プレミアムエイジ ジョインブログ

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飛び入り出演

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僕の出身会社のシステム子会社に僕は7年間務めた。その時、会社に軽音楽部があることを知り、職権でドラムをやらせろと言って、本当に久し振りに、バンド活動を再開した経緯がある。途中、仙台単身赴任の時、Keiさんのお店でドラムで遊ばせて貰ったことがあるにはあるが、バンド活動は学生時代から数えて35年振りだった。

頭で記憶していても、手足が自由に動いてくれない。チョッと練習すると直ぐに足や手が攣る。そんな不自由なドラム再開だったが、特訓の成果も出始めて少しずつ慣れて行き、会社のイベントなどで演奏を披露するまでになって行った。

社員によるバンドと言っても、その道、30年だの20年だのという音楽ベテランが多いのだ。会社での序列とバンド内の序列はサカサマになる。それが面白がられた。メンバーは僕のことを「釣りバカ日誌」のスーさんみたいだとからかう。そんな時は、じゃぁお前は浜ちゃんだな、とか言い返したりの楽しい時間だった。

バンド名は当時「OG sounds」と言った。日本語読みだと「オジサンズ」。毎年恒例の、社員とその家族を招いて行う会社主催のクリスマス・パーティーでは、この「OG sounds」が結構人気で出し物のメインを務めたものだ。

僕が会社を辞めてからは、たまに、出身会社グループ全体の音楽祭(於、目黒ブルースアレイなど)に出演したりして来たが、そのうち「OG sounds」は、システム子会社の社員バンドから企業グループ全体のバンドに昇格するなど発展的解消を遂げて、最後は「ダンディー・クイーン」として今日に至っている(と言ってもこの2年間休止状態だが)。

ある日、「OG sounds」のバンマスだったOから連絡が来た。「地元のライブハウスで昔の仲間で演奏したいので付き合ってくれますか?」との内容だった。僕も自由の身、予定がかち合わない限りOKだ。曲目を質問すると「ドゥービー・ブラザーズ」を3曲指定された。

なぜ3曲だけなのかを聞くと、その日は「フリー・ライブの日」とかで、演奏を希望するバンドが3曲自由に演奏できる日なのだそうだ。それは2週間後の土曜の夜だ。「準備して置いて下さい」とOは言うが、1週間後はグレコで初めてプロのシンガーの伴奏をするので、その準備で一杯だ。

それが終わって1週間あるか。ならば何とかなるかと、その要請を受け入れた。3曲のうち1曲だけは以前も演奏している曲(Long train running)なので何とかなる。他の2曲をyoutubeで聞いてみる。ブレーク・ポイントが幾つかあったり、途中途中にイントロと同じ独特のリズムが入ったり、気楽にドラムを叩ける曲ではない。

更に、終わりがフェード・アウトしていて、本番に向かない。自分達でどう終わらせるか考えなければいけない。いきなり人様の前で演奏するのは無理だ。Oに「ライブの日の夕方、会場入り前にスタジオ練習しよう」と提案し、実際当日の17時~19時の2時間、スタジオで曲の構成やエンディングを決め、2~3度通しのリハを行って会場に入った。

最近僕がお気に入りの鉄板焼きの店「ぼんのてい」の常連客のハーさんとKoさんの2人が、既にカウンターに座っていた。一応、この日のことはハーさんに伝えておいたのだが、本当に来てくれたんだね。ありがとう。もう一人、親友のKが来てくれた。

店の名は「ルーズボックス」。数人の観客以外は全部出演者。それでもう満席という小さな店だ。ライブ・ハウスではなく、ライブ・バーと書いてあった。

さて、その晩の「フリー・ライブ」応募者は5組だった。ギターの弾き語り(ソロ)3組、バンドが2組だった。アミダで出演順が決まり、ぼくら「OG sounds」は3番目の出演となった。メンバーの一人Yは、「OG sounds」ギター弾き語りにもエントリーし4番目となった。

僕らの番が来た。「OG sounds」はエレキバンド、乃至、ビートルズ風4人編成のバンドでドービー・ブラザーズを演奏した。ボーカルは全てOが務める、ギターのNとベースのYは全曲コーラスを担当する。勿論僕はドラムだけに集中する。

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曲順は最初に「Listen to the music」、次に「Dark eyes Cajun woman」、そして最後は「Long train running」だ。直前にスタジオで音合わせしたこともあって、3曲ともノリが凄く良かった。このメンバーだけで演奏したのは、かれこれ6~7年振りだが、過去一番の出来かも知れない。気持ち良かった。スッキリした。

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次のYのギター弾き語りは、さだまさしやオフコースなど3曲を歌いながらギター演奏してくれた。彼は定期的にここ「ルーズボックス」で歌っているようで、以前より高い声が良く出ているし、ギター・テクニックも目を見張るものがあった。

Yの演奏が終ったところで、もう1組のバンド演奏を残して僕とK、それにハーさんとKoさんは「ぼんのてい」に向かった。Kが夕飯を食ってなくてかなり腹を空かせていたからだ。それにしても、ハーさんとKoさんが僕らのバンドを頗る気に入ってくれて、「とてもカッコ良かった」とやや興奮気味に言ってくれたのが何より嬉しかった。

写真は全てハーさんが撮ってくれたものだ。高級カメラだけのことはあって、あの薄暗いライブ・バーでかなり良く撮れている。バンドのあの迫力をそのまま絵に出来ないのがもどかしいとか言ってたが、どうしてどうして。ハーさんありがとうね。

彼は僕の人生で最も新しい友達である。2ヶ月前に知り合った50歳。自動車・バイクの修理・改造(改造と言っても違法改造ではない)ではかなり名の知れた人物で、全国から注文が来る。例えば、「もう動かせない1960年型のムスタングだが動かせるか?」と言った注文だという。彼の話がとても面白いのだ。鉄板焼き屋「ぼんのてい」。だから週1回は通う破目になる。

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2017 年 6 月 29 日   No Comments

第28回 ライブ イン グレコ

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― 2週間遅れのご報告 ―

  今回から、特別ゲストとして毎回異なる女性シンガーにご登場頂き、のどごし生バンドがその演奏を担当する。その最初のライブだった。彼女達の経歴は様々だが、全員プロとして活動をしていて、メジャー・デビューを目指しているシンガー達なのだ。

  昔、NHKテレビなどで活躍していた「スクール・メイツ」のマネージャーを長く務められた安達さん(シニア世代の女性)が、今は完全に退職されて、全くの無償ボランティアで、若き才能達が世に出るための支援をされていることに共感して、我がのどごし生バンドも協力させて貰うことにした次第である。

       僕等は、いろんな業種の人間が偶然集まって、偶然バンドを作って13年目に入ったが、これまで人助けのために演奏活動をしたことは一度もなかった。観客よりも何よりも、自分達がまず先に楽しんじゃう、それが我が「のどごし生バンド」のモットーだったからだ。

  安達さんは10数人の若い女性歌手の面倒を見ているとのことだ。彼女の話では、長いキャリアで培った様々な伝手や人脈を頼って、時には銀座や六本木のライブ・ハウスに彼女達を出演させているが、その時は会場を埋めるノルマがついて回るので、そう度々は出来ない。

  ノルマなく頻繁に人前で歌う機会を何とか作りたいと思っていたところに、2ヶ月に1回ライブを行っている「のどごし生バンド」のことを聞いて、是非そこで彼女達に歌わせて貰えないだろうかと思い、人を通じてお願いしたという経緯だった。

  今回機会を得て、自分達のバンドやライブが若いシンガー達への支援になるのであれば、喜んで協力させて頂こうと相成った次第である。しかしながら、僕等のようなバンドで、本当にプロ歌手のキャリア・アップの手助けになるのかという根本的疑問が解消されないまま当日を迎えた。

  10数人いる女性シンガーが、2カ月に1度の僕らのライブに一人ずつ出演するとして、一巡するのに2年余の期間が掛かるプロジェクトのスタートである。先頭バッターは「スミエさん」だ。

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  彼女は歌う前に自己紹介をした。それによれば、長崎出身40代で、結婚して3人の子供がいる。若い頃シンガーとして活躍していたが、一度辞めて普通の主婦をしていた。だが、若き日の夢諦めきれず、一大決心をして長崎空港で涙一杯浮べた子供達に見送られて上京した。それが3年前だった、という自己紹介があった。

  彼女がそう話している時は、僕も「えっ! マジかよ」と、その覚悟の程を感じてジーンと来てしまったが、「スミエさん」は最後に、「こうお話しすると、皆様に、これは絶対に応援しようと思って貰えるのではないかなと、お話しさせて頂きました(笑)」と言った。

  何だよ、と思ったが、100%作り話でもないようだ。後で安達さんから「あれは、誇張や脚色もありますが、まんざら嘘ではないんです。神童さん、どうか宜しくお願いします」と言われたのだった。

  さて、ライブの状況だが、事前のプロの女性シンガーの登場告知が効いたのか、34席が満員になる大盛況だった。のどごし生バンドが1部と3部、K&Bが第2部という構成はいつも通りを踏襲した。

  違うのは、1部の最後の2曲、3部で途中1曲の計3曲を「スミエ」さんに歌って貰ったことだ。彼女は「You’ve got a friend」「黄昏のビギン」「Smile / What a wonderful world」の3曲を歌ってくれた。

  さすがプロ。メジャー・デビューを目指す人の歌は違う。一瞬で人の気持ちを掴む。「オー!」というような観客の表情で分かる。プロだから音程がしっかりしているのは言うに及ばず、感情の入れ方がオーバーでなく極く自然なのに、心に深く響く、そんな歌い方なのだ。

  終了後、フッ君が言ってた。「スミエさん、上手いっすねぇ。コンガ叩いていて凄く気持ち良かった」。それが全てを語っていると思う。但し、「スミエさん」がのどごし生バンドをバックに歌って気持ち良かったかどうかは別問題だが。

  1部終了後の休憩時間、観客として来てくれた別々の友人2人が、会社のイベントとかで歌って貰えるか、などと「スミエさん」に問い掛けていた。その横から僕が「メジャー・デビューしてからじゃ、ギャラが大変だよ。今のうち、今のうち」とかチャチャを入れた。

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  次回ライブはまた違う女性シンガーが来てくれる。しかし、今回のように3曲とも新曲だとおじさん達、一寸大変。なるべく僕らのレパートリーから選んで貰うように交渉しよう。

  いつも偶数月第3土曜日をライブの日と決めているが、8月ライブはお休みにして9月に順延し、10月からはまた偶数月に戻すことにする。

 

6月のライブ セットリスト

第一部

1.  サウンド・オブ・サイレンス
2.  ミセス・ロビンソン
3.  待つわ(K&B)
4.  イマジン
5.  オール・マイ・ラビング
6.  シェルブールの雨傘
.     ユー・ガッタ・フレンド(スミエ)
8.  黄昏のビギン(スミエ)

第二部

           K&B                 3曲

第三部 

1.  アンチェイン・マイ・ハート
2.  ファイブ・スポット・アフター・ダーク
3.  ユービーソーナイス・トゥ・カムホーム・トゥ
4.  スマイル/ホワッタ・ワンダフル・ワールド(スミエ)
5.  オール・オブ・ミー
6.  ルート66
7.  時空の風に
.     ダイアナ

e.  ハウンド・ドッグ
e.  ジョニー・B・グッド

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2017 年 6 月 28 日   No Comments

Shifo

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  何年振りだろうか? 今日は大変珍しい人に会った。2010年まで、僕等おじさんバンド(のどごし生バンド)が応援団として、またバックバンドとして一緒に音楽活動をしていたユニット「クーペ&Shifo 」の Shifo に地元のオーパという商業ビルの1階で、バッタリ遭遇したのだ。

  通路のような所で、反対側から歩いて来る彼女。僕も彼女の方に向かっている。その間には誰もいないから、直ぐにお互い気が付いた。Shifo の大きな目がひときわ大きくなった。

  「社長! 随分若返っちゃって」とShifo。当時、僕が社長と呼ばれてたのは、多分態度が大きかったから。僕はスポーツシャツの襟を立て、コットンパンツにテニス風シューズといういで立ちだ。何せ自由人だから。「Shifo も元気そうで何より」と答えたら、何やら袋からCDを取り出して、「これ出来たばかりのCDです。どうぞ」と渡してくれた。

  今も曲作りを頑張っているんだと分かって嬉しかった。「オキナワのともだち」というタイトルだった。「凄いじゃないか。頑張ってるんだね」と言いながら、お金払わなくちゃと思ったのを察知したのか、「昨日もここオーパで偶然38階佐藤さんにお会いして、このCDを差し上げました」と言う。ありがとう。

  7年前に、我々おじさんバンドが クーペ&Shifo から独立自立して以来の再会だ。それが、2日連続でおじさんバンドメンバーに遭遇したのだから、Shifo も相当に驚いている。僕にしても懐かしさが胸一杯に溢れる。

  そう言えば、のどごし生バンドが結成10周年を迎えた時、Shifo のご両親がグレコ(横浜新子安)での記念ライブに来てくれたことがあった。僕らのバンドは当時、Shifo のお母様に大変お世話になっていたので、わざわざ遠くまで来て頂いたことに大感激して、かなり張切って演奏した記憶がある。その時も、Shifo に来て貰えたらね、などとバンドで話が出たものだった。

  「ところで、クーペは元気でやってるの?」と聞いてみた。「帯状疱疹になっちゃったり、なんやかやで、死に掛けています(笑)。本人は罰が当ったって言ってますけどね(笑)」。この辺りの話し方はクーペ譲りだ。

  Shifo は、昔、日本レコード大賞で新人賞に輝いたミヒマルGTというユニットのデビュー曲「気分上々↑↑」の作曲者なのだ。自分のライブでは自作の曲をピアノで弾き語りする正真正銘のシンガー・ソングライターである。

  家に戻って、早速佐藤さんにメールした。「今日、オーパで偶然 Shifo に会い最新作のCDを貰った。佐藤さんも昨日同じオーパで Shifo に会ってCD貰ったそうだね。2日連続でおじさんバンドに会ったこと、Shifo が相当ビックリしてたみたい」と。

  返信メールが来た。「Shifoとは、昨日オーパの駐車場で会ったのですが、その後、駐車場を出た所でKさんを見掛けたので、『Shifo からCD貰った』と自慢したら、Kさんは『オレも昨日偶然Shifo に会ってそのCD貰ったよ』と返されました」。Kさんは、バンドではないが当時僕等と一緒にクーペ&Shifo を応援していた主要人物の一人だ。

  Shifo は偶然3日連続で昔の応援団に新曲集を配ったことになる。これはヒョッとしてヒョッとする前兆かも知れない。この新しいCDをキッカケにして是非世に出て貰いたいと思う。

2017 年 6 月 26 日   4 Comments

最後の車(後編)

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  試乗から戻ってディーラーの営業マンに一応購入見積書を作って貰った。そして、今日乗って来たRX-8を下取りするとしたら、幾らになるかも査定して貰った。まず新車の見積りだが、ナビやオーディオやETCなどを含んだ一般的な構成の見積りだった。

  だが値引欄を見るとたったの5万円。まあいいや、今日契約を結ぶ積りじゃないから、参考情報として頂いて置く。問題は、愛車の下取り価格だ。10万円~11万円だと言う。嘘だろう? という思いが顔に出たのか、営業マンは「これはまだ目安です。新車購入の時、全体の中で考慮しますから」と反応。15万円くらいまでの可能性かな?

  僕は、RX-8がマニアには結構人気のある車種と思い込んでいたし、12年物と言っても、駐車場では必ずカバーを掛けて大事にして来た。走行距離も4万kmだ。減価償却を考えても最低30万円~40万円にはなる筈と踏んでいたのだ。

  ディーラーからの帰り道、息子が言った。「RX-8はスポーツ・カーだから、マニュアル車が人気で、オートマ車は元々そんなに人気ないよ。この車にプラス・ポイントがあるとすれば、奇麗なことと走行距離だね」と。そうか。オートマのスポーツ・カーって考えてみれば変だった。

  次の日、僕は、RX-8の買取価格を知るために、自動車買取店2店とマツダ・ディーラーを訪ねた。それぞれ査定をして貰った結果、マツダは11万円(+残り期間の税金分+自賠責保険料返還)、買取店Aは10万円(同)。そして最後に訪れた買取店Bでは、驚いたことに、他の見積りの3倍以上の価格提示だったのだ。

  何故これ程の差になるのか、半信半疑ながら、買取店Bは僕が見込んでいた金額を少し上回って査定してくれたので、当然僕はそこに愛車を売ることにした。それでも担当者は申し訳なそうに「マニュアル車だったらもっと高く引き取らせて貰えたのですが・・・」と言う。この点は息子の言う通りだった。

  さて、肝心のスズキ・スイフトの購入交渉だ。「いかな何でも、新車購入なのに5万円引きはないでしょ。これで5台目の新車購入だけど、日産でもトヨタでもマツダでも、10%~15%は引いてくれていましたよ」と僕。担当者は「それは下取りの額を含めてじゃないですか?」と聞いて来る。

  「下取り抜きでだよ」と返事はするものの定かではない。ただ、僕として20万円の値引きを何とか引き出したいのだ。すったもんだの挙句、営業マンは上司に相談に行った。「オレ、滅茶苦茶言ってる?」と自問自答しながら、何か知恵がある筈とも期待した。

  彼が戻って来た。「今日までがGWキャンペーン中なので今日購入を決めて貰えれば、キャンペーン価格が適用出来ますので、割引額が更に5万円上乗せ出来て10万円引になります」とのことだ。

  更に続ける。「また、キャンペーンの目玉として、こちらのモデルのナビ&オーディオ・セットなら無料でお付け出来ます」。早く言ってよぉ(笑)。見積書に入っていた別のメーカーのナビ&オーディオ・セット128,000円がそっくり落ちる。都合228,000円の割引が実現した。

  この日がGWキャンペーンの最終日なのは店内外の幟やポスターで確認出来た。営業マンは売買契約書を今日までに締結した客が対象だった(らしい)のを、上司と相談した結果、購入意思表示の書類記入で対象にしてくれたようだ(推測)。

  そんなこんなで、愛車の売却・新車の購入ともに値段交渉は満足出来る決着を経て、5月末にスイフト・ターボが納車になった。僕にとって人生最後の車だ。色はカミサンの指示に従い、派手でないシルバー・メタリックにしたが、何か淋しいので、フロントにある模様を入れて貰った。

  これが、どこから見ても自分の車だと分かる「世界で一つだけの車」(言い過ぎですが)の気分にさせてくれる。予想外だったが、その模様が孫娘には好評で、この車を「とっても可愛い」と言ってくれる。まだ下の道しか走っていないが、今週、ゴルフがあるので初めて高速道路を走る。ゴルフよりそれが楽しみ。

               最後の車  ― 完 ―

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2017 年 6 月 11 日   No Comments

最後の車(中編)

  さて、RX-8を諦めたのは良いが、次の車を何にするか決めるのが大変だった。次も3ナンバーの車にするのは難しい事情があったからだ。

  僕等夫婦は、以前の戸建て住宅からマンションに移り住んで9年になる。その間、僕の車は前の家の駐車場に留めていた(徒歩5~6分)。ところが今は、古い家を建て替えて息子夫婦が住むようになり、その駐車場に息子の車と僕の車2台が駐車している。

  決して広くはないが2台が収まる横幅も縦幅も充分あるのだが、駐車場の前の川沿いの道幅が3m強しかなく、車の出し入れは斜めに回り込むしかない。特に駐車場に入れる時、もう一台の車や前方のガードレール、家のクーラー室外機など接触しないよう何度もハンドルの切り替えをしないといけない。

  結構、技術が要るのだ。3ナンバーの中でも車の全長や車幅が小柄な方のRX-8でもこうなのだから、普通のセダンでは無理だろうと思う。もっとコンパクトな車の方が出し入れが簡単になる。

  そんなことで、次の車はコンパクト・カーかなと思ったり、一層のこと、息子の車も下取りして貰って大きな車1台にしようかとも考えて、家族に相談した。

  まずカミサンの意見。「車車って言ったって、そんなに乗らないじゃない(実は12年で4万km)。平日は息子が乗らない(電車通勤)から必要な時は借りればいいでしょ。2台も要らないわよ」と言う。

  「だけど平日、息子の嫁さんが車で買い物や子供を病院に連れて行くことだってあるし、そういう時俺がゴルフに行ってて車がなかったら拙いだろ」と一応反論。「仮令買うにしても、歳も歳なんだから、もうスポーツ・カーとか派手な車は絶対やめてよ! 年相応の大人しい小型車かなんかでいいんじゃない」と、これでも大きな譲歩のご発言。

  息子の意見。「車は1台より2台あった方が何かと便利だし、TPOに合わせて使い分けられるしね」と2台目も自分の物みたいな言い方で、2台保有に賛同した。

  一応、息子の嫁さんにも聞いてみた。「いえいえ、どうぞお義父様がお決めになってください」。ただ、続けて、「M君(息子の名前)が、お父様が新車を買われると聞いて、早速、これがいい、あれがいいってネットで調べていました」と来た。あいつ自分の車を買うんじゃないのに。誰に似たのか息子は大の車好きなのだ。

  大阪に赴任していた時は、営業で1日200km車を運転していたので、社有車を含めて沢山の車種を経験していた。コンパクト・カーに決めて彼と候補を絞り込んだ。トヨタ・アクア、ビッツ、それにスズキ・スイフトの3車種が最終候補となったが、息子はスイフトが良いと言う。

  コンパクト・カーには珍しくターボ車があるからだと言う。息子はネットで調べていて、このスイフト・ターボに勝手に惚れ込んだようだった。早速次の日曜日に彼と一緒に近くのスズキ・ディーラーに行くことにした。息子を連れて行ったのは、新車試乗させて貰って、いろいろな車を乗った経験に照らして、スイフトの感想を聞きたかったからだ。

  試乗してみた。息子と僕で交代で運転した。馬力ではRX-8に及ぶべくもないコンパクト・カーだが、ターボだけあって、上り坂でアクセルを踏み込んだ時の加速は遜色ない。1000㏄の車なのにRX-8(2000㏄相当)並みに感じられたのだ(スズキはこのターボ車は1500㏄のエンジン並みと謳っているが)。

  この加速性能とレスポンスについては、息子と完全同意見だった。ターボはとてもいい。大変気に入ってしまった。そして、ターボ車なのに燃費20km(カタログ・ベース)も素晴らしい。

  但し、信号待ちのあと、青信号で発進する時、ゆっくり過ぎるのだが、これは急発進事故防止のためらしい。息子曰く「今の車はみんなそうだよ」。そうなのか。センターラインをワザと踏んでみる。案内書通りに警告音が鳴った。居眠り防止用の安全装置だな。他にもふらつき警告とかバック・カメラによる車両後方の画像だの12年前の車に比べるとかなり進化していると感じた。

  試乗からディーラーに戻った時、既に心の中でスイフトに決めていた。アクアもビッツも、ターボ車などないからだ。値段的にも、スイフトの方が少し廉価だった。

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2017 年 6 月 10 日   No Comments

最後の車(前編)

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  この5月末で乗って丁度満12年を迎えるRX-8を手放し、新車に乗り替えることを決断したのはGWの頃だった。勿論、今でも好きな車だし、ずっと乗り続けたい車であったが、已む無く別の新車に乗り換えることにしたのだ。

  それは、購入して10年経った頃から、あちこちのパーツが経年劣化しその交換が相次いだからだ。例えば、マウントというエンジンの振動を座席にそのまま伝わらないようにする緩衝パーツが劣化して取換えたり、走行中発電装置からバッテリーへ充電する機能も低下したので発電装置も交換した。

  更に更に、冷却装置のサーモスタットが機能しなくなったり、車の底のパイプが錆びてしまったりして交換せざるを得なかった。要は購入から10年たったら申し合わせたように、あちこちのパーツが経年劣化し始めたのだった。

  この3月末までは、会社勤めだったので頻繁に車に乗る方ではなかったが、退職したら、RX-8でのんびり日本海側にでも車の旅に出ようと思っていた。だが、いざそうなってみると、年金生活の身には、このRX-8の維持費と言うかメンテナンス費用がバカにならないことを痛感したのだ。旅行費用がメンテナンス費に化けてしまう。

  そうは言っても、問題発生の個所は全て新品に取り換えたから、これで一段落と言うなら、もう8年(購入から20年くらいまでは)乗りたいものだ。だけど、そんな保証は誰もしてくれない。それに比べれば、今の新車は510年パーツ交換の問題は起きない。さあどうする、と迷った挙句「手放す」という苦渋の決断をした。

  58歳の時に、RX-8を買ったのだが、その当時、口の悪い仲間の多くが、「神童さん、こりゃまた、年齢に似合わない車にしましたねぇ」とか、「車は確かにカッコいいけど、神童さんが乗るべき車かどうかは別問題ですよ」「神童さん、若いんですねぇ」などと言って、盛んにからかってくれたものだ。

  いつかのブログに書いたかも知れないが、僕がRX-8を気に入ったのには、全く別の理由があるのだ。

  当時親会社だったフォード社からロータリー・エンジンの生産や研究を一切禁じられたマツダの技術陣は、それでもロータリー・エンジンを諦められず、秘かに研究を続けていた。

  そして、遂に最新鋭のロータリー・エンジンが開発された。しかし、それを搭載した車を世に出せない。何とか道はないものかと悶々としていたところに、フォードの副社長(技術分野の最高責任者)が広島にやって来るとの情報が入った。

  マツダの技術長は、この機会をものにする以外、ロータリー・エンジンを再び世に出すチャンスはないと腹を括り、フォード社副社長の来日に合わせて一台のスポーツ・カーを作り上げ、到着を待った。

  マツダ社の技術長は、未発表の新車があるので、是非試乗して欲しいと副社長にお願いした。副社長は快く引き受けてくれた。そして、マツダのテスト・サーキット。技術陣が見守る中、副社長が一人で乗車して快音とともに走り去って行く。そして数分後、快調に飛ばして元の場所に戻って来た。

  技術陣は皆んな固唾を飲んで、副社長の言葉を待った。「とても良い車だ。エンジンも静かだが力強い。コーナリングも滑らかで素晴らしい。是非、世に出そう」。皆んな快哉を叫びたいところをぐっと堪える。肝心なことが決着していないからだ。

  技術長は、「お褒めに預かり光栄です。しかしながら、副社長にお伝えしなければならないことがあります。この車のエンジンは実はロータリーです。ここにいる彼らが業務終了後毎日研究を重ねたエンジンです」と伝えた。

  このフォードの副社長こそが、マツダのロータリー・エンジンの生産中止を命じたその人だった。技術長は、その決定に背いて研究を続けて来たことを咎められた時は、その責任を一人で取るつもりで副社長の答えを待った。「OKだ。良くぞこんな素晴らしい車を作り上げてくれた」。それが満面の笑みを浮かべた副社長の答えだった。

  僕は、こんなドラマを、NHKの「プロジェクトX」で観て、1か月後にはRX-8を買っていたのだった。ハードとソフトの違いはあるが、僕も会社合併のためのシステム統合などで悪戦苦闘した技術者の一人だ。マツダの技術チームをリスペクトすると同時に、大いに共感覚えたのだ。

 

2017 年 6 月 8 日   No Comments

我が師匠を囲む会

.           Fさん(前列中央)とのゴルフ   photo by  MORIKAWA

.    Fさん(前列中央)とのゴルフ   photo by Morikawa

毎年、5月には師匠のFさんを囲む会が行われる。もうかれこれ20年は続いている恒例行事なのだ。今年も先月、Fさんと当時彼から薫陶を受けた部下たち全9名が集い日光一泊の温泉旅行を楽しんだ。

Fさんは、僕が入社3年目の時、新任の課長として僕等の直属の上司になられ、それ以来、常務取締役を退任されるまで約30年間、僕や他のメンバーは仕事でも人生でも沢山の教えを受けた。僕はFさんに仲人をお願いした関係もあり、僕にとってもう一人の厳父といった存在であった。

当時、損保業界13位の会社が、業界初の全国オンライン・システムを稼働させて話題となり、リーディング・カンパニーのT海上を大いに慌てさせた。彼らが何度となく当社のシステムを見学に来たのは昭和50年のことだった。

野村総研の技術力(野村総研=当時はNCC は日本で最初の商用オンライン・システムとなった野村証券オンライン・システムを成功させた)を最大限活用したが、勿論、総指揮を執ったのはFさんだった。

次に、金融機関で第二次オンラインが言われ始めた頃、Fさんは次のオンライン・システムも前回と同じように、中央にバカ高い大型コンピューター(メイン・フレーム)を追加配備して全国の端末と結ぶことが本当に正しい方法なのかと僕らに疑問を投げ掛けたのだった。

端的に言えば、1台何十億円もする大型コンピューターの追加導入で、果たして採算がとれるのかということだ。採算を度外視して第二次オンラインを進めることは、当社の利益を犠牲にして、コンピューター・メーカーを潤すことになるだけではないか、という提起だった。

Fさんは早速ハードウェア調査チームに命じて、必要となるコンピューターの処理能力を、大型機で賄うのではなく、より小型のコンピューターを沢山使って満たすことにした場合、コスト差はどのくらいあるかの調査をさせた。

当時まだパソコンなどという言葉すらなく、小型のコンピューターと言えば、製造業のライン制御用のミニ・コンピューターくらいしかなかった。そのミニ・コンピューターと大型機の比較をした。

結果は、ミニ・ピューターを必要台数購入した方が、大型機を1台購入する費用の1/10で済むので遥に有利との答えが出た。つまり、ミニ・コンピューターの単位能力当りのコストは大型機のそれの1/10ということだった。

だったら、ミニ・コンピューターを沢山繋いで第二次オンライをやろうではないかと、僕らも大賛成の声を上げた。その頃僕は32歳。右腕のFuも31歳と若かった。為せば成るとの根拠のない自信が、二人を向こう見ずなこの計画にのめり込ませた。

計画は、全国300店舗にミニ・コンピューターを設置して中央の大型コンピューターと回線で結んで営業事務を端末画面の操作で完結させようというものだ。少なくても日本に前例のないシステム形態だった。

営業店舗にコンピューターの分かる人員などいる筈もなく、朝の立ち上げから退社時の電源OFFまで、全て中央から遠隔操作を出来るようにしなければならないが、そんな機能がミニ・コンピューターに用意されている訳もない。

また、何らかの理由でミニ・コンピューターが停止してしまうようなトラブル発生時は、やはり、中央から遠隔操作で原因究明とリカバリーを行える機能も必須である。2例を挙げただけだが、実際には次から次に問題に直面し、その数100を優に超えたのだった。そしてそれらの課題は、メーカー側も初めてのことで頼りにならず、全て自前で開発し解決しなければならなかった。

大型機の代わりに沢山のミニ・コンピューターで代替するという分かり方針とは裏腹に、システム開発の大変さは10倍では足りない程の難工事となった。全国展開まで3年という目安が結局5年を要したのだった。この世にも珍しい「分散型オンライン・システム」は完成後保険業界にかなり波紋を広げたようで他社や業界紙の訪問をかなり受けた。

それから数年後、IBMが「ダウンサイジング」という概念を打ち出すが、僕らは既にそれを自前で作り上げたと秘かに自負もし、大変な5年間を何とか成功裏に終えたことが自信となり、その後のシステム開発でも常に先端を行く強い意識を貫けたと思っている。

これらのことは、全てFさんの当り前でない発想と指導力、並びに、リスク・テイキング(野村総研でもなくIBM・日立・富士通といった専門家でもなく、僕やFuに前代未聞のシステム作りを任せたこと)があって初めて出来たことである。

だから、今回も「Fさんを囲む会」に集まった弟子たち8人は、今自分があるのはFさんのお蔭と心から思う連中である。御年85歳になられるFさん、初日はゴルフにもいつものように参加された。シルバー・ティー(30~50ヤード前にある)から打つのだが、レギュラー・ティーから打つ僕らは何度もオーバー・ドライブされるので、負けないように必死だった。

日光のホテルでの会食の時も、話される内容は面白いし頭の回転数が当時と全く変わらないのが凄い。固有名詞もすらすら出て来る。また風貌も、当時から老け顔(失礼)だったから、今もそんなに違いを感じない。とても85歳とは思えないというのが皆の一致した感想だ。

そして、車が大好きなFさんが、今も3年で5万キロは乗っていると言うから全員腰を抜かしそうになった。その日も町田から日光まで車を運転して来られたのだった。自分が古稀になった今、Fさんの若々しさは本当に素晴らしいと思う。あやかりたいものである。

.        翌朝ホテルの前で   photo  by  Morikawa   

.   翌朝ホテルの前で   photo by Morikawa

翌朝、奥様の通院の送り迎えのために戻られるFさんを皆でお見送りして、残ったメンバーは、改装された東照宮の陽明門や三猿・眠り猫などを見て帰途についた。

.   日光東照宮陽明門     photo  by  Morikawa

.   日光東照宮陽明門     photo by Morikawa

.      三猿          photo  by  Morikawa

.      三猿          photo by Morikawa

.      眠り猫        photo  by  Morikawa

.      眠り猫        photo by Morikawa

 

.      おまけ        photo  by  Morikawa

.      おまけ        photo by Morikawa

 

 

2017 年 6 月 4 日   No Comments

自由人1ヶ月

         大栗川遊歩道

  会社生活を終えて1ヶ月余りが経った。それ以前と一番違うのは、毎朝の通勤が無くなったことだ。私鉄3本を乗り換え、1時間20分掛けて東京タワーのある神谷町まで通っていた時間が、まずそっくり空いた。その代わりに家の近くを流れる川沿いの遊歩道を、スマホの音楽を聞きながら1時間ほど散歩することにしている。

  と言うのも、朝の通勤の1時間20分は、座れず立ちっ放しのことの方が圧倒的に多かったので、それが結構足腰を鍛えてくれていたようだから、朝の散歩を習慣付けないと消費カロリーのバランスが崩れそうだと思ったからだ。

  ただ、散歩だけでは通勤の消費エネルギーに遥に及ばない。かと言って走るのはとても無理なので代替案を考えた。

大栗川1

  その川は大栗川という。1kmほど下流で多摩川に流れ出る支流の一つだ。遊歩道は堤防より一段低く内側(川側)に整備されている。堤防の上から遊歩道に降りる階段が所々ある。階段の段数は17段だ。散歩途中でこの階段の上り下りを5往復することで消費カロリー数の帳尻を合わせている。10往復を目標に徐々に増やしていくつもりだ。

  平日の朝、歩いて分かったことがある。同じ時間帯に、僕と同じような年の頃と思わしき人々が大勢散歩しているということだ。これまで全く知らなかった朝の光景である。ウォーキングもいればジョギングもいる。団塊世代の退職組がかなりの勢いで増えているということをこんな所で実感した次第である。

  さてこの散歩も、毎朝ではないのが神童流だ。即ち、雨の日と二日酔いの朝はパスするのだ。雨の日も風の日もというストイックな日課は、僕には不向きで長続きしないことを良く分かっているからだ。70年も自分と付き合って来たから100%外さない自信がある。

  散歩から家に戻って朝食だ。この朝食も自分のは自分で用意する。基本は和食である。和食と言っても、しらすおろし、ネギ入り卵焼き、納豆、野沢菜、それに味噌汁とごはんと言った簡単な食事だ。20年前の仙台単身赴任の時の朝食メニューとほぼ同じ。単身生活はこんなことに役立っている。

  カミサンは朝は洋食を好むし、僕が約1時間の散歩に行っている間に朝食を済ませているので、朝食は夫々が勝手に作って勝手な時間帯で食べる。因みに、僕の場合は、2食主義にしたので昼食は摂らない。夕食だけ共にしている。勿論夕食はカミサンが作る。

  この食事のルールは、1か月前に新たにカミサンと取り決めたルールである。僕が自由人になるに当って、カミサンも自由人になるべきだと思って決めたのである。と偉そうに言っても掃除洗濯は全部カミサンの担当のままなのだが。

  この自由主義は1日の時間の過ごし方にも表れる。即ち、昼間は、一緒に出掛ける日以外は、お互いが干渉せず自由に行動することを旨としている。カミサンは専らジム通い。そんなに鍛えてどうするつもりだ、とは聞かない。自由主義だから。

  僕はと言えば、まだルーティンが確立してはいないが、昼間はゴルフ練習・ドラム練習・川柳練習・読書練習・孫娘とのデート練習、それと1度か2度の出社(顧問として)で埋まった。4月は退職翌月という特殊な月だったせいか、夜の飲み会も何度となく誘われて、スケジュール表がギッシリ埋め尽くされた。

  従ってまだ、通常のペースが掴めていない状況と言ったところか。しかし、定時に起きてさあ会社に行くぞという気合も義務感も全くない「のどかな朝」には直ぐ慣れた。

  神童は会社を辞めてからブログに全く投稿もせず、一体何をやっているのか? とのお声が耳に届いたので、取り敢えずこの1ヶ月の生活について簡単に報告させて頂きました。

大栗川2

2017 年 5 月 4 日   No Comments

卒業

先月初めに古稀(満70歳)を迎え、本日3月末をもって長い会社生活に終止符を打った。思えば、22歳で大学を卒業し損害保険会社に就職して以来39年、今のベンチャー損保(株フレックス)に移って9年、通算48年の長きに亘って、元気に会社生活を送れたことは無上の喜びであり、関係者には心より感謝申し上げたい。

しかし48年と聞いて、あと2年で会社生活50周年なんだから、そこまで頑張ればいいじゃないかとか、古希になったからって辞める必要はないではないかと言う人もいたが、僕の勝手な価値観というのがあって、随分前から70歳誕生日を迎える年度末には完全リタイアすることを固く決意していた。

その価値観というのは、70過ぎても会社勤務すべき人は、辞めることが社会や会社の損失となる人のことで、常人の場合は老害を撒き散らすか、アイデア・キラーとなって、若い力を殺ぐ側の人間になり易いという事実なのだ。いろんな経験や事例から思うところ大である。

そうなる前に、或いは、もうそうなり始めているかも知れないので、僕の我が儘として、若き経営陣から卒業の許しを頂いた次第である。

それにしても、まさか僕が70歳を迎えるまで会社勤めをするなどという図は、若い頃の神童には全く想像出来なかったことである。こんなに長く生きられると思っていなかったから。

入社数年後に患った酷い十二指腸潰瘍は、ストレスによるものとされたが、その痛さは半端でなく、僕は、50歳までは生きられないだろうと勝手に決め付けていた。痛さもさることながら、社会人になって間もない若者が、これほどストレス耐性に欠けるのでは、普通の社会生活に向いておらず、このストレス社会で長生き出来る訳がないと思っていた。

何度となく胃カメラを飲んで診察を受けた。薬を飲んでも、一向に潰瘍が治癒せず、酷い時は、内視鏡が出血中の十二指腸潰瘍を捉えたりした程だ。その時医者に「1か月後、もう一度内視鏡検査を行い、同じ状況だったら手術を考えましょう」と言われる迄に追い込まれたのだった。入院期間は凡そ3週間とのこと。若干25歳の頃である。

運良く、1ヶ月後の検査で出血は見付からなかったので、辛うじて手術は回避されたが、毎食後与えられた薬を飲むことは当然の義務であり習慣となっていた。生活も、お酒を飲むことなど以ての外だった。直ぐ出血するからだ。尤も、学生時代もそうだったが社会人になってもあまりお酒が飲める方ではなかったから、禁酒は僕にとって辛いことでも何でもなかった。今とはエライ違いだが(笑)・・・

その後の結婚を挟んで10年間、医者の薬を飲み続け、何とかそれ以上の悪化を防ぎながら、十二指腸潰瘍を騙し騙し生活をしていた。勿論、カミサンにもプロポーズの時、潰瘍のことを伝え、50歳まで生きられるかどうかだと思うと伝えた。プロポーズの言葉は忘れたが、短命を理由に断られても仕方ないと覚悟を決めて話したことは覚えている。(今カミサンはそのことを短命詐欺とか言うけれど 笑)

定期検査を行なったある日、主治医から近年ピロリ博士の見付けた胃の中に存在するある菌の説明を受けた。その菌が悪戯をして、胃潰瘍や十二指腸潰瘍を引き起こすことが多いとの説明だった。

もしかしたら僕の十二指腸潰瘍もそのピロリ菌が原因かも知れない。いや、そうでないかも知れないが、兎に角、この苦境から脱出出来る可能性があるならどんな検査も受けてみたかった。

早速、胃に内視鏡を入れ細胞を採取して検査に掛けられた。意外と簡単な検査らしく、1時間もしない内に医者が、5本の試験管が立ち並んだ入れ物を持って僕の前に現れた。その5本の試験管の中には液体が入っていて、左から完全な透明、右に行くに連れて赤さが増して行き、一番右は一番濃い紅色だった。

「これはピロリ菌の濃度です」と説明した。そして徐にもう1本別の試験管を取り出して、「これが神童さんの胃から取った繊維を培養したもの」だと言う。真っ赤である。「レベル4(最高位)ですねぇ。十二指腸潰瘍の原因はピロリ菌の可能性が極めて高いです。ピロリ菌駆除をやってみますか?」と医者が言うので、「是非お願いします」。

その日から1週間掛けて駆除の薬を飲み続けた、その間毎日酷い下痢に襲われたが、何とか終了。もう一度、内視鏡で胃の繊維を抽出し前回と同じ培養がおこなわれ、医者が試験管を僕に示した。完全なる透明な液体がそこにあった。「ピロリ菌駆除は成功したようですね」と嬉しいご託宣。

これで、後は潰瘍治療薬が効いて十二指腸の痛みが消えたら完治だそうだ。空腹になると痛みが走り、特に夜、横になると耐え切れないほどの痛みが走り、立ち上がらざるを得ないことも多かったが、そのような痛みが出ることはこの日以降二度と無かった。

2ヶ月後の検査で、医者から、十二指腸潰瘍の痕は残るものの、潰瘍自体は完治とのお墨付きを貰ったのだった。34~35歳の頃だ。あの痛みと投薬から解放されたことは、僕にとって大きな転機となったことは間違いない。

どこか沈みがちになる気分が遠くに押しやられ、仕事でも家庭でも、行動や思考が前向き・積極的に変わって行ったように思う。ピロリ博士様々である。そして、仕事でも、立場上部下とのコミュニケーションやら接待やらを含め、丁度その頃から飲む機会が増えて行った。十二指腸潰瘍のままだったらとてもそんな付き合いは出来なかっただろうから、世の中なかなか旨く出来ている。

話は大きく逸れてしまったが、50歳ではなく70歳まで48年間もの長きに渡って会社生活を送れたのは、ピロリ博士の新たな細菌発見の賜物ではあるものの、本当は会社の皆さんの暖かい叱咤激励があってこそとつくづく思う。

特に、今のベンチャー損保・フレックスでは、4年間で20倍の売上げ(5千万 → 10億)を実現した若い力が生み出す「熱気と勢い」の真只中に身を置き、沢山の元気と若さを頂いた。お蔭様で、「同世代の中で最も若い」と仲間達から言って貰える神童である。

半生を振り返れば、仕事自体は苦しいことが、それはそれは多かったけれども、決して嫌ではなかった。苦しかったことも、今では鮮烈な思い出、生きた証だし、楽しいことも同じくらい沢山あって、48年があっという間であったようにも感じる。そう思えるのは大変幸せなことではないかと今改めて感じている。

 

関係者の皆様には、長いことお世話になり、重ねて感謝申し上げます。今後は非常勤の顧問として、フレックスが真に「日本一の少額短期保険会社」になる日を楽しみに、少し離れたところから、愛を込めて声援を送り続けたいと思います。

2017 年 3 月 31 日   3 Comments

ぼんのてい

2

東京郊外に聖蹟桜ヶ丘という街がある。僕の住む町だ。もう15年以上前になるが、僕の務める損保企業ともう一つの損保企業が合併した時、僕の職場がこの街の駅前のコンピューター・センターとなった。なので、それ以来退職までの8年間、僕は自宅から徒歩8分で通う幸運に恵まれたのだった。

その合併の時、僕がシステムの責任者だったことから、会社合併のためのシステム統合には大変苦労したが、僕にとっての最大の統合効果は、合併会社のコンピューター・センターが合併相手社のそれに決まったことだった。

両社のコンピューター・センターのどちらを採用するかという選択に迫られた僕は、駅に近く優秀なSE社員の中途採用でも有利な、相手社のセンターを選んだ。自社のセンターは最寄り駅からシャトルバスで通勤するような場所だったからだ。

いろんな人から「神童は、自分の家から歩いて通えるから、相手社のセンターにした」と揶揄されたが、決してそんなことはない。たまたま僕が決定権者だっただけで、将来に亘って優秀人材が集まり易い場所を選んだに過ぎない。

僕が徒歩で通える場所となったのは、会社にとってのメリデメを慎重に測定した結果である。僕にとって最高の結果になったのは認めるが(笑)。僕を揶揄する後輩には、「20年思い続ければ、ことは成る」と諭したものだった。

つまり、僕が阿佐ヶ谷から聖跡桜が丘に引っ越したのは1980年で、合併後のコンピューター・センターがこの地の相手社センターに決まったのは2000年だった。その間僕は同じSEとして、当社でなく相手社に入社していれば、満員電車でなく徒歩で通勤できたのに、と思って来たことを、半分冗談で言ったまでだが。

とは言え、この街も当時と比べると高齢化が進み、また、大学や企業も都心回帰の流れなどがあり、徐々に寂しくなって来ている。だが、逆に、この聖蹟桜ヶ丘という街が大いに気に入り、ここに店を出すのが夢だったという京都出身の夫婦がいる。

鉄板焼きの店を出したのは1年前だと言うが、僕はついぞ知らなかった。先日、僕らのライブでたまに手伝って貰っている「ミノル&ヨーコ」から、「鉄板焼き屋さんでミニライブをやるので、是非来てください」との連絡が入った。

聞けば、マスターは昔フュージョン系のギタリストとして活躍した元プロだと言う。彼のギターをメインに「ミノル&ヨーコ」が歌うとのこと。通常の営業は夕方5時半からだそうだが、その前の1時間半、ミニライブを行なうらしい。尤も、営業時間中もマスターが乗れば演奏してくれるとのことだった。

日曜日の午後4時、僕は地元の親友Kとフッ君の3人でお邪魔した。既に「ミノル&ヨーコ」はリハを終えたと言う。他に、6人の客と、店のマスターと店を手伝うその奥様という顔ぶれだ。

その店は、Lの字にカウンター席が10席、テーブル席2席ほどのこじんまりした店だった。ただ、カウンター・テーブルに接する鉄板が広くて大きいので、高級ステーキハウスを思わせる作りだ。店の名は「ぼんのてい」。

さてさて、ライブと言うが一体どこで演奏するのか。マイク・スタンドが2つ、カウンタの中にセットされている。つまり、カウンター内の料理人が腕を振るう場所で、演奏に腕を振るうということか。

ライブ料金はワン・ドリンク付き千円。僕ら3人はビールを頂く。そしてライブが始まった。この店の常連客でSさんという方が、井上陽水の「帰らない2人」他をギターの弾き語りで聞かせてくれた。「ミノル&ヨーコ」がコーラス、マスターがギターの間奏(アドリブ)弾く。Sさんの声も良く出ているし、コーラスもギター・アドリブも素晴らしい。やるねー。

.            Sさん

.            Sさん

昔、新宿のゴールデン街のカウンター・バーに流しがやって来て弾き語りをするのを聞いたことがあるが、何となくうらぶれた感があった。しかし、「ぼんのてい」のフォーク・ライブは僕ら客席の目の前で、4人の演奏が聴けるのだから、ある種贅沢感があって「フォーク鉄板焼きの店」と言えるような新鮮さがある。

Sさんの十八番を何曲か聞いたあと、「ミノル&ヨーコ」の歌を聴く。ヨーコの「なだそうそう」、ミノルの「上を向いて歩こう」など、たっぷりと夫婦息の合った演奏を聴けた。彼らの歌も元々素晴らしいのだが、その全ての曲にマスターのギター・アドリブが入るのだから、余計に高級感と言うかハイレベルな雰囲気に包まれる。

.          ミノル&ヨーコ

.          ミノル&ヨーコ

と、そこへ38階佐藤さんと浜ちゃんがドアを開けて現れた。「ミノル&ヨーコ」から連絡を受けた「のどごし生バンド」7人の内、4人が参加したことになる。

次に、マスターの独奏で「サニー」をフュージョン風と言うかジャズ風に演奏してくれた。この曲、数年前まで「のどごし生バンド」で僕が歌っていた曲だったから、思わず口ずさんでしまう。佐藤さんと僕で、各コーラスの先頭で「サニー」と掛け声をかけると、マスターが何とも嬉しそうな表情を浮かべて演奏するのが微笑ましかった。

さすがはフュージョン系元プロ・ギタリストのソロ演奏である。通常、エレキギターのアドリブはロックだが、彼は、リズムこそ8ビートだが、本質的にジャズ・ギターなのだ。僕の耳には凄く心地よく聞こえる。

.        右がマスター  写真が暗くてスミマセン

.    右がマスター  写真が暗くてスミマセン

マスターに「僕らの若い頃は、ジャズ・ロックという名前で8ビートのジャズが流行り、その後フュージョンとなり、今やスムース・ジャズって言うように変遷して来ているんだよね」と言うと、「そ、その通りなんです。よーくご存知ですね、嬉しいです、そういう人に聞いて貰って」と返って来た。

ライブ終了後は、沢山のメニューの中から、幾つかの鉄板料理を堪能し、ビールやハイボールを強か飲んで気分最高のまま店を出た。上級者の音楽が聴けて、美味しい鉄板料理が食べられ、お酒も美味しい僕好みの店が見付かった。「ミノル&ヨーコ」に感謝したい。

 

2017 年 3 月 21 日   2 Comments