apple ID とPW を入力してください」。

おっとー。そんなの覚えてねーよ。au ID とは別に Apple ID があるのは知っていたが、購入以来使ったことのない ID だから困った。

係員は、途方に暮れる僕に「修理カウンターの受付は予約制なので、午後3時以降になってしまいますが3時で良いですか?」と聞く。「OK」と答えたものの、今11時だから4時間もある。普通だと「何でそんなに待たされるのだ」と文句の一つも言いたくなるところだが、それまでに何らかの方法でIDを思い出してくださいと言われ、素直に納得。

係員はAppleのコールセンターの番号を教えてくれた。そこに電話して、購入時に、ペット名やら車名・上司名など、3つのヒントを登録してある筈なので、2つ以上答えられれば、ID を教えてくれるとのことだった。それとても微かな記憶があるものの、不確か以外の何ものでもない。

一旦、僕は店を出た。何か良い方法はないかと必死に考えた。その時閃いた。au ID はメールアドレスをそのまま ID にしているから、きっとApple ID も同様の筈だと。 PWはいつも同じにしているから多分大丈夫。

ところが、自分の携帯メルアドなんか覚えていないし、スマホが使えないからメルアドを確認することも出来ない。誰かに電話して僕のメルアドを教えて貰おうと思い、財布の中に自分の会社の名刺が入っていることを思い出した。会社に電話して聞こう。

 

2017 年 2 月 1 日   2 Comments

レコードの復権

無題

ある雑誌に、若者の間でレコードがブームになっているという記事があった。30年以上も前にレコードはCDに駆逐され、現在はネット経由で曲をダウンロードする時代だ。ウォークマンの登場以来、携帯型の音楽再生機を使う人は増える一方で、今や専用の再生装置でもなく、スマホで気楽に聴く時代である。

一方で、我が世代には、針の音と共に聴いたレコード時代の音に愛着のある人達は、今も存在し、中古レコードの流通マーケットがしっかり存在している。

レコードがCDに駆逐された時、レコード針のメーカーは苦境に立たされたが、彼等レコード・マニアの存在に支えられて、細々ながら生産を続けて来たということも知っている。序でに、ディスク・ジョッキーがレコード盤を操作して新感覚の曲に変え、会場を盛り上げたことも知っている。

しかし、今回読んだ記事は、そういう類のことではなかった。10代、20代の若者がレコードに魅かれているということなのだ。これには正直驚いた。スマホで何処でも何時でも気楽に聞けるデジタル録音の音楽でなく、持ち運びも出来ず、今より音の悪いアナログ録音のレコードを、何故わざわざ若者達が聴くのかと。

レコード大好きな若者が言う。「家の外ではスマホなどで音楽を聴くけど、家ではやはりレコードが良いです。何故かって? スマホで聞くのは手軽過ぎて心して聴くということは無いですが、レコードを家で聴く時は、コンサートと同じように自然と姿勢が改まる」のだそうだ。

スマホなどで聴くのがBGM感覚だとすれば、レコードはチケットを買ってコンサートで聴く音楽のような特別感があると言うことか。また、「レコード針のチリチリとした音が入るのが何とも心地良い」と言う若者もいた。

レコード文化が、突然、我々の世代から50歳も若い世代に引き継がれた驚き。記事には渋谷の中古レコード店で、大勢の若者達がレコード・ジャケットを捲りながら欲しいレコードを探している写真が載っていた。店の主が言うには、この1年、レコード人気が上昇していて、中古レコードの値段も前より上がっているとのことだった。

それで、僕はあることを思った。実は1年半前、大阪勤務から会社を辞めて東京に戻り再就職した息子が家族のために、僕達夫婦が以前住んでいた古い家を取り壊して家を新築することになった。

古い家は息子が生まれる前から住んでいた家だ。子供達が巣立った後は僕達夫婦だけとなったが、あちこちガタが来たので、リフォームや大規模修繕が必要になった。だが、そんな金を掛けるより、娘が以前住んでいた近くのマンションに引っ越した方が出費もなく駅に近くて便利。と言うことで、以来8年間、マンション住まいをしている。

建て替えに際して、当然古い家を取り壊さなくてはいけないが、マンションに収納したもの以外は古い家に置きっぱなしだった。それらを片付けるのに結構労力を費やした。リサイクル・ショップや古本屋に来て貰って買って貰える物は引き取って貰ったが、家具や電化製品の類は、型が古いと言って持って行かない。

捨てるにも金が掛かるからだとか言われてしまった。だが、大量の書籍とCD・レコード・子供の使っていたゲーム機などは、殆ど買い取って持って行ってくれた。下取り業者は軽トラック満載で2往復した程だから相当な量だった。金額の合計は、確か9万7千円だったと記憶している。チリも積もれば何とやらである。

残った物は粗大ゴミで出したり、大型の家具や冷蔵庫・洗濯機・空調機の類は業者に頼んで有料で引き取って貰った。その額が、これまた9万円程で、トータル費用ゼロで片付けが終わったのだった。

雑誌記事を読んでいて、その時のレコード(LP)引取り価格が、内容の如何を問わず1枚5円だったのを思い出した。20~30枚はあった。どれも繰り返し聴いた愛着のあるレコードだ。その頃に中古レコードが若者のブームになっていたら、如何な何でも5円ということはなかったろうに、と。

でも、そんなレコード達が中古店で買われて、若者の家に行って大事にされているなら、それはそれで、僕から若い世代に引き継がれたことになるのだから、とても素晴らしいことなのだ。そのことを想像したら頬が緩んで来た。世の中、旨く出来ちょる。

2017 年 1 月 23 日   No Comments

偲ぶ会

2~3年前まで、高校同期の連中でバンドを作り4年ほど活動をした。最初、TAKA(Gt&Vo)、マッキー(Sax)、AYA(Bs)、ヨッシー(Bj)、QP(Dr)でスタートしたが、直ぐにシロー(Fl)が参加した。その後、シローの勧誘でナッケン(Tp)、タカオちゃん(Tp)と管楽器が加わり、トオルちゃん(Vo)、Hirokoさん(Vo)、原ちゃん(Vo)のボーカル陣が参加してくれた。

更に更に、ハーモニカの武ちゃんや、今も海外公演などコーラスで活躍する松ちゃんも一時参加してくれたから、最盛期には13人のメンバーに膨れ上がった。バンドの名前は「ザ・タペストリー」と言う。

元々は、5年毎に東京で行われている高校の同期会(それ以外は毎年長野で開催)の会場で、バンドを作って次回東京で同期会が開催される時に演奏しよと意気投合したのが始まりだった。

それから4年間、様々な場所で演奏活動を行った。長野で行われた同期会に出前演奏したり、新宿のインド料理レストランや経堂のライブハウスでも行った。また、同期の猪瀬が都知事に立候補した時は、同期会として決起集会を開催した六本木のライブハウスで演奏を行うなどもして来た。

結成から4年経ったところで、いよいよ翌年の同期会は東京開催の番だから、当初の目的の通り、そこで有終の美を飾ろうとみんなで話していたのだが、何んと、その年は高校卒業50周年という大きな節目なので、東京ではなく、地元開催と相成ってしまった。

次の東京開催は6年後ということだ。このことで目標を失ったタペストリーは、新宿のレストランで最後のライブを行って解散したのだった。

それから2年半が経った。メンバーは夫々別個の音楽活動をしていたが、昨年11月初めにナッケン(Tp)から電話が来た。「シローが、シローが先月27日に急逝した。メールが君に届いていないようなので電話した」と。僕のPCもご臨終で10日前から動かない。

詳しく聞くと、シロー(Fl)は、地元(相模原)の野鳥の会に入っていて、その日は介護施設訪問の日で、野鳥のこと以外にもシローと仲間で演奏を披露することになっていた。

まさに、その一曲目が始まろうとする時、彼はフルートを吹く格好のまま床に倒れたそうだ。葬式の時、彼の顔を見たら右下の唇に怪我の痕があったとのことだ。死因は、動脈瘤破裂だった。

介護施設だから看護師さんもいて、直ぐに心臓マッサージやAEDの措置を行ってくれたらしいが、何の反応も示さず、救急車で運ばれた病院で死亡が確認されたと言うことだった。

正にサドンデス。家族も、多分本人も動脈瘤が出来ていたことなど、全く知らないことだったようだ。ナッケンからの電話報告を受けて、「年内にシローを偲ぶ会をやろう」と彼に伝えるのが精一杯であった。

だが、年末に向けて、全13人の、否、12人(シローがいない)の都合の合う日は皆無だった。已む無く、年明けに開催することにして、やっと先週実施に漕ぎ着けた次第だ。

厳かに献杯し、シローの思い出話を口々に語った。特に、タペストリー解散後、シローと一緒に地元の公民館や、老人ホーム、介護施設などで慰問演奏をして来たタカオちゃんとナッケンが、シローの旅立ちに至る経緯や最近の3人の活動などを大いに語って彼を偲んだ。

彼の突然の死は同級生だった僕らには大きなショックではある。しかし、曲がりなりにも音楽に勤しんだ者として、楽器を持ったまま逝く姿は、一度しかない死に方としては、誠に幸せな死に様ではないか。

高校2~3年の時、僕は彼と席が近かったこともあって、クラスに2人しかいない女子にどちらが先に声掛けるかジャンケンしたり、宿題を教え合ったり仲が良かった。そして吹奏楽部の指揮者だったシローの姿は、教室内より何倍もカッコ良かった。

古希を迎えたら、いつ何時自分がそうなっても不思議はないということをシローは教えてくれた。そして、その時の覚悟と準備をしっかりして置けよ、と言うシローの声が聞こえる。僕はまだ何も考えていなかった。

無題

2017 年 1 月 18 日   No Comments

原点回帰

僕と同じ町に住む友人のKに誘われて、近くの有名ゴルフ場の練習場で、レッスン・プロからの指導を受けた。これは、成人の日を含む三連休にのみ行われる新春イベントとして開催されるもののようだ。

生徒は8人限定、1時間半の予定でプロが順番に指導してくれる。僕は28歳の時にゴルフを始めたので、もう40年以上のゴルフ歴となる。だが、これまで一度もプロから教わったことはなかった。

初心者の頃は、それこそゴルフ雑誌を愛読書にして、テレビでプロの試合を見ては、練習場で真似る練習を一生懸命やった。まだ20代だった僕は、身体も柔らかくバネがあったから、少しずつだが目標にした選手のスウィングに近付いて行ったように思う。

少年時代野球を長くやっていたことも幸いして、フルショットでボールを捉えることはかなり自信があった。コンペでも度々ドラコンを獲得した。猛練習の成果もあって、始めて1~2年経つと会社の大勢の先輩達を含めて、上の下くらいにはなったと自負していた。

今じゃ100を切るのに四苦八苦の僕だから誰も信じないが、これは40年も前の自慢話なので、どうかお許しを。兎も角、当時、プロからレッスンを受けたいなどと思ったことは一度も無かった。

それが、40代、50代、60代と10年毎に飛距離が落ちて行き、距離が出ないから、打ち方をああだこうだといろいろ変える。距離を出そうと力むからフォームも崩れてまともに当たらない。そんな悩める神童君の窮状を見て、Kは僕にプロのクリニックを受けることを勧めてくれたのだと思う。

さて、プロのレッスンが始まった。彼は8人の生徒を順番に指導して行く。僕の番が来た。彼は僕のスイングを2~3球じっと見た後、こう言った。「右手は添えるだけ、左手一本で打ちましょう」。

初心者だった頃、まだ野球打ちの癖が治らず、弩スライスを連発していた。それを直すのに左手一本で打つ感覚で練習して弩スライスを克服した経験がある。今はスライスに悩んでいる訳でなく、球が上がらなかったり、引っ掛けたり、トップしたりが多いのだが、プロの「左手一本で打ちましょう」の一言にハッとした。

飛距離が出ず打ち方をいろいろ変えている内に、利き腕(右手)の力で打つようになってしまっていたのだと悟ったからだ。

彼は更に、「アドレスの時から右腕の力は完全に抜きましょう。バック・スウィングは右手でグリップを引き上げるのではなく、左肩と左腕で右に押すイメージです。トップから戻す時、特に右手右腕に力が入っていますね。それは絶対にタブーです」。

「何故右手で打っちゃいけないかと言うと、インパクトよりかなり前にフェースをスクエアにしてボールに当てようとするから、実際のインパクトでは、フェースが閉じたり、かぶったりして、引っ掛けや低い球しか出ません」。

「或いは、手前でスクエアにしたヘッドをインパクトまで維持しようとするから、ヘッド・スピードが落ちて距離も出ません。右手で打つのは左手の良いスイングを邪魔するだけです。右手以外は両足含めて全てに力が入っていても構いませんからね」。

言われたことを守って打ってみる。とても違和感があって(正しいスウィングに違和感って???)直ぐには左手打ちが出来ない。それでも6~7球目に惚れ惚れするような打球が真っ直ぐに飛んで行った。プロは「そうです、そうです。身体の回転と左腕一本で打つことだけを意識して練習してみて下さい」と言って、次の生徒に移って行った。

この日のレッスンは90分間だ。彼は順番に都合3回ずつ生徒の指導に当たってくれた。その3回目の時に僕はある疑問をプロに投げ掛けてみた。「ゴルフ雑誌など読むと、右手の使い方とか、パワーは右手とか書いてあるけど、それって邪道なんですか?」。

プロが答えた。「いや、プロ・ゴルファーやシングル・プレーヤー達は、しっかり身体を鍛えて左腕もしっかりしていますから、右手のパワーを使っても、左サイドの形が崩れません。パワーの足し算になるんです」。

「しかし、アマチュアの殆どは、左サイドの強靭さは持ち合わせていないので、右手で打とうとすると、必ず左手のシンプルなスウィングを壊してしまいます。引き算なのです」。

成程、である。40年前に必死に練習した「左手一本のスウィングよ、もう一度」だ。これぞ本当の原点回帰だ。トンネルの先に微かに明かりが見えた。この打ち方で常時違和感なく打てるようになるには時間が掛かるが、練習でマスターすべき課題が明確になった。Kよ、ありがとうね、貴重な機会を与えてくれて。10年前にこのプロに習って置けば今頃は・・・、なんてね。

2017 年 1 月 16 日   3 Comments

送別ライブ

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.               Photo by Endou

先週土曜日、横浜新子安のグレコで、隔月定例ライブを行った。このライブはいつもと違って、特別な意味があった。それは、僕ら「のどごし生バンド」結成の12年前からずっとお世話になって来た、お店の料理人万作さん夫妻の送別のライブだったからである。

親御さんの介護などのため、12月末をもってグレコを辞めて、奥様の出身地の札幌に転居することになっているので、万作さんの前で行う最後のライブである。

このブログでも嘗て触れたが、このお2人、実は、30~40年の時空を超えた、正に小説のような愛情物語を地で行った人達なのだ。20歳の頃、札幌で知り合いお互い引かれながらも、万作さんは演劇の道を目指し、奥様の美智子さんはアパレル業界に進み、別れ別れの人生を送った。

美智子さんはその後結婚、女の子が誕生した。だがその後離婚。彼女は横浜の洋品店の責任者として仕事をしながら子供を育てた。年月は過ぎて行く。そしてある日、美智子さんがテレビを見ていたら、ある男がテレビに映った。元落語家が今はシンガーとして団塊世代の人気を博しているという特集番組だった。

彼女はそれを見た瞬間に、彼は、あの頃、札幌で見た劇団の団長のクーペだと直ぐに分かった。と言うことは、今もクーペの下に万作さんがいるのではないかと思ったと言う。番組で紹介されたクーペの店に行ってみよう。彼女は直ぐに行動を開始した。

東京郊外のその店に、突然、美智子さんが現れた。そこにはクーペは勿論、あの万作さんも料理人として働いているではないか。あの別れから、30余年の歳月が経っていた。劇的な再会を果たしたのだった。

だが、万作さんもバツイチの独身だったのは良いが、築地の市場で働いていた頃も今も、自分一人食うのがやっとだ。美智子さんと再会したからと言って、簡単にどうにかなるものではない。そんなことを考えてか、万作さんは美智子さんに冷たかった。

「万作さんが私の方を向いてくれない」。美智子さんは僕にそう打ち明けてくれた。それには僕も大変戸惑ったのだが、「多分、30数年のブランクを埋めるには、時間が掛かると思う。だから、この店に美智子さんが度々来た方が良い」と月並みなアドバイスを送った記憶がある。それを受け入れてかどうか、彼女はその後良く店に現れたのだった。

それから1~2年後、万作さんと美智子さん、それに彼女の娘さんの3人で一緒に住み始めたことを知った。ただ、彼らは、娘さんが成人するまでは入籍はしないとのことだった。

更2年後に、大木先生(ピアニスト)がグレコを開店して、万作さんはそこの料理人になった。以来4年半、僕ら「のどごし生バンド」は、グレコで万作さんの作る料理を食べ、大いに飲みながらライブ活動を行なって来たのである。

この7月には、2人は正式に入籍・結婚した。僕ら「のどごし生バンド」は、長年お世話になった万作さんご夫妻のために、2人の30余年の時空を超えた愛情物語を曲にしてお祝いすることを思い立った。

そうは言っても曲作りにも時間が掛かり、譜面を起こすのも四苦八苦(皆んな譜面を見て演奏するが譜面を起こす面倒な作業は苦手)。遂には、ビーバー(K&Bのピアニスト)に楽譜作成をお願いして、バンドで初めて練習出来たのは11月に入ってだった。

しかし、曲作りをしている最中に、万作さんから、12月末でグレコを辞め札幌に転居することを告げられてしまった。札幌にいる美智子さんの親御さんの介護のためと言うのがその理由だった。

考えてみたら、彼らの転居前のライブは、12月の1回だけしかない。彼らにこの曲を聞いて貰える最初で最後の機会となってしまった。結婚祝いのつもりの曲が、送別の曲となってしまった。

ライブ当日のリハでこのオリジナル曲の2回目の音合わせ。途中、曲を止めて、ここはこうしようとか、ここのキーは何? とか、まだ打合せが必要な未完成なレベルだ。1時間後にはライブで演奏しなければならないのに、大丈夫か?

第一部の最後の方で、このオリジナル曲「時空の風に」を初披露した。我が「のどごし生バンド」、結構本番に強い。フッ君のコンガから始まって、大木先生のピアノのイントロに続いてアンディーの歌。間奏は浜ちゃんのクラ、途中1小節だけ中保さんのベースソロ。全員で作った曲が初めて完成した瞬間だった。

アンコールで、「ダイアナ」と「ジョニーBグッド」を用意していたが、「時空の風に」をもう一度聞きたいという観客の声に応えて、「ダイアナ」をやめて、2度目の演奏を行った。何が嬉しかったかって、この時、美智子さんが急に後ろを向いて涙を拭いたことだった。

歌詞にもある「遂に見付けた永久(とわ)の愛」と共に北の大地に帰る2人に幸あれ!

さて、ライブの方は、この日予想を超える来場者数で超満員となった。それも初めて「のどごし生バンド」のライブに来られた方が14名もいたのだった。30名が適正規模のグレコが、バンドメンバーを入れて45人にも膨れ上がってしまったから、客席を譲り合うように座って貰い、狭い思いをさせてしまった。反省!

ゲストバンドはお馴染み「K&B」と「ミノル&ヨーコ」、それに僕の会社の先輩「Wさん」のクラりネットのジャズ演奏だった。夜9時過ぎを終演予定にしていたが、会場の盛り上がりのため進行も滅茶苦茶になって、結局、終わったのは10時だった。遠くからお越しの皆様には大変申し訳なかったと、これも反省!

初めてのお客さんは、リピーターになってくれるだろうか? 或いは、もう懲り懲りだろうか? 結果は次回2月のライブで分かる。

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.          「時空の風に」

.                   大木豊   構成
.                   佐藤誠二 作詞
.                   村山浩司 作曲


1     プラタナスを揺らす 緑の風に
.    夢を語りあった 北の街かど
.    そばにいるだけで 幸せだったけど
.    夢を叶える岐路(みち)に 分れた旅立ち
.    あれから遠い空を 眺めては祈ってた
.    幸せだったらいいな 夢はかなったかな

.    三十年の時の流れ 一千粁(キロ)の空越えて
.    二人がまた 出逢ったのは 奇跡じゃなく
.    胸に秘めた想いが 二人を結びつけた
.    時空の風に乗って みつけた永遠(とわ)の愛

 

2      晴海通りの風が 埠頭へと誘う
.    冬の寒さがしみる 北の街より
.    傷つけあった涙は 真実の証
.    少し大人になれば 心潤す
.    どんなに辛い日々も 淋しい一人夜(よ)も
.    すべてが大切な 愛おしい試練

.    三十年の時の流れ 一千粁(キロ)の空越えて
.    二人がまた 出逢ったのは 奇跡じゃなく
.    胸に秘めた想いが 二人を結びつけた
.    時空の風に乗って みつけた永遠(とわ)の愛

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.    前列の男性が万作さん、 その後ろの赤のセーターが美智子さん

 

2016 年 12 月 22 日   No Comments

仙台公演(7) 完

そして、ホテルに近付いた時、ベースマンの竹原さんが、「神童さん、もう一軒行きません?」と言い出した。ナッちゃんも行くらしい。ギタリストの保山さんとキーボードのマコトさんはあまりお酒が強くないのを知っていたから、彼らをそのままホテルに返して、3人でまだこの時間もやっている店を探して(こういうことには先天的に臭覚が利く)入った。

そこで何を話したかと言えば、中心は音楽論だったから凄いでしょ? 強か呑んだ後なのに。深夜1時過ぎなのに。保山さん(ギター)は今も有名歌手のステージに立つことが多いが、この竹原さんもまた、有名シンガー達のベースをしばしば担当している。レコーディングでも指名されるほどのプロのミュージシャンなのだ。

こういう人に、もっと飲もう、と誘われるのは光栄至極。年齢は丁度還暦を迎えたところらしい。ということは僕と10歳違う。竹原さんとステージを共にするのはこれが3~4回目なのだが、これほど話し込んだことは嘗てない。

同じロックと言っても、ビートルズの時代とその後のヘビー・メタルの時代、そして、現在のロックとの違いなど、僕があまり意識したことのないことを、彼は大いに語った。特に進化したのはドラムとベースなのだという。詳しくは省くが、忠実にそれを再現する必要はないが、それを分かっているだけで演奏が変わって来ると言う。勉強になる。

そして徐々に僕へのアドバイスに変わって行った。曲全体のメリハリの意識、特にサビの部分はタダでも盛り上がるので、寧ろ、その前までは、抑え気味の意識が必要とか、ドラムと言えども音楽を奏でる楽器なので、リズムを刻むイメージではなく、歌いながらドラムを弾くこと、など様々竹原さんのレクチャーがあり、最後に重要なアドバイスがあった。

「正直、今日の神童さんのドラムは頗る付きの出来栄えだったけど、惜しいなと思うところがあります。聞きたいですか?」。「勿論、聞きたいです。プロの所見を是非聞かせて」と僕。

「特に、『メリー・ジェーン』などのR&Bのスロー3連の曲は、ドラムのリズムの重さが重要になります。アップテンポの8ビートは軽快さが大事なので、2拍目4拍目のスネアはシンバルと完全に一致しないといけないですが、R&B風のスロー・ナンバーは、コンマ何秒がシンバルよりスネアを遅らせて叩く方が良いです」。

「R&Bの3連符の曲は、大体において人生の辛さ苦しさだったり、悲しみ淋しさなどを歌うものが多いですよね。だからリズムも幾らか重めにして歌の重い感情を表現し易くする必要があります。僕らの言葉で『あと打ち』と言いますが、それがとても大事です」。

「過去の『メリー・ジェーン』は、所々リズムがばらついていましたけど、今日はリズム・キープがしっかり出来ていましたよ。そこにスネアの『あと打ち』が入れば完璧です。但しそのズレを目立つように打っちゃだめですよ。ホンの僅かです。そういう気持ちでスネアを叩く程度でも良い」。

「勿論、右手のシンバルは正確に3連を刻むことが大前提ですけどね」と言うのだ。それが出来れば、素人っぽさ消えて、どこでやっても恥ずかしくないだそうだ。

確かに、他のアマチュア・バンドの連中がそんなこと(あと打ちのこと)を言っているのを耳にしていたが、僕はそんな妙なテクニックより、リズム・キープの方が大事だと思って無視していたが、竹原さんに言われると説得力がある。要するに、曲調や詩の内容をドラムでどう表現するかということなのだと彼は言う。

「ただ正確にドラムを叩くだけなら、機械に任せた方が良い。ミュージシャンはその曲をどのように表現するかが勝負なので」と締め括った。目から鱗である。

気が付いたら午前3時を回っていた。急ぎホテルに帰ってシャワー後4時就床。翌月曜日の朝、ホテルで朝食後バンド一行は解散となった。僕は二日酔いに耐えながら仙台駅に着き、新幹線に乗り込んだ。次に目を覚ましたのは係員に肩を叩かれた時だった。そこは東京駅だった。車両には僕の他にはもう客は一人もおらず、清掃が始まっていた・・・

今、この仙台ライブを振り返っている。

僕にとって沢山の喜びがあり、また、今後の音楽活動をして行く上で大変貴重な時間を過ごせたと思う。仲間達との20年振りの再会、そして彼らがこんなにも喜び感動してくれたことは無上の喜びである。僕が音楽をやっていなければ有り得ないことだった。

そして、プロからこの日の僕のドラムが「頗る付きの出来栄え」と初めて褒められたことは、今後の活動に大いに自信となる。そして、ブルース系のスロー・ナンバーは、スネア・ドラムの「あと打ち」が曲の命運を握ると教えて貰ったのは、天祐に近い。とても良い課題が出来た。今はそれをマスターしようという意欲が沸々と湧き上がっている。

顎足付きでギャラまで貰って(最もギャラの大半はドラム・レンタルで消えたが、笑)、我が青春の地仙台に演奏旅行が出来たのは、Keiさんがドラマーとして僕を指名してくれたからだった。心から感謝したい。

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.                              仙台公演  ― 完 ―

 

2016 年 12 月 22 日   5 Comments

仙台公演(6)

この日の29曲目「大人になれない」は、最初の僕のカウント出しのスピードが心持ち早過ぎたのか、2コーラス目辺りから、ハイハットで高速8ビートを刻む右腕の筋肉が痛くなって来た。これで筋肉が固まってしまうと叩けなくなる。

少し焦りを感じながらも、エンディングまでもう少しだと自らを励まして、事無きを得た。最初のカウントをもう少しゆっくりにすべきだった。そろそろ体力の限界に近いのだから、と大いに反省。いつになくノリが良過ぎるステージだったから、ハイな気持ちがこんなところで裏目に出る。

そしていよいよ、ラスト・ナンバー「メリー・ジェーン」。「つのだひろ」作曲の歌だ。日本人が作曲したロックやR&Bの曲の中では、この曲が最高峰と僕は思っているいの名曲だ。折角、「つのだひろ」そっくりの錦糸町のジュリーが来ているのだから、口パクでもいいからKeiさんの隣でやってくれたらなぁ(笑)。

スローの3連のリズム。これを手と足だけでリズムをキープするのは難しいので、身体全体を使って3連符を刻む。そして、途中のオカズとして3連符の夫々を更に細かい3連符で刻む場面が3か所ある。リズム・キープを第一に考えれば、無理矢理そんな高度なオカズにしなくても良いと思うのだが、折角ここまでノリ良く来たので、挑戦しようと思った。

1回目、少々ぎこちなかったが何とかなった。2回目は練習通りに出来た。最後の3連×3連のオカズ。2回まで何とか成功したことに気を良くして、3回目はピタリと決まった。終った。会場全体が大歓声のうちにライブ終了となった。

終った瞬間、僕は、今日の自分のドラムは過去一番の出来栄えだったと思った。何というか、プロ・ミュージシャン達と、演奏で気持ちが通じ合えたと感じた初めてのライブだったのだ。一体感があってとても気持ちが良かった。専門家はよく、グルーブする、とか言うが、このことか思えた。2か月の個人練習は嘘を付かなかった。

Keiさんが「バンドの打ち上げを××で行います。もし、皆様のご都合が宜しかったら是非ご一緒ください」とマイクで誘った。僕の会社の仲間は、前日と同じ4人が是非参加したいとのこと。これには僕の方が驚いた。感謝感激である。

打ち上げ会場にはお客様に先に行って飲んでいて貰って、僕らは楽器類の後始末をして業者に引き渡した後、一旦ホテルに荷物を置いてから打ち上げ会場に向かうことにしている。再びドラムセットの解体と運搬。僕の作業が一番時間が掛かったのはパーツの数が半端じゃないから仕方ない。

プロ・ミュージシャン達もドラム類の解体と運搬を手伝ってくれたのには、正直驚くと共に本当に素晴らしい人達と思った。

打ち上げ会場に出演者が着いたのは、ライブ終了からかれこれ一時間過ぎた頃だったと思う。会場に現れると満席のお客さんや店のスタッフ達が盛大に拍手で僕達を迎えてくれた。僕の会社の仲間達は、狭いながらも席を確保してくれていた。早速ビールで全員で乾杯。

Keiさんが出演者を代表して感謝の言葉を述べて、後は大宴会となった。僕は、同じメンバーで2日続けて飲めることを彼らに感謝。女性陣のFさんもSさんもかなりテンションが上がっていて、「凄く感動して涙がこぼれそうになりました」とか「長く生きているとこんな良いこともあるんだなと思いました」とか仰る。

でも、なんか言い過ぎ。僕はまだまだ人を感動させるほどの腕前はありません。逆に、僕にとって特別な町仙台で初めて演奏出来たことに、そして、20年振りの仲間がこうして2日間も付き合ってくれたことに涙が出そう。男性陣のKさんまでも「今度東京で神童がライブやる時は必ず行くので案内送って」と言ってくれる。

音楽活動やってて本当に良かったと思った。

午前1時くらいに打ち上げもお開きとなって、Keiさんと旦那様はタクシーでホテルに帰って行った。残ったバンド・メンバーは余韻を楽しむため徒歩で戻ることにした。きっとプロのミュージシャン達も、今日はかなり楽しく演奏出来て、更に打ち上げで余程テンションが上がっていたのだろう(普通プロは仕事が終わったらさっさと引き上げる)。

途中、深夜の一番町で若き日のビートルズのようにバンド全員の思い思いのポーズを写真に収めた。60過ぎの爺さん達がまるで少年のよう(自分も含めて)。だが、深夜でライトが少なく、スマホのフラッシュも不調で黒いシルエットの写真にしかならなかった(笑)。

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2016 年 12 月 22 日   No Comments