プレミアムエイジ ジョインブログ

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シンプル・イズ・ザ・ベスト(1)

 
  JTが立ち上げた2社目の保険会社、「フレックス少額短期保険」。既存の保険業界とは全く思想を異にする保険会社を目指す。その基本思想は「シンプル・イズ・ザ・ベスト」。単純明快で誰にも分かり易いこと。それにより、余計なコストを一切掛けず、保険の値段をどこよりも安く提供しようというもの。

  僕も顧問として参画しているが、以前勤めた保険会社で、同じ思いは抱いていたものの、過去からのシガラミやら、リスク管理上不可欠とやらで、遂に実現出来なかった超合理的保険会社が出来上がるかも知れないのとの思いを強くしている。

  些か宣伝めくが、今後の保険会社のあり方に一石を投ずることになると思うので、敢えて書かせて頂くことをお許し願いたい。

  まずは、コンピューター・システムの「シンプル・イズ・ザ・ベスト」。メンバーが実力者揃いなのに、ボランティア参加やパートタイマー参加だから、高い能力の割には低コストでシステムが作られる。リーダーは還暦過ぎだし、その下のSEやプログラマーは、中年SEと家庭の奥様お三方。

  既存の保険業界が使っている通常のソフトハウスに、保険システム開発のために同じ体制を組んで貰ったら、多分10~20倍の費用となるだろう。

  コストが安い分、奥様達には、家で仕事をして貰ったり、夫々の都合の良い時に出社して貰ったりと、勤務形態自由の家庭第一主義でやって貰っている。

  更に、組まれるシステムも、業務規程など細部まで全部SE側が専門言語で作ってしまうのではなくて、事務や業務の仕様は、その担当者が自由に組み込み、また、自由に変更出来るよう、エクセル関数で書けるようにした。いちいち、業務の担当者がSEに頼まなくてもシステム変更が可能になったのである。

  従って、いわゆる「アプリケーション」と言われる業務システムの殆どはSEの側から、業務担当者に移管されるから、システム・チームの作る部分は基本構造やデータの流れ(フロー)のコントロール、或いは、バックアップ機能などに限られる。全部をシステム・チームが作ることに比べれば、多分、5分の1程度と思われる。

  前の勤務先だった業界大手の保険会社のシステムを40年近くやって来たが、この考え方で作っておいてやれば、システム・コストもSE人数もメンテナンス・ロードも格段に軽くしてやれたのにと、現在悪戦苦闘している後輩達に、申し訳ない気分でいる。
 

2010 年 7 月 16 日   No Comments

涙ぐましい

 
  甥っ子に、工事機材のレンタル会社の社員がいる。彼は38歳だが、妻と子2人を養っている。子供はまだ5歳と2歳だから、妻は専業主婦となっている。

  生活は楽ではない。頭金は親から出して貰ったかどうか分からないが、購入したマンションのローンを払いながら、安月給で親子4人が食べて行くのは楽ではないという。

  40に届こうかという男の小遣いが痛ましい。彼が僕に面白可笑しく語ったところでは、毎週5千円という取り決めだという。つまり、1日千円。これで昼食代と飲み物代、それにタバコ代を賄うのだそうだ。

  それでも彼は、その少ない中からも何とか100円単位の節約をして、翌週の小遣いに余裕を持たせるように努力をしている。

  普段は、その涙ぐましい努力の結晶(1週間の残金)は、妻にバレないように別の所に隠しておくのに、ある時それを忘れて、余らせたお金、千円也を財布に入れたまま日曜の夜を迎えてしまった。彼の奥さんは中身を確認して、4千円追加したという。

  これには彼、猛烈に抗議したらしい。「こつこつ節約したのに、それはないでしょ!」。

  その反論が凄かった。「週5千円あれば大丈夫と言ったじゃない。こちらの苦しさを分かって節約してくれたんじゃないの? 貴方にはそういう優しさなんて、これっぽっちもないのね。今までも、私に内緒でヘソクリしてたんでしょ?」。

  「わ、わかったよ」。彼の負け。

  でも大変だな。今の時代。上場企業だと言ったってこんなもん。給料は上がるんではなくて下がるのが当り前(本給は変わらず各種手当てが見直される、廃止される)。

  僕が彼の歳の頃は、正にあのバブル経済の始まりの時期だった。日本中が中流意識から上流意識に移りつつあるような、金銭感覚も麻痺していた時代だ。残業手当だけで本給を超えるような時代。

  その頃、週5千円の小遣いという30代後半のサラリーマンなんていなかった筈だ。

  バブル崩壊から20年。日本の一般家計レベルは急降下して、多分、昭和40年代の高度成長直前まで遡ってしまったのではないか。

  それは丁度、団塊世代の社会人デビューの時期だ。団塊世代が、最初の20年はその数の多さと競争意識の激しさを持って優秀な企業戦士を沢山輩出して、日本を一時、競争力世界一位にまで牽引した。

  しかるに、バブル崩壊後の後半の20年は、成す術もなく、下降の一途を辿る日本経済を、ただ見詰めるしかなかった世代でもある。

  現在の若い(と言っても38歳)家庭の厳しい状況を招いた日本型デフレは、結局のところ、バブルに浮かれ、バブル後の急下降を20年間も食い止めることが出来なかった団塊世代の責任とも言えるのではないか。
 

2010 年 7 月 14 日   No Comments

初孫

 
  大阪に住む息子夫妻の家に行って来た。先月生まれたばかりの初孫に会うために。

  布団に寝かされている彼女は、寝起きだったのか、僕等が訪れた気配で起こされてしまったのか、盛んに大あくびをしては、万歳の格好をしようとする。この世に生を受けて丁度1ヶ月。

  息子の嫁さんが彼女を抱いてくれと言う。カミサンが、まず抱え上げて両腕の中へ。「もう30年も前だから、赤ちゃんをどう抱いたか忘れちゃった」とか言うものの、僕には堂に入っているように見えた。

  本当に小さい。1ヶ月目の赤ちゃんって、こんなに小さかったかなぁ、と思った。暫くそのままあやしていたカミサンは、僕に彼女を渡そうとする。「俺はいいよ」。なんか壊しちゃいそうで、抱くのが怖かった。そのくらいにキャシャな存在だった。

  お嫁さんの手前、「いやだ」とも言えないので、ぎこちない手付きながら、どうにかカミサンから受け取って僕の腕の中へ。抱きながら彼女を見ると、何と、彼女も僕の目をジッと見詰めている。

  「あんた誰?」と言っているよう。そのつぶらで穢れのない瞳に見詰められて、僕は急に愛おしさを覚えた。それにしても、彼女もう目は見えているのかなぁ。息子に聞くと「最近、目で少し追うようになったから、見え始めてると思う」とのこと。

  「ジイジだよ。宜しくね」と彼女に挨拶して、お嫁さんに彼女を無事返した。壊さないで良かった。ホッ。その後、近所の神社にお宮参りに行き、30分に亘る神主さんの丁寧なお払い等の儀式を受けた。

  彼女、名前を「もも」という。今時の若夫婦はユニークな名前を付けるらしいが、息子夫婦も人後に落ちない。尤も、女の子を「ももちゃん!」と呼ぶのは、僕等の世代にとっても「山口百恵」を「ももえちゃん」と呼んでいたのに近いから、悪くはない。

  ただ、僕の姉が昔飼っていた犬の名前が「もも」だったので、僕はどうしてもそのポメラニアンを思い出してしまう。だが、このことだけは息子夫婦に絶対に言わないようにしなければと決意した。それなのに・・・

  息子が部屋から出て行ってのを見計らって、カミサンがお嫁さんに聞いた。

「彼、赤ちゃんの面倒、ちゃんと看てる?」

「ええ。毎日、お風呂に入れてくれたり、オムツ取り替えてくれたり、赤ちゃんに付きっ切りで話し掛けたりしてくれていますので、大助かりです」

「へぇ。それは意外ねぇ・・・。あぁ、そう言えば、息子が子供の頃、うちで飼ってたシェルティー(犬種類、シェットランド・シープ・ドッグ)の面倒だけはよく看てたからねぇ。赤ちゃんも物凄く可愛がるかもね」

  おいおい、赤ちゃんを犬と一緒にするなよ。僕も姉の犬の名前を口走りそうになるじゃないか!
 

2010 年 7 月 13 日   No Comments

嫉妬

 
  嫉妬という、なんとも扱いに困るこの心、持て余したことのない人間っているのだろうか? その昔、ONの全盛期について、引退後の王貞治がいみじくも言った言葉が忘れられない。

  長嶋も活躍、自分も活躍、この試合は、自分の決勝ホームランで巨人が勝ったのだから、明日のスポーツ紙の一面は長嶋でなく、王の写真が飾られる筈だと思った。

  ところが、新聞は挙って長嶋の途中の逆転打を大々的に報じていた。これには流石の王も心穏やかでなかった。自分は長嶋と違って国籍が日本でないから差別されるのかとさえ思った。

  実は、王も長嶋の勝負どころでの強さは尋常でないこと、その時の集中力は傍にいる者に恐ろしさを感じさせる程であることを知っている。だが、2人が共に活躍した試合では必ずヒーローは長嶋となることに秘かな嫉妬さえ感じていたと言う。

  そこで、王は、日本では長嶋に叶わなくても、自分は世界に通じる打者になることを誓ったと言う。そして、ベーブ・ルースの本塁打記録を抜き、ハンク・アーロンの記録を破り、遂に世界記録を打ち立てた。

  翻って考えてみれば、ライバル(rival)という原語には、日本で使われているような「良き友」という含みは全くない。宿敵と略すのが相応しい。だから、真のライバル同士には敵愾心や嫉妬心こそあれ、「あいつの成功を嬉しく思う」筈がないのだ。

  つまり、ライバル同士の両方がスターになって行く場合では、両方、或いは、どちらかの「悔しさ」がバネとなって成功に繋がったケースが多い。

  但し、「悔しさ」や「嫉妬」は普通、マイナスの感情だ。これが強いとどんどんマイナス・スパイラルに落ちて行き、以前よりも力が出せくなったり、不運に見舞われたりするのだが、これを頑張りエネルギーに変えられる実力者だから、成功に結び付けられること。

  実力者と凡人がいたら、実力者が持て囃されるのは当たり前。なのに、彼等が同じ仕事のチームだったような時、出来る一人だけが評判が良かったりすると、他の凡人メンバーにも不相応な嫉妬が芽生える時がある。これが厄介。そういう時は、必ず、チームが機能しなくなる。
 

2010 年 7 月 10 日   No Comments

パーティーが終わった(4) ― 完 ―

 
  最後の曲(6曲目)は「おじさんバンド」だけで演奏する「ダイアナ」。ステージの一番後方に位置するドラムスの僕は、みんなが一生懸命にこの「ダイアナ」を歌い演奏する後ろ姿を見て、何故か胸にジーンと来てしまった。

  今日の主催側でもある僕に配慮して、「おじさんバンド」の曲をラストに持って来てくれた、クーペの気遣いを感じたのもあった。3週間前に奥様をなくしたばかりのマンディーが、喪も明けないのに、僕のために駆け付けて、こうして元気に歌ってくれている姿に感動したのかもしれない。

  暫く音楽活動を休止していたマッちゃんも、会社合併のためシステム統合が大変で、自分の時間さえなくなっていたヨッ君も、急遽来てくれたので、久方ぶりに7人全員が揃ったのが嬉しかった。「クーペ&Shifo」も、僕の戦友で親友のJTのためにベストを尽くそうとしてくれているのがビンビン伝わって来る。

  更に、公的立場にあり超多忙な筈の猪瀬が、JTと僕のためにわざわざ時間を割いて駆け付けてくれたことなどが、一つずつ僕の胸に刺さり涙腺を刺激するので、ラストの曲で僕の感情の蓋が一気に開きそうになったが、僕はみんなに気付かれないように、一番後ろで、必死に堪え、リズムの正確性を期して「ダイアナ」を叩き終えた。

  実は、この日を迎えるに当って、僕はある覚悟を持って臨んだのだ。いつのことだったか思い出せないくらい、このところ「おじさんバンド」が7人全員揃うことはなくなっていた。今回偶然にも全員が集まってくれることになったが、夫々が抱える深刻な事情があり、今後も7人で活動していくのは、現実的にはもう無理なのかも知れないと思っていた。

  その意味で、今回の演奏は7人で行なう最後のライブと、僕は勝手に位置付けたのだ。その後のことは、人数を減らして再出発するのか、他のメンバーとセッションを組むのか、はたまた、終わりになるのか、暫くは成り行きに任せるのが良いだろうと思った。

  今回のステージでは有終の美をどう飾るか、そればかり考えた。それには、「おじさんバンド」のレパートリーに、最後に加えた「ダイアナ」を思い出の曲として演奏するのが良いだろう。

  実際この「ダイアナ」を演奏してみると、過去最高の出来映えだった。これで終わるなんてとんでもない、そう思った。この7人で、もっともっといろんなジャンルに挑戦出来るし、何よりも、「おじさんバンド」で演奏する楽しさを思い出した。

  僕が抑えがたい感動を覚えた、本当の理由はこのことだった。この7人でまた新たな挑戦をしたい。僕にとってこれに勝るバンドはあり得ないと気付いた瞬間だったのだ。

  アンコールはShifoの「どっちでも不思議」。いつ聴いても名曲だなと思うのだが、この日は、ステージ中盤で、Shifoがソロで歌った「答えは土の中」が、予想以上のハイライトとなってしまっていたので、それに少し負けたかも知れない。

  終わってから僕は出口でお客様のお見送りをしたのだが、大反響とはこのこと。いろいろな人から、「答えは土の中」のCDが欲しい、「答えは土の中」の詩が凄くいい、Shifoさんの声は心を洗われるよう、今日のライブは最近行ったコンサートでナンバー・ワンだ、等々。

  新保険会社を何としても成功させたいと、ここのところ、僕もJTも、自然と気合が入る準備期間だったが、僕も何回か呼ばれた他の企業のパーティーとは違い、満足と感動とを招待客に持ち帰って貰えたことを確信し、心の中で僕はJTと固い握手をしたのだった。

  新会社、あとは結果を出すのみ。

                                 パーティーが終わった  ― 完 ―
 

2010 年 7 月 9 日   2 Comments

パーティーが終わった(3)

 
  3曲目は「答えは土の中」。この曲はクーペが35年前に作詞作曲した曲だという。日本経済の高度成長期。あちこちで公害が発生し、自然破壊が進む。このことを歌で少しでも食い止められたらという思いで作ったのだろう。

  当日のパーティーの出席者の中に、有機農業・無農薬野菜のパイオニア「大地を守る会」の創始者(会長)が来ている。この会長さん、奇しくも35年前、有吉佐和子原作「複合汚染」を読んで、農薬によって田畑の微生物や小動物が死滅して行く姿を目の当たりにして、このままではいずれ人間の健康に害が及ぶと危機感を持ち、「大地を守る会」を立ち上げたのだそうだ。

  また、猪瀬副知事は、惜しくも敗れたオリンピック東京誘致運動では「環境オリンピック」を提唱し、また、東京都の「温暖化ガス削減対策」の責任者として活躍している。その他にも市民運動や生協活動に携わる方々が、このパーティーに大勢出席されている。

  その方達に、Shifoの歌う「答えは土の中」を、是非とも聞いて欲しいと思った。会場の注目を浴びるように、「おじさんバンド」は全員ステージから降りて、Shifo一人のピアノの弾き語りで聴いて貰った。

  会場は静まり返ってShifoを聴いてくれている。ここまでは、僕の狙い通りだ。だが、後から聞いたところでは、「大地を守る会」の会長さんはその直前に帰られたそうだ。ウーン、残念。でも、専務理事のNさんは最後まで残って聞いてくれたので、まぁ、良しとしよう。

  4曲目は「家に帰れないお父さん」。クーペの台詞入りの歌だ。これはどんな場面でも受ける。世のお父さん達の悲哀を面白ろ可笑しく聴かせる曲だから、会場全体が大爆笑となった。客席はアルコールも入っているので、反応が素直に出る。

  5曲目、新曲の「頑張ろう」。歌う前に、クーペが言う。「今日はJTのために新曲を作って来ましたよ」。クーペが歌い出した。実は、ついこの前まではShifoが歌っていた曲なのだが。クーペの歌う「頑張ろう」は、Shifoのとはまた違った味わいがある。曲の最後で「頑張ろう! フレックス!」と、新設保険会社の名前を織り込んで、会社の応援歌にしてくれた。

  クーペも味な演出やるもんだね。JTが一番前のメイン・テーブルで大喜びしている。このパーティーのミニ・ライブには、クラシックからジャズまで、出演者としては、いろいろな候補があったのだろうけど、JTは僕との関係を最優先して「クーペ&Shifo」に決めてくれたのだ。「やはり、クーペ&Shifoにして良かった」と思ってくれているんだろうか。
 

2010 年 7 月 7 日   No Comments

パーティーが終わった(2)

  
  乾杯が終わり、20分間の歓談の時間。ここで、昨日急遽、「おじさんバンド」が静かにBGM風の演奏をすることになった。5分経過してから、お客の歓談や食事の邪魔にならないよう、しっとりとスローテンポの曲を3曲演奏した。

  最初は大森校長のピアノソロ。彼は都立の学校長だと、隣の席の猪瀬副知事に伝えた。

「彼は品川区の都立の学校長。君は彼の上司に当るそうだから後で挨拶させるよ」

「えー、そんなことで気を遣わなくてもいいよ」

「いや、君とお近付になりたいと思っている筈だから」

「分かった。でも僕で良かったよ。他の副知事なら、校長がこんなところでピアノ演奏なんかしてて良いのか、なんて言い出し兼ねないからねぇ」

  2曲目と3曲目は、マッちゃんのクラリネットを中心に、「メモリーズ・オブ・ユー」と「小さな花」。マッちゃん、何とも良い雰囲気を醸し出していた。

   僕は照明係に、予め決めておいた合図を送った。ステージだけを残して、場内の照明が全て消された。出席者達も何かが始まることを感じ取ったようだ。

  司会のR子さんがミニ・コンサートの開始を告げ、「クーペ&Shifo」と「おじさんバンド」の簡単なプロフィールを紹介した。彼女の司会ぶりは、なかなか堂に入っていて大したもの。

  彼女はこの新設保険会社では、JTや新社長の秘書、兼庶務担当、兼会計担当だが、今後はこれに、司会進行役という仕事が加わるのは間違いない。

  1曲目。僕のフロアー・タムの連打(ソロ)から始まる。緊張の一瞬だが良い感じ。スイングのリズムに乗って全員が加わり前奏。Shifoが歌い始めた。美空ひばりの「お祭りマンボ」だ。マンボをスイングで演奏するというのも面白い。

  一気に雰囲気を盛り上げ、会場はライブ一色になった。パーティーの途中でやるライブの難しさは、歓談からライブへの一気の切り替えが出来るかどうかにある。今回は切り替え大成功だったと思う。

  2曲目「悟りじゃ」。クーペのバック・コーラスを「おじさんバンド」が務める面白ソングだ。「おじさんバンド」全員がステージ前列に並び、両手で3本指を立てながら声を張り上げて喚く。「♪ しおらしいのは3ヶ月! 馬車馬のように、こき使われて、肩揉まされて!」。受けた。但し、新会社開業記念パーティーに相応しいかどうかは、やっている方は分からないが・・・
  

2010 年 7 月 6 日   No Comments

「ラストラン」試作本プレゼント    編集部より

ヒロ高村著「ラストラン」の試作本が出来上がりました。

この小説は、昨年11月から今年2月まで、当プレミアムエイジ上で連載し、それに対して皆様から沢山の意見とアイデアを頂戴して、ウェブサイトを使ってみんなで作り上げる小説という、初めての意欲的トライアルでした。

一応これまでのご意見を網羅して、大幅修正を加えて最新バージョンにしたものをゲラ刷り試作本に致しました。

付きましては、プレミアムエイジの読者先着10名様に無料にてこれを進呈致します。最終版に向けて更にご意見・アイデアを頂戴出来れば幸甚です。

お申込は下記まで。 郵便番号、住所、氏名をお知らせ下さい。

ri-kawada@flex-hd.jp

2010 年 7 月 5 日   No Comments

パーティーが終わった(1)

 
  昨日、京王プラザホテルに於いて、JTが立ち上げた2つ目の保険会社の開業披露パーティーが開催された。僕の立場は複雑で、一応この会社の顧問ということになっているので、主催者側ではある。

  しかし私の受け持ちは、友人の猪瀬直樹をエスコートすることと、ミニ・コンサートのプロデュース全般とバンド出演者といった役どころだから、あまり保険会社の関係者らしくない。

  多忙を極める猪瀬が、本当に来れるのかどうか、来てくれるのかどうか、不安がよぎり、開宴時間直前に彼の携帯に電話したら、「今まだ都庁。京王プラザまでは歩いて5分だから、これから出るよ」との答え。

  JTと僕は、昨年2~3度、猪瀬と会食しているので、今回のJT主催のパーティーへの出席を打診したところ、直ぐに「出るよ」と快く応諾してくれたのだった。

  パーティー前半は、開業披露のセレモニー。まずは新社長のMから新会社と保険商品の説明、次にJTが設立に至る経緯、前の会社を退職し独立後の6年間の総括などをゆかりの人達の前で述べた。JTが今も大切にしているという、前の会社の社是を披露し、これを新会社の社是にさせて貰うことを宣言した。

  その後、市民運動家のY氏の挨拶。Y氏は生協を立ち上げた方でもあり、共済保険の新しいあり方についてJTに様々なアドバイスを受けたことを披露された。この5年間、JTが人生の師と仰ぐ人物だ。

  そして、猪瀬直樹の番。彼は東京都の副知事として今取り組んでいる2つのことを話した。一つは東京の水道管理技術を海外に事業展開すると言う。漏水率3%、集金率99.9%は、絶対に売り物になると熱弁。

  もう一つは、東京メトロと都営地下鉄の統合を推進することを表明。会社が違うからと、同じホームの真ん中を壁で隔てているため、利用客は乗り換えに、階段を上り改札を出てまた、入り直さなければいけない。それだけ料金も高くなるし不便極まりない。おかしなことと言う。

  次に乾杯かと思ったら、急拠、JTは僕に、猪瀬の友人ということで一言何か言えと振ったのだ。そしたら猪瀬が僕に「マンドリンクラブのこと言っていいよ」と助け舟を出してくれた。

  「テレビでは理論派、硬派、強面のイメージがあると思いますが、高校時代の猪瀬君は全くそんなことありませんで、女子生徒が極端に少ない高校でしたが、その女子生徒が大勢所属するマンドリンクラブで、私と一緒にギターやってたんですから。今じゃ信じられないでしょうけど、彼は正しく、紅顔の美少年で、女子部員に大変人気がありました」。

  「ところで、来春には都知事選があります。彼は今のところノーコメントを貫いていますが、友人としては是非都知事になって貰いたいと思っています。都知事を友達に持つって、チョッといいじゃないですか、ねぇ」(笑い)。

  物は序でとばかり、僕はその場を借りて、PAで進めて来た大河小説「ラストラン」(ヒロ高村著)のゲラ刷りが一応、本の形になったことをお知らせし、受付に山積みしておくので、お帰りの際に、隣の募金箱に気持ちだけ入れて頂いて、本を持ち帰って欲しい旨を伝えた。その結果、本は用意した数の過半が捌けた。皆さん、ありがとうございました。

  セレモニーの最後は前の会社のK専務の音頭で乾杯。その後歓談、ミニ・コンサートへと移って行く。
 

2010 年 7 月 4 日   No Comments

中村俊輔

 
  昨日のブログ(サムライの悲喜)の続き。

  中村俊輔が苦しかった胸の内を吐露し始めた。代表引退かと問われて、万感の思いが交差し、こみ上げてくる涙をグッと抑えてインタビューに答えた。

「次の代表? ないよ、もういい」
「この大会はプレーヤーとしては何にも残せなかったね。不思議だね。02年は逆で、選手としては良かったと思うけど、トルシエさんは人間としてベンチに置くのは難しいと判断した。今回はベンチでチームのために努力したけどね」
「耐えるのがつらかった…」
「今回、使われなかったことは、02年の落選よりショックだった。02年は、これに比べるとかすり傷かな」
「サッカーの神様が僕をテストしたのかな」
「すべてが終わった今思えば、足首じゃないね。僕の実力がなかったね。本田みたいに1トップでも何でもできる選手じゃないとね」
「オレは本当にW杯とは縁がないね。これも運命かな」

(以上、日刊スポーツ)

  若くからその才能が認められ、注目を浴びる中、00年シドニー・オリンピックでは彼が一番望んだトップ下を中田英寿に奪われ、已む無く左サイドで出場。02年日韓大会では落選。06年ドイツ大会では、出場をはたしたものの、体調不良で不調だった。

  しかし、中田が引退した後、この4年間、文字通り日本代表の司令塔として、南アフリカ大会出場に導いたのは中村俊輔だ。日本の頭脳・日本のレフティーと世界からも賞賛された彼は、ドイツ大会のリベンジを期して、本大会に臨む筈だった。しかし、4月の初めに試合で痛めた右足首の状態が響いて、本来のキレが出なかった。

  更に、テストマッチも負け続けた結果、岡田監督は攻撃的布陣から守備重視の布陣に変えざるを得なくなり、俊輔の出番は益々なくなって行ったのだった。

  本人の弁によれば、「大会に入る前から、足首は完全に回復し全く痛みはなかった」と言うが、出場はオランダ戦後半の、たった26分のみだった。野球で言えば、WBCで日本チームのイチローが、代打で1回だけしか使われなかったのと同じくらいの出来事だっただろう。

  それだけ選手にとっても監督にとっても、過酷なスポーツと言えるのかも知れない。だが僕は、大会直前まで日本の第一人者だった者が、檜舞台で控えに回らされた時の心情に最も興味を抱く。スーパースターと言われる人に、人間的魅力を感じる瞬間だからだ。

「大会期間中、眠れない日が続いた。深夜寝付かれず、そっと電気を付けて考え込んだ。逃げ出したいけど、わがままは言えない。耐えるしかない。暗い自分をみんなに悟られたくない。宿舎では部屋にこもる日が続いた。マッサージの順番もレギュラー組の後にした。ふっと気づくと、どんどん小さくなって行く自分がいた」。彼の心模様を良く表している。
 

2010 年 7 月 1 日   2 Comments