プレミアムエイジ ジョインブログ

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原点回帰

僕と同じ町に住む友人のKに誘われて、近くの有名ゴルフ場の練習場で、レッスン・プロからの指導を受けた。これは、成人の日を含む三連休にのみ行われる新春イベントとして開催されるもののようだ。

生徒は8人限定、1時間半の予定でプロが順番に指導してくれる。僕は28歳の時にゴルフを始めたので、もう40年以上のゴルフ歴となる。だが、これまで一度もプロから教わったことはなかった。

初心者の頃は、それこそゴルフ雑誌を愛読書にして、テレビでプロの試合を見ては、練習場で真似る練習を一生懸命やった。まだ20代だった僕は、身体も柔らかくバネがあったから、少しずつだが目標にした選手のスウィングに近付いて行ったように思う。

少年時代野球を長くやっていたことも幸いして、フルショットでボールを捉えることはかなり自信があった。コンペでも度々ドラコンを獲得した。猛練習の成果もあって、始めて1~2年経つと会社の大勢の先輩達を含めて、上の下くらいにはなったと自負していた。

今じゃ100を切るのに四苦八苦の僕だから誰も信じないが、これは40年も前の自慢話なので、どうかお許しを。兎も角、当時、プロからレッスンを受けたいなどと思ったことは一度も無かった。

それが、40代、50代、60代と10年毎に飛距離が落ちて行き、距離が出ないから、打ち方をああだこうだといろいろ変える。距離を出そうと力むからフォームも崩れてまともに当たらない。そんな悩める神童君の窮状を見て、Kは僕にプロのクリニックを受けることを勧めてくれたのだと思う。

さて、プロのレッスンが始まった。彼は8人の生徒を順番に指導して行く。僕の番が来た。彼は僕のスイングを2~3球じっと見た後、こう言った。「右手は添えるだけ、左手一本で打ちましょう」。

初心者だった頃、まだ野球打ちの癖が治らず、弩スライスを連発していた。それを直すのに左手一本で打つ感覚で練習して弩スライスを克服した経験がある。今はスライスに悩んでいる訳でなく、球が上がらなかったり、引っ掛けたり、トップしたりが多いのだが、プロの「左手一本で打ちましょう」の一言にハッとした。

飛距離が出ず打ち方をいろいろ変えている内に、利き腕(右手)の力で打つようになってしまっていたのだと悟ったからだ。

彼は更に、「アドレスの時から右腕の力は完全に抜きましょう。バック・スウィングは右手でグリップを引き上げるのではなく、左肩と左腕で右に押すイメージです。トップから戻す時、特に右手右腕に力が入っていますね。それは絶対にタブーです」。

「何故右手で打っちゃいけないかと言うと、インパクトよりかなり前にフェースをスクエアにしてボールに当てようとするから、実際のインパクトでは、フェースが閉じたり、かぶったりして、引っ掛けや低い球しか出ません」。

「或いは、手前でスクエアにしたヘッドをインパクトまで維持しようとするから、ヘッド・スピードが落ちて距離も出ません。右手で打つのは左手の良いスイングを邪魔するだけです。右手以外は両足含めて全てに力が入っていても構いませんからね」。

言われたことを守って打ってみる。とても違和感があって(正しいスウィングに違和感って???)直ぐには左手打ちが出来ない。それでも6~7球目に惚れ惚れするような打球が真っ直ぐに飛んで行った。プロは「そうです、そうです。身体の回転と左腕一本で打つことだけを意識して練習してみて下さい」と言って、次の生徒に移って行った。

この日のレッスンは90分間だ。彼は順番に都合3回ずつ生徒の指導に当たってくれた。その3回目の時に僕はある疑問をプロに投げ掛けてみた。「ゴルフ雑誌など読むと、右手の使い方とか、パワーは右手とか書いてあるけど、それって邪道なんですか?」。

プロが答えた。「いや、プロ・ゴルファーやシングル・プレーヤー達は、しっかり身体を鍛えて左腕もしっかりしていますから、右手のパワーを使っても、左サイドの形が崩れません。パワーの足し算になるんです」。

「しかし、アマチュアの殆どは、左サイドの強靭さは持ち合わせていないので、右手で打とうとすると、必ず左手のシンプルなスウィングを壊してしまいます。引き算なのです」。

成程、である。40年前に必死に練習した「左手一本のスウィングよ、もう一度」だ。これぞ本当の原点回帰だ。トンネルの先に微かに明かりが見えた。この打ち方で常時違和感なく打てるようになるには時間が掛かるが、練習でマスターすべき課題が明確になった。Kよ、ありがとうね、貴重な機会を与えてくれて。10年前にこのプロに習って置けば今頃は・・・、なんてね。

2017 年 1 月 16 日   3 Comments

送別ライブ

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.               Photo by Endou

先週土曜日、横浜新子安のグレコで、隔月定例ライブを行った。このライブはいつもと違って、特別な意味があった。それは、僕ら「のどごし生バンド」結成の12年前からずっとお世話になって来た、お店の料理人万作さん夫妻の送別のライブだったからである。

親御さんの介護などのため、12月末をもってグレコを辞めて、奥様の出身地の札幌に転居することになっているので、万作さんの前で行う最後のライブである。

このブログでも嘗て触れたが、このお2人、実は、30~40年の時空を超えた、正に小説のような愛情物語を地で行った人達なのだ。20歳の頃、札幌で知り合いお互い引かれながらも、万作さんは演劇の道を目指し、奥様の美智子さんはアパレル業界に進み、別れ別れの人生を送った。

美智子さんはその後結婚、女の子が誕生した。だがその後離婚。彼女は横浜の洋品店の責任者として仕事をしながら子供を育てた。年月は過ぎて行く。そしてある日、美智子さんがテレビを見ていたら、ある男がテレビに映った。元落語家が今はシンガーとして団塊世代の人気を博しているという特集番組だった。

彼女はそれを見た瞬間に、彼は、あの頃、札幌で見た劇団の団長のクーペだと直ぐに分かった。と言うことは、今もクーペの下に万作さんがいるのではないかと思ったと言う。番組で紹介されたクーペの店に行ってみよう。彼女は直ぐに行動を開始した。

東京郊外のその店に、突然、美智子さんが現れた。そこにはクーペは勿論、あの万作さんも料理人として働いているではないか。あの別れから、30余年の歳月が経っていた。劇的な再会を果たしたのだった。

だが、万作さんもバツイチの独身だったのは良いが、築地の市場で働いていた頃も今も、自分一人食うのがやっとだ。美智子さんと再会したからと言って、簡単にどうにかなるものではない。そんなことを考えてか、万作さんは美智子さんに冷たかった。

「万作さんが私の方を向いてくれない」。美智子さんは僕にそう打ち明けてくれた。それには僕も大変戸惑ったのだが、「多分、30数年のブランクを埋めるには、時間が掛かると思う。だから、この店に美智子さんが度々来た方が良い」と月並みなアドバイスを送った記憶がある。それを受け入れてかどうか、彼女はその後良く店に現れたのだった。

それから1~2年後、万作さんと美智子さん、それに彼女の娘さんの3人で一緒に住み始めたことを知った。ただ、彼らは、娘さんが成人するまでは入籍はしないとのことだった。

更2年後に、大木先生(ピアニスト)がグレコを開店して、万作さんはそこの料理人になった。以来4年半、僕ら「のどごし生バンド」は、グレコで万作さんの作る料理を食べ、大いに飲みながらライブ活動を行なって来たのである。

この7月には、2人は正式に入籍・結婚した。僕ら「のどごし生バンド」は、長年お世話になった万作さんご夫妻のために、2人の30余年の時空を超えた愛情物語を曲にしてお祝いすることを思い立った。

そうは言っても曲作りにも時間が掛かり、譜面を起こすのも四苦八苦(皆んな譜面を見て演奏するが譜面を起こす面倒な作業は苦手)。遂には、ビーバー(K&Bのピアニスト)に楽譜作成をお願いして、バンドで初めて練習出来たのは11月に入ってだった。

しかし、曲作りをしている最中に、万作さんから、12月末でグレコを辞め札幌に転居することを告げられてしまった。札幌にいる美智子さんの親御さんの介護のためと言うのがその理由だった。

考えてみたら、彼らの転居前のライブは、12月の1回だけしかない。彼らにこの曲を聞いて貰える最初で最後の機会となってしまった。結婚祝いのつもりの曲が、送別の曲となってしまった。

ライブ当日のリハでこのオリジナル曲の2回目の音合わせ。途中、曲を止めて、ここはこうしようとか、ここのキーは何? とか、まだ打合せが必要な未完成なレベルだ。1時間後にはライブで演奏しなければならないのに、大丈夫か?

第一部の最後の方で、このオリジナル曲「時空の風に」を初披露した。我が「のどごし生バンド」、結構本番に強い。フッ君のコンガから始まって、大木先生のピアノのイントロに続いてアンディーの歌。間奏は浜ちゃんのクラ、途中1小節だけ中保さんのベースソロ。全員で作った曲が初めて完成した瞬間だった。

アンコールで、「ダイアナ」と「ジョニーBグッド」を用意していたが、「時空の風に」をもう一度聞きたいという観客の声に応えて、「ダイアナ」をやめて、2度目の演奏を行った。何が嬉しかったかって、この時、美智子さんが急に後ろを向いて涙を拭いたことだった。

歌詞にもある「遂に見付けた永久(とわ)の愛」と共に北の大地に帰る2人に幸あれ!

さて、ライブの方は、この日予想を超える来場者数で超満員となった。それも初めて「のどごし生バンド」のライブに来られた方が14名もいたのだった。30名が適正規模のグレコが、バンドメンバーを入れて45人にも膨れ上がってしまったから、客席を譲り合うように座って貰い、狭い思いをさせてしまった。反省!

ゲストバンドはお馴染み「K&B」と「ミノル&ヨーコ」、それに僕の会社の先輩「Wさん」のクラりネットのジャズ演奏だった。夜9時過ぎを終演予定にしていたが、会場の盛り上がりのため進行も滅茶苦茶になって、結局、終わったのは10時だった。遠くからお越しの皆様には大変申し訳なかったと、これも反省!

初めてのお客さんは、リピーターになってくれるだろうか? 或いは、もう懲り懲りだろうか? 結果は次回2月のライブで分かる。

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.          「時空の風に」

.                   大木豊   構成
.                   佐藤誠二 作詞
.                   村山浩司 作曲


1     プラタナスを揺らす 緑の風に
.    夢を語りあった 北の街かど
.    そばにいるだけで 幸せだったけど
.    夢を叶える岐路(みち)に 分れた旅立ち
.    あれから遠い空を 眺めては祈ってた
.    幸せだったらいいな 夢はかなったかな

.    三十年の時の流れ 一千粁(キロ)の空越えて
.    二人がまた 出逢ったのは 奇跡じゃなく
.    胸に秘めた想いが 二人を結びつけた
.    時空の風に乗って みつけた永遠(とわ)の愛

 

2      晴海通りの風が 埠頭へと誘う
.    冬の寒さがしみる 北の街より
.    傷つけあった涙は 真実の証
.    少し大人になれば 心潤す
.    どんなに辛い日々も 淋しい一人夜(よ)も
.    すべてが大切な 愛おしい試練

.    三十年の時の流れ 一千粁(キロ)の空越えて
.    二人がまた 出逢ったのは 奇跡じゃなく
.    胸に秘めた想いが 二人を結びつけた
.    時空の風に乗って みつけた永遠(とわ)の愛

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.    前列の男性が万作さん、 その後ろの赤のセーターが美智子さん

 

2016 年 12 月 22 日   No Comments

仙台公演(7) 完

そして、ホテルに近付いた時、ベースマンの竹原さんが、「神童さん、もう一軒行きません?」と言い出した。ナッちゃんも行くらしい。ギタリストの保山さんとキーボードのマコトさんはあまりお酒が強くないのを知っていたから、彼らをそのままホテルに返して、3人でまだこの時間もやっている店を探して(こういうことには先天的に臭覚が利く)入った。

そこで何を話したかと言えば、中心は音楽論だったから凄いでしょ? 強か呑んだ後なのに。深夜1時過ぎなのに。保山さん(ギター)は今も有名歌手のステージに立つことが多いが、この竹原さんもまた、有名シンガー達のベースをしばしば担当している。レコーディングでも指名されるほどのプロのミュージシャンなのだ。

こういう人に、もっと飲もう、と誘われるのは光栄至極。年齢は丁度還暦を迎えたところらしい。ということは僕と10歳違う。竹原さんとステージを共にするのはこれが3~4回目なのだが、これほど話し込んだことは嘗てない。

同じロックと言っても、ビートルズの時代とその後のヘビー・メタルの時代、そして、現在のロックとの違いなど、僕があまり意識したことのないことを、彼は大いに語った。特に進化したのはドラムとベースなのだという。詳しくは省くが、忠実にそれを再現する必要はないが、それを分かっているだけで演奏が変わって来ると言う。勉強になる。

そして徐々に僕へのアドバイスに変わって行った。曲全体のメリハリの意識、特にサビの部分はタダでも盛り上がるので、寧ろ、その前までは、抑え気味の意識が必要とか、ドラムと言えども音楽を奏でる楽器なので、リズムを刻むイメージではなく、歌いながらドラムを弾くこと、など様々竹原さんのレクチャーがあり、最後に重要なアドバイスがあった。

「正直、今日の神童さんのドラムは頗る付きの出来栄えだったけど、惜しいなと思うところがあります。聞きたいですか?」。「勿論、聞きたいです。プロの所見を是非聞かせて」と僕。

「特に、『メリー・ジェーン』などのR&Bのスロー3連の曲は、ドラムのリズムの重さが重要になります。アップテンポの8ビートは軽快さが大事なので、2拍目4拍目のスネアはシンバルと完全に一致しないといけないですが、R&B風のスロー・ナンバーは、コンマ何秒がシンバルよりスネアを遅らせて叩く方が良いです」。

「R&Bの3連符の曲は、大体において人生の辛さ苦しさだったり、悲しみ淋しさなどを歌うものが多いですよね。だからリズムも幾らか重めにして歌の重い感情を表現し易くする必要があります。僕らの言葉で『あと打ち』と言いますが、それがとても大事です」。

「過去の『メリー・ジェーン』は、所々リズムがばらついていましたけど、今日はリズム・キープがしっかり出来ていましたよ。そこにスネアの『あと打ち』が入れば完璧です。但しそのズレを目立つように打っちゃだめですよ。ホンの僅かです。そういう気持ちでスネアを叩く程度でも良い」。

「勿論、右手のシンバルは正確に3連を刻むことが大前提ですけどね」と言うのだ。それが出来れば、素人っぽさ消えて、どこでやっても恥ずかしくないだそうだ。

確かに、他のアマチュア・バンドの連中がそんなこと(あと打ちのこと)を言っているのを耳にしていたが、僕はそんな妙なテクニックより、リズム・キープの方が大事だと思って無視していたが、竹原さんに言われると説得力がある。要するに、曲調や詩の内容をドラムでどう表現するかということなのだと彼は言う。

「ただ正確にドラムを叩くだけなら、機械に任せた方が良い。ミュージシャンはその曲をどのように表現するかが勝負なので」と締め括った。目から鱗である。

気が付いたら午前3時を回っていた。急ぎホテルに帰ってシャワー後4時就床。翌月曜日の朝、ホテルで朝食後バンド一行は解散となった。僕は二日酔いに耐えながら仙台駅に着き、新幹線に乗り込んだ。次に目を覚ましたのは係員に肩を叩かれた時だった。そこは東京駅だった。車両には僕の他にはもう客は一人もおらず、清掃が始まっていた・・・

今、この仙台ライブを振り返っている。

僕にとって沢山の喜びがあり、また、今後の音楽活動をして行く上で大変貴重な時間を過ごせたと思う。仲間達との20年振りの再会、そして彼らがこんなにも喜び感動してくれたことは無上の喜びである。僕が音楽をやっていなければ有り得ないことだった。

そして、プロからこの日の僕のドラムが「頗る付きの出来栄え」と初めて褒められたことは、今後の活動に大いに自信となる。そして、ブルース系のスロー・ナンバーは、スネア・ドラムの「あと打ち」が曲の命運を握ると教えて貰ったのは、天祐に近い。とても良い課題が出来た。今はそれをマスターしようという意欲が沸々と湧き上がっている。

顎足付きでギャラまで貰って(最もギャラの大半はドラム・レンタルで消えたが、笑)、我が青春の地仙台に演奏旅行が出来たのは、Keiさんがドラマーとして僕を指名してくれたからだった。心から感謝したい。

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.                              仙台公演  ― 完 ―

 

2016 年 12 月 22 日   5 Comments

仙台公演(6)

この日の29曲目「大人になれない」は、最初の僕のカウント出しのスピードが心持ち早過ぎたのか、2コーラス目辺りから、ハイハットで高速8ビートを刻む右腕の筋肉が痛くなって来た。これで筋肉が固まってしまうと叩けなくなる。

少し焦りを感じながらも、エンディングまでもう少しだと自らを励まして、事無きを得た。最初のカウントをもう少しゆっくりにすべきだった。そろそろ体力の限界に近いのだから、と大いに反省。いつになくノリが良過ぎるステージだったから、ハイな気持ちがこんなところで裏目に出る。

そしていよいよ、ラスト・ナンバー「メリー・ジェーン」。「つのだひろ」作曲の歌だ。日本人が作曲したロックやR&Bの曲の中では、この曲が最高峰と僕は思っているいの名曲だ。折角、「つのだひろ」そっくりの錦糸町のジュリーが来ているのだから、口パクでもいいからKeiさんの隣でやってくれたらなぁ(笑)。

スローの3連のリズム。これを手と足だけでリズムをキープするのは難しいので、身体全体を使って3連符を刻む。そして、途中のオカズとして3連符の夫々を更に細かい3連符で刻む場面が3か所ある。リズム・キープを第一に考えれば、無理矢理そんな高度なオカズにしなくても良いと思うのだが、折角ここまでノリ良く来たので、挑戦しようと思った。

1回目、少々ぎこちなかったが何とかなった。2回目は練習通りに出来た。最後の3連×3連のオカズ。2回まで何とか成功したことに気を良くして、3回目はピタリと決まった。終った。会場全体が大歓声のうちにライブ終了となった。

終った瞬間、僕は、今日の自分のドラムは過去一番の出来栄えだったと思った。何というか、プロ・ミュージシャン達と、演奏で気持ちが通じ合えたと感じた初めてのライブだったのだ。一体感があってとても気持ちが良かった。専門家はよく、グルーブする、とか言うが、このことか思えた。2か月の個人練習は嘘を付かなかった。

Keiさんが「バンドの打ち上げを××で行います。もし、皆様のご都合が宜しかったら是非ご一緒ください」とマイクで誘った。僕の会社の仲間は、前日と同じ4人が是非参加したいとのこと。これには僕の方が驚いた。感謝感激である。

打ち上げ会場にはお客様に先に行って飲んでいて貰って、僕らは楽器類の後始末をして業者に引き渡した後、一旦ホテルに荷物を置いてから打ち上げ会場に向かうことにしている。再びドラムセットの解体と運搬。僕の作業が一番時間が掛かったのはパーツの数が半端じゃないから仕方ない。

プロ・ミュージシャン達もドラム類の解体と運搬を手伝ってくれたのには、正直驚くと共に本当に素晴らしい人達と思った。

打ち上げ会場に出演者が着いたのは、ライブ終了からかれこれ一時間過ぎた頃だったと思う。会場に現れると満席のお客さんや店のスタッフ達が盛大に拍手で僕達を迎えてくれた。僕の会社の仲間達は、狭いながらも席を確保してくれていた。早速ビールで全員で乾杯。

Keiさんが出演者を代表して感謝の言葉を述べて、後は大宴会となった。僕は、同じメンバーで2日続けて飲めることを彼らに感謝。女性陣のFさんもSさんもかなりテンションが上がっていて、「凄く感動して涙がこぼれそうになりました」とか「長く生きているとこんな良いこともあるんだなと思いました」とか仰る。

でも、なんか言い過ぎ。僕はまだまだ人を感動させるほどの腕前はありません。逆に、僕にとって特別な町仙台で初めて演奏出来たことに、そして、20年振りの仲間がこうして2日間も付き合ってくれたことに涙が出そう。男性陣のKさんまでも「今度東京で神童がライブやる時は必ず行くので案内送って」と言ってくれる。

音楽活動やってて本当に良かったと思った。

午前1時くらいに打ち上げもお開きとなって、Keiさんと旦那様はタクシーでホテルに帰って行った。残ったバンド・メンバーは余韻を楽しむため徒歩で戻ることにした。きっとプロのミュージシャン達も、今日はかなり楽しく演奏出来て、更に打ち上げで余程テンションが上がっていたのだろう(普通プロは仕事が終わったらさっさと引き上げる)。

途中、深夜の一番町で若き日のビートルズのようにバンド全員の思い思いのポーズを写真に収めた。60過ぎの爺さん達がまるで少年のよう(自分も含めて)。だが、深夜でライトが少なく、スマホのフラッシュも不調で黒いシルエットの写真にしかならなかった(笑)。

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2016 年 12 月 22 日   No Comments

仙台公演(5)

第二部は、ゲスト・シンガー達の出番だ。ところが最初の曲は「ホワット・ア・ワンダフル・ワールドを」とKeiさんが言う。予定にない曲だ。お客さんが飛び入りで歌うという。実は、僕はこういう予定調和でないことは大好きなのだ。但し、演奏側でない場合だが。

70歳をかなり超えたように見受けられる年配の紳士が、Keiさんの説明と案内でステージに現れた。「XXと言います。僕はポップスは苦手なので、ジャズナンバーを歌わせて貰います」と挨拶してスタンバイOK。

バンドの方は譜面も無くぶっつけ本番だが、僕以外は全員プロだから、全く動揺もない。お客さんが歌いたい曲を伴奏することは良くあることだから慣れているのだろう。流石プロである。僕も、たまたま高校同期のバンドのレパートリーだから良かったが、知らない曲だと大変困る。

僕はスローの4ビートを刻んで、紳士が歌い始めた。イントロもエンディングもアイコンタクトしながら阿吽の呼吸でしのぐ。歌った人が満足したかどうかは全く不明だが、兎も角エンディングも決まった。

さぁ、いよいよ錦糸町のジュリーの出番だ。先ほどのリハの時と違って、帽子(ハット)にジャケットでバシッと決めて、両肩から赤いマフラーを垂らして現れた。おぉ、芸能人のオーラが発せられている。

.          写真左から  錦糸町のジュリー、竹原さん、神童、保山さん

.        写真左から  錦糸町のジュリー、竹原さん、神童、保山さん

本人は、ジュリー(沢田研二)というよりも、「つのだひろ」そっくりさんなのだが、背が高いので、かなり見栄えがする。とても63歳には見えない。自らMCで笑いを取った後、「ストリッパー」「モナリザの微笑み」2曲続けて歌った。歌いながら、歌詞に合わせた仕草をするのだが、これに対して「可愛い」と女性の声が飛ぶ。

そして、「勝手にしやがれ」。僕はこのアップテンポの曲が大好きである。ドラムの叩き甲斐があるのだ。ブレーク・ポイントが沢山あるし、オカズも単なる繋ぎではなく、音階楽器のように太鼓とシンバルを使う曲だからだ。ノリが最も必要とされる曲の一つだ。但し、走り易い曲でもあるので、そこは充分注意しながらほぼ完璧に演奏を終えることが出来た(と思う)。

ジュリーの4曲目は「時の過行くままに」。この曲はスロー8ビートながら、サビ部分は16ビートとなる。この曲を練習していたから、実はリハで、いきなり「哀愁のヨーロッパ」の倍速切替を一旦16ビートに切り替えることが出来たのだった。錦糸町のジュリーは、しっかりお客様の心を掴んだようだ。

再びKeiさんの歌で「ファンキー・モンキー・ベイビー」「オー、キャロル」「天使の誘惑」だ。「オー、キャロル」以外はアメリカン・ポップスではないが、まあいいじゃないの。

「ファンキー・モンキー・ベイビー」も「勝手にしやがれ」と共に、ドラマー神童として大好きな曲なのだ。ロックのバスドラムのリズムは多種多様にあるが、この2曲は基本が一緒。僕が最も得意とするリズムだからだ。元々乗り易い曲だが、会場の大盛り上がりにいつも以上に僕のドラムが乗りまくっていたと思う(自覚症状でしかないが)。

そして、若いなっナッちゃんの登場だ。ザ・ピーナッツの「恋のバカンス」と「恋のフーガ」の2曲をKeiさんとハモるのだ。この2曲とも、僕らの「のどごし生バンド」のレパートリーだったが、この2年ほどは、全く演奏していなかったので、仙台入りの直前、原曲を良く聞きながら練習し直した。

やはりこの曲はハモリが有ると無いとでは大違い。この日2人のハモリを初めて聞いた。2人息の合ったハーモニーはとてもいい雰囲気を醸し出した。僕の胸には、あの頃の「シャボン玉ホリデー」(TV番組)や、「のどごし生バンド」がライブで演奏した時のことなどが蘇った。

さて、ライブは大詰めを迎えた。残すところKeiさんの2曲だ。コニー・フランシスの「大人になりたい」と「メリー・ジェーン」。

2016 年 12 月 22 日   No Comments

仙台公演(4)

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.       写真がないため前回(銀座タクト)のものを掲載

最初に、バンド演奏で「ダイアモンドヘッド」と「パイプライン」を続けて演奏した。これは7月の「銀座タクト」でも演奏した曲だし、ノリ良く8ビートを刻めば良いだけで、注意を要する個所もなく、ほぼ完璧の出来だったと思う。

次の曲に入る前に僕のMC。「今日は、この冬一番の寒さの中にも拘わらず、大勢の方にお越し頂きましてありがとうございます。私達は『Keiと仲間たち』というグループの『仲間たち』というバンドです。と言っても名前がなかったので、今勝手に付けた名前ですが」。笑い声が聞こえた。良し。

「この寒い日に相応しい、夏の曲2曲をお聞き頂きました。Keiさんは後程登場しますが、その前にもう2曲お聞きください。『朝日の当たる家』と『哀愁のヨーロッパ』です」。

4曲目の「哀愁のヨーロッパ」は、さっきリハでバイ・テン切替えのドラムを16ビートで入るように変えたばかりだ。その場面に来た。過剰意識ではあったものの、スムースな切替えが出来た。OKだ。後はギターの盛り上がりに合わせて、倍速8ビートに移行すれば良い。16ビートから8ビートへの切換えは大した問題はない。右手でハイハットで刻むリズムは、16ビートも倍速8ビートも同じだから。

倍速8ビートに移行してからは、ギターの強烈な盛り上がりに合わせて、僕自身も乗りに乗って、4小節毎の連打や途中サンバのリズムなども交えて演奏を終えた。気持ち良かった。専門家が良く言う「グルーブ」とは、もしかしたらこのことではないかと思える一体感を体験した。

自分としては過去の「銀座タクト」(3回同じメンバーで演奏している)より数段良かったと思った。ライブが終わってから、保山さん(ギター)と竹原さん(ベース)から、「神童さん、今日のヨーロッパ、最高の出来栄えでしたね」言って貰えた。プロはなかなかアマチュアを褒めないものだが、今回初めて褒められた。

そしてKeiさん登場。僕のカウントで始まる「バケーション」。僕は心の中で「V・A・C・A・T・I・O・N」と歌ってカウントする。Keiさんの声量豊かな歌声が響く。これも夏の曲だが、このライブのタイトルが「懐かしのアメリカン・ポップス」だから、これでいいのだ。

自分で言うのも何だが、今日はドラムの乗りの良さを感じながら演奏出来ている。初体験かも知れない。場所が僕の第二の故郷仙台だからだろうか? 或いは、ドラムセットがハイレベルな楽器だったからか? その後も、「カラーに口紅」「素敵な16歳」「ジ・エンド・オブ・ザ・ワールド」など60年代ポップスが続き、僕の番が来た。「アンチェイン・マイ・ハート」。

歌う前に、再び僕のMCを入れる(本人がMCをやりたいのではなくてKeiさんの指示ですからね)。「20年前、仙台単身赴任の時、Keiさんの店で30年振りにドラムを叩かせてもらったのが切っ掛けで、今こうして音楽活動が出来ているのです。そういう意味でKeiさんには心から感謝しています」。

「それでは1曲歌わせて頂きます」と言った瞬間、近くの席の会社の仲間たちから、「え~!!!」との声声声。まさか神童が歌うのかという驚き歓声だ。昔から人を驚かすのが好きだったから、結構心地よい。この曲はいつものように気楽に歌えた。仲間たちから物凄い声援と拍手が来た。釣られて会場全体から温かい拍手を頂けた。まずはホッと一息。

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その後Keiさんの曲が5曲(ゴーカート・ツイスト、キッスは目にして、ルイジアナママなど)続いて、第一部の最後は開場全員で歌う「赤鼻のトナカイ」で休憩に入った。

終わって、すぐ目の前の仲間たちの席に行って挨拶。「楽しんでくれていますか?」。「もうビックリですよ。神童さんの歌は当時も聞いたことなかったので、とても感動しました」とKaさん。お世辞が旨い。とても優しい人なのだ。「当時の部長と今の神童さんが繋がりません。カッコ良過ぎて」とはHさん。皆んな、ありがとうね。

ここで僕はある疑問を思い出してFさんに聞いてみた。「この店、昔一度来ているような感じがしたんだけど、錯覚かなぁ?」。「いえぇ、神童さんが赴任して来た時確かここで歓迎会をしましたよ」とFさんが答える。おう、そういうことか。デジャブじゃなかった。僕はこの店2回目の来場だったという訳だ。疑問も解消してすっきり。

彼らから離れて控室に向かう途中、見知らぬお客様から拍手や「ドラム良かったよ」とかの声を掛けて貰った。そして店の支配人からは「何か飲み物をお持ちしましょうか?」と言われたので、ビールを頼んで控室に入った。

僕は第一部のステージが思いの外、上出来だったことで気分がハイになっていたと思うが、プロ達は至って冷静沈着。でも、元シャープ・ファイブ(昔、素人バンド合戦というTV番組でレギュラーを務めていた)の保山さんも竹原さんも「今日の神童さんのドラム、凄くいいですよ」と異口同音に言ってくれた。

こりゃぁ乗っちゃうねぇ。僕は褒められて伸びるタイプだから(笑)。さて、第二部が始まる。

2016 年 12 月 20 日   2 Comments

仙台公演(3)

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最後に、バンドだけの演奏と、僕の歌2曲のリハを行った。バンド演奏は「ダイアモンドヘッド」「パイプライン」「朝日の当たる家」「哀愁のヨーロッパ」の4曲。僕の曲は「アンチェイン・マイ・ハート」と「素直になれなくて」だ。

バンド演奏は最初の3曲は全く問題なし。「哀愁のヨーロッパ」も途中まではOKだったが、途中から曲がバイ・テンポになる。その切り替えが結構僕にとっては鬼門なのだ。しかし僕は、この鬼門克服のために、他の曲よりも何倍も練習を積んで来た。

自分では成功したと思った。しかし注文が付いた。テンポ切替え後、いきなり激しい8ビートにするのではなく、暫くは静かな倍速で、徐々に激しいドラミングにして欲しいと保山さん(ギター)から要望が出された。

成程。僕は、スローの8ビートから倍速の8ビートに切り替えて叩いたのだが、切替後暫くは倍速8ビートではなくて元のスロー8ビートのまま、ハイハットだけ16ビートに切り替えることにして、ギター・アドリブが激しくなるタイミングで1小節連打の後、倍速8ビートに入ることにした。この曲だけもう一度最初からフルでリハを行った。今度は保山さんもニッコリしてOKを出してくれた。

リハで旨く行ったものの復習をする間も無く、それを本番で即再現出来るのか不安を抱えたままだが、引き続き僕の歌のリハに入ることにした。「アンチェイン~」は、もうかれこれ5年以上歌っているので不安はないが、「素直に~」は、グレコでもまだ2回しかライブで歌っていないので、少々緊張する曲だ。

リハでは案の定、一部歌詞が飛んだ。本番では絶対に犯してはいけないミスだと肝に銘じた。一応、歌詞のアンチョコは持って来ているが、それを見ながら歌うのでは乗れないので、本番ではそれを用意するのはやめて、集中力で乗り切ることにした。

5時開場まで20分残してリハーサルが終わった。本番はこれからだというのに、肉体は既にクタクタだった。ドラムの運搬と組み立てでエネルギーを使い果たした挙句の果てに全曲のリハだったからだろう。昔は、こんなこと全く平気だったのになと思いつつ、もう若くないことを実感させられたのだった(古希近いのだから当然? 笑)。

僕は、店を出て、近くのコンビニで栄養ドリンクを飲んで本番に備えた。僕以外全員プロ・ミュージシャンである。そんなステージで緊張しないと言ったら嘘になるが、2ヶ月前から週1回のスタジオ個人練習を積んで来たのだ、自信を持てと自分に言い聞かせた。

そして、こんなプロ仕様の場面を経験出来ることは滅多にないと思い直し、プロ・ミュージシャンになったつもりで大いに楽しんで演奏しようと決意した。

5時から続々と来場者が現れた。僕が呼んだのは全部で7人。昨日会食を共にした会社のメンバー4人に、女性2人(Fさんの下でやはりインストラクターをしていたHさんとKaさん)、それと学生時代の友人TSである。

TSは僕ら学生バンド(ザ・ストレンジャーズ)のマネージャーだった男だ。本人は歌も楽器もやらないが、面倒なマネージャー役を自ら勝って出てくれた。駅前ビルのホールで頻繁に行われていた学生主催のダンスパーティーへの出演交渉や、リサイタルの諸手続き、ブルーコメッツの仙台公演の前座の仕事を取って来てくれたのもTSだった。

彼とは、約10年振りの再会だ。その時はTSも東京勤務だった。確か食品会社の常務さんだったと思う。たまたまタイミングが合って、サックスのNAとギターのSHを交え4人で飲んだことがあった。学生時代の思い出話に盛り上がったことを覚えている。その後退任して、故郷に帰ったのだった。

ステージの直ぐ近くに7人の席を確保しておいたが、5時20分頃までに7人全員が揃ってくれた。20年振りに会うHさんとKaは、僕が「久し振り!」と言っても直ぐには誰だか分からない模様。

僕は既にステージ衣装に着替えている。帽子を被りサングラスにベスト姿だったからだが。そうと分かったら「えっ!? 嘘! 神童さん若い! 全然分からなかった」と来た。「頑張ってください。この日をずっと待っていたんですから」なんて嬉しいことを言ってくれる。TSを会社の連中に紹介し彼も直ぐに溶け込んでくれた。

5時半。さぁ、ライブ開始だ。

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2016 年 12 月 20 日   No Comments

仙台公演(2)

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ライブ当日。午後2時に会場入りして準備とリハを行う予定だが、それまで何もすることがないので、昔懐かしい一番丁とか中央通り(アーケード街)をブラついてみることにした。ところが、この日はことの外寒かった。

午前中はそれでも日が差すこともあったのに、午後になると雪がちらつき始めた。正午の気温は2℃だったが、風もあるので体感気温は零下ではないか。頗る寒い。今年一番の冷え込みだそうだ。この後雪が積ったりしたら、来場客がかなり減ってしまうのではないかと少し心配になった。

だが結局は、夕方のライブ開始時まで雪が積るということはなかったが、こういう、小雪が舞い散るだけの時の方が、深々と降り積もる時よりも寧ろ寒いのは我が故郷(信州)も同じだ。若い時は平気だった耳を切るような寒さに耐え切れず、喫茶店に飛び込んで、今日のライブ予定などをフェース・ブックに投稿したりして時間を潰したのだった。

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さて、午後2時。会場に到着。このライブ会場は「スコッチ・バンク」というスコッチ・ウィスキー専門のライブ・バーで、常設の楽器はグランド・ピアノとマイクだけなのだ。普段は、ピアニストとジャズ・シンガー2人の演奏スタイルで営業している。

なので、僕らのようなバンドが演奏する時は、必要な楽器や機材は持ち込まなければならない。会場の入り口には、レンタルで頼んでおいた楽器類(ドラムセット、アンプ、スピーカー類)が置かれていた。

どこにドラムを置くのが良いか確認のため、早速お店の中に入った。驚いたことに中はかなり広く、金色の金属類をふんだんに使った造りのため、キラキラしてとてもゴージャスなのだ。その瞬間、この景色が脳の記憶装置を強く刺激した。前に一度ここに来てるような気がした。

いつだったかなぁ? 或いは、東京のどこかの店と混同しているのか? ここに一度も来たことがないとすれば、これはデジャブ(既視感)か??? そんなことに思いを巡らせていたら、マコトさん(キーボード奏者)が近付いて来た。既に一番乗りしていたようだ。

では、早速ドラムを組み立てるとするか。店の入り口から、完全に解体されたドラム類とスタンド類を所定位置に運ぶだけで、えらい重労働だった。厚い木の枠で出来たドラムセットは頗る思い。これはかなり高級なドラムセットらしい。演奏するには気持ち良いだろうが、運搬と組み立てには、もっと若い男達の腕力体力が不可欠だ。

しかし、今は、僕とマコトさんしかいない。彼にも手伝って貰って設置位置まで全てのパーツを運び込むだけで、息が切れる有様だった。ここからの組み立ては、さすがにマコトさんには分からないので僕一人で行うことにした。

運搬に20分、組み立てに約30分を要した。その間にKeiさんと旦那様、保山さん(ギター演奏者)、竹原さん(ベース奏者)、ナッちゃん(コーラス担当)も到着して、それぞれの準備に入った。

全員が準備完了となったのは3時前だった。早速リハーサルを開始。最初にKeiさんの「バケーション」以下18曲を全てイントロ・1コーラス・エンディングのショート・バージョンで進めた。途中、ナッちゃん(若い女性)とKeiさん2人で歌う「恋のバカンス」と「恋のフーガ」を含めて、まずまずの出来でリハを終えた。

次は、「錦糸町のジュリー」と呼ばれる、ジュリー・トリビュート・シンガーのリハ。「ストリッパー」「モナリザの微笑み」「勝手にしやがれ」「時の過ぎゆくままに」の4曲だ。これもほぼ完璧だった。

2016 年 12 月 19 日   No Comments

仙台公演(1)

 

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Keiさんというジャズ・シンガーが主催する「アメリカン・ポップスの夕べ」というオールディーズのライブが仙台で開催され、ドラマーとして参加して来た。

それは12月11日の日曜日だったが、20年前仙台に単身赴任した時の会社の先輩同僚達と旧交を温めるべく、僕は1日前に仙台入りした。前回、仙台に行ったのは、東日本大震災発生から丁度1ヶ月後の2011年4月11日だったから、5年8ヶ月振りである。

その時は、僕の前の会社から預かった救援物資を福島・宮城に届ける目的で、男3人車で各地の避難所を訪れた。途中、仙台支店にも立ち寄った。建物は免振・耐震構造だったので、ビクともしなかったようだが、支店は保険金の迅速支払のため他県からの応援部隊(社員)も集結して、てんやわんやの状況であった。

崩壊を免れた支店の社員宅も、停電や断水、或いは、都市ガスが来ないなど大変な1か月だったと言う。そんな訳で、じっくり皆さんと旧交を温めるどころの状況ではなかった。今回は、予め連絡し合って、カキなべを囲んでの和気あいあいの飲み会と相成った次第である。

会食は、2年先輩の自動車営業部長(当時)のKさん、同期のN、当時各支店の事務一般を指導するインストラクターのFさん(女性)、東北営業本部長付き(女性、秘書役)のSさんと僕の5人だ。

入社以来システム部門しか知らなかった僕が、業務部長として赴任したのだから現場はさぞや迷惑だったろうと思う。にも拘らず、Kさんは昼食や夕食に僕を引っ張り出してくれたし、FさんとSさんは、各支店の状況や問題点を事細かく僕に教えてくれたり、大いに助けてくれた恩人である。

そのお蔭で、現地の支店長から、神童は営業現場に疎い筈と油断していたら、やたらと細かく知っているし、自分の店の問題点をしっかり把握されてしまっている、ヤバイと慌てた、と後でよく言われたのも彼女達のお蔭なのだ。

同期のNを除いて全員、僕にとっては20年振りの再会である(Nとは年2回栃木県で行われる同期コンペで会っている)。仙台はこの日一番の寒さで気温は2℃で小雪舞う風の強い日だったが、昔話に花が咲き、地元の名酒の飲み比べなど、実に身も心も温まる会となった。

酔っ払う前に、この会の僕の秘かな目的を伝えることにした。この人達は、明日のライブにも来てくれる。それもチケット代12,000円もするのにだ。「明日ライブだけど、今日中に皆さんにお願いしたいことがあります」。皆んな、何?なに?という顔。「明日、ドラムが酷かったからと、会場で『金返せ!』 と言わないで下さい」と冗談交じりの顔で言った。

「そんなこと絶対言いませんよ。安心して思いっ切り叩いてください」と女性陣。だが、男どもは違う。「黙っててやるよ。その代り、この店の支払いを宜しく」と来た。が、これも想定内、先刻承知。「任せなさい」と答える。

久し振りなのに20年の歳月が一瞬で消え去り、やや興奮混じりで大変な盛り上がりだった会もお開きとなった。この会の費用を持つつもりで幹事のFさんにそっと札を渡そうとしたら「いや。それはダメです」と言う。男性陣も「まあ、今回は遠方からのお客さんだから、割り勘にしよう」と、前言を翻して受け取らない。

今日と明日2日も付き合わせた上に割り勘では誠に申し訳ないので、せめて女性の分は僕が持つと提案しても受け付けてくれなかった。5時から始まったこの飲み会も3時間があっと言う間に過ぎ去った。皆んな、ありがとうね。

このまま二次会に行きたい雰囲気だったが、明日のライブを控えているので、今日のところは我慢してホテルに戻ることにした。その途中、定禅寺通りの「光のページェント」が丁度昨日から始まったと、東京でニュースが流れていたのを思い出し、定禅寺通りに出てみた。

だが、真っ暗だ。8時にはこの祭典が終わってしまったのかと一瞬思った。人通りは物凄く混雑しているのに変だなと思っていると、一斉に明かりが付いた。群衆の「オー!」という声が地響きのように聞こえた。一回明かりを消してまた付ける。これも演出なのか。

並木道の端から端まで、全て同じ橙色のLEDの豆電球の飾りが輝く。20年前と同じ色、同じ見事さ。また20年のブランクが消えた。あの時に戻った。

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2016 年 12 月 16 日   No Comments

安倍さんの正念場

  アベノミクスも当初の勢いは何処へやら、庶民に好影響が及ぶ前に失速してしまい、外交面でも、その成果は急に怪しくなって来た。どうやら安倍さんの正念場を迎えたように思う。

  地球儀俯瞰外交と言ってあれだけ精力的に世界各国を飛び回った首相は過去にいないと思う。4年間で100ヵ国以上を訪問したという。政治家ではなく仕事人として見たら、その体力や交渉などのストレス耐久力、その成果など超人的なものを感じる。

  外交の成果としては、韓国との間に大きく横たわっていた慰安婦問題を解決し、中国包囲網構築では、フィリピン・ベトナム・インドなどと連携を深めた。また、アメリカとは当初の安倍不評(歴史修正主義者と見做された)を見事に覆して、日米同盟を深化させたとマスメディアも評価した。

  更に経済面でも、TPP交渉を纏め世界GDPの4割を占める一大自由経済圏構築が目前に迫っていた。勿論、TPPをアベノミクス第三の矢・成長戦略の柱として全力を挙げたものであるが、一方で、中国に対抗する大経済圏の出現を狙った。

  ところが、ここに来て風は日本にではなく中国に吹き始めた。

  フィリピンにドテルテ大統領が誕生すると、南シナ海での中国の強引な進出を思い止まらせるべき当事国フィリピンが、中国と融和的姿勢に転じた。国際司法裁判所に訴え出て完全勝訴したにも拘らず。

  これに合わせるように、ベトナムもマレーシアも中国と対話外交に転じたように見える。南シナ海の紛争に於ける中国包囲網の構築に努力して来た日本の(安倍さんの)戦略は瓦解し始めた。この情勢変化にも拘わらず、警備艇などの艦船を提供する約束を予定通り実施するようだが、どうなのか。

  アメリカではトランプが次期大統領となり、早速TPP脱退表明がされてしまった。安倍さんとしては、それでもトランプを説得して、アメリカが再びTPPに復帰するよう働き掛けるつもりのようだが、あれだけ、雇用を奪われた中央アメリカのプアー・ホワイトの票を集めて当選したトランプをして、公約を破棄させるのは至難の業だろう。

  更に、トランプとプーチンがお互いに関係改善意欲を示したことは、日本にとってアゲンストの風になり始めた。ウクライナ問題で欧米の厳しい経済制裁で追い詰められたプーチンは、日本から平和条約締結を目指した極東の経済協力提案を受けたことは、国内経済の停滞が深刻さを増す中、咽喉から手が出るほどの出来事ではなかったか。

  安倍さんは、この経済協力をテコに、北方領土問題で何らかの成果を得て、日露平和条約締結の道筋を付けたかった。同時に、日米に対する中国の対抗力(中露連携の力)を半減させる意図を有していた。

  だが、ロシアに対して最も厳しい姿勢を貫いていたアメリカが、次期大統領にトランプに決まり、一気に露との関係改善を進めそうな具合に変わった。ロシアが日本を必要としていたのは米露・欧露の冷たい関係があったればこそだった。

  これでプーチンはわざわざ日本に譲歩する必要が無くなった。それが証拠に、安倍さんが期待していた、ペルーAPEC首脳会議での日露首脳会談では、プーチンから、北方領土の主権はロシアにあると明言され、事実上のゼロ回答が返って来た。

  そしてもう一つ。日本に頑なな態度を取り続けた韓国の朴大統領と、昨年暮れに慰安婦問題で劇的合意に至り、やっと日韓関係が改善し始めたところに、今回の大統領弾劾騒動が起きてしまった。

  朴大統領が世界の首脳に告げ口外交をしていた頃は、憎たらしく見えていたのに、今弱々しく見える彼女には、「何とか頑張れ!」とエールを送りたくなるのだから不思議なものだ。いや、人を見る目なんていい加減なものだ。

  だが、これは単なる感情の問題ではなく、毎週繰り返される100万人デモの中心には、左翼系・進歩系の人々(親北・反日派)がいることが懸念されるからだ。反日一辺倒だった2年前までのあの韓国に舞い戻り、慰安婦問題合意も日韓軍事情報協定も白紙撤回され、またぞろ、韓国の「蒸し返し」に振り回されるのではないか。

  更に言えば、親北・親中・反日派野党が政権を取れば、THAAD配備も白紙に戻り、いよいよもって、韓国・中国・北朝鮮が手を組み反日・抗米で一致する構図が見えてくる。杞憂に過ぎないことを祈るが、この4年間、主要国の中では突出して活発な首脳外交を見せた安倍さんの超人的努力にも拘らず、風は中国にフォーローとなり始めた。

  さて安倍さん、この正念場をどう切り抜けますか? それでも徹底的に中国包囲網構築を進めますか? 或いは、あれほど動かないと思われた慰安婦問題の合意に漕ぎ着けたように、中国との関係打開に思い切って軸足を移しますか?

2016 年 11 月 29 日   3 Comments